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妹女将は中二病!幼なじみ仲居はヤンデレ!料理長はサイコパス!癖だらけの温泉宿に傷や秘密を抱えた旅人がふらりと訪れ笑って心だけ置いて帰っていく  作者: 常陸之介寛浩★OVL5金賞受賞☆本能寺から始める信長との天下統一
第一章 『妹は帰ってこなかった──記憶と湯の底に沈むもの』

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第13話『朝食と、もう一杯の味噌汁』

朝は、昨日とはまるで違う空気を纏っていた。


 障子越しに差し込む光が、ほんのり橙色を含んでいるのは、きっとこの宿が山の陰にあるからだろう。けれど、そんな淡い陽射しが、今の美咲にはやけに眩しかった。


 布団から抜け出すのに、もう迷いはなかった。

 鏡に映る自分の顔が、ほんの少しだけ軽くなった気がする。

 化粧も最小限。まるで素顔で、今日を迎えてもいいと、体の奥がそう囁いていた。


 食堂に降りると、すでに朝食の支度は整っていた。

 大きな長卓。

 木のぬくもりが残る食器。

 その中心に置かれたのは──湯気の立つ、味噌汁。


 「おはようございます、美咲さん」


 柚葉の静かな声。

 まるで朝の音そのもののような、穏やかな響きだった。

 彼女は膝をついて美咲の前に椀を差し出す。


「本日の味噌汁は、『母性の幻影と赤い沈黙』でございます」


 まるで詩のような料理名。

 柚葉独特のネーミングに、初めて来た夜は美咲もたじろいだものだった。

 だが今は、微笑すら浮かぶ。


 「……すごい名前ですね」


 思わず苦笑しながらも、美咲はその湯気を吸い込んだ。

 出汁の香りに、すこしだけ干し椎茸の風味が混じる。

 そこに、溶けた赤味噌が静かに広がっていく。

 わかめ。豆腐。そして──トマト。


 意外な素材の取り合わせ。

 だが、口に含んだ瞬間、驚くほど馴染んでいた。


 温かい。

 酸味の輪郭が、まるで遠い記憶の引き出しをノックするようだった。


 ──あのとき、遥香が作ってくれた味噌汁。

 コンビニで買ったパックの味噌と、お弁当の残りのトマトを切っただけの、それでも“妹なりの精一杯”の手料理。


 「お姉ちゃん、また怒ってるでしょ。……でもさ、この味噌汁、食べたら機嫌なおるかも、って思って」


 思い出した瞬間、美咲は笑っていた。

 泣いているわけではない。

 ただ、口の端が自然とほころんでいた。


 「美味しいです。……すごく」


 柚葉は微笑を浮かべたが、何も言わなかった。

 彼女の“肯定”は、いつも静かだ。

 だからこそ、響く。


 ふと、美咲の隣の席に咲良が滑り込んできた。


 「やっぱさー、柚葉の味噌汁って、なんか“食べる時間ごと”に味が変わるよね」


 「時間……ごと?」


 「うん。夜だと、ちょっと怖い味。朝だと、懐かしい味。昼なら、なんか照れくさい味」


 「なんですか、それ……」


 吹き出すように笑うと、咲良もつられて笑った。

 笑い声が、宿の食堂に小さく響いた。


 「でも、美咲さんには今日が“懐かしい味”だったんですね」


 柚葉が静かに言う。

 その声は、さざ波のように耳に残る。

 そして、不思議と心地よい。


 味噌汁をもうひとくちすすると、舌の上に懐かしさが、喉を通るときにやさしさが、心に届くころには、何もかもが“静けさ”へと還っていった。


 「また、来なよ」


 咲良がぽつりと言った。


 「あんたがどんな人でも、どんな過去でも。うちらは、ちゃんと、次に会ったときも“あなた”って呼ぶから」


 その言葉に──美咲は、こくりと頷いた。


 まるで、その頷きは自分自身への許可のようだった。

 「また来てもいい」と思えることが、こんなにも救いになるとは思ってもみなかった。


 窓の外に広がる五浦海岸の波が、今朝も静かに寄せていた。


 潮の匂い。

 味噌の香り。

 そして、心に残った一杯のぬくもり。


 この宿は、“癒す”ことを商売にしているのではない。

 ただ、ここで誰かが「泣いてもいい」と思えたときに、湯気の向こうからそっと寄り添ってくれる。

 ──そんな場所なのだ。


 味噌汁の底に沈んだ豆腐が、朝の光を反射して、少しだけ輝いて見えた。



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