第516話 騙されて
「ただいま」
「お嬢さま、おかえりなさいませ」
ドアを開けたアルノルトが、鞄を持ってくれた。
わたしは毎日、王都の家から学園に通っている。その時の馬車の馭者は、執事見習いのデルだ。
数日、固形物が食べられなくて、わたしは追い詰められていた。
飲み物ならなんとか取れるのだから、悲壮に考えることもなく、栄養たっぷりのスープとかをいただけば良かったのだ。
ただそれだけのことを思いつけないほど疲弊していたようで、砂糖水とか蜜水だけを飲んでいた。
そのまま誰にも何も言えず、どうしようどうしようと身体が辛くなっていって……。
アダムが兄さまに、わたしの様子がおかしいと、伝達魔法で知らせてくれたらしい。
わたしは兄さまにより、保健室へと連れていかれた。
メリヤス先生はわたしを診察しすぐに、食事を取ってないのではないかと尋ねた。
わたしは数日前に嘔吐してから、固形物を食べようとすると吐き気がして食べることができなかったと打ち明けた。
いろいろお話しした結果、飲み物を飲めるなら、スープで栄養を取れるから何も心配いらないと言われて、ものすごく気持ちが軽くなったのを覚えている。
どこかを悪くしている病気ではなく、あまりに苦しかった経験から、また食べ物を口にしたら同じことが起こるのではないかという思いの〝無意識〟に乗っ取られているらしい。ゆえに、未だ固形物を食べられずにいる。
で、まあ、家にも連絡が行き、学園は全寮制なのだけど、わたしはしばらくの間、食事も違うものとなるし、療養と同じ扱いで家から通うことを許された。
母さまが毎日、領地の町外れの家で、栄養いっぱいのスープを作っては、夜にルームを通って、届けに来てくれる。
液状になっているので、何が入っているかはわからない。味はわかるのだが、楽しむような余裕はない。そのスープもお皿に入れてスプーンで飲むことはできない。わたしの中でスプーンでいただくのは〝食事〟の域なんだろう。今はまだコップで時間をかけて飲むだけだ。
固形物ではあるけれど、大好きなチョコレートの欠片でさえ、見ているだけで吐き気がし、食べられないのは自分でもショックだ。
わたしの活力の源はご飯だったんだなーとつくづく思う。
食べたいものがないって、他の望みやアイデアも出ないことなんだと知った。
年末の試験勉強だって、魔法戦だって、ペネロペとのことも、ペリーのことも、その他考えることは目白押しのはずなのに、少しもやろうという気が起きなかった。したいことも、欲しいものもない。
手を洗ったりなんだりして、母さまがくる前に一眠りするかと、階段を登ろうとした背中に声がかかる。
「お嬢さま、お客さまです」
「お客さま?」
「第二王子殿下がお忍びで」
「ロサが? え、兄さまたちいないのに?」
「お嬢さまのお見舞いです」
わたしは頷く。
そういえば、あのお茶会からロサとは会ってなかった。
アルノルトのあとをついて、客間へ入る。
ロサが微笑んだ。
カーテシーをする。
もふさまは先に入っていき、わたしが座るソファーの足元に前もって座る。
もふもふ軍団は、わたしが学園に行ってる間、彼らにしかできないことを頼んでいるため、今はいない。
最初はもふさまがご飯はいらないと言ったのだ。もともと聖獣はお水だけで暮らすものみたいだしね。そうしたらもふもふ軍団まで、わたしが食べられるようになるまで、同じく食べないと言い出した。いや、あなたたちは魔物だから食べないとダメでしょ。慌てて、お願いごとをして、その報酬としてご飯を出し、食べてもらっている。お願いごとも近い将来本当に必要となるはずなので、いい案だと思った。
「お礼が遅くなりました。あの日は……助かりました」
「いや、あんな目に合わせて申し訳ない」
ふたりして謝り合い、これで謝るのは最後にしようとなんとなく笑い合った時に、ノックと共にお茶が運ばれてきた。
「今日、私が訪ねたのは、ご馳走しようかと思ってね」
あ。わたしは下唇をかみしめた。
「あ、といっても簡単な飲み物なんだ」
飲み物?
「不躾で悪いけれど、調理場を貸してもらえないだろうか?」
え?
「調理場?」
「少し、火を使わせてもらいたいんだ」
入れ方の難しいお茶なのかしら?
わたしはアルノルトにアイコンタクトをとる。
アルノルトはロサを調理場に案内すると言った。
わたしももふさまと、ロサの後ろをついていく。
ロサが侍従さんが差し出した袋から、いくつかのものを出した。果物と野菜だと思うけど、それは丸ごとだった。
そして危なげな手つきでナイフを使い出す。
「え、ロサ、わたし、切ろうか?」
思わず声をかけたが
「それじゃぁ、私が作ったことにならないじゃないか」
と笑う。
って言ったって、指を切るんじゃないかとヒヤヒヤしてしまう。
でもドキドキ具合と言ったら、それを見ているアルノルトたちの方が比ではないだろう。侍従さんも、ついてきた護衛さんも顔を引きつらせている。
切ったものをお鍋に入れて、ジュースで煮るの??
それ、大丈夫なの?
本当に飲めるもの?????
ジューサーの魔具を見つけ出し、セットしている。
あの土色のどろっとした何か、ひょっとしなくてもわたしが飲むんでしょうか?
「ロサは料理というか、よくこれを作るの?」
「いいや、作るのは3回目だ」
ロサはアルノルトが差し出したカップにその液体を入れた。
「リディア嬢、これはすっごく栄養があるんだ。騙されて飲んでみて」
ロサがにっこり笑う。
騙されたと思って飲んでならわかるけど、騙されて飲んでって……それは〝騙され前提〟なの?
「あ、その前に」
ロサはわたしに手を差し出す。
ん?
手をと合図され、わたしはロサの手に手を乗せる。
ロサはわたしの手ごと、わたしの口へと導いた。
ロサの指先が口に触れる。
「な、なに?」
「ん、私の手は嫌われなかったようだ」
謎発言をする。
そしてわたしの手をといてカップを差し出してくる。
もふさまが鼻を鳴らした。
手渡されたカップの中を覗き込む。
なんか……お腹を壊しそうな色なんですけど。
ロサはわたしが飲むのを期待した目で見ている。
アルノルトは心配そうにわたしを見ていて、侍従さんも護衛さんも、顔を引きつらせたままだった。
もふさまが犬のように「クゥーーン」と心配そうに鳴く。
「ほら、グッと飲んで」
ああ、これは飲まないとダメな流れ……。
わたしはカップに口をつけ、ギュッと目をつむる。
こんな勧めるぐらいだから、実はおいしいのかもしれない。
カップをあおって、ドロッとした液体が口の中に……。
「すっごい、まずいだろ?」
得意そうに言うな!
苦くて、酸っぱくて、甘くなくて、いろんな味が揃っているのに、おいしさだけがない!
わたしは咳き込む。
はぁーはぁーと息を整えていると、口の中に小さな塊を入れられた。
あまっ。
ねっとりした甘ーいチョコレート!
うっ、うっ、なんて甘くておいしいんだ!
あまりのおいしさに涙が出る。
っていうか、それくらいロサの飲み物がまずかった!
「ほら、もうひとつ」
ロサがわたしの口の中にもう一粒チョコレートを入れた。
今度はキャラメルみたいのが入ってるやつだ。
奥歯に染みる甘さ!
「君はもう、大丈夫だよ」
ロサが優しくそう言った。
え? 大丈夫? 何が?
横のアルノルトが、目頭を押さえている。
『リディア! 食べられたな』
え、あ。わたし、チョコレートを食べた。
チョコレートを食べられた!




