第1038話 地道な調べ物⑥プロ意識
リン・カドハタは、いきなりクラリベルの頬を打った。
「あなた、台本を覚えなかったの!?」
クラリベルは赤くなった頬を押さえる。ニーナ嬢はヒッと短く叫び声をあげたまま固まっている。
「覚えています。何を怒っていらっしゃるんです?」
クラリベルは冷静だ。
「シュタイン家のせいで平民落ちしたって言わなかったじゃない!」
「グリーン夫人がおっしゃいましたよね?」
目を吊り上げ、クラリベルを睨んだままだ。
「何を?」
「俳優は台本の通りに演じること。ただしより現実味を持たせるために修正することは許される。脚本家とともに切磋琢磨することで、お芝居はより人の中に残る、と」
「そ、それがなんの関係があるのよ?」
「最初からその名を出しても人々には響きません」
馬車の中の空気が変わる。
「……どういうこと?」
「アニーも今は足が良くなり、イザベルとアニーはもう〝幸福〟なんです。罪を告白する場で皆が求めているのは〝不幸〟なんです。以前こんなことがあったといったって、今不幸でないのなら、皆の心に残りません。そんな中、家名を出したって誰も気に止めないですよ」
「じゃあ、どうするの? 不幸になるために、どちらかが不治の病にでもなるの?」
クラリベルは手を口前に持ってくる。軽く握った人差し指の側面に口をつけるようにして考えこむポーズ。
「いいえ。今から台本を大きく変えたらそれも信憑性がなくなるでしょう。だから台本は変えません。ただ、平民落ちをしてどんなひどいことになったのか、強めてこれから話すようにしていくのです」
リン・カドハタは少し考えている。
「だんだんみんな知りたくなってくる。誰がそんなひどいことをしたのか、と。その気持ちが膨れ上がった時に、もう憎みたくないから忘れたい。でもどうしても忘れられないと涙ながらに家名を言ってやるのです。その方が心に残るし、爆発的に広まると思います」
厳しい目はそのままだけど、リン・カドハタは座り直す。
「そう変更したなら先に言うべきでしょう?」
「馬車に乗る前にお話ししようとしたんですけど、〝黙って〟とおっしゃられたので」
リン・カドハタの頬が朱に染まる。
クラリベル、やるぅー!
「ふん。いつから家名を出すの?」
「あと3回ほどで高めていきましょう」
「わかったわ」
引っ叩いたことは謝らないんだ……。
そうして馬車は寮の前につき、ふたりと別れたところで映像は切れた。
「リディア嬢の友達は度胸があるね」
「それに演技がうまい」
クラリベルを褒められて、わたしの鼻は伸びる。
そうでしょ、わたしの友達だからね!
潜入者からの報告も上がってきていて、クラリベルの演技に集まった人たちは酔いしれ全く疑ってないそうだ。
潜入者、ホーキンスさんと、アダムの雇った人たちが集会所から出てきた人たち何人かの後をつけ、参加者を調べている。これからわかってくることが多少はあるだろう。
「グレーン酒は問題ありそうだけど、罪を告白して終焉の後の良い世界に行けるって信じてるだけなら、ケチはつけにくいな」
とブライ。
「今は、だろうけどね」
ダニエルがため息をつく。
「今はって?」
ブライが尋ねる。
「芝居までして、その思想をいいと思っている人がこんなにいるって思わせているんだぞ。裏があるに決まってる」
「その裏が、金なのか他のことなのか……」
イザークがため息。
「わかることはまだそう多くないな」
ロサの声も少し萎れてる。
「あら、ひとつわかることがあったよ」
「なんだ?」
ロビ兄が誰よりも早く反応。
「台本が下手」
みんな要領を得ないという顔。
「それは君の主観だろ?」
アダムが苦笑い。
「うーうん、わたしだけじゃなかった。わたしもわたしだけがそう思ったのなら意見しないけど、芝居に詳しいクラリベルがそう思って台本を変えた」
「……友達の君の家名を言うのが嫌だったんだと僕は思ったけど?」
ルシオが首を傾げる。
「クラリベル、意識はもうプロだよ。この台本を演じると思ったから、わたしに悪いことをいうけどごめんって謝りにきたの。クラリベルはこの芝居をしたくないとか、それでわたしに助けを求めに来たんじゃないの。悪くいうけど、本心じゃない、ごめんってそれを言いに来たの。クラリベルはそういう子だよ。覚悟は決まっているから、そんなところで怯まない。よくないと思ったから修正したんだ、彼女は」
「じゃあ、台本とか書き慣れてない人がいきなり役目を振られて……」
「子供といっても演劇部から芝居をする人を引っ張ったのよ? それに女優から演技指導。グラス、何か入れたグレーン酒、アサネリヤの布。どれも目が飛び出るほど高くはなくても安いものでもないわ。それをいつも出費となるだけなのに、賄ってきた。お金があるのよ。だったら脚本家をケチるわけない。ちゃんとした人に頼んでいるはず。それなのにクラリベルやわたしがダメ出ししたくなるぐらいお粗末なのよ? これはもう決まりね」
「決まりって?」
ブライに答えずニヤッと笑って見せる。
「崩しどころってことだ、そうだろ、リディア嬢?」
ロサにわたしは頷く。
多分、脚本家はお金で飛びついたか、弱みでも握られ強制的にやらされることとなったのか知らないけれど、受けてしまった。でもやりたくないのだ。だからわざと共感しにくい話にしている。
役者が優秀で、共感は得ちゃってるみたいだけど。
「ね、君、今、アサネリヤの布って言った?」
アダムに言われてわたしは頷く。
「アサじゃないわ、多分アサネリヤ」
「今度はなんだよ、わかるように話せよ」
ぶーたれるブライ。
「あのみんなが被っている白い布のこと。アサネリヤは南でしか育たない。産地はエレイブ大陸の南だ。そんなとこから輸入してるなんて」
「それにね、夏用の風の通る布を探してて、アサネリヤがいいと思ったんだけど、ウッドのおじいさまをしても、少量しか手に入らなかったの。それをあの集団は蓄えがあるんだわ。惜しみなく分け与えているもの」
「エレイブの南か……」
ロサが低い声で噛みしめるように言った。
大陸違い、外国の介入があるのかもしれない。