第二話、誇り(改稿)
レイオウが窓から城下町を眺める昼下がり。
陽光が穏やかに降り注ぎ、石畳の道を行き交う人々の笑顔が輝いていた。市場には活気が満ち、果物や布地を売る商人たちの声が飛び交う。焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂い、通りを歩く者の足取りは軽やかだった。
そんな賑やかな城下町を、二人のサントリア兵がゆっくりと巡回していた。
「なあ、ジン。聞いてるか」
「フレックス……聞いてます」
少し面倒そうな表情を浮かべるジンという名の若い兵士。彼のショートカットの白髪が陽に照らされ、淡く輝く。
隣を歩くのは赤髪ソフトモヒカンのフレックス。ジンより数年年上の先輩兵士で、どこか飄々とした雰囲気を持つ。
二人は城壁沿いの道を抜け、広場へと歩を進める。石畳を踏む足音に混じって、楽師の奏でる軽やかな旋律が流れてきた。
城の外は平和そのもので、巡回する兵士たちもどこか緩やかな空気に包まれていた。
「お前の年齢で、レイオウ様の側近且つ出産立会いって凄いよな」
「私はまだ二十一の身でまだまだ弱いです。安心出来るからでしょう」
「貧弱な訳ないだろ。お前の腕は国内一番二番の腕だぞ」
「結果はそうですが。というか、何でそんなに嬉しそうなんですか」
ジンはレイオウの双子出産に立ち会い、花火鑑賞までした優秀な兵士だった。
フレックスはそんな後輩のジンを育てる先輩として誇り高く思い、その喜びが隠しきれず顔に滲み出ていた。
無邪気な笑みを浮かべながら、左手の人差し指で鼻下を擦り、理由を返した。
「へへ、当たり前だろうが。俺は独り身だけど、子供が立派になった時の親の嬉しさが今なら分かる気がするんだよ」
「貴方は私の親ではありませんけどーー」
「そう言うなって。お前は子供の時からずっと一人だったが、俺よりずっと立派になった。小さい時から一緒に暮らした俺にとって、兵の後輩である前に、大事な家族でもある」
「いつも変なことを言っている人が、珍しく立派なことを……」
ジンの突っ込みにフレックスは少し腹を立てたが、ジンの髪を片手で掻き乱しただけで済ませた。
「だからな……ジン」
「何ですか、改まって」
「俺とお前は家族だ。お前が困れば、俺が必ず助ける」
「先輩がですか。先輩こそ自分の身を守ってください」
「……」
フレックスは返事をしなかった。
ジンは怒らせたかと考えながら、フレックスの顔を覗き込んだ。
しかし、フレックスの心が読み取れなかった。その理由としては、フレックスの眼差しは前方の一点を注視したまま動かず、口を閉じていたからだ。
その表情はまさに無機質で、何かを深く考え込んでいるようだった。
ジンは静かにフレックスとは反対側にある露店に視線を移した。
露店では、商売人が果物やパンを棚に陳列させ、街を行き交う人々を大きな声で呼び込んでいた。新鮮な果物の甘い香りが通路一帯に広がり、人々を誘っているようだった。
鮮やかな果物の色が通りに映え、活気ある市場の空気を一層賑やかにしている。
ジンが露店を見ている後ろで、フレックスが小さな声で一言発した。
「ジン、何が有っても死ぬなよ」
その言葉は静かに、しかし確かにジンの耳に届いた。
フレックスの声には、どこか普段の軽妙さとは違う、硬質な響きがあった。
ジンは即座に返答しようとしたが、口を開きかけた瞬間、何かが喉の奥に詰まるような感覚に襲われた。
軽々しく応じていい言葉ではない、と本能が告げていた。
言葉の裏に潜む何かーーそれが気になった。
二人の間を、城下町の喧騒が流れていく。
陽の光が石畳を淡く照らし、露店の庇に吊るされた布が、風に揺れてはばたくようにひるがえる。
果物屋の店主が客を引き寄せるように声を張り上げ、近くのパン屋からは焼き立ての香ばしい匂いが漂っていた。
そんな中、ジンはフレックスをちらりと見た。
フレックスは前方をじっと見つめたまま、まるでそこに何かがあるかのような眼差しをしていた。
その横顔に、普段の飄々《ひょうひょう》とした様子はない。
ジンが問いを発する前に、フレックスが無言で露店に歩み寄った。
彼はさっとりんごを二つ買い、一つをジンに放った。
「ありがとう」
ジンは礼を言い、無造作に受け取ったりんごに歯を立てる。シャクッという軽快な音とともに、みずみずしい甘さが口いっぱいに広がった。
いつもと変わらない日常の光景。
だが、フレックスの言葉の余韻が胸に引っ掛かる。
何かが変わろうとしている。
そう直感しながらも、ジンはただ、りんごを静かにかじった。
これを機に、しばらくすると、二人はいつもの雑談に戻り、巡回を終えて城門前に到着した。
城門前の広場には、行き交う馬車と商人、衛兵たちの声が入り混じる。城壁の白い石造りは、昼の陽射しを反射し、まばゆい光を放っていた。門の装飾は重厚な金の細工が施されており、その荘厳さは王都の威厳を象徴していた。
「よし、今日はこれで終わりだな。ジン」
「お疲れさまでした」
「冷めてんなあ。まあ、お前の仕事はこれからレイオウ様の護衛で休み無しだからな。体には気を付けて頑張れよ」
「ご心配、どうも」
フレックスは軽く笑いながら、城門前に立つジンに背を向けた。手を片方だけ挙げ、歩きながら振る。
その背中が、なぜか妙に遠ざかっていくように見えた。
ジンはふと胸の内に鈍い違和感を覚えた。何かが引っかかる。だが、それが何なのかは分からない。
フレックスは、いつも通りのように見えて、どこか違った。普段なら、最後にもう一言、軽口を叩いていくのに、今日は妙に静かだ。
ジンは、彼の後ろ姿を見送った後、門の前で警備をしている兵に軽く会釈し、城内へと足を踏み入れた。城の中は、外とは違い、ひんやりとした空気が漂っていた。大理石の床に映る灯りが柔らかく揺れ、荘厳な静寂を演出している。
だが、ジンの心は静寂とはほど遠かった。
何かが引っかかる。
フレックスの何気ない一言、何気ない仕草、何気ない視線の動き……すべてが、まるで最後の別れのように思えてならなかった。
「いや、気のせいだ……」
そう自分に言い聞かせながら、ジンは王室前の警備に向かう。
「仕事が終わって休めば、多少なりとも気も休まるか……」
だが、その違和感が拭い去れないまま、彼は王室の前に立つことになるのだった。
時同じく、フレックスは城門を抜け、石畳の道を歩いていた。
甲冑を脱ぎ、動きやすい布に袖を通すと、肩の力が自然と抜ける。普段通りの帰路のはずなのに、なぜか足元が少し重い。
ポケットに手を突っ込み、指先で鍵を転がす。無意識に回し続けるその仕草が、胸の奥のざわつきを誤魔化してくれる気がした。
昼過ぎの城下町は、通りを埋め尽くすほどの人々で賑わっていた。商人の声が響き、荷馬車が軋む。
何かが、視界の隅をかすめた。
「なんだ今の……」
フレックスは足を止め、わずかに顔を上げる。
街路の影、石造りの建物の隙間に、黒いものが一瞬揺れた気がした。
人混みのざわめきに紛れ、そこだけが異質に静かだ。
ゆるりとポケットの中の鍵を握り込む。
城下町の昼間に、裏路地へ入る理由は限られる。ましてや、あの影には何かが違った。
フレックスは背筋を伸ばし、目を細める。
風が吹き抜け、路地の奥から鉄のような匂いが漂ってきた。
フレックスは音もなく一歩踏み出す。
「凄いのはジンだけじゃないんだぜ」
路地裏に進むと建物の影が深くなり、陽の光が届かなくなっていく。
「少し寒いな」
薄暗く蒼ざめた路地裏。冷え切った空気が漂い、奥の壁に映る影だけが揺れていた。
フレックスが曲がり角に近付くにつれて、音がただの物音ではなく、何かを咀嚼する音だと分かった。
足音を殺し、慎重に歩を進める。緊張が指先まで張り詰め、自然と拳が固く握られた。
角に到着した瞬間、鼻腔を強烈に刺す異臭が広がった。
鉄のような、酸化した血の匂い。それに混じるのは、何かが腐敗しかけたような、生臭い臭いだった。
「凄い臭いだーー」
フレックスは反射的に鼻を覆う。視線をそっと曲がり角の向こうへ滑らせた。そこに広がる光景は、あまりにも異常だった。
「なんだ……これ」
フレックスの目に飛び込んだのは、黒くネバネバする直径一メートルほどの巨大な黒いゼラチンだった。咀嚼音は、そのゼラチンの内部からくぐもった響きで漏れ出している。
地面には、仰向けに倒れた人間の二本足が見えた。
足元から広がる血溜まりが、じわじわと冷たい石畳の隙間へと吸い込まれていく。
どろりとした液体がゼラチンの表面を滴り、粘つく音を立てる。その異様な光景に、フレックスの喉がひとりでに締め付けられる。
「気持ち悪……」
生理的な嫌悪感が背筋を駆け上がり、胃の奥がひっくり返るような感覚に襲われる。しかし、それ以上に強いのは恐怖だった。
ーー逃げなければ。
そう思った瞬間、脚に力を入れようとする。
だが、動かない。
「体が……動かない……」
フレックスの足元から、冷たい感覚が這い上がる。喉が渇く。背中に冷たい汗がじっとりと滲む。
音を立てれば、ゼラチンが反応する。
本能が、耳元で叫んでいた。
――動けば、死ぬ。
粘ついた黒い塊が、ゆっくりとうごめく。まるで、こちらの存在に気付き、興味を示したかのように。
「このままではマズイ」
少し離れた場所で蠢く黒いゼラチンが、人間の骨を煎餅のように噛み砕く音を立て始めた。鈍い音が響くたび、フレックスの背筋に冷たいものが走る。
脳裏にジンの顔が不意に浮かぶ。だが、その映像はすぐに過去の記憶へと変わった。
まだ幼かった頃のジンが、自分の後ろを必死に追いかけていた。小さな足で、転びそうになりながらもついて来る姿。しかし、いつの間にか立場は逆転し、今度は自分がジンの背中を追っている。
どれだけ手を伸ばしても、届かないほど遠くにいるジンの後ろ姿。
「違う。ジンを育てたのはこの俺だ。この俺が、育てたんだ」
自らに言い聞かせるように、フレックスは低く呟いた。その声が、心の奥深くに沈んでいた迷いを振り払い、全身に力を漲らせる。
その一瞬の動きがゼラチンの注意を引いた。ぶるぶると震え、異様な粘着音を立てながら、ぬらりと振り向く。
振り向いた先には、無数の人間の血を浴びた黒い表面。その中心が、まるで口のように割れ、鋭く光る牙を揃えた。
生理的な嫌悪が一気に込み上げる。だが、フレックスは拳を握り、体を震わせる衝動を抑えた。
「初の魔物討伐か。初デビューを盛大に飾ろうじゃねえの」
この国では平和が長く続き、人間の犯罪者こそいても、魔物との戦闘経験を持つ兵士は極めて少ない。
上級兵は極秘任務で魔物と対峙する機会があるが、下級兵にその機会は与えられない。そもそも、魔物が発生すらしていないのだ。
フレックスは右手を前に突き出し、掌底を構える。左手を添え、僅かに体勢を低くした。
「ーー『ファイア』」
詠唱と共に、彼の掌から赤々と燃え盛る火球が生まれた。燃える魔力の塊が唸りを上げながら、ゼラチンへと飛ぶ。
ーー次の瞬間、爆ぜる炎が路地裏を照らし、ゼラチンの表面を焼き焦がした。
ゼラチンから不気味な呻き声が漏れた。炎を受けた部分が焦げ、表面が泡立つように波打っている。明らかに効いている。
しかし、その反応は単なる苦痛ではなかった。ゼラチンの動きが激しくなり、全身を震わせながら収縮と膨張を繰り返し始める。
「……嫌な予感がする」
フレックスの直感が警鐘を鳴らす。
次の瞬間、ゼラチンの表面から無数の粘性のある黒い糸が噴射された。壁や地面、周囲のあらゆるものに張り付きながら、勢いよく広がる。
「危ねっ……!」
フレックスは素早く身を翻し、飛来する糸を紙一重でかわした。だが、完全には避けきれなかった。
着地と同時に、袖の部分に違和感を覚える。見下ろすと、そこにはゼラチンの糸がべったりと付着し、服の繊維をじわじわと溶かし始めていた。
「……マジかよ」
服だけではない。皮膚に到達するまで、そう時間はかからないだろう。
フレックスは慌てて袖を引きちぎり、毒素を含む糸から距離を取るべく後退した。
もう一度詠唱の構えを取る。
しかし、フレックスが魔法を発動しようとした瞬間、ゼラチンが再び糸を噴射した。立て続けの攻撃により、詠唱の隙を完全に潰される。
フレックスはひたすら身を捻り、足を素早く動かしながら攻撃をかわし続けた。だが、動くたびに視界の端に張り巡らされた黒い糸が映り込み、逃げ場が狭まっていることに気づく。
ゼラチンが吐き出した粘性の糸が、壁や地面、周囲の瓦礫に絡みつき、まるで蜘蛛の巣のように裏路地を覆い尽くしていた。
「まずい……この臭気も、ーー時間がない」
呼吸が浅くなっていた。額に滲む汗、重くなる四肢。通常の戦闘ではありえないほどの早さで疲労が蓄積している。
フレックスは荒い息を吐きながら、充満する異臭に意識を向けた。
この臭気……ただの腐敗臭ではない。体力を奪う何らかの成分が含まれている。
「……となれば、一発で決めるしかない」
フレックスは奥歯を噛みしめ、勢いよく詠唱の構えを取った。
だが、魔力を練り始めた瞬間、ゼラチンはそれを察知したように、より激しく糸を飛ばしてくる。
「ゼラチン。何度も同じ手は食わん」
フレックスは息切れを起こしながらも、この短時間の戦闘で確実に進化していた。
無駄な動きを極限まで削ぎ落とし、最小限の動きで糸を避け、ゼラチンの間合いを一気に詰めていく。
今までの攻防で、ゼラチンの攻撃パターンはほぼ見切った。
この魔物は、相手の動きを封じるために糸を撒き散らすが、その直後は必ず一瞬だけ動きが鈍る。
そこを突けば——
「お前はここで終わらせる」
獲物の心臓を射抜くような鋭い眼光が、目の前の怪物を貫く。
ゼラチンは反射的に糸を無作為に飛ばし、周囲をさらに覆い尽くそうとするが、もはやフレックスの目にはその動きすらスローモーションのように映っていた。
一瞬の隙——そこに迷いはなかった。
フレックスは足を踏み込み、一気にゼラチンの至近距離へと到達する。
右手を突き出し、詠唱の構えを取る。だが、ゼラチンは最後まで抗った。粘ついた黒い糸を、眼前のフレックスめがけて鋭く放つ。
しかし、フレックスはそれを避けず、全力で横へと何かを振り抜いた。
「残念だったな。ーークソゼラチン」
ゼラチンの動きが凍り付く。
伸びた糸の先にあったのは、フレックスが勢いよく投げ捨てた片袖のないシャツだった。
糸を避けるのではなく、片袖の無いシャツを囮にして、攻撃を逸らしたのだ。
フレックスは汗ばむ右手を前に突き出し、詠唱の構えを取る。
全力で魔力を込め、渾身の声で叫んだ。
「ーー『ファイア』!!」
右手に生成された火球は、通常の二倍以上。直径約四十センチメートルにまで膨れ上がった燃え盛る塊が、ゼラチンに至近距離で叩き込まれた。
次の瞬間——轟音が裏路地に響き渡り、爆炎が一気に広がる。
爆発の衝撃で石畳が砕け、裏路地の壁が震え、表の通りにまで爆風が突き抜けた。
吹き飛ばされた瓦礫や衝撃波が、通行人や露店の品々を巻き込む。
「終わったか……ーー」
ゼロ距離での爆発。
吹き飛ばされたフレックスは、背中から壁へと叩きつけられ、そのまま地面へ崩れ落ちた。
意識が遠のく中、彼の視界は赤く染まる爆炎のゆらめきに包まれ——そして、闇に沈んだ。




