第5章 雪虎
俺は神を冒涜したのだろうか。
最初は晴れていた空に暗雲が垂れ込め、突如として吹雪が襲ってきた。
気温は十数度も急降下し、俺たちは絶望の淵に追い込まれた。
視界を遮る猛吹雪で道を見失い、完全に迷子になってしまった。
「クソッ!」
三人同時に呪いの言葉を吐いた。今回の生存確率はほぼゼロに等しい。
それでも絶望の中、諦めはしなかった。必死で山を下ろうともがき続けた。
どれだけ歩いたのか――突然、足が岩に引っかかり、体がよろめく。転倒し、そのまま制御不能に斜面を転がり落ちていった。
疲労困憊のリネアとナイラは俺を止める力もなく、ただ呆然と見守るしかなかった。
『これが世界とのお別れか…』
心の奥底で苦い思いが広がる。
二十回ほど転がった後、ようやく崖縁の平地で体が止まった。
奇跡的に、転落中に頭を岩にぶつけることはなかった。苦労して頭を持ち上げると、3メートルほどの高さの洞窟が視界に飛び込んできた。
『助かった』
二人は俺が目撃した洞窟の位置を記憶し、転がった跡を辿って降りてきた。
洞窟の入口で棒立ちになり、誰も一歩も中へ踏み込めないでいた。
「感じるだろ?」
リネアが洞窟を睨みながら拳を握り締める。
「ああ。明らかに何かがいる」
俺は短く答えた。
リネアの経験か、研ぎ澄まされた俺の第六感か、あるいはナイラの本能か――今の俺たちは潜在的な危険を嗅ぎ分けられる。
「私のナイフを返せ!」
リネアの命令に逆らわない。彼女が最も経験豊富で強い。武器を持てば防御力が最大化する。
「……やっぱり、やめておかない?」
死体解剖には慣れたナイラも、未知との対峙では人間らしい臆病さが顔を出す。
「外にいれば凍死だ。死ぬならリスクを取れ!」
俺とリネアの決意は固い。
「は、はい…」
「ハク、俺に付いて来い。ナイラは後ろを警戒しろ」
ハク?
もしかして「ハジメくん」の略? とにかく、この呼び方は妙に可愛らしい響きだ。
隊形は明快――前衛の切り込み隊長リネア、中央サポートの俺、背後からの奇襲に備えるナイラ。
斜め三角陣形で、洞窟を慎重に進んでいった。
洞窟内の空気は外より遥かに温かい。徐々に嗅覚が回復するにつれ、鉄臭い血の匂いが鼻を襲った。全員の呼吸が荒くなる。
薄暗がりの中、闇から緑に光る一対の目が現れた。
「下がれ!!」
リネアの絶叫が反応より速い。
洞口には剣歯を持つ雪虎が立ち塞がっていた。筋肉質の巨体が退路を完全に封鎖している。
「...油断した」
背筋に冷たい汗が流れる。ナイラが背後を警戒し続けていなければ、即座に餌食になっていたところだ。
雪虎は息つく暇も与えない。
前方の脅威に集中している刹那、横壁で爪音。三頭目の虎が天井から急降下し、俺を地面に叩きつけた。
鋭い牙が喉元を狙う。反射的に右腕で致命傷を防ぐ。牙が肉を貫く瞬間、鮮血が噴き出した。
入口の虎は突然ナイラを無視し、主目標をリネアに変更。女殺し屋はアクロバティックな動きで攻撃を回避し、逆にナイフを虎の鳩尾に突き立てた。
だが流血の宴は始まったばかりだった。
闇に潜んでいた三頭目が背後から襲撃。強靭な顎でリネアの肩表面を引き裂く。
俺の腕はまだ獣の口内に囚われている。自由な左腕で首締めを強化し、膝で肋骨を押し潰す。「リネア、今だ!」
殺し屋のナイフが稲妻のように閃く。刃が虎の首を貫き地面に達する。だが獣は噛み付いたまま、牙をさらに深く肉に食い込ませる。
残り二頭が弱点を嗅ぎつける。一頭はリネアのふくらはぎに飛びかかり、もう一頭は彼女の首筋を狙う。
「ダメ──!!」
リネアがよろめく。華奢な体が二つの血塗られた顎の間に挟まれる。牙が白い頸動脈に触れようとする刹那──
忘れられていたナイラが幽霊のように現れた。素早い手が蛇のように動き、小さな指が二頭の顎関節を貫く。グキッ!顎骨が砕ける音。
「凄いな!」顎を抑えながら俺が叫ぶ。
「まだ終わってない」ナイラの指がメスに変わる。今度は耳の下の急所を突く。バキッ!目を見開いたまま虎が崩れ落ちる。
最後の雪虎が反撃。体当たりでナイラを地面に叩き付け、鋭い爪が胸部に四本の深い傷を刻む。次の爪が腹を引き裂こうとする瞬間──
リネアが電光石動。洞窟の床から矢のように飛び、ナイフが頭蓋骨の付け根に突き刺さる。獣は硬直した後、生気を失って倒れた。
脅威を排除したリネアが駆け寄る。指で俺の腕を噛む虎の顎の隙間に滑り込ませ、ぐいと引き剥がす。ズブッ!腱が切れる音。虎の命がゆっくり消えていく間に血しぶきが洞窟の岩肌を染める。
俺は虎の死骸からもがき脱する。二人を見つめる視線に畏敬と恐怖が入り混じる。
フラッシュバックが脳裏をよぎる──「ハーレム」という予言を初めて聞いた時、少年の脳裏に浮かんだのは甘い妄想だった。だが現実は...記憶を共有するこの二人の女戦士(ひとりは他より凶暴)に思考を読まれながら、果たして未来はあの頃の幻想通りになるのだろうか?
「くだらぬ妄想は捨てろ!」
傷の手当てをしながらリネアが赤面して啖呵を切った。「殺さないだけだ…少なくともこの地獄から脱するまではな」
苦笑を噛み殺す。彼女の殺人予告は今や本気の脅しというより、むしろ護符のように感じられる。記憶の共有以来、何かが変わり始めている。
雪虎の死骸を調べる。リネアは執拗に体を突き刺し続ける——死を信じない狩人の習性だ。三頭:二頭が成体、一頭が若虎。オス一頭にメス二頭。家族だった。
胸が締め付けられる。我々の侵入は彼らの平和な生態系を破壊した隕石のようだ。絶滅危惧種の命を三つも奪った事実が重くのしかかる。
だが戦場に涙は不要。敵を葬った兵士のように、この罪を背負って生き延びねばならない。
洞窟の奥で新たな発見。岩棚に乾いた薪と火打ち石が積まれていた! 炎は温もりと傷の消毒を意味する——
「待て!」
火打ち石に手を伸ばす俺をリネアが制止。暗闇から漂うかすかな気流を鼻で探る。「…よし」風向きを確認してようやく許可が出た。
理解した。洞窟内での火は自殺行為だ。
換気がなければ酸欠や一酸化炭素中毒の危険がある。現場派のリネアに比べ、俺の知識はまだ浅い。
炎が広がるにつれ、洞窟の角々が赤く照らし出される。吹雪以来初めて、リネアとナイラの顔をはっきり視認できる。
リネアの美貌はスラヴの戦女神像のよう:剣のように鋭い眉、彫刻的な肢体。割れた腹筋が逆に色気を増幅させる。こんな完璧な女を拒める男がいるだろうか?
気付けば頬が火照っている。皮肉なことに、裸のリネアを見た時は欲望より…胸の奥の温もりを感じた。初恋に戸惑う少年のようだ。
「その淫らな視線は何だ? 貴様みたいな下劣な男に興味はない!」
威嚇する声とは裏腹に、記憶の絆を通じて違う感情が伝わる——守られたい、認められたい。言葉と本心の矛盾。
リネアは我に返ったように硬直する。思考が読まれたことに気付き、蒼白の頬に血が上る。「覗くな…私の思考を!」 背を向けた肩が不自然に震える。
「命を狙ってた頃と別人のようだ。どうしたんだ?」
「黙れ!」 こめかみを押さえて叫ぶ。本人もこの感情の変化に混乱している。
「嘘つき。心拍数が上がってるぞ」
顔中真っ赤になったリネアが「貴様——!」と刃を研ぐ。
「ハジメ」
ナイラの冷たい声が割って入る。「忘れてないわね? 誰かが私を彼女にしたいと頼んだことを」
空気が凍りつく。リネアが振り向く眼差しは氷の刃。好感度ゲージがあれば、確実にマイナス領域に突入しただろう。
「そ…畜生! なぜ俺が責められねば!」
冷や汗が背中を伝う。
ハジメ
リネア
ナイラ
ここまで読んでくれてありがとう!
いやー、今回は命がけの連携プレイ回でしたね。
最初はバラバラだった彼らが、命を懸けて背中を預け合うようになる姿…書いててちょっと胸が熱くなりました(自画自賛)。
それにしても雪虎、強すぎない?って思った方、安心してください。作者もそう思ってます(ぇ
でも、だからこそ3人の本気の連携が映えたわけで!
ハジメ(あ、ハクって呼ばれてたね)も、ただの知識系男子じゃないってところ、ちょっとは見せられたかな?
そして、徐々に明らかになってきた記憶共有の影響…
リネアのツンデレ爆発も、ナイラの無言のかっこよさも、次回さらに深堀していけたらと思ってます!
というわけで、次回もお楽しみに!
ブクマ・評価・感想なんかももらえると、とっても嬉しいです!
それじゃあ、また次の冒険で会いましょう!
――作者より