第12話『記憶の湯に沈める』
夜の湯殿は、静寂のなかにあたたかさを湛えていた。
灯籠の淡い光が、檜の壁をぼんやり照らしている。浴槽の縁に腰かける美咲の手には、一枚の手紙が握られていた。
妹・遥香の遺した、あのノートの切れ端。
まだ乾ききっていない涙の跡が、インクを滲ませていた。
──「私は、ここで待ちたい。誰かが私の言葉を見つけてくれるかもしれないから」
それは、希望なのか、諦めなのか。
どちらにも思える文だった。
けれど──今、美咲の心には、答えは出ていた。
「……もう、いいよね」
小さく呟く。
誰にも届かない音量で、誰に届けるでもない声だった。
それでも、それは確かに「自分」に向けた言葉だった。
湯殿の片隅。
灯が用意してくれた、手桶と火入れ。
その中に、火種が揺れていた。
小さな炎。
けれど、それで十分だった。
手紙の端を、火に近づける。
炎が紙を食むように広がる。
赤く、ちりちりと。
妹の筆跡が、ゆっくりと熱に呑まれていく。
かすかに湯気が揺れた。
その瞬間──浴槽の向こう、湯けむりの中に、あの子の“姿”があった。
笑っていた。
少しだけ、あの頃より大人びた顔。
でも、確かに──遥香だった。
美咲は、何も言わなかった。
ただ、じっと見つめた。
目の奥が熱いのは、湯気のせいだけではなかった。
ゆっくりと、幻影は薄れていく。
まるで、満ちた想いがようやく昇華されたかのように。
炎が尽きた。
そして、紙はすべて灰になった。
美咲はその灰を、そっと手桶に落とし、湯に流した。
波紋が広がる。
音は、ない。
けれど、何かが終わり、何かが始まったような、そんな気がした。
「自分を許すって……こういうこと、なのかな」
ぽつりと呟いた。
胸の奥にあった鈍い痛みが、湯に溶けていくようだった。
責めることしかできなかった自分。
許されたいと願っていたくせに、どこかで“贖罪”の盾にしていた過去。
それを、今ようやく──「終わらせていい」と思えた。
遠くから、柚葉の笑い声が微かに聞こえた。
咲良の足音も。
灯が戸を開ける音も。
日常の音が、夜の中に、少しずつ戻ってくる。
──私は、ここに来てよかった。
それだけは、確かだった。
湯に沈んだ手は、もう震えていなかった。
明日の朝、この湯から上がった時、自分は少しだけ“変わって”いる気がする。
そんな予感だけが、心にぽつんと浮かんでいた。
月明かりが湯面に差し込む。
まるで、妹が最後にくれた灯りのように。
美咲は、そっと目を閉じた。




