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妹女将は中二病!幼なじみ仲居はヤンデレ!料理長はサイコパス!癖だらけの温泉宿に傷や秘密を抱えた旅人がふらりと訪れ笑って心だけ置いて帰っていく  作者: 常陸之介寛浩★OVL5金賞受賞☆本能寺から始める信長との天下統一
第一章 『妹は帰ってこなかった──記憶と湯の底に沈むもの』

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第11話『心を置いて帰った人』

囲炉裏の火は、夜の帳が落ちてなお、赤く小さく灯っていた。


 美咲は黙って火を見つめていた。膝の上には、妹・遥香の筆跡が残されたノート。

 何度も読み返し、何度も目を伏せた。

 言葉はあった。

 けれど、答えはなかった。


 ──私に、あの子の何が分かっていたんだろう。


 椿屋の中には、そんな問いに応えるような静けさが満ちていた。


「……ねえ、美咲さん」


 ふいに、灯がそばに腰を下ろした。

 あたたかな湯気の湯呑みを差し出しながら、少しだけ目を伏せる。


「この部屋、実はね──遥香さんが泊まってた部屋なの」


 美咲の手が、ぴたりと止まった。

 湯呑みは揺れ、中の白湯がかすかに音を立てる。


「ここ……?」


「ええ。あの夏、彼女はひとりで来てね。ずいぶんと礼儀正しくて、でも、少し無理をしているような……そんな目をしていたの。気を遣わせたくなくて、なるべく干渉はしないようにしていたんだけど」


 灯の語りは、決して感傷ではなかった。

 ただ、事実を静かに紡ぐようだった。


「最終日、彼女は笑って言ったの。『楽しかったです』って。ううん──正確には、『来てよかったです』だったかしら」


 その言葉に、美咲の胸がぎゅっと絞られる。


「……本当に、笑ってたんですか」


 それは、自分に対する問いだったのかもしれない。


 灯は、ふっと視線を横に流した。


「ええ。……でも、あの子は帰る間際、こっそり柱に手を当てていたの。何をしているのかと思って見ていたらね、爪で木を引っ掻いてた」


「……爪、で?」


「そう。ほんのちいさな傷よ。だれも気づかないくらい。でも、その手の動きが……まるで、何かを残そうとしているみたいで」


 灯は立ち上がった。


「ねえ、美咲さん。あなた、あの子の“言葉”を、まだ全部見つけていないと思うの」


 そして、すっと障子の向こうを指さした。


「──あそこ、見てくれる?」


 美咲は息を呑みながら立ち上がった。

 柱。

 部屋の隅、目立たない場所。

 子どもの目線くらいの高さのところに、それはあった。


 光に照らされていないと、絶対に気づけない。

 だが確かに、そこには“文字”があった。


 指の腹で、そっとなぞる。


 やわらかい線。

 でも、切実な爪の痕跡。


 ──あ り が と う


 五文字。


 拙く、歪で、不器用な字。

 でも、そこには確かに妹の“気持ち”が刻まれていた。


 美咲の喉が、ふ、と鳴った。

 呼吸がうまくできない。

 視界が揺れる。

 まぶたの裏が、あたたかく濡れた。


「……どうして……そんなこと……」


 声が震えた。


 それでも、彼女はそこに立ち続けた。

 妹が最後に残した、“ありがとう”というたった五文字を前にして。


「私……ちゃんと……あなたに……何か、できてたの……?」


 柱は何も答えない。

 けれど、その言葉は確かに、時間を超えて、姉の心を打った。


 灯が、そっと背中に手を添えた。


「たとえ、美咲さんに直接届いていなかったとしても──彼女は、感謝の気持ちを、どこかに伝えたかったんだと思うの。誰かに。どこかに。……たとえ、それが“返事のない柱”だったとしても」


 その言葉は、美咲の胸にじわじわと染みこんでいった。


 自分の存在が、遥香の心にとって“重荷”でしかなかったのではないか──

 そんな思いが、ようやく少しずつ、ほどけていくようだった。


「……私も、言いたい。今なら……ちゃんと、言える気がする」


 ぽつりと漏らしたその声は、決して大きくはなかった。


 けれど、灯は確かに頷いた。


「なら、言ってあげて。

 ここは──置いてきた言葉を、拾い直せる場所だから」


 夜の椿屋に、またひとつ、音のない灯が灯った。



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