第11話『心を置いて帰った人』
囲炉裏の火は、夜の帳が落ちてなお、赤く小さく灯っていた。
美咲は黙って火を見つめていた。膝の上には、妹・遥香の筆跡が残されたノート。
何度も読み返し、何度も目を伏せた。
言葉はあった。
けれど、答えはなかった。
──私に、あの子の何が分かっていたんだろう。
椿屋の中には、そんな問いに応えるような静けさが満ちていた。
「……ねえ、美咲さん」
ふいに、灯がそばに腰を下ろした。
あたたかな湯気の湯呑みを差し出しながら、少しだけ目を伏せる。
「この部屋、実はね──遥香さんが泊まってた部屋なの」
美咲の手が、ぴたりと止まった。
湯呑みは揺れ、中の白湯がかすかに音を立てる。
「ここ……?」
「ええ。あの夏、彼女はひとりで来てね。ずいぶんと礼儀正しくて、でも、少し無理をしているような……そんな目をしていたの。気を遣わせたくなくて、なるべく干渉はしないようにしていたんだけど」
灯の語りは、決して感傷ではなかった。
ただ、事実を静かに紡ぐようだった。
「最終日、彼女は笑って言ったの。『楽しかったです』って。ううん──正確には、『来てよかったです』だったかしら」
その言葉に、美咲の胸がぎゅっと絞られる。
「……本当に、笑ってたんですか」
それは、自分に対する問いだったのかもしれない。
灯は、ふっと視線を横に流した。
「ええ。……でも、あの子は帰る間際、こっそり柱に手を当てていたの。何をしているのかと思って見ていたらね、爪で木を引っ掻いてた」
「……爪、で?」
「そう。ほんのちいさな傷よ。だれも気づかないくらい。でも、その手の動きが……まるで、何かを残そうとしているみたいで」
灯は立ち上がった。
「ねえ、美咲さん。あなた、あの子の“言葉”を、まだ全部見つけていないと思うの」
そして、すっと障子の向こうを指さした。
「──あそこ、見てくれる?」
美咲は息を呑みながら立ち上がった。
柱。
部屋の隅、目立たない場所。
子どもの目線くらいの高さのところに、それはあった。
光に照らされていないと、絶対に気づけない。
だが確かに、そこには“文字”があった。
指の腹で、そっとなぞる。
やわらかい線。
でも、切実な爪の痕跡。
──あ り が と う
五文字。
拙く、歪で、不器用な字。
でも、そこには確かに妹の“気持ち”が刻まれていた。
美咲の喉が、ふ、と鳴った。
呼吸がうまくできない。
視界が揺れる。
まぶたの裏が、あたたかく濡れた。
「……どうして……そんなこと……」
声が震えた。
それでも、彼女はそこに立ち続けた。
妹が最後に残した、“ありがとう”というたった五文字を前にして。
「私……ちゃんと……あなたに……何か、できてたの……?」
柱は何も答えない。
けれど、その言葉は確かに、時間を超えて、姉の心を打った。
灯が、そっと背中に手を添えた。
「たとえ、美咲さんに直接届いていなかったとしても──彼女は、感謝の気持ちを、どこかに伝えたかったんだと思うの。誰かに。どこかに。……たとえ、それが“返事のない柱”だったとしても」
その言葉は、美咲の胸にじわじわと染みこんでいった。
自分の存在が、遥香の心にとって“重荷”でしかなかったのではないか──
そんな思いが、ようやく少しずつ、ほどけていくようだった。
「……私も、言いたい。今なら……ちゃんと、言える気がする」
ぽつりと漏らしたその声は、決して大きくはなかった。
けれど、灯は確かに頷いた。
「なら、言ってあげて。
ここは──置いてきた言葉を、拾い直せる場所だから」
夜の椿屋に、またひとつ、音のない灯が灯った。




