第6章 危機の後で
「最悪」
リネアの言葉が俺の胸を刺した。先ほどナイラには「もう死ぬかと思った」と打ち明けたばかりだった。彼女もいないまま死にたくない──そう考えていたのに。
勝手に問題をでっち上げやがって。何より腹立たしいのは、ナイラが俺に全く好意を持っていないことだ。わざとらしくこの話を振り、俺とリネアの間に亀裂を入れようとしている。
「リネア、俺の説明を聞いてくれ」
「あなたとナイラの不倫が私と何の関係あるの?」
三人の間には隠し事などできない。ナイラも慎重な態度を取り始めた。
リネアが問題にしているのは、俺がナイラに先に告白した事実──彼女のプライドを傷つけた点だ。彼女ならその違いを理解しているはずだ。
「ナイラ!」
俺は鋭い目線でナイラを睨む。表向きは可憐で優しい少女だが、その実態は毒蛇のように狡猾だ。
こんな本性を知っていれば、彼女を彼女にしたりなんかしなかったのに。
ナイラは俺の思考を看透かしたように(いや、実際に把握していた)、明るい笑みを浮かべた。
ナイラと俺の緊張が高まる中、リネアは枝の先端で松明に火をつけると、俺の傷口に押し当てた。
「ぐっ! 何するんだ!?」
飛び上がるようにして痛みに耐える俺。
「止血よ」
リネアは見下すような冷たい声で答えた。
「あ、そうだったな」
頭を掻きながら再び腕を差し出す。
リネアは俺の全身の傷を焼いて血管を封鎖していく。これ以上の苦痛を経験したことある俺は、歯を食いしばって声を殺した。
リネアもナイラも同じ苦しみを味わっている。甘える権利は俺にはない。
止血を終えると、リネアは松明を俺に渡し、肩の傷を露出させながら髪をかき分けて背中を向けた。
「消毒して」
「ねえ、専門家の私に任せたら? 誤った処置だと感染するわよ」
ナイラが松明を受け取ろうと近寄ってくる。
「だってあなたが嫌いだから」
リネアの言葉にナイラは震えた。怒りに蒼白になった顔が印象的だ。
ハーレムクイーンとして君臨してきた彼女に、ここまで露骨に拒絶する女性は初めてだろう──ましてや親切心を見せている時に。
もし拒んだのが俺の「お前が嫌いだ」なら彼女も気にしなかったかもしれない。だがリネア──妖精のような美貌の持ち主──に言われたことで、ナイラの心は粉々に砕かれた。
「リネア、決めたわ。あなたに惚れさせてみせる」
沈黙していたナイラが突然炎のような決意を口にした。言葉の奥に渦巻く激情まで感じ取れるほどだ。
「どうぞご自由に」
リネアはゴミ屑を見るような態度でナイラをあしらい続ける。この蔑むような態度が逆にナイラの闘志に火をつけた。理想の女神を得んとする騎士のような硬い決意が形作られていく。
「ハク、早く始めて。あの人は無視で」
リネアの声が少しだけ柔らかく(とはいえ依然冷たいまま)俺に向けられる。
松明を握りしめ、彼女の背中に近寄る。
「9センチ前進。2秒静止」
リネアが視線で指示を出す。炎の輪を慎重に傷口へ滑らせ、血液が完全に乾くのを待ってから引き離す。俺は彼女の細かい指示に神経を研ぎ澄ませて従った。
白い背中の傷跡を見つめながら、胸が苦しくなった。
「こんな滑らかな肌…傷跡が残ったら勿体ない」
思わず呟く声が漏れる。
「どうでもいいわ。誰も見ないんだから」
リネアはイラ立たしげに返す。他人の感情や外見への配慮など、彼女の優先順位じゃない。
「俺は気にする」
口が先に動いた。リネアが一瞬硬くなるが、すぐに素知らぬフリをした。
「その松明、ナイラに渡して」
三人の傷の手当てが終わると、飢えが胃を締め付けてきた。洞窟の隅に転がる三頭の雪虎の死骸を同時に見つめる。
「ハク、引きずってきて」
「了解」
雪虎の巨体を火元まで引きずるのに汗だくになる。リネアは手際よく皮を剥ぎ、応急用の防寒ジャケットに縫い上げていく。
雪虎の毛皮は特殊だ。頭部に被せれば吹雪よけに、白い体毛は雪原での擬態効果も抜群。
リネアが最小サイズを選び、俺にはオスの毛皮、ナイラにはメスの毛皮が渡された。
羽織るとすぐに体温が籠もり始める。
リネアが虎のもも肉を切り分け、焼き始めた。俺とナイラも真似して、それぞれ肉片を火にかざす。
焼き上がり待てずに食いちぎる。半生でも喉を通るのは空腹が勝っていた。
骨を洞窟の隅に放り投げる。外ではまだ吹雪が荒れ狂っている。心の奥で、この雪虎たちが俺たちの命の恩人だと悟る。
戻るとリネアが焚き火を消していた。
「仮眠を」彼女の簡潔な指示。
緊張が解けた途端、睡魔が襲ってくる。
「体を密着させろ。体温維持のため」
リネアは憮然とした面持ちで俺とナイラを横並びにさせる。背中に触れる柔らかな体温が、極寒の地で唯一の安らぎだった。
洞窟の温度は上がったとはいえ、なお刺すような寒気が残る。今夜はさらに苛烈になる予感がした。
「離れて寝たら凍死するわ。密着が最善」
リネアが俺を中央に配置し、自身とナイラを抱き寄せる。横から見れば二人の天女を侍らせた王様のようだが――
現実は両肩に乗った二人の体重で寝返りも打てない。男の夢見る「美女二人を抱いて寝る」状況が、首の痺れと腰痛に変わっていく。
睡魔が最終的に全てを飲み込んだ。二人の柔肌を感じつつも、疲労が性欲を凌駕。俺は意識を失うように眠りに落ちた。
――異変は突然に。
「これは…現実夢か?」
ガラス張りの空間。三つの小さな扉。外は紺碧の虚空が広がり、出口の気配すらない。壁を叩いても反応なし。中央の扉だけが開いた。
「ここは?」
次の瞬間、リネアとナイラが転移してきた。
(リネア…?)
無反応。感情の波も感じない。
(夢の中の幻だな)
(なら思い通りに…) 考えるより先にリネアを引き寄せ、唇を奪う。
抵抗しない。むしろ従順な反応。(やはり幻だ) 手が腰へ滑ると――
「この変態野郎! 現実でリネアを奪い、私の夢まで侵す気!?」
ナイラの蹴りが俺を五メートル吹っ飛ばす。床に叩きつけられる痛みが神経を焼く。
「夢なのに…痛い!?」
通常なら目覚めるはずの自覚夢状態が継続。体が虚像に縛られたままだ。
「待て! これは普通の夢じゃ――」
「何よ!? 命乞いか?」 ナイラが荒い息を整えつつ足を止める。
「夢ではない」
リネアの冷たい声が空間を切り裂く。三人の影が不自然に歪み始めた
「?」俺とナイラは静まっていた