第373話 シアター②悠久の記憶
目の前にアイリス嬢がいる。わたしの目の前のカップの氷は溶けていない。
「い、今のは?」
もふさまが耳をピクッとさせて、片目だけ開けてわたしを見上げた。
「観ていただけたようですね。リディアさまがぼーっとされてから3分も経っておりませんわ。でも、とても濃い物語ではありませんでしたか?」
アイリス嬢はにこりと笑った。
どういうこと?
アイリス嬢は冷たい紅茶をひと口飲んだ。
「あたしのギフトは、世界に存在するあらゆる物語を読むことができる力、〝アカシックレコード・リーディング〟」
アカシックレコードっていったらあれじゃん。世界のあらゆる記憶、未来も記憶されているっていう。
「世界の悠久の記憶をアカシックレコードと呼んでいます。あたしはそれを読むことができるのです」
ごくっとわたしの喉が鳴る。
「ギフトを手にしたのは5歳のとき。まだ文字は読めませんでした。読むことができなくて残念に思うと、物語の映像があたしに流れ込んできたのです」
ああ、それがさっきの映像だ。主人公の中に入って自分に起きたことのように感じられる、体験型シアターみたいな。
「世界に存在する物語……」
あまりの重たいギフトに爪を噛んでいた。
アイリス嬢は頷いた。
「わたしが観たのは、アイリスさまの過去と未来ですか?」
「いいえ。そうなっていたかもしれない、過去と未来です」
そうなっていたかもしれない、過去と未来?
「未来は枝分かれが激しく、どれに行き着くかはわからないということだと思います。いいえ、もしかしたら、存在していると思っている今のあたしも、こうしてリディアさまと今考え、今話していると思うことさえ、世界の記憶で、物語なのかもしれません」
胡蝶の夢……現実の儚さを、そう表した人がいたな。
世界の記憶する物語をいくつも読めたら、自分の存在が曖昧に思えるかも。
「アイリスさまは……世界が記憶する、あらゆる未来を読むことができるのですね?」
「いいえ、未来に関しては、あたしが関係することだけしか読めないようです」
どこかほっとしているわたしがいた。
だって他人事ながら、そんな能力をひとりで背負うには途方もなく重たいと思えたから。
「あたしは自分の未来をいっぱいみました。リディアさまに観ていただいたのは幸せな未来のものです。小さい頃はそういったものばかり見てました。先程のはあたしが1番最初に観たものです。
……実際はそんなことありませんけど、ロサ殿下がとろけるような笑顔で笑いかけてくださって。あ、勘違いしないでくださいね。あたしはロサ殿下が、好きなわけじゃありません。でも、客観的にみて、殿下はカッコ良くて素敵じゃないですか! そんな人があたしにだけ笑ってくれて、助けてくれて、愛を語ってくれるんです! み、観ちゃうでしょう?」
率直だね。うん、その心理はわかる気がするよ。
「それが、お相手がロサ殿下、ダニエルさま(宰相子息)、ブライさま(騎士団長子息)、イザークさま(魔法士長子息)、ルシオさま(神官長子息)と、それぞれにあるのです」
頬をうっすら赤く染めて、恥ずかしがって目を閉じている。
イケメンたちの豪華ラインナップだ。
「皆さまとの、その……恋物語ですの?」
尋ねるとアイリス嬢は頷いた。そして両手で顔を覆う。
「あの素晴らしく整った顔で、あたしに笑いかけ愛を語ってくださるんですわ!」
そりゃ本で物語として読むより、映画みたいに見せられたらインパクトは大だね。なんなら、それを見て惚れるもあるだろう。
アイリス嬢が静かにため息をつく。
「でも、全部、夢物語でした。入園して5人のお方とあたしは接点がありません。でも問題ありませんでした。だって、あたしには好きな人がいたから」
わたしをみつめる。
「このお気に入りの〝あたしがひたすら愛されて全てがうまくいく物語〟は、小さい頃読んで〝記憶〟しておいたものです。というか、一度観たものはその履歴が残るので。そのうち……新たにあたしの未来の物語をみようとすると様子が変わってきました。〝桃色の髪の聖女が現れた〟と噂がたった頃でしょうか? それからみるあたしの未来は〝聖女候補〟になり、早い段階で〝聖女〟になるようになりました。聖女になりますが、……けれど瘴気を閉じ込めておけなくて、瘴気が暴走し……世界の7分の6の地を失うことになるのです。動物も植物も弱いものから消えていき、人も含め7分の1に。生き残ることができるのは、ほんのわずか」
!
「いろいろな聖女への目覚め方があり、そして授かる力も万別です。けれどどれも結末は一緒。あたしは聖女として世界を救うことができないんです!」
その悲痛な叫びは、胸を抉ってくる。
「……でも、その未来も、不確かですよね?」
アイリス嬢は瞳の端にたまった涙を、指で拭き取る。
「気づいたことがあります。その未来が変わっていく〝きっかけ〟が全てリディアさまでした」
な、何をいうんだ。
「リディアさまの行動で、リディアさまが何かしたことにより、未来の分岐が変わっていくのです。だから思いました。あたしは聖女じゃない。聖女になるべきは、運命を変えていくリディアさまだと」
「ひ、飛躍しすぎかと……」
「あたし、本当にいろいろな未来を見たのですわ。そのどの未来もあたしは救うことができない! あたしは聖女になんか、なっちゃいけないんです!」
それはアイリス嬢の心からの叫びだった。
彼女は聖女になる未来と向き合っての拒絶だったんだ。わたしみたいに大変そうとか面倒くさそうとかそう思って、誰かがなるべきって押しつけようとしていたんじゃなくて、世界を救える聖女には届かないから、それができる〝誰か〟を求めたんだ。そして世界を救えない憂いごとがなければ、聖女の役割を受け入れられる娘なんだ。
だとしたら。それなのにどんな未来でも、世界を救えないとまざまざと見せつけられたら?
「……そんな映像を見て、辛かったですね」
未来と思えるものを見て、いつもどうやっても絶望的な未来しか見えなかったら、それはとても辛い。
アイリス嬢の瞳から、ハラハラときれいな滴が落ちた。
彼女が落ち着くのを、静かに待った。
やがて氷が静かに溶けた時、わたしは言った。
「でもアイリスさま、聖女はやはりアイリスさまがなるのだと思います」
アイリス嬢の顔が歪む。
「わたしは身体的問題からも聖女になることはありません。けれど、アイリスさまの話を聞いたり、一緒に悩むことはできると思いますわ」
「……リディアさま」
アイリス嬢の目からブワッと涙が出てきて、また止まらなくなる。




