第352話 恋をはじめよう
「そうしている間に、リディーが誘拐された。主人さまにリディーの魔力が探れないと聞かされた時は目の前が真っ暗になった。でも行き詰まって絶望するたびに協力者が現れたり、何かがみつかってね。これはリディーを必ず探し出せるということだと、そう確信した。
主人さまが微かだけどリディーの気配がすると言って、ただそれはとても遠いと言った。私や父さまは主人さまに乗せてもらって一緒に行くって言ったんだけど、何日かかるかわからないって言われたんだ。だからアオたちに一緒に行ってもらって、場所がわかったらすぐに転移できるように待機していた。レオの伝達魔法で声が届いた、それであの場所に転移することができた」
そうだったんだ。
「そしてあの時、リディーが目に入った時、何もかも理解した。リディーを抱きしめてそれ以外にあり得ないと。何よりも大切なのは前から知っていた。でもそれだけじゃなくて、一番大切な女の子だった。……リディーはまだ11歳だ。だから、その、自分でも今はまだそうは見ていないんじゃないかと思っていた。けど、違った」
胸がどきんと跳ねる。
「リディア・シュタインに、私はとっくに恋してた」
兄さまの手がわたしの頬に置かれて、親指で涙を拭ってくれる。
「自分の気持ちに気づいたけど、リディーとは5つ違う。リディーに好きな人ができたらリディーを手放せるのか、自信がない。だからこれ以上恋しないようにと、自分を押さえてきた。それに、私が婚約者でいるとリディーを危険に巻き込むかもしれない、そう思って」
え?
兄さまは考えを払うように頭を振った。
「リディーは大切で、世界一幸せでいて欲しい。でも私といると巻き込むかもしれない。それであきらめるべきだとも思った。ああ、ごめん。自分の気持ちに素直に従いたいのに、自分の中からそれを止める声も聞こえる。気持ちがめちゃくちゃなんだ。でも、やっぱり、……私はリディーのそばにいたい」
真っ直ぐな瞳から目が離せない。手を引っ張られて、立ち上がる。
「私は人より嫉妬深い。これ以上、君に恋したら、きっと君を手放してあげられなくなるだろう。……もうとっくに終わったと思っていたけれど、終わっていなかったことがある。それで君を巻き込んだり辛い思いをさせることがあるかもしれない。私は君に相応しくないんだろう。でも、だけど、やっぱりそばにいたい。手の届くところにいたい。……私は君への恋心を止めなくてもいい?」
「兄さまの隣じゃないと、わたしは世界一幸せでいられない……」
ぎゅーっと抱きしめられる。
兄さまもわたしを好きでいてくれた、家族としてだけではなく。
わたしもぎゅーっと抱きついた。
頭の上で囁くように言われる。
「ふたりの時は、フランって呼んでほしい」
「わかった」
胸の中で了解したのを伝えたが、声がくぐもる。
「呼んで」
今?
「……フラン……さま」
「さまはいらない」
兄さまがわたしの肩を持って離し、瞳を覗き込んでくる。
名前を呼ぶだけなのに、なんでこんなに恥ずかしいんだろう?
「フ……フラン」
見上げると、兄さまの顔がカーッと赤くなる。
「これは、……くるな」
兄さまがわたしから視線を外す。
「え?」
兄さまがわたしのおでこにおでこをつける。近くてドキドキする。
兄さまは少ししてから静かにおでこを離した。
わたしの手を握る。
「ここから恋をはじめよう」
「うん」
6年前、その約束事は突然に交わされた。切羽詰まった状況で、でもその時はそれが一番いい方法に思えた。ただわたしたちは幼かった。それから時は流れ、状況も変わってきたし、多少、世界が広がった。家族だけで構成されていた世界は広がりをみせた。状況が変わってきたのだから、もっと早くちゃんと話すべきだったね。新しい関係を築く時になっていたのだと思う。
そうだね、ここがわたしたちの新たな出発点。
ふたりでしばらく川の流れを見ていた。
勇気を出して呼んでみる。
「フラン」
「ん?」
「巻き込むとか、危険とか、どういうこと? 何があったの?」
兄さまはばつの悪い顔をした。
「リディーのことは護る。危険はないようにする」
「そうじゃなくて。わたしは、フランが危険な目にあうのも嫌だし、わたしもフランを護りたい。だから、隠さないで。わたしだけ安全な場所にいて、護られているなんて嫌」
そりゃあわたしができることは大したことではないし、自分も守れないわたしが兄さまを護りたいと思うのもおこがましいとは思う。でも、わかっていても、それは嫌なんだよ。
「リディー……。君は優しいからきっと傷つく」
「わたしはそんなに優しくないよ。優しいのは兄さ……フラン」
「私こそ優しくないよ。私が優しくするのはリディーと家族にだけだ」
嘘ばっかり。思い当たることを言ってみる。
「……メピアの花を知ってる?」
兄さまの瞳が驚いている。
「……歌も知っている」
兄さまは観念したように言った。
「終わってないっていうのはメロディー嬢との何か?」
「……いや、少し違う」
兄さまは小さく息をついた。
「……ただ彼女には罪悪感のようなものがある」
「な、なぜ?」
「彼女は前バイエルン侯爵子息の婚約者だったから」
あ……。メロディー嬢の亡くなった最初の婚約者は兄さまだったんだ。
「一度だけ会ったことがある。父上が捕まる少し前だったかな。まだ小さいのに、大人から教えられた口上をしっかり覚えて、婚約者になれて嬉しいと言った。この子も決められたレールの上を歩いて、道具になって可哀想だなと思っていた。どうして婚約に至ったのか詳しくは話してもらっていなかったけど、公爵家の令嬢が格下の侯爵家とあんな小さいうちに婚約する、何か思惑があるんだろうと思った。大人しい子だった。白いドレスを着ていて、かわいらしかったから褒めたら思いの外喜んで。だから雨の中花開く白い花を思い出して歌ったんだ」
あの時、思い出を語るだけでメロディー嬢の頬は色づいていた。
「その後、父上が捕まって亡くなり、罰を受ける対象が私になった。私は母上と同じく死んだことにして、名前も髪の色も変えた。
それはただバイエルン侯爵家の事情だ。それなのに、あの子はまだ小さいのに婚約者が罪人になって死亡して、あの娘には何の落ち度もないのに、あの娘の経歴に傷がつき、……第1王子殿下の婚約者におさまった。幸せになってほしいと思っていたんだけど、そうではなかったみたいだ……」
兄さまの瞳が曇る。
第1王子さまの婚約者として王室での教育が始まり、いつも泣いていたとロサが言っていた。
王太子にはならない、そう思われている第1王子殿下。その婚約者にも同情が集まっている。それも失礼な話だけど。
「そして何より問題なのが、私が前バイエルン侯爵子息だと確信してる」
え? と思いながらもどこかで納得する。
生徒会室での会話運びは変だった。何かあるとは思っていたけど。
わたしに問いかけながら、兄さまに手札を見せていたんだ。自分はわかっているんだと。
メピアの花のことは元婚約者しか知らないことだから、そうだね、確信しているんだろう。
「……どうなっちゃうの?」
「私の出自を知りたがり、近くに置いた。確信はあっても証拠がないってところ、だろうね。だからあんなことを言って揺さぶってきて反応を見ているんだ。母上と私はおじいさまの計らいで辺境とは遠く離れたところで死亡届を出している。
……フランツと侯爵子息とは年齢も違うし、私は髪の色を変えた。だけど、自分ではわからないけど、年々父上に似てきているらしい。だから、これからも怪しむ人は出てくるだろう。義理の母と母さまが従姉妹だから、繋がりが全くないわけではないからね。どこにも証拠はないけれど。でも、現代では、そこに真実があってもなくても、噂だけで貴族社会から抹殺されてしまうこともある」
確かに、そうだ。
「おじいさま、それからシヴァ兄上、そして父さまには報告した。夏休みに会ってそのことを話し合うことになっている。メロディー嬢が私をどうしたいのかは……はっきりしない。でも、もし前バイエルンの子息だと言われ、それに便乗して似ているだの噂が出たら、私は……リディーだって危険に巻き込むかもしれない、その時は……」
兄さまの視線が下を向く。
「それをわたしには言わないつもりだったの?」
兄さまと父さまたちで策を練って、わたしには聞かせないつもりだったの?
兄さまの眉が八の字になる。
わたしはメロディー嬢の気持ちがわかるような気がした。
「失礼な思い込みかもだけど、もしかしたらメロディー嬢は、兄さまの出自を公表しろって言うかもしれない。それか、わたしと婚約破棄しろって。そうしないとわたしに危険が及ぶとでも言って。でも約束して。どんなに脅されても、わたしを護るためにわたしを突き放すことはしないで。わたし、それだけは嫌」
兄さまはクスッと笑った。
「な、なんで笑うの?」
「いや、さすがリディーと思って」
兄さまがわたしを抱きしめてギュッとしてくる。
「……約束する。護るために突き放したりしない」
思いが通じあったばかりだと言うのに、どうしてこんな突き放さないって約束をさせるような思い詰めた話になっているんだ?
もっとこうさー、最初は甘やかな思いで満たされるものじゃないの?
「どうした?」
「ん……さっきまで、思いを伝えて玉砕して家族に収まったとしてもギクシャクするんじゃないかとドギマギしていたのに、その数分後に突き放さないって約束してって迫ってるなんて、なんか落差というか……、甘い部分をすっ飛ばしちゃってる気がするんだけど」
兄さまが天に顔を向ける。何か呟いて、わたしを見る。
「ご要望にお応えして、甘ーくしてみる?」
カァーッと顔が熱くなる。
「いえ、十分です」
兄さまがふいをついてわたしのおでこにキスをした。
兄さまと目が合って、思わず笑ってしまった。
「今日はここまでにしておく。私も我慢してるんだ。きっと家では待ち構えているだろうから」
あ。そ、そうだね。絶対バレるもんね、全部。
「でも、どうしてもってお望みなら……」
「言ってない、だいじょぶ」
「そう?」
兄さまはクスクス笑っている。少し悔しい。
わたしは兄さまの手を引っ張った。少しだけ傾いた兄さまに背伸びしてほっぺに口を寄せる。
兄さまの顔が赤く染まった。へへっ。
満足して兄さまに背を向けて歩き出そうとすると、後ろから抱えられる。
「我慢してるって言ってるのに……」
「何を我慢してるんでち?」
え、アオ?
『アオ、しーーーー』
いや、もう遅いから、レオ。
茂みから出てきたのはもふもふ軍団ともふさま、そして父さま!
「い、言い忘れたことがあって、今来たところだ」
父さまは咳払いをした。
わたしは兄さまと顔を合わせた。
くーーーーーーー、絶対見られた!
「と、父さま、酷い! 見にくるなんて!」
「リ、リディー、本当に今来たところだ。何も見てない」
『うん、今きた』
『今来たよ。リーが兄さまにチュッてした!』
『クイ、そういうのは言ってはダメですよ。人族は愛情を確かめる行為を見せないようにするようです』
『なんで見せないように?』
『さぁ、どうしてか聞いたわけではありませんが、見せない方が良い何かがあるのでしょう』
『ふぅん。でも、見せても見せなくてもやってるんでしょ? 同じなのにね』
もう、それ以上何も言わないで、わたしの何かが削られる。
「父さま、言い忘れたこととは?」
ひとり慌ててない兄さまが、父さまに尋ねる。
「フランはエリンたちにみつからないよう家には入らず、ルーム経由で帰ってくれ。フランまで半日もかけず王都からここまで来られたらおかしいからな」
「父さま、私はいくら舞いあがっても、そんな初歩的な間違いはしません」
兄さまが、初歩的な間違いをしながらここに来た、わたしのジト目に気づく。
「いや、そういう意味じゃなくて……」
『リディア、フランツと話せたようだな。気持ちがとても落ち着いている』
トコトコ歩いてきたもふさまを抱きあげる。
「うん、ありがと」
そこにもふもふ軍団がジャンプしてきた。
『リー、泣かなくなった、よかった!』
「よかったでち」
『うん、よかった!』
「みんな、ありがと」
ギュギュっと抱きしめる。
父さまがコホンと咳をした。
「ふたりに、一応言っておく」
ん?
「信じているからな?」
何を?
わたしと兄さまは目を合わせた。
<8章 そうしてわたしは恋を知る・完>