第148話 砦⑧距離感
起きたとき、夢だったらよかったのにと思った。
涙が出た。怖かったことを思い出したのかと心配されたが、それは違かった。
違うとわかるのに、じゃあなんだと言われると言葉にするのは難しい。もどかしかった。
父さまに昨日あのとき何があったのか話してくれと言われた。辛くても口にすることで楽になれることもあるからと。
わたしは食堂に戻ろうとした時に起こったことを話した。突き飛ばされ馬乗りされ、〝自分は上手にできるようにいっぱい努力をした〟と肩を揺すられ、その手が首にあたり……。すっとアイラから表情が抜け落ちて首を手で押さえられた。けれど、すぐにアイラが我に返り手は外れた。押さえられたのは一瞬だった。もふさまから名を呼ばれて、気づけばアイラが飛ばされていた。兄さまたちが近くにいた、と。
「リディーは痛いことをされたのに、どうして謝らせて許そうとしたんだい?」
「首は一瞬だった。アイラ、自分でも驚いてた」
「首に手をかけたのは魔がさした、そう思ったから許したかったのかい?」
わたしは首を横に振る。
「どんな理由でもわたしにしたこと、魔がさしたことも含めて、悪いこと」
おじいさまがくだした処分も納得している。ここは戦いの場の最前線になりうるところだ。みんなで協力することが第一に重きをおかれるところだから、私闘のような個人的な動きをする者は排除される。勝手な考えはみんなの命取りになるからだ。あのことが喧嘩でないとされても、アイラのあの時口にしたことは、領主の考えに反することだった。子供でも貴族に不平をぶちまける、貴族を非難する、そんな思考持ちは危険だ。だから客観的に見ても、おじいさまの考えは真っ当だと思える。
でも……。
「でも、わたし、そうアイラに言えてない」
人を傷つけてはいけないと、同時に自分を傷つけるのだからと、せめて告げられていたらと思った。ただ泣いて、行き場のない思いを爆発させていた時とは違う。今のわたしなら、向き合って伝えられると思ったのに。わたしは前と同じで何もできなかった。前の記憶があっても、経験値があっても、それを活かせないなら、記憶のある意味がないじゃないか。
「そうか、リディーは自分が傷を受けたことよりも、アイラに伝えられなかった後悔の方が大きいんだね」
父さまが抱きしめて背中をポンポンと叩いてくれる。
そうだ、わたしはアイラにそれはしちゃいけないことだって言えなかったのを後悔している。
事を受けて、罰を受ける覚悟でハンナがおじいさまに進言したことに、さらに悲しくなった。
ハンナはアイラのしたことは、たとえ相手がわたしじゃなくても追放処分となることだと前置きした。年下で体格差のあるわたしに一方的にというところと、一瞬でも急所に手がいったことは子供といえど、見逃せることではないようだ。
だからその処分に思うことはないと。ただ、貴族と平民は全く違うのだともっと強く線引きするべきだとハンナはいう。
使用人に優しくしてくれるのはいい主だけど、子供にはその境目はわかりづらい。すると勘違いをしてしまう子が出てきてしまう。
自分の立場に置き換えて、あの子はどうして許されるの?と。
それは皆が不幸になるから、今後そんなことが起きないように、きちっと使用人は使用人だと教えなければいけないでしょうと。
「リディア嬢ちゃまが何もできないとは思いませんよ。努力されていることも知っていました。でもそれとは全く別問題で、嬢ちゃまと他の子たちは、生きる場所が違うということを知らなくてはなりません」
わたしがいるところで、ハンナはおじいさまにはっきりとそう言った。
わたしは思い出す。ピドリナさんもアルノルトさんにも何度も言われている。〝さん〟はつけないように、と。どうも前の記憶があると、目上の人に敬称をつけないのは気が引けた。でもその記憶が蘇る前、シヴァやハンナにわたしは敬称をつけずに呼んでいる。兄さまたちはアルノルトさんたちにも敬称はつけなかった。敬称の有無で貴族らしくなれるのかと言ったらそうではないけれど。貴族らしくなくても、貴族というのは事実で、だったら貴族の考えをしっかり持たないといけないのかもしれない。線引きしなくてはいけないのかもしれない。
わたしが何かを成し得たわけではない。ただ、貴族に生まれついただけ。カークさんにも言われた。たまたま生まれついただけだと。わたしもそう思う。本当にたまたまなのだ。だからわたしは垣根を低くしたいのかもしれない。いや、非難されたくないから、大したものではないと自分を落としたいのかもしれない。
でもわたしが家を飛び出して全てのしがらみを捨てるとか、そうしない限りは、わたしは貴族なのだ。何もできなくても。ただ生まれついただけでも。
そして貴族なら、わたしに滅多な口を利いたら、それがその人の首を絞めることになるかもしれないのだ。わたしが親しくしてと頼んだのだとしても。
わたしが貴族らしくないことで、思わぬところで誰かに被害を与えるかもしれないのだ。そうならないように自分を律して、貴族だと認識されるように振る舞うことが、貴族が最初にすることなのかもしれない。
手を伸ばせば届くところにいてはいけないのが貴族なんだ。火種にならないように。
わたしを上から睨めつけたあの顔が頭から消えない。あの時、わたしよりアイラの方が苦しんでいると思えたのかもしれない。アイラは〝うまく〟できるようにいっぱい努力した。それで自分の地位を築いてきた。わたしは何もうまくできなかった。そして泣くだけだった。でも生まれついた地位のおかげで、問題視されなかった。家族に愛され甘え、それが許されてきた。それがアイラを傷つけたのだとわかる。そして攻撃されたのだと。
そしてその攻撃は、わたしが〝貴族〟らしかったらそんな考えさえも起こさせないことだったんだ。アイラに病んでいるところがあってもなくても、わたしが誰もが認める貴族のお嬢さまなら、こんなことは起こらなくて追放されることも、追放させることもなかったのに……。
領地のことを考える。大切な人たちとなったから、みんなが暮らしやすくて豊かに暮らしてほしいと思った。お金儲けは平民でもできると思うけれど、みんなで豊かになるには、領主とか、貴族とか、そういう権力が必要となる。だからそれができるなら、するためなら貴族でよかったのかとちらりと思った。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。いろんな思いが入り乱れている。
『もう、あの娘はいないのだろう? 何を憂いでおる?』
「貴族と平民の線引きをするべきってハンナが言った。使用人は使用人だと。わたし、ミニーと友達になった。領地の子、みんな好き。けど、友達、だめなのかな?」
『泣くほど嫌なら、それがリディアの答えだろう』
?
『泣くほど領地の子と友達でありたいなら、友達でいればいい。そんな前例がないのなら、リディアが一番最初になればいい』
「もふさま、……すごい」
泣き笑いになる。
『あたりまえだ。我は森の主人ぞ?』
もふさまを抱きしめる。
『痛かったな』
うん、痛かった。
『怖かったな』
うん、怖かった。
『でも、きっとリディアは、何度でも信じることができるんだろう』
「信じる?」
『希望を持つと言い換えてもいいかもしれない。お前は決して希望を捨てない。我はそれは強さだと思う。幼き人族で力もないし、とても弱い生き物だ。それでもお前は絶対に強い。希望を捨てずに信じていられるからだ。そんな友がいて我は誇りに思う』
何もできないという思いが、もふさまの言葉で溶けて解けていく。
もふさまが言うようなことを本当にできているかはわからない。でも、そうならいいな。そうなれたら、いいなと思う。
1日休養して、次の日に空っぽダンジョンの見回りに行くことになった。気晴らしをという配慮だろう。
ハンナの進言を皆に言ってはいないようだが、周りの人たちも考えたのだろう。別格でわたしたちは扱われるようになった。子供たちからの、わたしたちの呼び方も変わった。兄さまたちは最初から〝さま〟づけだったから、変わったのはわたしだけか? 女の子たちはアイラというリーダーがいなくなってどうしたらいいのか戸惑っているようだ。わたしに対してマイナス感情があるだけに、けれどわたしたち一家への注意があっただろうから、悩みどころだろう。そこに少し安心する。急に掌を返したようにされたり、アイラに従っていたのみたいにされても、わたしは不信感しか抱かなかっただろうから。戸惑っているのが年相応でいいのだと思う。
ダンジョンに向かうのは、おじいさまとシヴァとウチらだけだ。みんなで馬に乗って行った。わたしはシヴァの前に乗せてもらう。もふさまは兄さまの後ろに乗っている。
シヴァと記録上でも家族になれるんだねと言ったら笑った。
兄さまが「兄さまって呼ぶ方がいい?」と尋ねたら、首を高速で横に振っている。今まで通りシヴァと呼ぶのがいいそうだ。
馬で2時間ぐらい離れたところにそのダンジョンはあると言う。
1年に1回はそこそこの魔物が溢れ出す。10匹以上だったことはないそうだ。
何年かに一度いっぱいの強い魔物を出す大きなダンジョンも、こちらの空っぽダンジョンも人が定期的に入ってないのかと聞けば、大きい方のダンジョンはそんなことはないと言う。塔タイプのダンジョンで、5階ぐらいまでは手ごろな強さで魔石がザックザックと取れるので、かなりの人たちが利用しているらしい。それでも、何年かに1回は魔物が飛び出してきて、被害を被るそうだ。今回は大怪我をした人がいないだけすごいことらしい。
こちらのダンジョンといえば、人気がない。それもそのはず、地下に降りていくタイプのダンジョンなのだが、あるのは地下1階まで。それもただ空間が広がっているだけで、魔物が1匹も出てこないそうだ。
だから魔物を討伐することもできない。そのくせ、1年に一度とはいえ強くはないといっても〝魔物〟を放つのだ。
ん? なんか、どこかで聞いたことがあるような……。
「リディー」
兄さまに呼びかけられる。顔を見合わせて、まさかそんなことがあるわけが……と言葉を心の中に収める。
でも……。アオの話を思い出す。魔使いさんは国境に逃げてきて、そこで逃げられないことを察して、いっそのこと魔物にやられてやるとダンジョンに入ったと言っていた。魔使いさんの住処は現シュタイン領。そこから国境と言ったら、ここが一番近い。そう思ったら、胸がドキドキし始めた。
空っぽダンジョン。魔物が1匹も出なくて……、地下2階への入り口がみんな気づかない……。これって、もしかして……。
「うわー、そっくり」
ロビ兄が楽しげな声をあげる。
父さまも馬に乗ったまま、洞窟の入り口のようなダンジョンを見ていた。