第1000話 ヴェルナーの持ち情報②彼の生い立ち
わたしを視界におさめニッっと笑う。全身、総毛立った。
「よぉ、リディア・シュタイン」
「ご機嫌よう、モーリッツ・ヴェルナーさん。あなたがわたしにならバッカスのことをどう知ったのかを話すと聞いたので、そのためにきました」
他にわたしの目的はないと最初に告げる。
「つれないこというなよ。一刻は婚約をした仲じゃないか」
「……ベルナーさんとは一刻たりとも婚約などしたことはないと聞いておりますが?」
「お前も苦労したようだな、頬がみすぼらしくこけている」
ほっとけ。かなりふくよかになり、体重も戻ったはずだけど、ちょっぴり背が伸びたことで、そんなふうに思われるのかもしれない。
「苦労してわかっただろう? ただで情報がもらえるわけはない。何、心配すんな。ちょっとおしゃべりにつきあってくれればいい」
バンパーさんが口を開こうとしたのを、わたしは片手で制した。
「聞くだけならできると思いますわ。わたしに何かを求めているのなら無駄です。記憶が戻ってないので、あなたのことは大して知りませんから」
「ああ、そうらしいな。私のことをどれくらい知っている?」
膝の上のもふさまをゆっくりと撫でる。
ヴェルナーとこうして話すとわかってから、彼のことをもう一度調べてもらった。年少期の頃から。
「モーリッツ・ヴェルナー、現在31歳。ヨン・ヴェルナーとラージョ伯爵夫妻の第一子。兄弟なし。ご両親は完全な政略結婚で、義務だけを重んじる家庭だったようですね」
ヘラヘラ笑ってこちらを見ていたヴェルナーの顔から笑みが消える。
「あなたを育てた執事のサムエル・ハビエさんはご高齢で起きあがれはしませんでしたが、あなたのことをたいそう心配されていたそうです。
ヴェルナー家には愛情がなかった。伯爵ご夫妻にはそれぞれ愛人がいて家にはほぼ帰られなく、あなたは使用人たちに過保護に育てられた。
メイド頭だったラケル・ガルさんはお亡くなりになっていましたが、その娘さんから話を聞くことができました。亡くなる直前まであなたのことを心配していたと。契約で関係を築くことしかあなたは知らなかった、と。それでも幸せを見つけられたかと最期まで気になさっていたようです」
逆をいえば、彼を育てた執事もメイド頭も、ヴェルナーが幸せになれるか危惧をしていたことになる。
ヴェルナーがこちらを睨んでいる。
「元奥さまがあなたを訴えた陳述書より、そのことも多少知っています。
あなたと元奥さまもお互いに条件を受け入れて、契約結婚されたそうですね。
あなたが奥さんに科したのは、仕事に関係するパーティーには同席すること。後継者を産み、育てること。ヴェルナーの家名を汚すようなことはしないこと。それさえ守れば、愛人を作っても何をしていてもいい、と」
ヴェルナーが鼻を鳴らす。
「愛人を作るのは問題なかったはずなのに、あなたは嫉妬に狂い、元奥さまに恐ろしいことをした」
ヴェルナーは口の端だけを吊り上げ笑った。
「誰が嫉妬するか。恐ろしいこととはなんだ?」
「奥さまの肖像画の顔にナイフで傷をつけた、とか」
ヴェルナーはハッと笑う。
「肖像画に傷がついただけだ。それが恐ろしいか? 馬鹿げてる」
「そうですね、それだけなら、描かれた顔に傷がついた絵を飾ったままにした、だけでしたけれど、そのあとすぐ夫人は事故にあい、肖像画の傷と同じところに傷を負った。夫人はあなたがやったと思った」
「どこにそんな証拠が?」
「顔に傷をおった夫人にパーティー同行を常に求めた。そんなあなたの異常さに夫人は離婚を申し出たけれど、あなたはなかなか頷かなかった。そうやって慰謝料を釣り上げた」
「それは誤解だ」
「誤解?」
「あいつが先に契約を破った」
「契約を?」
「そうだ。後継者を産まなかった」
それは彼女だけの責任といえないのでは?
「それは奥方が契約を破ったことにはならないだろう?」
それまで静かにしていた兄さまが声をあげる。
「違う。子供ができなかったのなら仕方ない。けどな、あいつは体調が悪いとか抜かして、夫婦の義務を怠った。それでいて愛人と懇意にしてたんだよ。体調も悪かったわけじゃないんだ。私は契約を守ってくれさえすればよかったのに。
肖像画は、商談がうまくいかなくて部屋の中で暴れたことがある。そのときに運悪く傷ついただけだ。それをあいつが深読みして怖がっただけ。事故だって、事故なのにどうやって狙いを定めて顔に傷をつけるっていうんだ?
顔に傷があったら二度と婚姻なんか結べない。哀れだと思って、別れなかっただけだ。離婚しなければ伯爵夫人。働かなくても夫人の務めだけ果たしていれば暮らしていけるのだから」
そう思っていたけれど、どんどん慰謝料を高く提示してくる。それほどまでに別れたいのかと承諾したのだと、ヴェルナーは続けた。
信じないけど、そうした上辺の話だけ聞くと、ヴェルナーはまともに聞こえるから不思議だ。
記憶が飛んだままだったら、わたしはちょっとばかりヴェルナーに同情したかもしれない。でもわたしは失った記憶を思い出した。
わたしを罠にはめようとしたこと。それがままならないと、証拠となること丸ごと、山崩れを起こして全てを消し去ろうとした。
訴えれば、領地の子アプリコットとミニーを使って、訴えたわたしを始末しようとした。
裁判でもわたしに罪があるよう話を持って行こうとした。
わたしは覚えている。だから騙されない。
ヴェルナーの家は契約だけで結ばれた家庭だった。けれど世の中には政略結婚の家だって山ほどある。どんな環境だってまともに育つ人もいれば、そうではない人もいる。
ヴェルナーは親からの愛情はなかったけれど、少なくても執事さんとメイド頭さんからは愛情をもらっていたはずなのにね。
でも、大人になっていて契約で居場所を選んだご両親はいいけど、そこで生まれた彼には厳しく辛い子供時代だったと思う。
体の成長には、栄養ある食べ物、そして運動が必要になるように、心の成長には、誰かからの愛情が必須だから。




