第144話 砦④針
掌は汗をかいて冷たくなっていた。ただアイラの目を見ていただけなのに。
「リディー、誰かに何かされたの?」
兄さまに尋ねられて、ハッと我に返る。
思わず、口を出してしまった。
やば、おじいさまの領域で、勝手なことをしてしまった。
「リー、そうなのか?」
ロビ兄に揺すられる。
でも、これ、砦にとってよくないことだ。これは解決していかないといけないことだ。
「問題、そこじゃない、じゃなくて、問題はそこじゃない」
ゆっくり、ゆっくりでいいから思うことを伝えよう。
アイラが踵を返した。歩いていくと、女の子たちはその背中を追いかけた。
さて、どうしたものか。
「リー」
アラ兄がわたしの後ろに来ていた。
「自分で解決したいんだね?」
わたしは頷く。
「わかった。頑張れ」
アラ兄に頭を撫でられる。
ロビ兄にも頭を撫でられた。
「私たちがいることを忘れないで」
兄さまに手を取られる。
ありがたく思いながら、わたしは頷いた。
部屋に戻ればおじいさまに呼び出される。耳が早い。
「騒ぎを起こして、ごめんなさい」
まずは謝る。
「何があったか、話せるか?」
わたしは針仕事中に居心地が悪くなり退座してから、食堂であったことまでを話した。
「ワシにしてほしいことはあるか?」
「おじいさま」
「何だ?」
「わたし、前にあったことを、思い出した」
「前にあったこと?」
「わたし、女の子たちから、何もできない役立たず、迷惑言われてきた」
おじいさまにそんな顔をさせたくなかった。だから言いたくなかった。
「それは、わたしとのことだからいい。でも、言いたいこと」
あ、また文章になってない。
「そのことはいい。だけど、ひとつ、気になることがある。アイラのこと」
「アイラ?」
わたしは頷いた。
「アイラがみんなに言わせてた。言うよう誘導して見えた」
「誘導?」
眉をひそめたおじいさまに頷く。
「ずっと前、アイラに針仕事教えてもらった。うまくできなかったら、手に針刺された」
おじいさまの表情が固まる。
「母さまたちに、わたしが自分で針を刺しちゃったんだと嘘をついた。自分がちゃんと見ていなくて怪我をさせてと謝った」
おじいさまに抱きしめられる。
「父さまたちには言わないで。とても哀しくさせるから。おじいさまを哀しくさせるのに話したのは……」
おじいさまは手を緩め、わたしを見て、わたしの顔の水滴を拭う。
「ワシに話したのは、何だ?」
「アイラ、誰かにそうされたんだと思う。そういうことを誰かがアイラにしたのだと思う」
子供だから咄嗟にやって、嘘をついたのかもしれないけれど。〝うまくできないと、こうよ〟ってあれは誰かにそうされたんじゃないかと思えた。
もう一度おじいさまに抱きしめられる。
「怖かったな。ごめんな」
言われたとたん涙が溢れ出して、泣きじゃくった。〝嫌〟なことの正体がわかった。わたしは怖かったんだ。されたことも怖かったし、言われることも怖かった。それを家族に言って、哀しまれるのも怖かった。
「怖いのにリディアは砦のこれからのために、勇気を持って正そうとした。皆の前で状況を説明したし、ワシにも密かにアイラのことを話してくれた。ワシはリディアのことが誇らしいよ」
……溶けていく。抜け殻でありながら残っていた嫌という思いも、中身の怖いという思いも。欲しかった言葉をもらえて、わたしの中で解けていく。
「リディアはどうしたい? この件はワシに任せるか、一緒に解決するか」
「……一緒に、解決する」
おじいさまの表情が悲しげになる。
? そして別人のようにすっと引き締まった。
「そうか。では、まず、ネリー一家のことだ。貴族のお前に嘘をつきお前を貶めようとした。一家を追放するか? 鞭打ちにするか?」
え?
「お前たち一家も同じ辺境の家族だとしてきた。わざわざ告げてはいないが、お前たち一家は貴族。一介の兵士の家族が本来なら口を利けもしないのだ。その貴族に不敬を働いた兵士の家族などどうとでもすることができる。だが、そうすることが許されるのは、平民より貴族が多くのものを背負い、成し遂げているからだ。さて、お前はどうしたい?」
これがおじいさまの辺境伯の顔なんだ。わたしのよく知るおじいさまは身内の顔だったんだ。
「……ネリーから謝罪を受け取りました。終わったことです」
「お前を貶めることを言っていた子供たちをどうする?」
生唾を飲み込む。
「鞭打ちをするか? 追放するか? 舌を切り落とすか?」
「わ、悪口ぐらいで、わたしは貶められません」
「最後に、アイラをどうしたい?」
「まず、アイラが誰かに何かされていたのか知りたい、です。そこから考えたいです」
「一緒に解決するとはこういうことだ。幼くても個人として扱う。今一度聞こう。ワシに任せるか? 一緒に解決するか?」
「一緒に解決する」
そう言えば、おじいさまに頭を撫でられた。
ノックがあり、慌てたように入ってきたのは父さまぐらいの男性だった。
その人は中にわたしの姿を認めると、わたしに向かって頭を下げた。
「リディアお嬢さま、このたびは娘がお嬢さまにひどいことをしまして、申し訳ありませんでした」
男性はネリーのお父さんだった。
おじいさまは額を押さえている。
「カフスよ。お前が謝るのは、リディアがワシの身内だからか?」
「はい? いえ、いや、それもありますが、娘が……」
「何があったと聞いた?」
ネリーのお父さんのカフスおじさんは、ネリーのお母さんから聞いただろうことを話した。事実だ。お母さんはありのままに話したようだ。
「その話で、お前はリディアに〝何〟を謝っているのだ?」
「それは娘がリディアお嬢さまを悪者にするような心でいたからです」
「ワシの過ちだ」
「辺境伯さま、何をおっしゃるのです」
「ワシが、砦の者たちをみんな家族のように一緒くたにしていたから、歪みが生まれたのだな」
わたしはおじいさまの何が過ちだというのか、わからなかった。
二言、三言話して、ネリーのお父さんが退出した。
「悪いな。すべてはワシの見通しが甘かった。お前たち一家の立場をはっきりさせるべきだった。お前たちの立場があやふやだったから、歪みがすべて一番幼いお前に行ってしまったのだな」
カフスおじさんの出て行ったドアを見つめながらおじいさまが呟いた。
おじいさまはその後に、マルティンおじさんを呼んだ。
おじさんは部屋にわたしがいることに驚いたようだが、何も言わなかった。
「マルティンに尋ねたいことがあって呼んだ。座ってくれ」
おじいさまは椅子を勧める。
おじいさまは過去にあったことだと、アイラがしたことを告げた。そして誰かがアイラに同じことをしていた心当たりはないかを尋ねようとした。マルティンおじさん自身の反応を見るためでもあった。
おじさんは針で刺した話をしたとたん顔を青くした。そしてわたしに土下座をする。
驚いてわたしは固まった。
「申し訳ございません。リディアお嬢さま、申し訳ありません」
床に頭を擦り付けるようにするおじさんをおじいさまが止める。
「お前は何を知っている?」
おじさんは床に手をついたまま、顔だけをあげる。
「辺境伯は呪術をご存じですか?」
おじいさまを見てからチラリとわたしに視線を移す。
「リディアお嬢さまに聞かせる話ではありません」
「良い、話してくれ。リディアも幼くても伯爵家に籍を置くもの。呪術のことも知っておる」
おじさんはハッとしたようにわたしを見て、それから視線を落とした。
そしてそのまま床に正座をし、ポツリ、ポツリと話しだした。
マルティンおじさんは砦に来る前、ある貴族の私兵をしていた。私兵たちには宿舎が与えられそこに住んでいた。子供、アイラが生まれた頃までは全て順調だった。だがその頃に貴族の家が傾きだし、給金が少なくなり、滞るようになり、払われない時もあった。困窮し、やっと授かった子供も生きていけるかの瀬戸際だった。
ある日、奥さんが食糧をいっぱい買い込んできた。ミルクもたっぷりだ。どこから金を? おじさんが尋ねると奥さんは昔の知り合いにあって、やっていた仕事をちょっとまわしてもらったと言う。どんな仕事か尋ねたが、それには答えてくれなかった。おじさんの働き口から給金が出ない間、奥さんは仕事を続けていたようで、なんとか食いつないでいた。貴族が代替わりをして給金が出るようになった時だった。奥さんの様子がおかしいことに気づいた。手は震え、顔色は土気色だ。
医者に診てもらおうと言えば、手遅れだという。
自分は失敗したのだと。誰かが不幸になる呪術を作った自分には幸せが訪れるわけがなかったと。呪術を返されたので、もうすぐ自分は死ぬと言う。
おじさんは呪術のことを何も知らなかった。呪術がどういうものかということも、法律で禁じられていることも、奥さんが出会う前に呪術師として働いていたことも。アイラのことを頼みながら奥さんは亡くなった。
アイラをひとりで育てるのは厳しく、おじさんは途方にくれた。アイラをあやしながら彷徨っていると、ひとりの女性に声をかけられた。夜に子供を背負いふらふらと歩いているのが異様に映ったらしい。おじさんは今の仕事を辞めるのに、新たに職を探しているんだと伝えた。まだ子供が小さいので預けるところがなくてと、おじさんはいつの間にか初めてあった女性に身の上を話していた。
女性は子供の家庭教師をしているんだと言った。結婚するのに家庭教師を辞めたのだが、相手側の親戚に不幸があり、しばらく延期となってしまった。仕事を始めても半年か1年でまた辞めることになるので、花嫁修行ということにしてただ家にいるのだと。それで、自分も時間があるから、日中アイラを預かろうかと言ってくれた。ただ自分も生活があるので、少しでも給金を出してくれれば助かるという。神の思し召しだと思ったそうだ。2、3日、女性にアイラを預けてみて、大丈夫そうだったら、お願いしてみることに話は決まった。
最初の1日でアイラは女性に懐いた。食事だといえば、スプーンやフォークを用意するようになった。さすがというべきか家庭教師をやっているだけあって、小さな子にも教えるのがうまいのだろう。日中、アイラを預けることになった。
アイラを預けられることになっても、今まで妻がやっていたことを全部働きながら一人で受け持つことになる。これは結構大変で、余裕を持てなかった。アイラのことを見る余裕もなかった。
気づいたのは半年が経ってからだった。遅ればせながら娘が笑わなくなったことに気づいた。おどおどしていることに気づき、ふと思い立って、娘の服の袖を捲り上げた。傷もあざもなかった。ほっとした。自分は何を考えていたんだと責める気持ちになったが、娘の指先を見て、動きが止まる。
指先にいくつもの赤い斑点があった。
「これは、何だ?」
アイラは手を隠した。
「何だと聞いている」
「縫う時、針刺した」
こんなに? それに間違って刺すようなところでもないところに赤い点もある。
「誰に刺された?」
聞くまでもなかった。アイラと日中一緒にいるのは……。
おじさんは女性の家に乗り込んだ。アイラの手の傷はなんだと。女性は笑ったそうだ。今頃気づいたのかと。母親の過ちを娘に返してやったんだと言う。失敗した呪術の依頼主がその女性だったのだ。女性は失敗したことを憤っていて、その憎しみを幼いアイラにぶつけていた。
マルティンおじさんは私兵をやめ、アイラを連れて旅に出た。奥さんが違法なことをしていたことが絡んでくるので、女性とアイラを引き離すことしか、おじさんのできることはなかった。子連れでオッケーな護衛などをして、その日暮らしをするようになった。ある商団の護衛をした時に、腕が確かなら砦で兵を募集しているぞと教えてもらった。はるか辺境まできて試験を受ければ合格した。辺境には子供もいっぱいいて、自分が働いている間も子供を預けられる環境にあった。同じ年頃の子もいるから、アイラにはいいと思った。けれど、アイラの受けた傷は心の傷となり、牙となり、人を攻撃していた……。
「申し訳ありません。私に罰をお与えください。娘をお許しください」
「マルティン、どうすればアイラの心の傷を癒せるのか、一緒に考えていこう」
おじさんがバッと顔をあげる。
「ありがとうございます」
おじさんは頭を下げた。