第13話『朝食と、もう一杯の味噌汁』
朝は、昨日とはまるで違う空気を纏っていた。
障子越しに差し込む光が、ほんのり橙色を含んでいるのは、きっとこの宿が山の陰にあるからだろう。けれど、そんな淡い陽射しが、今の美咲にはやけに眩しかった。
布団から抜け出すのに、もう迷いはなかった。
鏡に映る自分の顔が、ほんの少しだけ軽くなった気がする。
化粧も最小限。まるで素顔で、今日を迎えてもいいと、体の奥がそう囁いていた。
食堂に降りると、すでに朝食の支度は整っていた。
大きな長卓。
木のぬくもりが残る食器。
その中心に置かれたのは──湯気の立つ、味噌汁。
「おはようございます、美咲さん」
柚葉の静かな声。
まるで朝の音そのもののような、穏やかな響きだった。
彼女は膝をついて美咲の前に椀を差し出す。
「本日の味噌汁は、『母性の幻影と赤い沈黙』でございます」
まるで詩のような料理名。
柚葉独特のネーミングに、初めて来た夜は美咲もたじろいだものだった。
だが今は、微笑すら浮かぶ。
「……すごい名前ですね」
思わず苦笑しながらも、美咲はその湯気を吸い込んだ。
出汁の香りに、すこしだけ干し椎茸の風味が混じる。
そこに、溶けた赤味噌が静かに広がっていく。
わかめ。豆腐。そして──トマト。
意外な素材の取り合わせ。
だが、口に含んだ瞬間、驚くほど馴染んでいた。
温かい。
酸味の輪郭が、まるで遠い記憶の引き出しをノックするようだった。
──あのとき、遥香が作ってくれた味噌汁。
コンビニで買ったパックの味噌と、お弁当の残りのトマトを切っただけの、それでも“妹なりの精一杯”の手料理。
「お姉ちゃん、また怒ってるでしょ。……でもさ、この味噌汁、食べたら機嫌なおるかも、って思って」
思い出した瞬間、美咲は笑っていた。
泣いているわけではない。
ただ、口の端が自然とほころんでいた。
「美味しいです。……すごく」
柚葉は微笑を浮かべたが、何も言わなかった。
彼女の“肯定”は、いつも静かだ。
だからこそ、響く。
ふと、美咲の隣の席に咲良が滑り込んできた。
「やっぱさー、柚葉の味噌汁って、なんか“食べる時間ごと”に味が変わるよね」
「時間……ごと?」
「うん。夜だと、ちょっと怖い味。朝だと、懐かしい味。昼なら、なんか照れくさい味」
「なんですか、それ……」
吹き出すように笑うと、咲良もつられて笑った。
笑い声が、宿の食堂に小さく響いた。
「でも、美咲さんには今日が“懐かしい味”だったんですね」
柚葉が静かに言う。
その声は、さざ波のように耳に残る。
そして、不思議と心地よい。
味噌汁をもうひとくちすすると、舌の上に懐かしさが、喉を通るときにやさしさが、心に届くころには、何もかもが“静けさ”へと還っていった。
「また、来なよ」
咲良がぽつりと言った。
「あんたがどんな人でも、どんな過去でも。うちらは、ちゃんと、次に会ったときも“あなた”って呼ぶから」
その言葉に──美咲は、こくりと頷いた。
まるで、その頷きは自分自身への許可のようだった。
「また来てもいい」と思えることが、こんなにも救いになるとは思ってもみなかった。
窓の外に広がる五浦海岸の波が、今朝も静かに寄せていた。
潮の匂い。
味噌の香り。
そして、心に残った一杯のぬくもり。
この宿は、“癒す”ことを商売にしているのではない。
ただ、ここで誰かが「泣いてもいい」と思えたときに、湯気の向こうからそっと寄り添ってくれる。
──そんな場所なのだ。
味噌汁の底に沈んだ豆腐が、朝の光を反射して、少しだけ輝いて見えた。




