プロローグ 『椿屋へようこそ』
その宿に、看板はない。
ただ、門の横に古い灯籠がひとつ、傾きかけて立っているだけだ。
灯籠の台座には「椿屋」と彫られているが、風雨にさらされて半分は読み取れない。夜になればぼんやりと明かりが灯るが、それも宿の存在を示すには足りないほど頼りない。
だが、客は来る。地図を片手に訪れる者もいれば、記憶を辿るようにやって来る者もいる。
そして不思議なことに、そうして訪れた客のほとんどが、帰り際には、こう言って立ち去るのだ。
「……ありがとう」
そう言って、小さく微笑む。心だけを、そこに置いて。
*
郷原悠真が椿屋を継いだのは、二十九歳の春だった。
勤めていた東京の銀行を辞めた翌週、実家である宿の前に立ったとき、彼はまだ“帰ってきた”という実感を持てずにいた。
玄関の戸を開けた瞬間、出迎えたのは妹だった。
着物姿で手を広げて立つ彼女は、まるで時代劇から抜け出たような風貌をしていた。けれど言葉だけが奇妙だった。
「魂の再臨、確認せり。ようこそ兄さま、“椿の儀”の刻限に間に合いましたね」
郷原灯、二十三歳。中学生の頃から患っていた中二病を、どういうわけか大人になるまで一切こじらせ続けてきた筋金入りの女将である。
そして彼女は、この宿の“顔”を名乗っていた。
「……まだ治ってなかったのか、その病」
悠真は思わずため息をついた。灯は堂々と頷いた。
「病ではありません、これは使命です。宿を守る者として、“魂の気配”を読み、湯に宿る記憶と対話するための力です」
お経のような声でそう言い切った彼女の後ろから、ふわりと現れたのは幼なじみの咲良だった。エプロン姿に茶髪のセミロング、かすかに香る甘い整髪料の匂いが、田舎の空気に溶けている。
「悠真くん、おかえり。ちゃんと逃げて来られたんだね」
咲良はにこりと笑った。その笑みの奥に、何か深いものがあることを、悠真は昔から知っていた。
「今度は、逃がさないから」
小さな声だったが、灯の呪文よりずっと現実味があった。
*
夕方になると、料理場からは包丁の音が聞こえてくる。
トントン……ピタ。トントン……ピタ。リズムは奇妙に正確で、耳に残る。
料理長の名は雪村柚葉。二十七歳。彼女について悠真はあまり多くを知らない。
無口で感情の起伏が少なく、ほとんど笑わない。
けれどその手から生まれる料理は、驚くほど繊細で優しく、客からの評価も高い。
問題は──料理名だった。
『出汁巻き卵:偽りの繭と朝焼けの断面』
『焼き魚:孤独に濡れた魚の最期』
『味噌汁:母性の幻影と赤い沈黙』
「ネーミングセンス、どうなってんだ……」
初めて献立を見たとき、悠真は本気で頭を抱えた。
柚葉は淡々と答えた。
「料理は、感情に触れてはいけない。でも、名前なら……揺らしていい」
理解できない。けれど、妙に説得力があるのが厄介だった。
*
椿屋に来る客は、少し変わっている。
誰にも言えない悩みを抱えていたり、何かを失っていたり、思い出せない痛みを背負っていたりする。
この宿は、それらに答えを出さない。癒しを押しつけたりもしない。
ただ、黙って迎え、静かに見送るだけだ。
灯が何か訳の分からない言葉で客の“魂の因果”を見抜き、
咲良が過剰に構いすぎて逆に怒られ、
柚葉の料理名に引きながらも、最後の一口で泣き出す客もいた。
そして翌朝、客は言うのだ。
「よく分からないけど……、来てよかった」
笑って、心だけを、そこに置いていく。
それがこの宿の“正しい使い方”だとでもいうように。
そんな宿に、今夜もまた──
ひとりの旅人がふらりと現れる。