第51章 悪魔娘との言い争い
エレシュは俺を洞窟の端に連れて行き、岩陰に隠れて周囲を観察させた。
その時、洞窟前の平坦な空き地には十数機のヘリコプターが駐機していた。周囲には、動物の頭を模したマスクを被った武装兵が数百名、警戒を固めている。一箇所には傭兵の死体が山積みにされていた。
「あれはお父様のものよ。さあ、立ってついてきて」
エレシュは俺の手を引くと、洞窟の入口へ向かって歩き出した。
「止まれ!」
洞窟入口の警備兵はすぐに我々の存在に気づき、包囲してきた。
「まさか、私が誰だか分からないの?」
エレシュは警備隊長を鋭く睨みつけた。
この男は叔父様の親衛隊副隊長だ。エレシュが成長する姿をほぼずっと見てきたのだから、当然彼女だと分かるはずだ。
「申し訳ありません、お嬢。命令により、入洞の許可には『狼の牙』の証明書の確認が必須となっております」
副隊長は言いづらそうに答えた。普段なら逆らう勇気などないが、今は状況が特別なのだ。叔父ご自身でさえ検査を受ける必要があった。
「フン!」
不満そうだったが、エレシュも事情は理解している。彼女は襟元から一対の狼の牙を取り出すと、差し出した。
「メス牙は私のもの。オス牙は彼の分よ」
「お嬢…この『鉤状の牙』のペアは、成人の際に残す愛の証です。外部の方に渡すべきものでは…」
副隊長は俺を疑わしげに一瞥した。その視線にはかすかな敵意が宿っているのを俺は見逃さなかった。
このオスとメスの一対の狼の牙は、先端が鉤状に細く曲がっている。一度強くかみ合わされると、無理に引き離すのは難しい。それゆえ、永遠の忠誠の象徴とされているのだ。
伝説では、この鉤牙は戦いで相討ちになった一対の狼に由来する。最期のキスのように互いの牙を深く噛み合せたまま息絶え、戦場の掃除人たちも引き離すことができなかったという。
その話は語り継がれ、後世の人々はその牙を模したレプリカをペアアクセサリーとして作るようになった。それは離れられない愛の象徴となり、やがて一種の結婚指輪のような存在へと変わっていった。娘を持つ家族は皆、一対の鉤牙を用意する。
娘が嫁ぐ時、その一対の牙は新郎新婦にそれぞれ渡される。共に生き、共に死ぬまでの忠誠を願ってのことだ。
「これは私のものよ! 貴方がとやかく言うことじゃないわ! どきなさい!」
エレシュは狼の牙をひったくると、立ちふさがる警備兵を蹴り飛ばし、俺の手を引いて洞窟内へ入った。
「ほら、これ。受け取りなさい。着けなさいよ。そして、私の許可なしに絶対に外さないで」
エレシュはオスの牙を抜き取り、厳かな面持ちで俺の掌に置いた。その目は鋭く俺を射ていた。
「これはお前の愛の証だろう、俺が簡単に受け取れるわけがないだろ?それに俺はお前の奴隷だ——奴隷が主人とペアになるなんてありえない」
俺は軽々しく着けるわけにはいかなかった。もしかしたら奴隷の首輪みたいなものかもしれない。そうしたら彼女の命令に逆らえなくなるかもしれない。理由をつけて断らなければ。
「断るのか?」エレシュの顔がこわばった。拳を握りしめ――もし俺の返答が気に入らなければ、即座に殴りかかる構えだ。
「違います!…ただ…エレシュ様ご自身の手で着けていただきたいのです」
俺は演技の全てを振り絞った:俯いて恥ずかしそうに、まるでペットが甘えるように振る舞う。またエレシュに殴られるのは御免だ。
「本当にダサいわね。でも今回は特別に許してあげる」
エレシュは嫌そうに鼻をひくつかせたが、それでもその牙を俺の首にかけた。
洞窟に入ると、彼らの拠点が広がっていた。傭兵の死体は片付けられ、基地全体が整然と明るくなっている。巡回中の警備兵はエレシュを見るなり即座に深々とお辞儀した。
「ご帰還、お疲れ様です、お嬢」
「お世辞は結構。お父様はどこ?案内しなさい!」
「申し訳ありません、お嬢。ご主人様のご命令により、こちらでお待ちいただくよう…。内部の用事が片付き次第、お迎えに上がるとのことで」
警備主任が恭しく告げた。
「分かった。行きな」
エレシュは手を振って彼らを追い払った。わがままで規則を気にしない彼女だが、父親に逆らう勇気はなかった。
エレシュは俺を基地内で最も豪華な執務室に引きずり込んだ。以前は散らかっていた銀行カードが、今は机の上に整然と並んでいる。エレシュは椅子に寄りかかり、脚を組んだ。
「ハジメ、この机の上のものが何か分かる?」
エレシュは無造作に一枚の銀行カードを手に取り、指でくるりと回した。
「…銀行カード?」
彼女の意図を測りかねつつ、流れに乗って答える。
「違うわ。これは百億米ドルよ」
スッ!指を鳴らすと、カードが俺の足元に落ちた。
俺は苦笑いし、こめかみを押さえながら顔をしかめた――重いショックを受けたふりをしながら。
「兄さんを私達の陣営に加わるよう説得してくれ…これ全部、君のものよ」
公的な話になると、エレシュの顔は再び厳しさを取り戻す。感情を排した平坦な口調だ。
個人的には俺を将来の伴侶と見なしているが、利害の前では俺は単なる道具に過ぎない。明らかに、彼女にとって実弟の価値は「伴侶」よりも重いのだ。
「お許しください、エレシュ様。弟の価値に釣り合う金など存在しません。千兆ドル積まれても弟を売り渡したりはしません。たとえ針の先ほどの不利益も、弟に被らせたくないのです」
俺はきっぱりと言い切った。家族愛に値段はつけられない――たとえ命が脅かされようと、家族を裏切ったりはしない。たとえ彼が義理の弟であっても。
「当然、兄さんの価値が金と同列なわけがない。では、私を手助けする代わりに、君は何を差し出せるの?」
エレシュは少しイライラしながらも、同時に安堵していた:少なくとも兄には良い兄弟がいるのだと。
「俺はただ、弟が自分の望むように生きてほしいだけだ。お前と共に世界を支配したいならそれでもいいし、静かに平民として生きるならそれでもいい――彼が幸せなら、俺はそれで満足だ」
言うのは少し恥ずかしいが、これが本心だった。
「馬鹿!」
エレシュは机をドン!と叩き、眼光を鋭くした。
「君は兄なのに、弟の未来を考えていない!むしろ彼を塵屑に貶めようとしている!普通の人間になれだと?何たる戯言!」
「最も高貴な血が彼の血管を流れている!彼は神の王となる運命なのだ!」
彼女が何度も義弟を説得しているということは、もし弟が本当に世界征服を望んでいるなら、わざわざ俺を呼び出してまで話す必要はないはずだ――つまり、弟は断り続けているのだ。この強引な小娘め、他人の意志を無視して押し通そうとはな。
「バカはお前だ!」俺も負けじと声を荒げた。「お前は妹のくせに、兄の幸せを考えていない!『先祖伝来』とかいう戯言のために彼の未来を奪い、嫌がることを強要している!」
「それが彼のためだって押し付けて!違う!これは全てお前の自己満足だ!お前は彼を利用しているだけだ!」
俺も机を叩き返し、燃えるような怒りを込めてエレシュを睨みつけた。
「お前は彼の未来を野望の踏み台にしているだけだ!」
彼女が俺を殴ろうと、耐えてやる。
俺の自尊心を踏みにじろうと、放っておく。
俺の自由を奪おうと、抵抗はしない。
だが、彼女が“世界征服”の名のもとに俺の弟の未来を犠牲にしようとするなら?たとえ彼女に殴り殺されても、俺は決して屈しない
「お前――!」エレシュは震える指を俺の鼻先に向けたが、言葉が出てこない。
「どうした?身内を売り飛ばす自己中な小娘め」俺は彼女の手首を掴み、容赦なく毒舌を叩きつけた。
「黙れ…!」
エレシュの拳が俺の口元に全力で炸裂した。
上前歯が二本折れた。血が滝のように流れ出る。さっきの言葉が彼女の心の最も痛い部分を抉ったのだ。
殴り終えたエレシュは椅子に崩れ落ちた。目は虚ろで、涙が止めどなく流れていた。
[……どうやらやり過ぎたようだ]
エレシュが打ち砕かれた姿を見て、俺の怒りも収まっていった。
俺たちはただ道が違うだけだ。悪いのはどちらでもない。
互いの兄弟の幸せを願っているのだから
慰めようと身構えた――おそらくまた殴られるだろうが。
しかし、その前に…
慌ただしいドアのノック音が静寂を破った。