第488話 兄の線引き
『リディア、アランだ』
「アラ兄?」
ジェイお兄さんとチャド・リームと別れ、踵を返したところだ。
キョロキョロして、アラ兄を見つけた。
「アラ兄!」
手をあげて駆け寄れば、アラ兄は切羽詰まったような顔をしている。
「アラ兄、どうしたの? 何かあった?」
「何かあった? じゃないよ。純潔じゃないってどういうこと?」
えっ。何でアラ兄がそんなこと、あ、狐か! あのバカ狐が余計なことを言ったのか。
「相手は兄さま、だよね?」
「あ、アラ兄。兄さまというか、話を聞いて。あのね」
アラ兄が踵を返す。
え?
そして走り出した。
は?
「アラ兄、待って!」
どこ行くの?
追いかけたが、運動神経のいい兄に追いつけるはずはなく、差は開く一方だ。
あ、兄さま。
前から兄さまが来た。
その兄さまをアラ兄が殴った!
ええっ?
ちょっと、えええっ?
「も、もふさま、ふたりを止めて!」
もふさまはわたしを振り返ってから、シュタッと駆け出して、兄さまに馬乗りになっているアラ兄の襟を持って、仲裁に入ってくれた。
やっと近くまでたどり着いたが息が上がってしまい、話せない。
ひえーー、兄さまの口横から血が出てる。
「アラン、どういうことだ? 説明してくれ」
兄さまが息を切らしながら尋ねる。
血を袖口で拭っている。
「兄さまが、節操ないとは思わなかった」
兄さまが驚きながら、眉を寄せている。
「兄さまはリーを大切にしてくれると思ったのに!」
誤解、誤解なのって言いたいけど、息を吸ったら咳き込んだ。
「何の話だ?」
「リーは伯爵令嬢だ! 伯爵家の娘が結婚前に純潔じゃなかったら、貴族社会でどれだけ後ろ指をさされるか!」
さ、最悪な形で兄さまに伝わった!
言いにくいのと、報告するなら最初に兄さまにするべきと頭の片隅にあったから。
「結婚前に純潔じゃない?」
ますます眉を顰める兄さま。
「リディー、アランは何を言ってるのかな?」
に、兄さまが怖い。怖いオーラが出ている。
見えるところに人はいない。
でも、待って、狐に聞かれたら、元の木阿弥。
わたしはハイハイしたそのまま、兄さまのそばに行き、手で口を塞ぐ。
「せ、説明するから、ふたりとも、今、から、ひとことも、話さないで」
池のほとりに移動する。
中庭よりこちらの方が人の来る率が低いからだ。
ふたりはすっごく悪い雰囲気だ。
アラ兄は兄さまに、兄さまはわたしに対して黒い何かを出している。
「もふさま、近くに狐いない?」
『狐はいないが、生徒が我の目には見えるぐらいの距離にはいるぞ』
わたしは路傍の石を発動させた。
そして、レオに結界を張ってもらう。盗聴防止の魔具は……つけっぱなしだった。
わたしはまず謝った。
それから、光魔法はさすがに学園で使うとバレるので、怪我を治せないことも謝った。
「どういうこと? リディーの純潔がどうこうってのは?」
兄さまに、肩をガシッと掴まれる。指が食い込んで痛い。
「あー、だからね」
わたしは説明した。バカ狐が誤解してきたのだと。純潔でなければ女王にはなれないっぽかったので、その方が都合がいいから、誤解を解かなかったのだと。
「え?」
アラ兄がわたしを見て、兄さまを見て、顔を青くする。
「に、兄さま、ご、ごめんなさい。オレを殴って!」
「アランに節操がないと思われていたなんて、衝撃だったよ」
「ご、ごめんなさい」
アラ兄が頭を下げて、顔を上げられないでいる。
「ふたりとも、本当にごめんなさい。このことは父さまに報告済みで、その報告をするのに、魔具を借りに行ったの。時間が門限ギリギリだったり、わたしもパニクっていたから」
「もう、いいよ、アラン。話はわかったよ、リディー。けれど、どうして、そのバカ狐は最初に誤解してきたの?」
え。
「そ、それは……」
「それは?」
「ガネット先輩と話している時に……」
「元寮長の先輩と話している時に?」
「バカ狐がやってきて、ふたりで話したいのに、全然行ってくれなくて」
「行ってくれなくて?」
「女の子同士の、男性には聞かれたくない話なんだとまで言ったんだけど」
「それで?」
くーーーーーーっ。
わたしは顔をあげた。
「遠回しに言ってもダメそうだから、言ってやったの。婚約者に求められた場合の心構えを、先輩に相談してたんだって!」
ぶちまけると、兄さまの顔がボンと赤くなる。
聞いていたアラ兄も真っ赤だ。
一瞬の間をおいて、兄さまが吹き出した。
アラ兄も笑い出した。
「な、何よ……」
「バカ狐にそんな誤解をさせるような、元の話は何だって思ったんだけど、リディーは予想外すぎるよ」
「でも、何? 本当にそんなことを相談してたの? そんなことがありそうだったの?」
アラ兄に尋ねられ、今度はわたしが赤面だ。
「だから、そんなんじゃなくて。ショッキングな話なら狐が引くと思ったの!」
「でも、リーは突飛なことをすぐに思いつく子じゃないよね? そこまでとは言わなくても、連想させるような何かはあったってことだね?」
アラ兄が疑惑の目を兄さまに向ける。
兄さまは両手を上げて、ホールドアップした。
「リディーのお兄さま、私はリディーを心から大切にすることだけは誓うよ」
「リーは伯爵令嬢だ。貴族の娘ってことも忘れないで! リーも、なんでも許しちゃダメだよ。結婚するまでは清くね。もふさま、アオ、レオ、アリ、クイ、ベア、ちゃんと見張っててね」
アラ兄はそう言い捨てて、たったか行ってしまった。
『何を見張るの?』
『ふたりが交尾しないようにだよ』
『フランツとリーが交尾するの?』
『いずれ、ね』
「いずれなんでちか?」
アオ以外、みんなの声が兄さまに聞こえなくて良かったと本気で思った。
「アランが保守派だったのは想定外だ」
兄さまが呟く。
「困ったね、君のお兄さんは結婚前は許してくれないみたいだ。私は婚約しているんだから、もう、いつでもいいと思うんだけど。リディーはどう思う?」
ええっ?
「それは……」
「それは?」
兄さまは笑い出した。
「ごめん。アランがかっこよくて、ふたりの絆が羨ましかったから意地悪しただけ。ねー、リディー。私は寛大でありたいけど、秘密は作らないでね」
兄さまが色っぽく笑った。
「うん、もちろん」
と言いつつ、どこからが〝秘密〟になるんだろうと、わたしは思っていた。




