第141話 砦①〝疲れる〟
気のせいだと思っていたのだが、砦が近づけば近づくほど、胸の中にある雪雲のような何かがより分厚くなっていく気がする。
ひょっとして、わたしは砦が好きではなかった?
辺境の町に着き、明日の朝には砦というところまで来たときに、わたしはそのことに気づいた。
町の家や町外れの家で働いてくれる人をスカウトしに、辺境に来た。身重である母さま、家を守ってくれるアルノルトさん、ピドリナさん、それからアオ、アリ、クイ、ひよこちゃんはお留守番だ。わたしもどか雪が降った時に体調を崩したので、移動に5日はかかる辺境行きが危うくなったが、図らずも行くことになったスクワランへに出掛けてもなんともなかったので、辺境行きを許された。おじいさまにもシヴァにも会いたかったし。
あれ? わたしが会いたいのっておじいさまとシヴァだけ? あとは?
あとはハ……ハンナ! 母屋に来て、母さまとわたしの世話をしてくれた人だ。それから……。
記憶があやふやなのは、前世の情報を思い出したのと、リディアが幼いからだと思っていた。けれど、そういえば引越し前の環境を少しも省みなかったなと今更ながら思う。それって普通なのかな? 4歳児ならそんなもの? リディアにとって辺境はとにかく〝疲れる〟に尽きるところだと思っていた。リディアの言葉になる前の方向性だけの感情が、前世の記憶で探るに〝疲れる〟が一番近いと思ったから。
『どうした?』
わたしの不安を感じ取ったかのようにもふさまに尋ねられる。
もふさまをギュッと抱きしめる。
わたしはきっと今ナーバスになっているんだ。
ロサの掌の上で転がされていると思ったら急に怖くなった。わたしは本当に領地を発展させることができるのか、ロサとの取引で勝っていけるのか。記憶はあってもわたしはこの世界のことをなんにも知らない。それなのにあんな大見得切って勝算はあるのか。家族も巻き込んでいるのに。そう思ったらとても恐ろしくなった。
こんな気持ちじゃダメだと思って、辺境行きはきっといい気分転換になると思っていた。行きすがらいろんな町や村があり面白かった。でも、不安はぬぐい取れなくて、それできっとナーバスになっちゃったんだ。
もふさまの日向の匂いを感じとって心を落ち着けた。
辺境の町の宿で父さまにお願いをされた。砦では探索を使わないこと、と。
「もし、赤い点の人がいて、その人に働きに来てもらうことになったらどうするの?」
兄さまが心配そうにしている。父さまは兄さまの頭を撫でる。
「そしたらそれは父さまに人の見る目がないということだ。辺境地はおじいさまの領域なんだ。わたしたちは家族だが、おじいさまには辺境地で領主という顔もある。その領域を侵してはいけないよ」
わかったとわたしは頷いた。
次の日に砦に到着した。辺境とは、最前線にある砦と、その最前線で働く者のための住処の町を指す。町と砦は1時間ぐらいの距離だ。
国境を見張るため、そして攻められた時にここより内側には通させんとばかりに高く砦は山間に隙間なくそびえ立っている。真ん中には屈強の兵士5人がかりで開けることになる門がある。普段からきつく閉ざされていて、許可証を持つ人の出入りの時など開けることになる。
物々しくも感じるが、何度か近くに出た魔物退治で隣国の砦の兵士たちと共同で魔物を倒すこともあったりして、必要以上に緊迫した雰囲気はない。攻められるとしたら、隣国よりも隣の大陸からの侵略の方がありえそうだとのことだ。隣国はユオブリアが堕ちたら次は間違いなく自分たちの国への侵略だろうから、そっちの方を警戒している。お互い同じ意識でいることだろうというのがおじいさまの見解だ。
国境は印があるわけではないけれど、他国人はそこから入ってはいけない。逆も然りで、ユオブリア国民は許可なしに国境越えをしてはいけない。その土しかないところを、国境の向こう側にも砦がありそこからお互い何もない国境を見張っているわけだ。
塔の最上階には見張りがいて、国境をいつもチェックしている。石造りの砦は生活には使わない。けれど、いろいろな備蓄や地下には牢屋みたいなものがあるらしい。少数精鋭をうたっており、戦闘員は300人ぐらい。その家族が100人ぐらいの規模だ。砦で見張る人員と体が鈍らないように稽古をする人たちと、休みの人たちと班をわけ、ローテーションを組んでいる。家族持ちは町に住むことが多く、見張りの当番の人たちは砦の集落にある仮宿舎で寝起きする。まだ子供が小さいとか行き来が難しい家族も砦の仮宿舎で暮らしている。
基本生活は個人でこなすことになっているが、朝と夕食だけ大きな食堂でとることができる。町から料理人が来ていて、その人たちと仮宿舎で暮らす戦闘員の〝家族〟の手で回している。
砦集落にある一番立派な屋敷が辺境伯であるおじいさまの家で、そこを母屋と呼んでいる。おじいさまとシヴァとわたしたち家族がその母屋で暮らしていた。
おじいさまとシヴァが出迎えてくれる。ケインを母屋の馬小屋に、幌馬車も母屋の敷地に置かせてもらう。
兄さまの周りには男の子たちが集まり、もふさまにも、じわりとにじり寄っている子たちがいた。
「リディア」
おじいさまに抱きかかえられて頬擦りされる。
「おじいさま」
ギュッと抱きつく。
「元気だったか?」
言われて頷く。
おろしてもらうと、次はシヴァに抱っこをしてもらう。
「浮かない顔をしてますね。大丈夫ですか? お嬢、約束ですよ、思っていることはちゃんと口にしてくださいね」
シヴァはいつもの口調でそういった。そういえばいつもシヴァは繰り返しわたしにそう言ってきた。思ったことは口に出すようにと。わたしは目を見て頷いた。
おろしてもらうと何人かの女の子と目が合う。わたしより少し大きいぐらいだ。
身が固まる。
『どうした、リディア』
もふさまが走ってきて声をかけてくれる。
「うん、なんでもない」
なんだろう、このいいようのない気持ち悪さは。重たいものを飲み込んでしまって、胸がつかえているような気がする。
兄さまたちは男の子たちに囲まれて楽しそうにしていた。
「リー、どうした?」
ロビ兄がわたしの手を掴んだ。
驚いてロビ兄を見る。ただなんとなく気分が悪いだけで、何があったわけでもない。
「……なんでもない」
心配をかけないよう笑ってみる。
「リディア、久しぶりね。あたしたちと行きましょう。女の子同士で」
声をかけてきたのとは違う栗色の髪の子が気になる。名前はなんだったっけ? どうも砦の記憶がぼんやりとしている。
「そうか、じゃあ、また後でな」
ロビ兄が片手を上げて背を向ける。
行かないで。そう思った自分に驚く。
「ん、どうした?」
ロビ兄が振り返る。わたしは背を向けたロビ兄の服の裾を掴んでいた。
「ごめん」
慌てて放す。
「あら、リディアったらどうしたの? ロビンさまの迷惑になるわよ」
迷惑……心の奥がギュッとする。
「妹が何したって、迷惑になることはない。リー、おいで」
わぁ。ロビ兄に抱きあげられる。
ロビ兄、力ついたね。少し前まではこんなしっかり持ち上げての移動は無理だったのに。
「ロビンさま、決着つけるんじゃなかったの?」
「悪いな、リーが疲れたみたいだから、後でな」
「リー、疲れたの? 大丈夫?」
「少し眠るか?」
アラ兄、兄さまも駆けつけてくれた。
わたしはぎゅーっとロビ兄に抱きついた。ロビ兄とアラ兄、兄さま。もふさまもいて。父さまだってシヴァだっておじいさまもいる。何を不安に思う必要があるんだろう。
「母屋の部屋はそのままにしてあるから、少し休みなさい」
おじいさまに言われて、わたしたちは母屋に入っていった。