第964話 パンドラの希望④生命の理
砦から引っ越してきた日のことに思いを馳せる。
前世を思い出したのも、シュタイン領についてからだ。
無気力に、そして鈍感でいること。それが砦でのわたしの身の守り方だった。
けれど、砦から出て領地で暮らすのだと言われて。
毎日砦にいなくていいと思ったら、気持ちがとても軽くなった。砦はわたしの上にだけ重たい分厚い灰色の雲があるようなところ。草が生茂る砦と違う景色を見た時は、本当に違う場所に来たんだと思えた。あの子たちはここにはいないと思ったら、心が軽くなって、柄にもなく外の草むらを走っていた。そして唐突に前世のことを思い出した。
前世を思い出していなかったら、転んだことに大泣きして、もう2度と外で遊ばないと、家にこもったかもしれない。
食べ物を探しに外に出たりしなかっただろうし、それで聖域に迷い込んで、もふさまと出会うこともなかっただろう。
もふさまと会えなかったら、母さまの衰弱の原因はわからず、光魔法でも治らない病を患ったのだとあきらめ、わたしたち一家のあたたかく中心にいる太陽のような存在を失い、どうなっていたかわからない。
シナリオのイザークの口から聞かされたように、シュタイン家はひどい状態だったかもしれない。
母さまが生きていること。シュタイン家がひどい状態ではないこと。それは改編になるのだろうか? だって兄さま以外は名前がかろうじてでてくるモブのようなものだ。な、ならないよね?
リディア・シュタインがテンジモノだったり、それゆえに核の記憶を返してなかったりしたのは、わたしの意思があってしたことではない。でも、わたしが改編したことになるの?
そういう小さなことの積み重ねが、何かを大きく変えてしまった、とか?
わたしは学園に通ってないはずだし、生徒会のメンバーとも顔を合わせたこともないはず。でも今は、とても仲良しだ。
それに……それが世界の終焉を招くと言われても、わたしは母さまの解呪をあきらめきれなかったと思う。みんなとも、数々の出来事を乗り越えて絆を深めてきた。それを全部、なかった方がよかったとは思えない。
でも、ど、どうしようとは思う。
わたしが介入してシナリオを変えてしまい、世界崩壊の危機にあるなら。
で、でも罰が世界崩壊って大きすぎる気がするんだけど。
そりゃ人の生死は大きいよ。でも母さまひとり……あ。エリンとノエルも母さまが生きているから生まれてくれた妹と弟だ。シナリオではわたしが末っ子になっているから、それも違い、ではある。
ど、ど、どうしよう。わたしがしたことで、世界の崩壊を招いてしまったんだとしたら。
『リディア!』
もふさまの差し迫った声。
い、息がしにくい。と思いながらも目を開けると、メリヤス先生がわたしに覆いかぶさろうとし、保健室の〝物〟が飛び回っていた。
それに驚いた時には、もふさまと緑の木漏れ日の空間にいた。
『ご機嫌よう、リディア・シュタイン』
「……お久しぶりです、聖樹さま」
もふさまも頭を下げている。
『なぜ、呼ばれたかわかるか?』
胸が激しく痛い。保健室の中、物が飛び回っていた。
覚えがある。あれは……。
「魔力が暴走しそうになっていたんですね? ありがとうございます」
もふさまがわたしの前に回り込む。
『どうしたのだ、リディア?』
「わ、わたしのしたことが巡り巡って、シナリオを改編したことになり、世界の終焉っていうのがその罰だったらどうしようって思ったら……」
『どういうことだ?』
わたしはもふさまに説明する。
アイリス嬢に見せてもらったシアター。本物の乙女ゲーのシナリオ。
それは大きく変わっている。
もふさまのリュックからもふもふ軍団も出てきて、揃ってわたしを見上げている。考えたことも順を追って話すうちに、自分がどうしてそんな思考にいきついたのかもわかってきた。
わたしのどうしようと思っていることは2つ。
ひとつはわたしのしたことが巡り巡って〝改編〟となり、わたしだけでなくこの世界ごと終焉という〝罰〟を受けているかもしれないこと。
もうひとつは、〝改編〟したとされ、ご破算となること。
目から熱いものが溢れだす。
『リディア、しっかりしろ!』
叱責に身体がびくっとなる。
『リディアは母君が助からない方がよかったのか?』
わたしは激しく首を横に振った。
『それならリディアが揺れてどうする? 〝改編〟だとかで一番辛い思いをするのは誰だ?』
あ…………。そうだ。これは母さまに絶対知られてはいけない。エリンとノエルに知られてはいけない。
わたしは涙を拭いた。拭いたのに、止めたいのに、止まらない。しっかりしなくちゃと思ってる。揺れてる場合じゃないと思ってる。母さまたちに絶対隠すと思ってる。でも……溢れてくる。
『リディアよ。我は聖なる方より使命を与えられた時、喜び誇らしかった。我は森の守護者。生き物すべてが我の〝森〟に存在するものとなる。森が永遠に在るよう見護る定め。生き物の中で一番厄介なのが人族だ。ひとりひとりはとてもひ弱で、獣に勝る身体能力もない。それでも人族は知恵を使い、足りないところを補い合い、栄えている。個体自体は弱いのに、一番繁殖している。
最初は呆れた。貪欲で、ずる賢く、森を荒らす。
我ら獣は強さが全て。勝てば生き残るし、負ければ屍になるだけ。人族は違うと思ってきた。けれど思い直した。人族は種族をかけて勝ってきたのだと。自分が倒れようとも思いを願いを、祈りを、後のものたちに託す。そうして一番栄えているのは人族たちだ。人族は弱くない。強いのだと。
その強さの源、我は生きたいと思う力だと思う。
獣より、魔物より、人族は生きて繋げることに長けている。
生きることに一生懸命だ。我はそれに気づいた時に、人族も世界の歯車なのだと思った』
もふさまはそこまで一気に言った。それから優しい声になる。
『我は生きようとする思いが好きだ。なりふり構わず生きるために顔を上げていく人族が好きだ。
だからリディア、生きることをためらうな。それがなんであってもだ。命在るもの、生きたい、生きていてくれと思うのが当然なのだから』
森の守護者がくれた言葉。生きることをためらうな。
そうだ。わたし、大切な人の命がつきようとしていて、わたしに何かできることがあるなら、きっといつでも何度でも同じことをするだろう。
母さまが生きていることは感謝しかない。エリンとノエルが生まれてくれたことも。
「も、もふさま、ありがとう。わたし……生きることをためらわない」
泣き声の宣言になった。




