第四話、襲撃(改稿)
ジンは静寂に包まれた図書室で、数時間にわたり立ち並ぶ本棚の間を歩き回り、目的の本を探し続けていた。
「クソ、見つからない……」
魔物図鑑、召喚魔法の書物、さらにはゼラチンを使った料理の本まで手を伸ばしたが、ゼラチン状の魔物に関する記録は一切見つからなかった。
「どこにもないのか……」
積み重なった本の山を前に、ジンは小さく舌打ちした。
「ジン様ですか?」
ふと聞こえた女性の声に、ジンは顔を上げた。
そこには、ツヤのある茶髪を三つ編みにしたメガネの女性が、不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「ちょっと急ぎで魔物の記録を調べていてね」
「どんな魔物ですか?」
「ゼラチン状の魔物なんだが……」
小柄で細身の女性は、顎に手を当てて考え込んだ。
しばらくの沈黙の後、何かを思い出したかのように目を輝かせた。
「お探しの魔物が載った図鑑、見つかるかもしれません」
「まだ他にあるのか?」
「はい。特別な本なので、一般には公開されていません」
「どこにある?」
「こちらへ」
女性はジンを先導し始めた。
ジンは少し訝しみながらも、後をついて行く。
図書室を抜け、彼女は奥にある執務室へと進んだ。
室内には書類が無造作に積み重なり、机の上も整理されているとは言い難い。
彼女はそのまま奥の壁の前で立ち止まる。
そこだけ装飾がほとんど施されておらず、周囲と比べても妙に目立たない作りになっていた。
「ちょっと待て。ここはただの壁だろ?」
「本当は、私でも開けるのは禁止されていますが……誰も見ていませんし、大丈夫でしょう」
「いいのか……?」
「心配いりません。開けますよ」
彼女は壁に手を当て、下から上へとゆっくり滑らせるように動かした。
すると、表面の白い壁紙が手の動きに合わせてめくれ上がる。
ジンが驚く間もなく、彼女はさらに手を添え、何かを押し込んだ。
次の瞬間、壁全体が沈み始めた。
静かに、しかし確実に動いていく壁。
その奥から、新たな壁が現れた。
完全に沈み切った時、その壁に描かれたものが露わとなる。
それは、赤い色で塗り固められた巨大な魔法陣 だった。
「この模様……魔法陣か?」
「そうです。見ていてください」
彼女が魔法陣の中心に手を翳すと、淡い光が広がった。赤い線に沿って金色の光が走り、外周へと一気に拡散していく。
やがて魔法陣全体がぼんやりと発光し、中心にあった床の一部が静かに沈み始めた。
そこには、紫の表紙に金色の装飾が施された重厚な一冊の本が置かれていた。
「ジン様がお探しの本は恐らく、こちらでしょう」
「この本は一体……?」
「これは冥界の魔物が記された図鑑です」
「冥界……そんなものがあるのか?」
「私には分かりません。話によれば、昔、冥界に向かった人が記録を残したものだそうです」
「別世界に行った……?」
「それも信じられませんが、伝承ではそのように伝えられています」
女性は慎重に本を持ち上げ、両手でジンの前に差し出した。
「どうぞ、お受け取りください」
「ありがとう。しかし、本当に俺でいいのか? 禁止されていたんだろう?」
「大丈夫です。それに、私は本は必要な時に、必要な人が持っておくべきものだと考えています」
「そうか……ありがとう。もし何か処分を受けることがあれば、私の名前を出してくれ。私が責任を負う」
「そんな、滅相もない……」
女性は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに畏まり、深く頭を下げた。
彼女は再び壁に手を添え、魔法陣を光らせると、壁を元の位置へと戻す。
ジンに軽く会釈をすると、そのまま静かに去っていった。
「……あ、名前を聞きそびれたか」
ジンは執務室を出て、周囲を見回したが、すでに彼女の姿はどこにもなかった。
仕方なく、本を抱えて図書室の窓際にある机へと向かう。
分厚い本を机の上に置き、ジンは慎重にページをめくり始めた。
一枚、一枚、古びた紙の感触を確かめながら読み進める。
数十分が経ち、ページの終盤に差しかかったところで、ジンの手が止まった。
「マッドルゴス……」
そこに記されていたのは、現場に残されていた黒いゼラチン状の物体と酷似した魔物だった。
さらに読み込んでいくうちに、ジンの口から思わず声が漏れる。
「この魔物……」
その瞬間、地鳴りが響いた。
大きな衝撃音とともに爆発の音が城内に反響する。
ジンは反射的に窓際へ駆け寄り、二階の窓から外を見下ろした。
視界の先、城下町の上空には、多くの鳥が驚いて飛び立ち、家々から黒煙が立ち上っている。
「何事だ……?」
ジンは本を抱えたまま、急いで図書室を飛び出した。
廊下では、兵たちが慌ただしく駆け回っていた。
ジンはその混乱の中をすり抜け、一直線に大広間へと向かう。
一、二分後、大広間の入口にたどり着いた。
そこには、先ほど図書室に向かう途中で出会ったクライ・ドメッサーが、静かに立っていた。
「クライ、急務だ」
「どうしたジン? そんなに慌てて」
「城下町で大きな爆発があった」
「爆発だと? それは緊急事態だな……」
クライは驚きながらも即座に反応し、大広間の扉を押し開けた。
「どうした、ジン」
大広間の奥、大きなステンドグラスの前に立ち、外を眺めていたレイオウが静かに口を開いた。
背を向けていながらも、ジンが来たことを悟っているようだった。
「城下町で大きな爆発が先ほどありました」
「ああ、私にも窓から音が聞こえた」
「前回の騒動から時間が経っていません。レイオウ様は安全な場所に退避を」
「お前たちを見捨てて、私だけ抜け駆けするようでは、王に相応しくない」
「しかし、レイオウ様が失われては、我々だけでなく、多くの国民も悲しみに沈みます」
しばしの沈黙が流れた。
レイオウは微かに息を吐くと、背を向けたまま口を開く。
「……分かった。退避しよう」
その言葉に、クライが一歩前へ出て提案する。
「ジン、あんたは現場に向かった方がいい。レイオウ様は俺が守る」
「クライ、あんたは強いのか?」
「俺も大広間の守護を任される一人だ。腕なら保証する」
「……分かった。レイオウ様を頼む」
「あいよ」
ジンは二人と相槌を交わすと、そのまま大広間を飛び出していった。
レイオウとクライもまた、歩を進めながら移動を開始する。
途中、レイオウはクライの片腕に巻かれた包帯に目を留めた。
「その包帯はどうした?」
「これはここに来る前に、犬に引っかかれまして」
「そうか。それは気の毒だったな」
「お気遣いありがとうございます」
レイオウは小さく頷くと、少し歩を速めた。
「クライ。今から安全に移動するため、秘密のルートに向かう」
「秘密……ですか?」
「まだ誰も知らない通路だ」
「分かりました。そこまでお守りいたします」
二人はさらに足を速めた。
一方、すでに城を抜け出し、馬で街を駆けるジンは、爆発音から逃げ惑う人々を避けながら進んでいた。
黒煙の上がる方向を目指し、馬の速度を上げる。
向かい風が肌を打ちつけるが、ジンは迷うことなく突き進んだ。
「何が……一体何が起きようとしているんだ……」
ジンはざわつく心を落ち着かせるように、腰の剣の柄に手を当てた。
黒煙の近くまで来たところで、再び大きな地鳴りと爆発が響く。
次の瞬間、凄まじい風圧がジンと逃げ惑う人々を襲った。
砂埃と破片を巻き込んだ暴風が通りを吹き荒れ、視界が一瞬で白く染まる。
「ぐっ……!」
ジンは片腕で顔を覆い、身体を低くして耐える。
風が静まり、徐々に視界が戻ってくると、街並みの面影は完全に失われていた。
砕けた窓ガラス、割れた陶器、転がる食材――すべてが無残に散乱している。
瓦礫の山に目を向けるジン。
その時、重く低い声が城下町全体に響き渡った。
「ヴオオーー……」
「この声は……なんだ?」
直後、地面が大きく揺れた。まるで地震のように地面が上下に波打つ。
ジンは嫌な予感に駆られる。そして、その予想は皮肉にも的中した。
百メートル先の曲がり角から、巨大な影がゆっくりと姿を現す。
まず見えたのは――大木のように太く、くすんだ紫色の巨大な「棒」。
それはまるで引っ掻き棒のような形状をしており、先端が鋭く尖っていた。
その足が固い地面を容易く砕く。
「あれは……魔物なのか……?」
「ヴオオーー……」
低く唸る声とともに、二本目の足が現れる。
その足が建物を粉砕すると、ついに胴体と頭部が姿を見せた。
全身の構造は巨大な蜘蛛のようだった。
だが、その頭部は人間の巨大な頭蓋骨で形成されていた。
建物の二十階に匹敵するほどの巨大な頭蓋骨。
その目の窪みは深い闇に包まれ、覗き込めば吸い込まれそうな不気味さを放っている。
「……デカすぎる」
あまりのスケールの違いに、ジンは思わず動きを止めてしまう。
「おい、ジン! 何止まってる! ーー行くぞ!」
鋭い男の声が飛んだ。
振り向くと、前回の調査で馬を貸してくれたレオン・クラウスがいた。
「ボケっとしてたら、街が終わるぞ!」
「……すまない。その通りだ」
ジンは息を整え、剣の柄を握り直した。
レオンと共に、手綱を引き、馬を走らせながら巨大な蜘蛛へと接近する。
その動きに気づいたのか、蜘蛛はゆっくりとこちらへ向きを変えた。
前方の片足を内側に引き込み、引っ掻き棒の先端に漆黒の光を集めていく。
「……ここで何をする気だ?」
不吉な予兆に、ジンは鋭く目を細める。
「レオン、来るぞ! 避けろ!」
「ヴオオーー!」
巨大な蜘蛛は足を大きく振り抜いた。
瞬間、漆黒の刃が飛び出す。
空間そのものを裂くような破壊音が響き、建物、地面、あらゆる物体が一刀両断される。
一直線に進んだ刃は、城下町の一角を切り裂き、無数の瓦礫を宙へと舞い上げた。