第156話 家出少年②秘蔵っ子
「カトレアは読書家なんだね」
本棚を見ながら言う。
「ああ、最初は宿に泊まった人が置いていったのよ」
それが始まりだという。幼かったカトレアには、文字も内容も難しかったけれど、新しいことを知る喜びを知った。宿にも本棚があるそうだ。最初はその誰かが置いていった1冊だったが、そのうち泊まりに来る商人が読み終わったものを置いていくようになった。自由に読み、そして本を置いていく人が増えた。本棚に入り切らなくなったので、古いものはカトレアの部屋に引きあげたそうだ。
「ふたりともなんか読みたかったら貸すよ」
「面白いのあった?」
「人によって面白いのは違うからなんとも言えないけど、恋愛物語あるよ。読む?」
「読む!」
わたしは貸してとお願いした。
ミニーからはサロとの喧嘩話を聞き、カトレアの週一の教会通いの進展を聞き、わたしはひよこちゃんの強さを語った。
「コッコがそんな強いの?」
「うん、虫がいると瞬殺。羽をバタバタして風を起こして砂埃をお見舞いしたり、飛び蹴りするんだよ」
「リディア、物語書けるんじゃない?」
カトレアもミニーもケラケラ笑っている。
本当のことなのに、わたしの創作だと思われている?
と、何かが倒れたような音がした。わたしたちは顔を見合わせる。
「宿からだ」
わたしたちは部屋を出て、宿に繋がるドアを少し開けて、様子を窺う。
「一部屋しかないとはどういうわけだ? おれと使用人と同じ部屋で過ごせというのか?」
「申し訳ございません。あと一部屋しか空いていないのです」
カトレアのお母さんが丁寧に頭を下げている。
あ、文句を言っているのはさっき言いがかりをつけてきたぽっちゃりの男の子だ。
「ミニー、父さまに、貴族の子が宿屋で言いがかりつけてるって呼んできてくれる?」
わたしがこそっというと、ミニーは頷いて裏口から出ていく。
カトレアの顔が青ざめていく。
「それなら、今泊まっているものに出ていってもらえ。金は払う」
「お客さま、申し訳ありませんが……」
「何だと?」
「お客さま」
剣呑な雰囲気になったので、思わず間に入ってしまった。
「……お前は! そうか、宿屋の者だったのか。町に一軒しか宿屋はない。それも貴族用の部屋はなく、一部屋しか用意できないという。なんて領地だ、実になっていない」
「お客さま」
「何だ?」
「声が大きいです。こんな距離なのだから怒鳴らなくても聞こえます。大きな声で騒ぐのは、他のお客さまの迷惑です。貴族が他の領地で民に迷惑をかけるのがお客さまの領地の慣しにゃんですか?」
かんだ。でもそんなそぶりは見せない。わたしは幼女だ。時々、かむぐらい当たり前だ。
「な、何だと!?」
「申し訳ありませんが、領地に宿はこの一軒しかありません。一部屋ではご不満でしたら早くに領地をたつことをお勧めします。隣の領地モロールにもイダボアにも1時間はかかりますから」
お坊ちゃんの顔が赤くなる。
「それに、保護者はどちらです?」
自分より小さいものに保護者を尋ねられる屈辱は怒りを増長させたようで、お坊ちゃんが一歩を踏み出した。カトレアのお母さんがわたしを抱き込む。もふさまがわたしたちの前で坊ちゃんに向かって吠えた。
「全く酷い宿だ。客の要望も聞けない上に、生き物を飼っているとは。ふん。この領地に砂糖や塩をおろしてやっているのはウチだ。今後一切取り引きをなしにしてやる」
子供が何言ってんだと思ったが、お母さんや、ことの成り行きを見守っていたお客さんたちの顔色が悪くなった。子供でも貴族だと、本当にやるのかもしれない。でも、砂糖って言ったね、それならなんとかなる。
「そうしてください。ランパッド商会さんにおろしてもらえないかお願いしてみますし、それが叶わなくても、わたしがなんとかします」
「ラ、ランパッド商会? お前、子供が何言ってんだ」
その言葉、そのまま返すよ。
グっと笑い声が漏れる。
ん? とそちらを見上げれば、父さまより背の高い紳士がいた。紺色の髪を長く伸ばし、後ろでひとつに結んでいる。先程助けに入ってくれた男の子と似通うものがあると思っていると、紳士の後ろから顔を出したのはまさにさっきの男の子だった。
「オメロさま、モットレイ侯爵さまです」
後ろの従者がぽっちゃり坊ちゃんに耳打ちする。
侯爵? 何で侯爵がウチの領地にいるの?
ふと気づけば宿の人たちは黙礼して、坊ちゃんも胸に手をやり礼を尽くしていた。
「楽にしなさい。悪かったね、笑ったりして。宿を取ろうと思ってきたのだが、もう塞がっているようだね。さて、そこの少年、家名を教えてくれるかな? そちらのお嬢ちゃんが言ったように保護者が見当たらないようだが、どちらかな?」
「お初にお目にかかります。タラッカ男爵が第三子、オメロ・タラッカでございます」
「タラッカ男爵……モロールで商売をされていたね。もしかして従者とふたりでここまで来たのかな?」
坊ちゃんの顔が歪みそうになった。あら、マジか。
侯爵さまが屈みこんで坊ちゃんから話を聞き始めると、さっきの男の子がわたしの前に来た。
「勇ましいな」
と笑った。
「俺はイザーク・モットレイ。もしかして君がシュタイン令嬢かい?」
わたしはカーテシーを頑張る。
「リディア・シュタインです」
坊ちゃんや侯爵さまがこちらを見た。
「ほう、君がシュタイン家の秘蔵っ子か」
侯爵さまがいつの間にかわたしの目の前で膝をついていて、わたしの手を取る。
その時、勢いよく宿のドアが開いた。
ミニーを抱えた父さまが入ってきた。後ろには兄さまと双子、そしてアルノルトさんもいる。
ミニーをおろし、わたしたちの前に来る。
父さまは侯爵さまにひと礼した。
「偉大なる魔法士長さま、お目にかかれて光栄です。シュタイン領主でございます。娘がご迷惑をおかけしていないといいのですが」
そう言ってわたしと侯爵さまの間に入ってくる。
「これは、時の人であるシュタイン伯か。こちらこそ。宿が取れたら挨拶に伺おうと思っていたんだ。生憎、宿はいっぱいのようだが。ご令嬢はさすがだね、幼くても素晴らしいレディだ。今ちょうど挨拶をするところだったんだ」
侯爵さまは気さくな方のようだ。
「領地が整っておらず、申し訳ございません」
「いや、何、ご令嬢が宿のものに無理を言った少年を諫めていて、楽しませてもらったよ」
父さまにジロリと見られる。わたしは目を逸らした。
「そちらは、ご子息様かな?」
「侯爵さまにご挨拶させていただきなさい」
まず兄さまが進み出る。
「フランツ・シュタイン・ランディラカです」
「アラン・シュタインです」
「ロビン・シュタインです」
兄さまたちはわたしの隣に来た。
「フランツ君と同い年の息子だ」
「イザーク・モットレイです」
侯爵さまの小型版の少年は、父さまと兄さまたちに礼をとった。
「さて、シュタイン伯。宿屋に無理を言っていたこの少年だが、どうやら家出してきたようなんだ。そして帰る気はないと言っていてね……」