第五話、望み
粉塵が舞う中、崩れ落ちた瓦礫を蹴り飛ばし、ジンとレオンは必死に這い出た。
全身が砂埃にまみれたジンは、服や髪に付いた汚れを払い落としながら、息を整える。
「……当たれば死んでいたな」
レオンも肩で息をしながら、前方へ目を向ける。
二人は、足を動かすたびに地震のような振動を生む巨大な蜘蛛を見据えた。
視線を交わし、無言で相槌を打つと、再び駆け出した。
粉塵の煙る街路を、巨大蜘蛛へ向かってひたすら走る。
すると、遠くの崩れかけた五階建ての建物の屋上で、何かが動いた。
レオンは前を向いたまま、ジンに声をかける。
「……何かいる」
「確かに。だが、人間じゃないな」
「ああ、俺もそう思う」
「突っ切るぞ」
「強行突破ね」
臆することなく、二人はそのまま突き進んだ。
すると、屋上の影に続いて、新たな影が次々と現れる。
やがて、影たちはジンとレオンの進行方向へと降り立ち、行く手を遮った。
砂埃が晴れると、魔物の姿が鮮明に浮かび上がる。
「ジン、灰色のガーゴイルと、大きな黒いカマキリみたいだな」
「俺の知識によれば、ガーゴイルはグリムガード、カマキリはナイトシザースだ」
「詳しいな」
「数時間、本を漁っていたからな」
レオンは想像する。
国内随一の腕を持つジンが、部屋にこもって延々と本を読み漁る姿をーー。
その光景を思い浮かべ、警備業務以外でも精力的に動くジンの労苦を感じると同時に、あまりの生真面目さに思わず苦笑する。
そんなやりとりを交わす間に、二人の足が止まった。
目の前の道を、魔物たちが待ち構えていた。
「さて、どうするよ。魔物さんたちは、ここは通さないって顔してるぜ」
「……斬り進むだけだ」
ジンは剣の柄に手を添え、静かに刃を抜いた。
戦闘の幕が、今まさに上がろうとしていた。
剣を抜いた二人と群がる魔物が、互いに睨み合う。
その時だった――。
「えぇん……」
突如、魔物と二人の間を切り裂くように、子供の泣き声が響いた。
二人は即座に振り向く。
そこには、小さな赤ん坊の女の子がいた。
地面に転がり、擦り傷から血を滲ませながら、必死に泣き叫んでいる。
その瞬間に、ナイトシザースが動いた。
「しまった!」
レオンが声を上げ、魔物に寸分遅れて駆け出す。
「ーー間に合わない」
レオンと赤ん坊の距離はまだ開いている。
それに対し、ナイトシザースはすでに赤ん坊を攻撃範囲に捉えていた。
銀色に輝く鎌が高く振り上げられる。
「『ファーストファイア』」
レオンの後方から、低く確かな声が響いた。
次の瞬間、炎を纏った火球が彼の横を疾走し、一直線にナイトシザースの頭部へと飛ぶ。直撃した火球は、小さく爆発し、ナイトシザースの動きを一瞬止めた。
「行けるーー間に合う!」
レオンは歯を食いしばり、駆け込むと赤ん坊を抱き上げ、そのまま全力で走る。
しかし、その背後には、すでに態勢を立て直したナイトシザースがいた。振り上げられた鎌が、再び鋭く振り下ろされる。
「こいつ……速い……!」
レオンは赤ん坊を覆うように抱きしめ、刃が迫るのを覚悟した。
静寂が訪れる。
レオンの視界が暗闇に包まれる。
「……真っ暗だ。ついに死んだか、俺は……」
虚空に向かって呟いたその時、遠くからかすかに声が聞こえた。
「ま……ぞ……」
「……ん? 誰だ?」
ぼんやりとした意識の中で、声が徐々に明瞭になる。
「まだ……死んでねえ」
「……死んでないのか?」
「当たり前だ。目を瞑ってたら、そりゃ真っ暗に決まってるだろ」
レオンはゆっくりと目を開けた。
目の前に広がる光景。
そこには、ナイトシザースの鎌を鈍色の細剣で受け止めているジンの姿があった。
レオンは呆然とジンの背中を見つめる。
「何している。早く子供を連れて逃げろ」
ジンの冷静な声が響く。
レオンはハッとし、赤ん坊をしっかりと抱き直すと、振り返って走り出した。
「すまない、ジン……絶対に生きろよ」
「互いにな」
ジンは短く答えると、ナイトシザースと対峙する。
静かに、しかし確実に刃を握り締めた。
赤子を抱えたまま、レオンは瓦礫の隙間を流れる水のように潜り抜け、その場から撤退した。
背後に残る剣と鎌が、微かに金属音を響かせながら、小刻みに震えている。
「……もういいか」
ジンは僅かに剣の力を緩めると、相手の鎌を横に受け流す。
バランスを崩したナイトシザースの鎌が、勢いよく地面に突き刺さる。
その一瞬。
ジンの刃が唸りを上げ、ナイトシザースの首を容赦なく切り裂いた。
振り抜いた剣をそのまま静止させ、鋭い眼差しで後方の魔物たちを睨みつける。
グリムガード、そして残るナイトシザースたちが、その光景を合図にしたかのように、一斉に襲いかかってきた。
「まとめて相手してやる」
迫り来る魔物たちを前に、ジンは一歩も引かない。
即座に剣を鞘へと納めると、柄を握ったまま片足を後ろに下げ、膝を落とす。
静寂が降りる。ジンはそっと目を閉じた。
ナイトシザースが足音を立てながら距離を詰め、鋭い鎌を振り上げる。
その時、ジンの瞳が刃のように鋭く開かれた。
「……居合い」
ナイトシザースの鎌が、ジン目掛けて振り下ろされる。
しかし、――ジンの姿は、そこにはなかった。
魔物たちがジンの姿を見失ったまま、三秒間の沈黙が続く。
次の瞬間、少し離れた後方――風の如く駆け抜けたジンの姿が、ゆらりと現れる。
「……終わりだ」
鞘に納め切った瞬間、ナイトシザースの視界が二つに裂けた。続けて、背後の魔物たちも等しく斬り裂かれる。
断末魔の叫びが響き渡り、魔物の体が地面に崩れ落ちると、やがて黒い塵となって消えていった。
静かに息を整えたジンは、視線を上げる。
目の前に広がるのは、巨大な蜘蛛へと続く道。
その道の先に、真の脅威が待っている――だが、新たな魔物たちが道を塞ぐようにジンの前に現れていた。
「……しつこいな」
しかし、ジンは動じることなく刃を振るい、流れるような剣さばきで次々と屠っていった。
そのまま、巨大な蜘蛛のもとへと歩を進める。
それを見た蜘蛛は、ゆっくりと足を振り上げる。
「ヴオオーー……」
重々しい咆哮が響き渡ると同時に、蜘蛛は巨体を支える一本の足を高く掲げた。
そして――大地を裂く勢いで振り下ろす。
ジンは横へと飛び、寸前で衝撃を回避する。
しかし、蜘蛛の一撃が生み出した暴風が彼の身体を巻き上げ、さらに上空へと弾き飛ばした。
「くっ……!」
無防備なまま空中へ投げ出される。
制御を失った身体が落下を始めたとき、運よく高層の建物の屋上へと着地することができた。
崩れかけた屋上で膝をつき、息を整える。
「……風すら攻撃になるとはな」
だが、蜘蛛は容赦しない。先ほど振り下ろした足を横へと振り抜く。
その一撃が建物の壁を破砕し、瓦礫が崩落していく。
ジンは反射的に跳躍し、危機を逃れた。
しかし、蜘蛛の狙いはそこだった。
宙に舞ったジンへ、もう一本の足が素早く振り下ろされる。
「……しまった!」
避ける術がない。
咄嗟に剣を構え、蜘蛛の一撃を受け止めるが、圧倒的な質量の前に防御は通じなかった。
ジンの身体はそのまま地面へと叩きつけられる。
激しい衝撃が走り、粉塵が一気に舞い上がる。
だが、蜘蛛は止まらない。
同じ場所へ何度も足を叩きつけ、大地を抉るように攻撃を続ける。無数の衝撃によって地面は崩れ、一メートル先すら見えないほどの濃厚な粉塵が辺りを覆い尽くす。
やがて、蜘蛛は動きを止めた。
そして、漆黒の眼窩を晴れ渡る空へと向ける。
「……ヴオオーー!!」
勝利の雄叫びが街全域に轟く。
その陰で――瓦礫の隙間から、ひとつの影がゆっくりと這い出てきた。
額から血を流しながらも、ジンは静かに立ち上がる。
「……舐めやがって」
砂埃に覆われた瓦礫の中、ジンは静かに息を整える。
蜘蛛はまだ彼の存在に気づいていない。
その隙を逃さず、ジンは軽々と跳び上がり、蜘蛛の足先へと着地した。
「剣技――」
低く呟いた刹那、彼の刃が閃く。
目にも止まらぬ速さで回転しながら、冷たい剣筋が蜘蛛の脚を斬り裂く。
斬撃の勢いをそのまま、ジンは足を駆け上がる。
吹き付ける鎌鼬の如く――。
第二関節に差し掛かると、ジンは高く跳躍し、砂埃の帳を抜けた。
その瞬間、蜘蛛は回転するジンの姿を視界に捉える。
先ほどまで響いていた雄叫びがぴたりと止み、街の騒音が静寂へと翻る。
音の裏側に広がる沈黙の中で、ジンは静かに言葉を紡ぐ。
「真空連撃」
彼の言葉と同時に――蜘蛛の足先から第二関節までが、まるで時間が遅れていたかのように切り落とされた。
静寂を切り裂く鮮烈な一閃。
足の断面から紫の血が噴き出し、周囲を染め上げる。
「グワアアーー!」
蜘蛛は怒号のような悲鳴を上げながら、大地を震わせるように後退する。
その巨体が落下し、轟音と共に地面が揺れた。
ジンは息を整えながら蜘蛛を見つめる。
「……効いたか?」
しかし、思ったよりも早く、蜘蛛は再び動き出した。
怒りに満ちた咆哮が、今度は天を揺るがすほどに轟く。
「グオオーー!!」
「……うるせぇ」
ジンは不安定な足場に着地し、慎重に蜘蛛の動向を見極める。
だが、蜘蛛はジンをまっすぐ見据えず、少しずらして体の向きを変えた。
「……向きを変えた?」
疑問が脳裏をよぎる。
すると、蜘蛛が大きく口を開き、その奥に漆黒の粒子を集め始めた。
その光景を目にした瞬間、ジンの思考に稲妻のような直感が走る。
背後を振り返る。
瓦礫の向こう――そこには、城があった。
蜘蛛の口元で膨らんでいく闇。日の光すら吸収するかのように、漆黒の球体が成長していく。
見る間にそれは、蜘蛛の頭蓋骨と同じ大きさに達していた。
差し迫る危機。
額を流れる汗が、頬を伝い地面に落ちる。
ジンは全身に力を込め、地面を砕く勢いで踏み込んだ。
「……止めなければ」
稲妻のごとく駆け出す。
しかし、蜘蛛の球体はすでに光を集め終えていた。
不穏な気配が、蜘蛛全体を包み込む。
ジンは高く跳躍し、接近を試みる――だが、あと少し、距離が足りなかった。
「このままでは……」
判断の余地はない。
「――これに賭ける!」
ジンは空中で素早く体を捻り、瞬時に剣を引き抜く。
回転する勢いを刃に乗せ、力の限り投げ放つ。
鈍色の剣は、風を切り裂きながら一直線に飛んでいった。