第29章 俺の特別な弟
俺は部屋に戻って荷物をまとめると、帽子を被ってつばを少し引き下げ、できるだけ顔を隠した。
美形すぎる顔も時には厄介だ。道中で話しかけてくる奴らが後を絶たないんだから。
ホテルの部屋に戻る途中、宿泊客だけでなく従業員までが次々と連絡先を求めてくる。中には悪意ある旅行者が無理矢理迫ってくることもあったが、きつい一言でたしなめて意識を飛ばしてやった。
ロビーに降りてフロントでチェックアウトの手続きをしようとすると、
「ハジメ様、少々お待ちください」
「は?まだ用事あったか?」
「昨夜中尉がお持ちの三頭の馬をお返ししております。裏の倉庫にいますので、ご確認ください」
「ああ、そうだったな。ありがとう」
国境の検問所で止められた時、確かに軍に馬を押収されていた。事件が解決した今、返却されるのは当然だ。
係員について倉庫に向かうと、中尉が名残惜しそうに馬のたてがみを撫でていた。さすが馬に詳しい男だ。
「素晴らしい軍馬です。競馬に出せないのが惜しい」
「だったら登録すれば?」俺は苦々しい声で応じた。
「失礼!ハジメ様!」中尉は慌てて敬礼した。
まるで「馬の苦労を無駄にするのか」とでも言わんばかりの言葉に反応したわけだ。
「構わん。元々乗るつもりもなかった。お前が預かってくれてもいいんだが」ロスォ市までは車で行く予定だった。三頭もの馬を貰っても困るだけだ。
「申し訳ありません!上司の命令で装備と共に必ずお返しするよう言われておりまして…」
「…わかった。引き取るよ」
馬を受け取った俺は、周囲の好奇の視線を浴びながらホテル前へ引きずり出した。高原では騎馬旅行も珍しくないが、街中で三頭もの馬を連れ歩くのは異様な光景らしい。
[どうすりゃいいんだ?バスに馬は乗せられないぞ] ナイラとリネアに助言を求める。
[なら馬でロスォ市まで行くのはどう?] ナイラが躊躇いながら提案してくる。俺の乗馬技術が並みレベルなのは彼女も承知の上だ。
山岳地帯でのんびり乗るのと、街中で三頭を引き連れて移動するのとでは難易度が違う。
[ダメだったら特訓してやるわよ] リネアが不機嫌そうに呟いた。今度こそ本気で乗り方を叩き込む気らしい。
でもその後、突然やる気満々になったリネア。まるで天才的な解決策を見つけたかのようだ。
[本当に安全なのか?] 俺は二人の乗馬スキルの記憶を辿る。本気を出せば何とかなるかもしれない。
[問題ないわ。私を信じなさい]
[じゃあ乗ってやる。騙すんじゃねえぞ] 疑いながらもリネアにチャンスを与える。
[馬の腹に脛を密着させて姿勢を固定しろ] リネアの指示は妙に説得力がある。
体勢を整え、脚で馬の胴を締め付ける。すると奇妙なことに、暴れていた馬が落ち着き始めた。
[思ったより簡単じゃねえか] 小さな成功に奢りが込み上げる。[で?]
[尻を叩け!]
[了解]
パシッ!手のひらが馬の臀部を打つ音。「うわあああっ―――!?!?」悲鳴と共にナトラ市の道に俺の絶叫が響き渡る。
歩行者やドライバーが呆然と見守る中、三頭の馬を従えた人影が風のように疾走する。俺は冷や汗をかきながら必死で馬の首にしがみつく。
[やべえ…!!!リネア、クソ提案だぞ!]
[逆にパニックになれば上達も早いわよ。恐怖は記憶を定着させるのに最適だもの]
[畜生…!止め方を教えろ、てめ―――!?] 馬の足音が激しさを増し、声がかき消される。
[バカ…!早く!落ちそうだ!]
[自分で制御しなさい。私はここから指示するだけ] リネアの声に忍び笑いが混じっている。
[てめえ…俺の惨状を楽しんでやがる…!]
「やめろおおお―――!!!」絶叫がナトラ市の空を引き裂く。
馬は勢いを増して城門を駆け抜ける。草原に入ると、まるで自由を得たかのようにますます疾走速度を上げる。
落ち着け。リネアのやり方を思い出せ。強制的に体の力を抜くと、徐々に騎乗のリズムが掴めてきた。リネアが初めて乗馬を習った時の記憶が脳裏に流れ込む。
重心を前に傾けると加速し、手綱を引きながら体重を後ろに移すと減速する仕組みだ。
「おっ!意外と単純な原理じゃないか!」自信を持って手綱を引くと、馬が優雅に前脚を上げて跳躍する。
左手で手綱を握り、右手は雪を頂いた遠くの山頂を指差す――まるでナポレオンがアルプスを越えた時のような決めポーズだ。
気付かないうちに、山岳風景を撮影中のカメラマンがその決めポーズを偶然キャプチャーしていた。
「聖山の騎手」と題されたこの写真は、雄大な背景とドラマチックなシルエット、被写体の謎めいたオーラが完璧に調和した構図により、後日国際写真コンテストで金メダルを受賞することになる。
ナイラとリネアから継承した乗馬技術を磨きながら、俺は国道217号線をロスォ市へと進む。この旅が単なる観光でないことは明白だ――家族をめぐる重大な使命がかかっている。
少し時を遡ろう。大学入試の一週間後、両親が衝撃的な事実を明かした。俺の弟は実の血縁ではなかったのだ。
地質調査隊員として崑崙山脈で活動していた両親。ある日、調査中の郝おじさんが衰弱した男児を発見した。転勤の多い生活を送る両親は、この子に安定した家庭をと養子縁組を決意。ところが郝おじさんはその後行方不明になってしまう。
村人たちは弟を実子と思い込み、三年後に生まれた妹と瓜二つの容貌もあって、戸籍上も次男として登記された。
一週間前、郝おじさんから突然連絡が入る。弟のルーツに関わる手がかりを掴んだという。しかし両親は高校受験目前の妹と競技大会準備中の弟の世話で多忙を極めていた。
そこで俺がロスォ市で郝おじさんと会うことを引き受けた――すべての冒険はここから始まったのだ。
馬の腹を軽く蹴りながら、弟の過去を回想する。当初は郝おじさんの私生児と思われていたが、どうやらもっと深い秘密が隠されていそうだ。
[ハジメ、弟君の背景は想像以上に複雑よ。多くの謎が絡み合っているわ]
ナイラとリネアが弟に関する記憶を探索する。彼らが深掘りするほど、弟を包む謎のオーラが濃くなる。
[承知している]
弟にまつわる不可解な事件は数多い。12歳の時、弟と妹が誘拐されたことがある。身代金を要求した犯人たちだが、両親が金を準備する前に二人は無事帰宅――犯人の痕跡は消えていた。
当時警察は非常事態宣言を発令し全市を捜索したが、犯行グループは地中に消えたかのように姿を消した。弟たちも詳細を覚えていないという。この事件は日本の特殊部隊を動員する大騒動になったが、結局未解決のまま現在に至る。
俺は以前から犯人の消失が弟と関係していると睨んでいた。ナイラの死体溶解能力を知った今、ようやくパズルの一片が嵌り始めた。
[ハジメ、もしかしたら弟君は――]
[分かってる] 俺はきっぱり遮った。[彼が誰であろうと、俺の弟に変わりはない。それだけは絶対だ]
リネアが『弟君は人を殺したかもしれない』と言おうとしたところで何だというの? あの誘拐犯たちは死に値する連中だ。それに弟は自らの意思でやったわけじゃない。
[そう考えてくれるなら安心ね。でも弟君の正体は依然不明よ。私達の知識をもってしても、彼が何者か推測できそうにない]
[弟の正体より、むしろ我々三人の状況の方が問題だ。弟がどんな伝説の能力者でも、所詮は謎めいた存在でしかない。我々は既に歴史を動かす存在だ。こんな瑣末な秘密に囚われる必要があるか?]
[その言い方、まるで私たちの方が偉いみたいじゃない] 三人で顔を見合わせ、突然の自尊心の暴走に照れ笑いがこぼれる。誇らしげな笑みを隠しきれない様子だ。
移動中の単調な時間は、二人との交互の会話で埋め尽くされた。
軍から支給された装備は意外と充実していた。馬上で荷物を開封すると、中からは:高密度携帯食、折畳式テント、戦闘用ブーツ、耐寒迷彩服一式、方位磁石、防水マッチ、防毒マスク、サングラス、インスタントレーション、エナジードリンク、そして刃渡り20cmのスライディングダガー3本が出現する。
黄昏が訪れる頃、国道沿いにテントを張り、馬たちを自由に草食させた。
テント内で分厚い豹革ジャケットを脱ぐ。野性的な見た目に反し、長時間の着用は意外と不快だ。代わりに装備品の予備迷彩服に着替え、革製品は畳んで簡易枕代わりにする。明日の準備を整え、俺は深い眠りに落ちた。
ナイラとリネアは意識空間でいない、彼女たちはまだ任務中。残された俺は、自らの深層意識へ潜り込むことを決意する。