覚醒編②
根之国暦237年6月13日。
時刻5時10分。根之国、地上4階。居住区域、高見家。
高見寧々子は自室のベッドの端に座っていた。起きるには早い時間だが、これ以上眠れそうになかった。寝不足の赤い目で彼女はジッと一点を見つめていた。否、焦点の合っていない目は何も捉えていないのかもしれない。
(どうしよう……どうすればいいんだろ?)
母の育子に教えられた悠理の秘密を寧々子は持て余していた。だが、誰かに話そうなどとは思わなかった。殺される恐怖はともかく、悠理に害が及ぶようなことは彼女には出来ない。
寧々子はまだ悠理のことを好きだった。諦められるとは思えなかった。彼女を支えているのは、どのような手段であれ悠理の子供を産めるかもしれないという可能性だけだった。
それはまだ先の話だ。3年は待たなければならないだろう。
その間、悠理にはどう接するべきだろう。久遠とはどう接すれば良いのだろう。
その間を2人に近づかずに過ごすのか。それはできない選択だった。同じ家に住みながら悠理を避けて生活するなど彼女には無理だった。
そもそも久遠に遠慮する必要はあるのか。寧々子にとって彼女は唐突に現れた邪魔者にすぎない。少しの努力もせずに悠理を奪っていった許せない女でしかない。
(遠慮する必要なんて、無いよ)
その決断は寝不足の脳がさせたことなのだろうか。
寧々子は静かに立ち上がった。そして自室を出て悠理の部屋の前に立つ。
ゆっくりと扉を開く。悠理を起こさない自信はある。
ベッド脇の電灯に照らされて、予想通り久遠は悠理と一緒に眠っていた。
彼女が現れるまで、そこは寧々子だけの場所だったのに。
寧々子はゆっくりとベッドに上がり、悠理を挟んで久遠の反対側に身を横たえた。
薄明りの中で、久遠が動いた気配がした。
「ちょっと、どういうつもりですか、寧々子さん?」
久遠の押し殺した声。悠理を起こさないように配慮しているのだろう。
「私も悠ちゃんと寝たいの」
言いつつ寧々子は悠理を抱くように腕と足を絡めた。自分のものだとでも言うように。
「悠理は私のものですよ。悠理の首が見えませんか?」
久遠の声には怒気があるように思えた。
「知らないもん。私はずっと一緒に悠ちゃんと寝てたもん」
「悠理は私と婚約しました。両親への紹介も終わっているのですよ」
久遠の攻撃が寧々子の胸を抉った。
「知らない。私は聞いてないもん」
寧々子はその一点張り。最初から議論するつもりなど無いのだ。
「そうですか。そういうつもりなのですね?」
久遠の手が寧々子の脇腹に伸び、その肉を軽く抓った。
「ヒッ!」
大声を上げそうになって寧々子は慌てて口を閉じた。それでも彼女は悠理から離れようとしない。どうしても久遠には渡したくないようだ。
「んんん……」
何度抓られても寧々子は必死に耐えている。小さな溜息が聞こえた。
寧々子のパジャマの間から久遠の手が差し込まれた。彼女の冷たい指が寧々子の脇腹を這う。
「ヒヒッ!」
あまりのくすぐったさに寧々子が再び大声を飲み込んだ。
「成程、こちらの方が効くようですね」
「ちょ、やめてよぉ……」
「やめて欲しければ、悠理と私の邪魔をしないでください」
久遠の声に嗜虐の色が混ざる。そういう性格なのかもしれない。
「やだ、くっ、ヒヒッ!」
寧々子が激しく身を捩る。
久遠と寧々子の静かな戦いが続く真ん中で、悠理がむっくりと体を起こした。そして、寝ぼけた目でボンヤリと2人を見る。
「……2人とも、何してるの?」
眠たそうな声で悠理が聞いた。寧々子がいることに疑問は無いようだ。
「すみません。起こしてしまいましたか?」
優しい声音に変わる久遠。悠理の前では嗜虐的な性格を見せるつもりが無いのか、寧々子への攻撃も止めた。
「ねぇ……久遠さんって、私と会ったことない?」
「はい?」
唐突な寧々子の問いを、久遠は全く理解できなかった。
「何となくなんだけど……小さい頃、3人でこうしていた記憶があるんだよね」
「……憶えていませんが?」
「僕も……よく見る夢の中に、2人の女の子が出てくる。ただの夢だと思ってた」
悠理が寧々子に反応した。無視できない話題だったようだ。
「それだよ。やっぱり私達3人、昔はこうしていたんだと思う」
「……そうだとして、それがこの状況を許す口実にはなりません。悠理、寧々子さんに出て行くように言ってください」
「……眠いよ。もうちょっと寝させて」
そう言って悠理は横になり、後は何も言わなくなった。
「……逃げたね、悠ちゃん」「逃げましたね」
この優柔不断だけは、どうにかならないものか。
「……悠理の邪魔をしてはいけませんね。後でお話ししましょう」
久遠の宣戦布告を無視して、寧々子は再び悠理に手と足を絡めた。
時刻8時38分。根之国、地上3階。居住区域、中央坑道。
教育区域へと続く中央坑道を歩きながら、悠理の顔には困惑が浮かんでいた。彼の左腕には、そこを定位置と定めている久遠。そして右腕には対抗心むき出しの寧々子。2人の視線は悠理の眼前で何度も火花を散らしていた。2人とも競うようにプリーツスカートを穿いている。それでも膝上丈のスカートにハイソックスの寧々子に対して久遠はロング丈でしっかりガードしている。久遠が白いスラックスを穿くことは、おそらく二度と無いだろう。
(どうしてこうなってるのかな?)
いきなりの寧々子の復調は悠理には理解できなかった。それに、寧々子と2人の登校で彼女が腕を組んできたことは今まで無かった。久遠が編入してきたことで、悠理だけでなく彼の周囲も変化しているのかもしれない。
「2人とも、歩きにくいんだけど……」
悠理の苦情は2人に無視された。彼には拒否権など無いらしい。
「あの、だから──」「ちょっと寧々子さん、悠理に脂肪を押し付けないでください」
悠理の再度の苦情が合戦の始まりを知らせる合図だったのだろうか。
彼の言葉を遮って、必要以上に胸を擦り付ける寧々子に久遠が攻撃をしかけた。そう言う久遠の胸も必要以上に悠理に押し付けられているのだが。
「ごめんね。どうしても当たるんだよ。大きいから」
寧々子も負けていない。その言葉には悠理も心で頷くしかなかった。意識したことなど無かった寧々子の胸は、今の悠理にとって脅威と言えるほどの破壊力があった。左腕の久遠の胸と比べて、右腕の寧々子の胸には圧倒的な存在感があった。
「……悠理、いつまで寧々子さんの胸を触っているつもりですか?」
「だって、育子さんが女の子に乱暴はダメって……」
振りほどくという選択肢は悠理には無い。これは育子の教育の賜物だ。
「そうだよね? 悠ちゃんは優しい子だもん。そんなことできないよね?」
寧々子が勝ち誇った顔で久遠を見た。自分の方が悠理を理解しているとでも言うように。
対する久遠の顔は引きつっていた。教育方針としては間違っていない。いくらアエテルヌスでも、悠理が本気で手を出せば寧々子は大怪我をしていたか、運が悪ければ死んでいたはずだ。
取り敢えずこの場は、自分で寧々子を倒すしかないと久遠は決心した。
「悠理は私の胸が好みなのです。昨日の夜、そう仰いました。そうですね悠理?」
「そうだね」
悠理は無邪気に頷いた。胸はともかく選ぶのは久遠。それは彼にとって当然のことだ。
邪気が無いゆえに容赦のない悠理の攻撃に胸を抉られた寧々子の口から「グハッ」と苦鳴が漏れた。幼馴染でしかない彼女への気遣いは悠理にはまだ難しいのかもしれない。
今度は久遠が自らの胸に左手を当てながら勝ち誇った。寧々子と比べれば小さいが貧乳ということはない。しかもまだまだ成長中だ──と彼女は思っている。
「……昨日って、見せたの?」
「私の体は全て悠理のものですから。婚約者として当然のことです」
澄ました顔の久遠。そこに恥じらいというものは無い。
「久遠さんって、痴女?」
寧々子は疑いの目を久遠に向けた。
「失礼な。悠理以外に見せることはありません」
久遠が寧々子を睨み返す。再び悠理の眼前で飛び散る火花。
「2人とも落ち着いて……」
悠理の言葉は再び無視されたが、他人を無視してきた彼に文句を言う筋合いは無いだろう。
「でもね、高等部1年生でそれはどうかと思うよ? 私はもうすぐ大人になるから良いけど」
寧々子の顔がニヤリと笑う。目だけは笑っていないが。
「キスを見せられた程度で落ち込むようなお子様に言われたくありません」
鋭い反撃に寧々子の心がグラつく。年齢差は武器にならないようだ。
「キ、キスくらい、私だってしたことあるもん」
寧々子も必死の反撃。一歩も引くつもりがないようだ。
「聞き捨てなりませんね。いつ、どこで、どのように、ですか?」
悠理の初めての相手は自分だと疑っていなかった久遠にとって意外な攻撃だった。
「ほ、ほっぺたとか、おでこに」
「何かと思えば可愛らしいこと。子供の遊びは数に入りませんよ」
揶揄する久遠だが、その声からは安堵が垣間見えた。悠理の唇を先に奪われていたとしたらそれなりの衝撃があっただろう。
「ゆ、悠ちゃんの体を洗ったこともあるんだから」
おそらく子供の頃の記憶で寧々子が攻勢に出ようとする。悠理はもう無反応だった。話のオチが見えていたからだ。
「私もありますよ」
久遠の答えに寧々子は口をあんぐりと開けた。予想していなかった事態のようだ。
「い、いいい……いつ?」
あまりの動揺に寧々子の口が回らなくなる。
「一昨日、寧々子さんがいなかった時ですけど?」
(あの時かあぁ!)寧々子は心の中で頭を抱えた。間違いなく展望室で落ち込んでいた時だ。
「そ、そそそ……そんなのダメだよ! 間違いが起きたらどうするの!」
思わず寧々子が大声を上げた。彼女には考えられない所業だろう。
「安心してください。妊娠するようなことはしていませんよ」
久遠は正直に言った。悠理も小さく頷く。
「そ、そうだよね。子供なんてまだ早いよ。順序というものがあるもん」
寧々子は自らの言葉に頷いた。悠理を襲う計画を立てていたことはキレイさっぱり忘れているようだ。
「順序ということでしたら、悠理とは婚約しましたから、何かあっても間違いと誹りを受けることはありませんよ」
口に手を当てて「オホホ」とでも言いたそうな仕草の久遠に「ぬぐぐ……」と唸る寧々子。
(追い詰められてるなぁ)
悠理の判定では寧々子が不利な状況だ。一方的に殴られていると言っても良いだろう。彼はすでに面倒になって2人への介入を放棄していた。
寧々子は久遠に対抗できる武器が何かないかと必死に探しているようだ。そもそも十数年対数日で劣勢になっている時点で負けは確定しているのだが。
しかし、
「わ、私の体なんか悠ちゃんに触られまくっているんだから!」
何とか絞り出した言葉は、普段の寧々子であれば絶対に口にしないことだろう。だが、彼女はそれほど追い詰められていたようだ。
(触られまくったって言われてもなぁ……)
悠理としては触りまくったという自覚は無い。どちらかと言えば寧々子の自爆だからだ。
「大声で口にすることではありませんよ。貴女、そういう趣味があるのですか?」
自分を棚に上げて久遠。面の皮はどちらが厚いのだろう。
「私は痴女じゃないもん!」
痴女認定した痴女に痴女扱いを受けて寧々子が憤慨する。
「しかし、そうですか……私の全てに触れていただく。とても素敵な響きです」
久遠のうっとりした様子を見て悠理の頬が染まった。今夜にでも要求されると確信したのだ。
「ふん。私は何年も触られてるんだからね。昨日今日の付き合いとは違うのよ」
寧々子が大きな胸を張った。ようやく攻勢に出られると思ったのだろう。
「はい。ですから寧々子さんには必要ありませんね。次は私の番です」
「え……あれ?」
(これ、いつまで続くんだろう)
思いつつ、悠理の目からは2人とも楽しそうに見えた。寧々子はともかく、久遠は確実に楽しんでいるように見える。見えるだけなのだが、それは悠理には分からないことだ。
(まあ、良いか)
深く考えることを悠理は放棄した。変化はしても、それが悠理という人間の本質だ。
並んで歩く3人を、中央坑道の四つ辻の物陰から憎悪の目で見る3つの視線があった。相変わらず悠理を狙う禍津一男と八十兄弟だ。5階南側居住区域では独立への機運が高まっていたが未だに具体的な計画は立てられていない。大人たちが集まって話を続ける中にあって、彼等のような未成年者は蚊帳の外という状態だった。一男にとってはどうでもいいことだった。それよりも他のことに怒っていた。
(どういうことだよ! そいつは酷い男なんだぞ!)
一男から見たら悠理は二股をしている許せない男だ。寧々子はそれを知り悲しんでいたはずだ。それなのに今日は悠理と腕を組んで歩いている。彼には理解できない事態だった。怒りは当然のように悠理に向いていた。今すぐにでも殴り掛かりたい心境だった。それでも久遠がいる限り悠理には近づけない。
(クソっ! あの女ジャマなんだよ!)
そんな一男の視線に久遠だけが気付いていた。
(……ちょうど良いかもしれませんね)
少しだけ考えてから久遠は決めた。あの3人なら何かあっても問題ないだろう、と。
「悠理、寧々子さんと先に行ってください」
久遠の突然の言葉に悠理は首を傾げた。寧々子さえも意外そうな顔をしている。
「少し用事があるだけですよ」
「うん。分かった」
腕を組んで歩く2人を久遠は見送った。不愉快だが、今はそれよりも大切なことがある。
彼女の歩みは物陰の3人に向かった。その先には恐怖に顔を引きつらせた一男と八十兄弟。
彼等の目には、僅かな慈悲も感じられない、冷酷な鬼の笑みが映っていた。
時刻8時45分。根之国、地上4階。教育区域、高等部1年2組。
南方武瑠は自分の席で考えに沈んでいた。彼の周囲は不自然に無人で、生徒達は遠巻きに彼を盗み見ていた。関わりたくないし、怖い。それが生徒達の共通した思いだろう。彼に教室の雰囲気を気にした様子は無い。元々他人の思惑など気にしないのは武瑠も悠理と同様。しかし、それ以上に今の彼はそれどころではなかった。
(あれほど俺と久遠の婚約を喜んでいた荒波防衛局長がどうして俺の邪魔をするのだ? あの男に近づくなというのはどういうことだ? 久遠と結婚して俺は防衛局長の椅子を継ぐ。そしていずれは久遠を王妃として根之国の王となるべき逸材なのだ。選ばれた逸材である俺をどうして久遠から遠ざけようとする。こんなことはありえない。俺と久遠が結婚するのは運命なのだ。この運命の前にはどのような障害があろうと……障害?)
武瑠の目がクワッと開かれる。
(もしかしてあの男は荒波防衛局長が用意した障害なのか? いわゆる恋路を邪魔する奴ということか? つまり荒波局長はこの障害を乗り越えて見事久遠を手に入れてみせろと言いたいのだ。考えてみれば分かることではないか。荒波局長が優秀な俺の代わりにあんな軟弱な男を久遠の婚約者として選ぶなど有り得ない。荒波局長も俺の事を好ましく思っている。愛に試練はつきもの。これは自明の理だ。これこそ真実だったのだ)
一点を凝視する武瑠の口から不敵な笑い声が漏れる。遠巻きに観察する生徒達がビクッと反応して後退した。
(卑怯な男だ。やつは怪しげな術で久遠を変えてしまった。あの清楚で美しい俺の久遠を淫らで恥知らずな女に変えてしまった、恨んでも恨みきれない極悪人だ。あの男の洗脳から久遠を開放するにはどうすれば……待てよ、洗脳?)
武瑠の思考が斜め方向に跳ぶ。彼は新たな可能性に思い至ったのだ。
(もしやあの男、荒波防衛局長も洗脳したのか? 人妻にも手を出したというのか? 奴の狙いは荒波局長と久遠を親子で……な、なんて羨まし……否、なんという下劣な男なのだ。この学校の女子生徒達も全て洗脳済みに違いない。そうでなければ俺を差し置いてあんな貧弱な男がキャーキャー騒がれるわけがない。やはりあの男は許しておけない。しかしどうする? 荒波防衛局長も洗脳されているこの危機的状況で俺は何をするべきなのか──)
武瑠の思考は一つの結論に至る。
(──消すしかない。誰にも気付かれずにあの男を殺すしかない。そうすれば久遠にしかけられた洗脳も解けるかもしれない。否、きっとそうなる。俺の愛刀「南方安平」、ついに抜く時が来たということだ)
武瑠は暗い声で笑う。どうして戸間安平が彼に作刀したのかは永久に謎かもしれない。そもそも刃長89cmの太刀を拵まで作らせておいて、「腰の固定具に差したいから打刀拵にしろ」と難癖をつけ、「それだと抜きにくいだろうが」と激怒する戸間を押し切って拵を変えさせた男は彼一人である。南方武瑠も太刀とか打刀とか細かいことは気にしない男だ。それでも戸間が望み通りに拵を変えたのは、変人同士通じるものがあったのか。
(機会を待つのだ。いずれ必ずあの男を殺す機会が訪れる。あの極悪人、否、悪魔と言うべき男を俺の手で殺すのだ。待っていてくれ久遠。俺が必ずお前を悪魔から解放してやる。そしてお前は俺のもとに帰ってくるのだ。そして結婚しよう。俺がお前を根之国の王妃にしてやる)
南方武瑠の野望は、この時をもって明確な形となった。
事情を知らない1年2組の生徒達にとっては、黙り込んで時折静かに笑う南方武瑠の姿は不気味だった。
1年2組でも、ちょっとした事件があった。
教室に入ってきた悠理と、その後ろからは久遠──ではなく鞄を提げた白山という女子生徒が入ってくる。教室中の女子生徒がざわついた。「王子ひとりだよ」「荒波さんいないね」「ケンカかな?」「待って、でも王子の首」「え? 婚約したってこと?」「あれって荒波さんの髪よね?」悠理の首に巻かれた黒い首輪に気付いた女子生徒達が口々に悲鳴に似た声を上げていく。悠理は気にした様子も無く喧騒の中を自分の机まで歩いていった。久遠がいない時の彼は感情を節約しているようだ。
しばらくして久遠が教室に入ってくる。南方武瑠の姿が無いことに安堵して、彼女は真っ直ぐ悠理だけを見ながら定位置に移動し席に座った。途端に教室のあちこちから舌打ちの音が聞こえてきた。
8時55分。いつものように教室の扉が開き担任の火照緋焔が入ってきた。
緋焔はしかし、教壇を通り過ぎ悠理の前に座る生徒を追い払って乱暴に椅子を蹴り寄せ、悠理の机の前に立った。何事かと生徒達が見守る中で、緋焔は腰を屈めて悠理の緑眼をジッと覗き込んだ。彼の目には戸惑いがあったが、確かに緋焔を認識していた。焦点の定まらないこれまでの目とは違う、しっかりとした意思を感じる目だった。そして、彼の首には久遠の髪と思われる首輪。
「……先生?」
問いかける悠理に緋焔は寂しそうな笑顔を見せた。そして彼のプラチナブロンドの髪をクシャクシャと撫でる。悠理とベッタリくっついた久遠のことは気にならないようだ。
(またアエテルヌスですか。しかもこの女とは……)
久遠にとってはそれだけで充分だった。要警戒名簿に1人の名が加わった。
「何の真似ですか、火照先生?」
隣の席から久遠が口を挟んだ。
「うん……伊凪君に選ばれたのは姫か。ここまで変わるとは……」
ようやく現実を受け入れる覚悟ができた緋焔の声は重く沈んでいた。
「悠理のことはご心配なく。私にお任せください」
暗に止めろと言う久遠。その声は氷のように冷たかった。
「姫はまだ怒っているのか? 私はもう気にしてない」
「…………」「……先生、久遠と知り合いなの?」
黙り込んだ久遠の代わりに悠理が聞いた。久遠のことを「姫」と呼ぶのは警察部の隊員だ。
緋焔の顔がさらに悠理に近づく。
「私の目はこの女にやられた。こいつは鬼のような女だ。婚約なんて破棄したほうが良いぞ」
大人の女性の匂いに包まれて悠理が少しだけ頬を染める。これも今まで無かった反応だ。
「……悠理?」
久遠の冷たい声に悠理の体がビクッと震えた。それでも髪を撫でる緋焔の手を振り払おうとはしない。久遠から見た今の悠理は、どう対処すれば良いのか分からず戸惑っているように見える。女性への暴力を禁じた育子の教育は、悠理にかなり浸透しているようだ。
(これは……かなり根が深いようですね)
いつまでも放置できる問題ではないと久遠は確信した。このままでは悠理に言い寄る女が増えていくだけだ。そして、久遠の要警戒名簿の中で、高見育子の順位が上がった。
「ほら、怖いだろう? 先生のほうが優しいぞ」
「大袈裟ですね。眼球まで傷をつけた憶えはありません」
久遠の言葉に緋焔はニヤリと笑って眼帯代わりの鍔をずらして見せた。左の眉に刀傷があるが、確かに眼球は傷ついていないようだ。
「どう思う伊凪君? 女の顔に平気で傷をつけるような女だ」
「……久遠を怒らせたの?」
悠理からすれば、理由もなく久遠がそんなことをするとは思えなかった。
「ちょっと斬りあいたくなっただけだ。服を斬っただけでコレだぞ?」
「本気で挑んできたのですから当然です。その程度の代償で終わったのですから感謝していただきたいくらいです」
当時、火照緋焔21歳、荒波久遠12歳。緋焔が怖いと言うのも分かる話だ。
「先生!」
宿儺咲良が声を上げた。緋焔はゆっくりと咲良に向き直り、嘲笑するように唇を歪めた。
「局長代理様の威光は私には通じない。それとも嫉妬か?」
どちらも図星だったのか咲良が真っ赤な顔で黙り込んだ。この場合、正しいのは咲良だが。
「伊凪君への虐めだけは私が許さない! 南方武瑠のようなマネをすればどうなるか、覚悟しておけ!」
生気を取り戻した「火竜」の咆哮に生徒達は黙り込んだが、およそ教師とは思えない言動だった。
久遠は事態を把握していた。緋焔が悠理の担任になっているのは偶然ではない。主導したのは育子あたりか、と。そうであれば緋焔は味方だが悠理に関しては信頼できない。
久遠の頭痛の種がまた一つ増えたようだ。
時刻15時30分。根之国、地上4階。居住区域、警察部格技場。
格技場は、教育区域を出てすぐの、4階中央坑道の東側にある警察部隊員控室の奥側にある施設である。10m四方の床面に真砂土を敷き詰めた施設は石窟都市では珍しい。コンクリートか研磨された石材が都市の地面としては一般的だが、それでは怪我をするからと警察部の隊員達が苦労して敷き詰めたのだ。いつもは隊員達が各種訓練をしているが、時には一般に開放され住民による闘技大会が開かれたりもする。娯楽が少ない住人達にとって数少ない娯楽の場でもある。
悠理と久遠は格技場の中央に立っていた。荒波永遠に言われたとおり、久遠が悠理を鍛えるためである。寧々子には事情を伝えて先に帰らせた。彼女としても悠理を鍛えるという久遠の考えに反対は無かったのだろう。悠理が複数の男子生徒の標的になっている現状を寧々子は知っていたからだ。格技場は久遠が警察部の隊員と交渉して借りた。どうやら「姫」の威光は防衛局警察部に浸透しているらしい。あるいは防衛局警察部長である荒波速雄の意向か。
格技場には彼等の他に3人の男子生徒と数人の警察部隊員が立っていた。そして何故か、もはや警察部の関係者では無い悠理の担任の火照緋焔も。3人の男子生徒は、久遠に脅されて仕方なく来た禍津一男と八十兄弟である。来なければどうなるか想像するだけで恐ろしかった。
隊員達は単なる暇つぶしである。5階南側独立騒動は朝までには全警察部隊員に通達されていたが、住人の多くは独立についての話し合いを行っているだけらしく、夕方までには隊員達の緊張は解けていた。暴力的鎮圧に至らなかったのは静観するよう指示を出した荒波警察部長の判断が大きい。上層部は対応に追われていたが末端の隊員達は気楽なものだった。そんなことよりも、彼等の「姫」に恋人ができたというのは警察部内で噂になっていた。あのじゃじゃ馬に選ばれた気の毒な──幸運な男に彼等が興味を持つのは当然のことだろう。
集まった顔ぶれから事態を把握して、悠理は意外そうな顔を久遠に向けた。
「久遠が相手じゃないの?」
「私に悠理を攻撃できると思いますか? 手加減を覚える相手としては適当だと思いますよ」
彼の問いに久遠は当然のように答えた。間違いが起こっても問題ない相手を選んだということだろう。久遠の目が悠理の訓練相手を示すように壁際の3人の生徒に向く。
「……誰?」
「少しは自分に悪意を向ける相手を憶える努力も必要ですよ。悠理は物臭すぎです」
悠理の本気の疑問に久遠は呆れ顔になった。
「……ごめん」
このまま説教に突入しそうな雰囲気を感じて悠理は素直に謝った。久遠はしばらく物言いたげな顔で悩んだあとで、とりあえず問題を棚上げして壁際の3人に手招きした。
「こんな所に呼び出しやがって、どういうつもりだよ?」
一男の物言いに久遠が不快な顔を見せる。
「そ、そんな顔したって俺らが言うこと聞くと思うなよ!」
「ご心配なく。私は手を出しません。貴方がたには悠理の訓練に付き合っていただきます」
久遠の言葉に一男の緊張が解けた。
「人形野郎を鍛えてどうすんだよ? ムダに決まってんだろ?」
一男がせせら笑う。その目には悠理への侮蔑があった。
その反応を無視して久遠は悠理の耳に唇を近づけた。
「まずは手を出さないでください。見物人がいますから『加速』を使ってはいけませんよ」
「分かっ──」「うぉらあ!」
久遠が離れると同時に一男が悠理に殴り掛かった。狙い通りの奇襲。
それでも悠理は一男の拳を避けた。予想の範囲内だった。
「だらぁ!」
奇襲に失敗した一男はそれでも右左と拳を繰り出す。
悠理には掠りもしない。一男の拳を無表情で躱す。
「おい!」
一男が叫んだ。その声に八十兄弟が動く。
悠理を囲むように移動。三方から攻撃をしかける。
(たしかに難しいな)
3人に増えた攻撃は悠理を捉え始めた。頬に、肩に、背中に。
一男の目が笑う。これならいけると考えたのだ。
(思ったより痛くないんだな)
悠理には危機感も恐怖感も無い。
顔を憶えろと言われても所詮は興味を持てない相手だ。
だが、黙って殴られるのは鬱陶しいという程度には嫌だった。
(ということは……)
悠理は後ろに跳んだ。3人が視界の中に入る。
(こういうことかな?)
常に3人を視界の中に捉える。
移動の度にそれを意識した。
3人の攻撃が当たらなくなる。
一男の顔に苛立ちが浮かんだ。
「オマエら! マジでやれ!」
「やってるって!」「こいつやっぱり速い!」
ムキになった一男が腕を振り回す。
八十兄弟の顔には諦めか。
「そこまで!」
久遠の声が響いた。
「何だよ! もう終わりかよ!」
一男が叫んだ。今日こそ叩きのめすという決意に目が血走っていた。
「ご心配なく。休憩ですよ」
「チッ!」
一男と八十兄弟が2人から離れて座り込んだ。3人は肩で息をしている。
久遠は悠理を呼び寄せ足さばきを教え始めた。
そんな彼等を、1人の男性隊員と緋焔が壁際で興味深そうに観察していた。
緋焔と並んで立つ男の名は大戸直毘、27歳。防衛局警察部10人隊、通称「大戸隊」隊長。緋焔と直毘は、元は警察部の同じ10人隊にいた同僚で、彼が自分の隊を持ったのは緋焔が教育局に異動した後だ。その他の隊員達は直毘の部下だ。
「……どう見る?」
直毘が緋焔に意見を求めた。
「まだ分からないが、彼の苗字は伊凪だ。私の生徒だよ」
悠理を知る緋焔が答えた。愛刀「天一文字」で野人十数体を道連れにして死んだ「伝説」伊凪悠斗の名は防衛局内に浸透している。
「そういうことか。軟弱そうに見えるが、姫が気に入ったということは何かあるのか?」
直毘の質問に緋焔は肩を竦めて見せた。悠理にこんな事をさせていること自体、彼女には考えられないことだ。悠理は弱くても良い。緋焔にとっては護るべき愛しい少年なのだ。
「本当に教師になっていたのだな。『火竜』と呼ばれていた昔の火照を知る隊員達は驚くだろう」
「火竜」というのは、名前と赤銅色の髪と苛烈な性格から付けられた警察部隊員時代の緋焔の渾名だ。それなのに、挑発ともとれる直毘の言葉を気にした様子は微塵も無い。それどころか、彼女が浮かべているのは満ち足りた笑顔だ。
「良いだろう? 斬り合いなんかより、伊凪君に勉強を教えるほうが楽しいぞ」
「姫とも和解しているようだし、昔の火照からは想像もできんな」
直毘が知る火照緋焔は渾名の通り手が付けられない暴れ者だった。それなのに、金屋一作刀の「焔一文字」を腰に差している。真面目な彼からすれば警察部隊員としては許せない存在だった。それが今、彼の挑発にも余裕の笑顔を見せるほど穏やかに変わっている。この変化を引き起こしたのが伊凪悠斗の息子だとすれば、確かに只者ではないのかもしれない。
そんな会話が壁際で交わされているとは知らず、久遠は次の指示を悠理に与えていた。
「今度は手を出しても良いのですが、悠理は他人を殴れますか?」
「それは……育子さんにダメって言われてるし……」
戸惑う悠理に久遠は考え込んだ。母親としての育子の影響力は無視できないほど強いようだ。
「そこの3人、もしも悠理を倒すことが出来たら、私を好きにして良いですよ」
「久遠!」
「マジか!」「やったぜ!」「人形の前で鳴かしてやろうぜ!」
突然、3人の男子生徒に向かって放たれた久遠の言葉に悠理の心は激しく乱された。信じられないという顔の悠理を久遠は黙って見つめていた。彼には久遠が本気で言っていると思えた。
(ありえないことですが、もしものことがあれば殺すだけです)
純情な悠理に比べれば久遠のほうが腹黒いだけなのだが、悠理にはそこまで読み切る経験値は無い。久遠は悠理以外にはとことん冷酷な女なのだ。
「早くやろうぜ人形!」「待たせんなよ!」「ビッてんのか!」
口々に叫ぶ3人の声は悠理には届かなかった。
「……育子さんとの約束を守ってきた悠理は立派ですが、これからは私を優先してください。それとも、本当に私が好きにされても良いのですか?」
静かに言う久遠の言葉は悠理にとっては脅迫だった。だが、そんなことを許せるはずがない。
「……分かった」
「悠理が私を護ってください。ただし、本気を出してはいけませんよ。普通の人間がどの程度で壊れるのか、しっかり覚えてください」
指示を出す久遠には悠理への揺るぎない信頼があった。彼女は笑っていたのだ。
久遠が悠理から離れる。
途端に一男と八十兄弟が悠理に飛び掛かった。
先頭の一男の顔に、悠理は軽く拳を当ててみた。
「なんだそりゃ! 殴るってのはこうやんだよ!」
振り回した一男の拳は当たらない。
(これじゃ効かない)
3人の攻撃を躱しつつ次は少し力を入れる。
「ぐっ…この程度で……」
一男が顔を顰める。少しは痛かったようだ。
(もう少し)
悠理の右から狙ってきた三郎の腹部に肘が入った。
「うぐっ……」
三郎はその場で崩れる。
「野郎!」
正面の一男を左拳で、左の継男を右拳で、それで全ては終わった。
「……これで良いの?」
崩れ落ちた3人の真ん中で悠理は久遠に目を向けた。その顔は少し不機嫌そうだった。
久遠がニッコリと微笑む。どうやら合格だったようだ。
「せっかくですから、もう少し続けましょうか」
悠理の足元で3人が呻き声をあげている。彼等にとっては信じられないことだろう。軟弱と思っていた悠理に一撃で倒されたのだから。
「くっ……どうなってんだよぉ……」
一男が声を絞り出した。這いつくばっている自分が信じられないのだ。
「早く立ちなさい。訓練はまだ終わっていませんよ」
久遠が冷たく言い放った。警察部の隊員達が陰で呼ぶ真の渾名「鬼姫」そのままの顔で。
壁際の隊員達の顔には同情の色が浮かんでいる。無謀にも久遠に勝負を挑んだ警察部隊員の末路を思い出していたのだ。地上3階の格技場でも見たことがある光景だ。
「仕方ないですね。大戸隊長、木刀を貸していただけますか?」
「それは構いませんが、良いのですか?」
疑念を呈しながらも、直毘は格技場に備えられた木刀を手に取った。悠理が強いのは分かったが、素人とはいえ木刀を持った3人を相手にするのは危険ではないか。
「問題ありませんよ」
木刀を受け取った久遠が、3人の近くにそれを放り投げた。
一男は目の前に転がった木刀を見つめている。八十兄弟は戦意を失っているようだ。木刀を持った3人が1人に負けるわけがない。それなのに、この女の自信はどこから来るのか。自分達はとんでもない勘違いをしているのではないか。軟弱と決めつけていた悠理の意外な強さは一男を混乱させていた。
「条件は同じですよ? それとも負けを認めますか?」
「くっそぉ……」
一男が木刀に手を伸ばして立ち上がる。このままで終わるわけにはいかなかった。強さだけが彼等の価値観なのだから、軟弱な男に負けたままでは仲間に見捨てられる。
「おい! 起きろ!」
そして八十兄弟に怒鳴った。顔を見合わせた兄弟はノロノロと木刀を手に立ち上がった。彼等には一男も恐怖の対象だ。
「先にやらせてやるからよぉ! 根性見せろや!」
再び一男が声を荒らげた。あるいは自分を奮い立たせているのか。
「胸が物足りねぇけどよ! 鳴かしてやるぜ!」
継男の言葉は強がりだろうが、その目には欲望があった。
「……殺しますよ?」
胸という単語にだけ久遠は反応した。もしかしたら本当に気にしているのかもしれない。
「悠理、準備は良いですか?」
「良いけど……」
悠理はまだ納得していなかった。だが、久遠を他の男の好きにさせるなど許せないことだ。
(死なないとは思うけど……)
少しだけ本気になろうと決めた。負けるよりも殺してしまうほうがマシだと思ったのだ。
果たして、飛び掛かってきた3人を、悠理は一瞬で殴り倒した。
その動きは壁際の緋焔と隊員達の目を見張らせるに充分なものだった。
木刀を拾い上げた久遠が大戸直毘に歩み寄る。これ以上は続行不可能と判断したのだ。
「あの少年、姫に選ばれただけのことはありますね」
木刀を受け取りながら言う直毘に、久遠が軽く不快な顔を向けた。「姫と呼ぶな」と目で伝える。彼は表情だけで降参の意思を表した。
「これからも、悠理の訓練を続けたいのですが?」
久遠は不快感を消して直毘に言った。
「聞いております。いつでも声をおかけ下さい」
こちらも真面目な顔に戻った直毘。立場は彼の方が上だが「鬼姫」を相手にそれは通じない。
直毘の言葉に久遠はニッコリと微笑んだ。悠理に向けるものとは違い社交的な笑顔だ。
「私が来られない時は悠理の訓練に立ち会っていただきたいのですが? もしものことがあっては困りますから」
久遠の要望は多分に厚かましいものだった。
「了解しましたが、伊凪君の身に危険があるとは思えません」
直毘は彼女の要望に応じた。彼にも思うところがあったのだ。
「相手を殺してしまわないように、ですよ」
笑顔のままで久遠は直毘の疑問に答えた。それを冗談と受け取って彼は笑って頷いた。
「……悠理?」
呼びかける久遠に、悠理は俯いたまま歩み寄った。その頬は膨れているように見える。
拗ねてしまった様子の彼の頭を久遠は優しく抱き寄せた。
「すみません。でも、間違ってもあのような輩に触れさせることはありませんよ。私は悠理だけのものです」
謝る久遠は苦笑を浮かべていた。やり過ぎたと気付いたのだろう。
「彼等はどうする? 治療の必要があると思うが──」
緋焔の視線の先では、禍津一男と八十兄弟が倒れたまま放置されていたが、悠理も久遠も気遣う素振りさえ見せない。
「──大戸君、こちらで治療しておくしかないようだ。姫にはその気が無いようだから」
同性だからか性格か、緋焔は久遠にあまり遠慮してないようだ。
「お願いしますね」
久遠は鷹揚に頷いた。まさに「姫」の威厳を持って。
時刻19時35分。根之国、地上5階。南側居住区域、禍津家。
禍津熊男は苛立った顔で家に戻った。5階南側居住区域の住人で、仕事をしていたのは半数に満たないだろう。独立を議論する住人の輪が居住区域のあちこちに出来上がり、女も男も口々に自分の意見を述べていた。当然のことながら独立への話は何も具体的なことが決まらずに終わった。代表による話し合いを行うべきという方針だけが決まった。
「どいつもこいつも勝手なことばかり言いやがって!」
彼の苛立ちはその一点に尽きる。独立を言い出したのは彼だ。それなのに誰も彼の言うことを聞こうとしない。その苛立ちのままで熊男は息子の一男の怪我を見咎めた。
「ケンカか? 勝ったんだろうな?」
見事に腫れた右頬は悠理に殴られたものだ。
「お、おぉ……」
一男は分かりやすく目を泳がせた。ひと目で負けたと分かる反応だった。
「何だ? 負けたのか?」
熊男の目が鋭くなる。力こそ全てと疑わない彼は、喧嘩に怒りはしないが負けるのは許さない男だ。一男は父の価値観を幼い頃から叩き込まれていた。
「だ、だってよぉ──」「相手は何人だ?」
熊男にとっては当然の問いだ。息子が1人を相手に負けるわけがない。そういう男に鍛えたと自負しているからだ。
「………」
1人に3人がかりで、しかも木刀を持って負けたなどと言えるはずがない。
「何人だって聞いてんだ!」
熊男の怒声に一男がビクッと身を震わせる。岩盤の掘削を仕事にしている父は怖い。一男は父が負けるところを見たことがない。だから、本当のことは言えなかった。
「4階の奴ら、数を集めやがって──」「4階に負けたのか! 何人だ!」
鋭く反応した熊男の怒声に一男の体が再び震える。彼等親子には4階に住んでいる奴は弱いという偏見がある。4階には管理職が、5階には肉体労働者が多く住むというのは事実だ。熊男にとって4階に負けるというのは最も許せないことだった。それは一男にも分かっていた。
「……10人」
だから一男は嘘をついた。
「継男と三郎もいたんだろ? それで負けたってのか?」
八十兄弟の名を出されて一男は答えに窮した。3人対10人で負けたことを父が許すか自信が無かったのだ。一男は壁際で見物していた警察部の隊員を思い出して嘘を重ねた。
「いや、だってよぉ、あいつらケーサツを味方につけて──」「なにぃ!」
それで熊男は納得した。それなら理解できるが同時に激怒していた。子供の喧嘩に大人が、それも警察部の隊員が口を出すなど許せないことだ。
「そ、そうなんだよ。あいつらヒキョウなんだよ」
「くそっ! 4階の奴ら!」
禍津熊男の中で4階住人への憎悪が大きく膨らんでいった。
是が非でも独立しようという決心を固めるほどに。
* * *
根之国暦237年6月14日。
時刻12時30分。根之国、地上4階。教育区域、高等部1年1組。
昼休みの話題は5階の独立騒動一色になっていた。根之国の教育機関全生徒480人の中で5階南側から通う生徒数は91人。今頃は初等部から高等部までの全教室が同じ話題に満ちているだろう。高等部1年1組の教室でこの話題に触れていないのは伊凪悠理と荒波久遠だけだった。久遠は悠理に弁当を食べさせては、その間に自分の弁当を食べるという忙しい作業に没頭している。それは、他人を寄せ付けない2人だけの世界だ。
「悠理、すみませんが今日は1人で格技場に行ってくださいね」
ゆっくりとした昼食が終わり、悠理の口の周りをハンカチで拭き終えた久遠が悠理に告げた。
「え? どうしたの?」
この4日間、久遠と離れた時間がほぼ無かった彼にとって、それは意外な言葉だった。
「大切な用事ができました。本当は行きたくないのですが、仕方ありません」
久遠は放課後に3階管理局長室に行くように高見育子から言われていた。管理局長室の主は天乃弥奈だから悠理に伝えられる話ではない。
「うん、分かった」
悠理の反応の薄さに救われたが、何の用事なのか、もう少し興味を持ってくれても良いのではないかという思いも久遠にはある。悠理にすれば久遠さえいれば自分の正体さえ興味が無いのだから、それは贅沢というものかもしれない。悠理の言葉が足りないのは確かだが。
隣の1年2組も独立騒動で沸き立っていた。その中で、南方武瑠だけがポツンと1人で座っている。彼は未だに教室で孤立していたが全く気にしていない。久遠と悠理以外は彼にとって取るに足りない存在でしかないのだ。あるいは、それがフォルティス共通の価値観なのかもしれない。
珍しいことに、男子生徒が歩み寄って武瑠に声をかけた。八十三郎だ。しばらく聞く耳を持たなかった武瑠だが、三郎の口から出た「伊凪」という名を聞いた途端に立ち上がって教室を出て行った。それを気にする生徒は1人もいなかった。
武瑠は三郎に連れられて高等部1年の教室が二つ並ぶ小坑道から教育区域中央坑道に出た。
そこには禍津一男と八十継男とが待っていた。久遠への恐怖に加えて悠理にも歯が立たなかった彼等は強い仲間を引き入れようと登校中に相談していた。そこで三郎が2組の転入生を思い出したのだ。南方武瑠が悠理を狙っているという話は2組にも広まっていた。何よりその男は刀を持っている。一男は三郎に武瑠を昼休みに呼び出すように指示した。三郎は武瑠に接近したが無視され続け、悠理の名を出すことでようやく彼を連れ出すことに成功したのだ。
「俺に話とは何だ? 伊凪の名がどうしてお前達から出るのだ?」
一男と継男は二つ年上だ。武瑠の態度は年上に対するものではなかった。何より、虫でも見るような彼の目は許せるものではなかった。反射的に叫ぼうとした継男を引き留めて、一男は自分の怒りも必死に静めた。
「許せねぇんだよ、あの伊凪って奴がよぉ。アンタも伊凪を狙ってんだろ? 協力しようや」
「そういう話か? 俺には必要ない」
立ち去ろうとする南方武瑠に一男は頭を下げた。悔しさを押し殺しながら。それを見た八十兄弟が慌てて一男に合わせる。そこまでしてでも一男は悠理に勝ちたかった。
「頼む! アイツだけは許せねぇんだ! あの女たらし、俺の女にまで手を出しやがった!」
寧々子が事情を知れば憤慨するだろうことを一男は口にした。嘘をつくことに罪悪感などあるわけがない。
「む……女を盗られたのか?」
「そうなんだ! だから頼む!」
武瑠は3人の話に興味を持った。
(あの悪魔、久遠や荒波防衛局長の他にも手を出していたのか。否、あの悪魔であれば当然のことだ。他にも何人もの女に手を出しているに違いない。しかもこいつらは弱い人間だ。俺の強さを頼ろうとする気持ちは充分に分かる。俺はいずれ根之国の王となるべき男。であれば、弱い人間にも王としての寛容を与えてやるのは俺の義務と言える)
ある意味では正鵠を射ている武瑠の怒りは一男への同情に変わっていた。
「良かろう。話を聞いてやる」
武瑠は王者の貫禄で胸を張った。
「ありがてぇ!」
一男はこれまでの経緯を説明した。久遠に倒されたこと、悠理に呼び出されて警察部隊員も含めた大人数に暴行されたことなど虚実織り交ぜながら。そして、
「なに? 伊凪に勝てば久遠を好きにできるだと?」
武瑠が食いついたのは当然その話だった。
「間違いねぇ。あの女が自分でそう言ったんだ」
武瑠が考え込む。
(あの清楚な久遠が自らそんなことを口にするはずがない。当然あの悪魔に操られて口にしたことだ。俺があの悪魔を殺すのを、操られている久遠が黙って見ているはずがない。こいつらに久遠の足止めをさせれば……駄目だ。3人では久遠を止めることはできない。であれば……)
「お前達、人数を集めることはできるか?」
「アイツを恨んでる奴は多いからよ」
「でもよ、5階で独立するとか騒ぎになってんだろ。集まるか?」
八十継男の言葉に武瑠が眉を上げた。
「……5階で独立だと?」
武瑠の耳に教室での話題は届いていない。3人の説明で、彼は初めて5階南側独立騒動を知った。
(5階だけで独立か。無謀な話ではあるが俺が加わることで戦力は逆転する。5階独立の後は4階3階へと占領地を広げ、やがて根之国を俺の王国にする。手駒を多く揃えることが出来ればその過程であの悪魔を殺すことは簡単だ。そして久遠を正気に戻し、王妃として迎えるのだ)
「よし、方針は決まった。俺を5階に連れていけ」
「お、おう?」
禍津一男は不得要領に頷いた。とにかく南方武瑠が味方になったことだけは分かった。彼にはそれだけで充分だった。根之国にさらなる混乱を巻き起こすことになるなど、彼に想像できるはずは無かった。
時刻15時30分。根之国、地上3階。管理区域、管理局長室。
荒波久遠は天乃弥奈からの呼び出しを受けていた。
悠理を1人で格技場に行かせた後で、久遠は3階の管理区域を訪れた。管理局本部は喧騒に包まれていた。5階での独立騒動は久遠の耳にも入っていたが興味は全く持てなかった。
予想に反して彼女は待たされることなく管理局長室に案内された。
弥奈は応接ソファの下座に座っていた。そして入室した久遠に上座に座るよう手で促す。
「……成程、それが本当の天乃局長の顔ですか」
弥奈の背中越しに回り込んで座った久遠の第一声がそれだった。
彼女は縁なし眼鏡を外し、最初から研究者としての──あるいは本当の顔をしていた。その顔は久遠に悠理を思い出させた。弥奈が持っていた写真で初めて見た悠理は今の弥奈と同じ顔をしていた。無表情で、まるで何も望んでいないような虚しい目。その写真を見て胸が疼いた。その理由を瞬時に理解できたからだ。彼は自分と同じだ。否、自分よりも重傷かもしれない。自分であれば彼を虚無の世界から引きずり出せる。だからすぐに転入の手続きをするように弥奈に願った。だが、それは過去の悠理だ。彼を昔の顔に戻すつもりは久遠には無い。
「そういう話だ。ふざけた態度では誠実さを疑われる」
写真の悠理と同じ顔をした女は、感情の無い声でそう言った。
「聞きたくない話なのでしょうね。帰りたくなってきました」
これは久遠の本心だ。楽しい話にならないのは呼び出しを受けた時から分かっていたことだ。
「こちらは斬られる覚悟だ。話くらいは聞いてくれないか?」
弥奈の目が久遠の隣に立てかけられた異形の太刀を見る。
久遠は「黒姫一文字」を入口で預けるよう求められなかった。それは弥奈の指示だろうが、普通は有り得ないことだ。しかし、そう言われても悠理と同じ顔をした女を斬れるかどうか、久遠であっても少しは迷うかもしれない。そして、下手に出ているように見えるが久遠は彼女からの圧力を感じていた。弥奈は本気だということだろう。
覚悟を必要とする相手だと久遠は認識した。
「……分かりました。悠理のことですね?」
久遠にとっては当然のことだった。2人の間で重要な話と言えばそれしかない。
「隠すことは無いし騙す気もない。他の女が悠理の子を産むことを許す気になれるか?」
弥奈はいきなり有り得ない問いかけを久遠にした。駆け引きも何もなく、真正面から。
「……率直ですね。悠理と会わせてくださった天乃局長には感謝しております。ですが、はいそうですかと受け入れられる話ではありません」
久遠は一瞬だけ絶句していた。弥奈の正気を疑うような問いだ。
「だろうな。当然のことだ」
弥奈の顔は真剣だ。問いにせよ久遠の返答への返しにせよ、ふざけているとしか思えないのだが。
「それをお分かりの上でおっしゃる意図が理解できません」
弥奈が何を考えているのか、久遠には全く理解できなかった。
「それも当然だ」
ますます分からなくなる。隠すつもりも無く騙すつもりも無い。その言葉に嘘は無いと久遠は感じていたが、弥奈から与えられる情報が少なすぎる。
久遠の視線と弥奈の視線とが正面からぶつかる。
沈黙。
弥奈の目に狂気は無い。
ただ、緑眼のはずの彼女の瞳に暗い闇を見るだけだ。
久遠は弥奈の瞳から彼女の思考を読み取ろうとしていた。
弥奈の左の眉が軽く上がる。
(分かっているだろう?)
弥奈の声が聞こえた気がした。
久遠は考えすぎていたのかもしれない。
悠理と弥奈の関係。弥奈が悠理に会わない理由。
弥奈が与えない情報は、おそらく全て久遠の中にあるのだろう。
「……教えていただきたいことがあります」
長い沈黙の後で久遠から切り出した。それは質問ではなく、分かりきっていることを確認するための行為だ。
弥奈が目で続きを促す。
「天乃局長は悠理の母君ですね?」
「遺伝上のという条件付きではあるが、その通りだ」
「ご自分でお産みになっていないと?」
「その通り。私に男性経験は無い」
ここからが本題だ。久遠は少しの間を置いて確認を続ける。
「……聞くまでもないことですが敢えてお聞きします。貴女は誰も愛することが出来なかったのですね。私と出会う前の悠理と同じように」
「……そうだ」
「そして今は悠理を愛していらっしゃる。母としてではなく女として」
「……そうだ」
分かっていたことだ。久遠が最も警戒していたのは天乃弥奈だ。弥奈が言った悠理の子を産む女とは、他ならぬ弥奈自身のことだ。
(今更言いますか)と久遠は思った。
「では何故、私に機会を下さったのですか? 母としてではなく女として悠理の前に立てば、悠理は必ず反応したでしょう。私の時と同じように」
「……そうだろうか?」
弥奈の目が初めて揺らいだ。久遠の問いは弥奈も考えていたことだろう。だが、彼女はそうしなかった。その理由は自信が無かったからだと彼女の目は答えていた。
「当然です。貴女は悠理と同じですから」
久遠は分かってしまった。彼女の本当の顔を見たから。彼女は「アエテルヌス」ではない。天乃弥奈もまた、悠理や久遠と同じ「イレギュラー」だ。だからこそ、アエテルヌスの中で孤独を感じながら生きてきたのだ。
「私は久遠や悠理ほどの変異体ではない。確かに悠理は私の変異を受け継いでいるが、さらなる変異を重ねている。悠理が私に反応するかどうかは、実のところ自信が無い」
「正直ですね。それで、先ほどの質問の答えを頂いていませんが?」
久遠が求めていた答えはそれではない。それは可能性の問題でしかなく、悠理が反応してくれなかった時の恐怖と絶望に彼女が耐えられないと尻込みしただけの話だ。
弥奈は何故、久遠を悠理と会わせたのか。久遠に奪われると分かっていたのに。
「単純だよ。悠理に寂しい思いをさせることに耐えられなくなった。久遠であれば確実に悠理が反応すると分かっていたし、いずれは会わせるつもりだった。永遠も育子も悠理と久遠の結婚を望んでくれた。そして、それは間違いではなかった。悠理はとても幸せそうだ」
推測通りの告白に久遠は呆れていた。久遠に悠理の存在を教えなかったのは、悠理を奪われるかもしれないという恐怖によるものだろう。それでも先に悠理に会わなかったのは、反応してもらえなかった時の絶望に耐えられないからだ。さらに、悠理に長い孤独を押し付けている罪悪感にも耐えられなくなり、自縄自縛の挙句に久遠に丸投げしてしまったということだ。
(この女……弱い)
考えすぎて足が竦んでいる少女を見る思いだった。長年の孤独と悠理への想いが彼女をここまで追い詰め、ここまで壊してしまったのだろうか。
「本当に愛していらっしゃるのですね。ご自分で悠理の子供を産みたいと望むほどに」
久遠の声は冷たかった。嫌味ではなく、ただ事実だけを口にした。
「……許してもらえないだろうか?」
弥奈の目がさらに揺らぐ。顔は人形のようだが目だけは感情に溢れていた。彼女の目には不安と、純粋な願いがあった。
「駄目と言えば諦められるのでしょうか?」
それは多分、最後の質問。
「それは……どうかな。自信は無い」
これも素直な弥奈の気持ちだろう。
久遠の心は荒れていた。身勝手すぎるという怒りと、自業自得だという思いと、弥奈を哀れむ気持ちと。そして、もしかしたらこうなっていたのは自分かもしれないという恐怖と。
彼女たちにとって、伊凪悠理はそういう存在なのだ。
長い沈黙。
「……ひとつ、条件があります」
久遠は決めた。辛い選択だった。
弥奈は久遠に続きを促す。その目にはもう微塵の強さも無い。
「母親として、悠理に会ってください。本当は今さら会ってほしくなど無いのですが……悠理に本当の肉親がいると知らせることで、少しでも悠理のためになるのであれば、そこは我慢するしかありません」
「……悠理に、何か問題があるのか?」
奏弥の目に恐怖が浮かんだ。遠くから見ていただけの彼女では、気付けない何かがあるのか。
「問題というほどのことではありませんが、悠理は自分の感情を持て余しているようなのです。これまで抑え続けてきたのですから無理もありませんが……安定させることができる可能性があるのであれば、何でも試してみるべきでしょう」
再びの沈黙。
じっと久遠を見つめていた弥奈の目から涙が流れ落ちた。
「……会って良いのか? 私が、悠理に?」
「女としてではなく、母親として、です」
「……自信が無い。悠理は、私を母と認めてくれるだろか?」
「それは分かりませんが、死ぬまで逡巡しているつもりですか?」
「悠理に拒絶されれば、私は生きていけない」
弥奈が初めて顔中で感情を表した。目は泣いていて、口は笑っていた。
彼女の体は小さく震えていた。
久遠は一つ、大きな溜息を漏らした。
荒れていた久遠の心は落ち着きを取り戻しつつあった。
久遠は立ち上がって弥奈の隣に座った。そして、弥奈の頭を抱き寄せる。
弥奈は素直に久遠に体を預けた。
「私も協力します。悠理のために、死ぬ気で勇気を絞り出してください」
弥奈の髪を撫でながら溜息まじりの久遠の口調は、まるで傷付いた女友達に語りかけるような優しいものだ。久遠の心は凪いでいた。本気をさらけ出した弥奈の全てを、彼女の弱さも含めて、久遠は受け入れる気持ちになったのかもしれない。
「悠理は良いな。周りは幼馴染を私の初恋相手と言うが、顔さえ憶えていない相手を恋人と言えるのか? 私も久遠のような恋人と出会いたかった」
弥奈は全てを久遠に預けていた。彼女が初めて感じる、他人に身を委ねる安堵。あるいは、久遠は悠理の代わりなのかもしれない。少女時代の弥奈には、悠理も久遠もいなかったのだ。
(それは男っぽいと言っているようなものですよ)
悠理との付き合いでも感じることだ。それは悠理も同じのようで、時に男らしくあろうとする悠理は可愛い。
(やはり親子なのですね。我儘なところも、幼いところも、悠理とよく似ています)
自分に甘える年上の女性に、悠理と同じ不調和を感じた。完成されているようで極端に未熟な部分もある精神の不調和は、弥奈と悠理に共通する特性なのだろうか。あるいは、孤独な環境に放置されすぎた2人は、実験体として極端すぎるのか。
「それで、悠理の子供を産みたいと望んでいるのは弥奈だけではないのでしょう?」
久遠は彼女を弥奈と呼んだ。自然に口にしてしまったのだ。
「多いな。当然のことだが」
自分を呼び捨てにした久遠を弥奈は受け入れていた。久遠にそう呼ばれるのは心地良かった。
「変な女に悠理の子を産ませるつもりはありませんよ」
弥奈はようやく体を起こした。
体の震えは止まり、その顔には穏やかな微笑があった。もう人形のような無表情は無い。頬が薄く赤らんでいるのは照れているからなのか。
「その判断は久遠に任せる。例えば寧々子はどうだろう? 私としては産ませてやりたいと思う。彼女にも感謝しているから」
それを確認して、久遠は自分のソファに戻った。穏やかな雰囲気の中で、2人は淡々と互いの思いを共有する作業を続ける。
「そうですね。寧々子さんでしたら構いませんが、私より先には嫌ですよ」
「当然のことだ。それから、久遠と悠理の子供に遺伝子操作をするつもりは無い。必要とも思っていない」
「絶対に許しません。悠理と同じ孤独を強要するなど、あってはならないことです」
久遠の強い言葉を受けて、弥奈は少し考えた。
「それなら警告しておくが、高見恭平に卵子を預けないことだ」
「……成程、それが彼の望みですか」
久遠は薄く笑った。そんなことをしたら恭平を殺すと彼女の目が言っていた。
弥奈は小さく頷いた。
「私を生み出したのは天乃弥寿という女だ。遺伝上では母親ということになるのだが、あの女を母親と思ったことなど一度も無い。今の高見恭平は天乃弥寿に似ている」
「その弥寿という人は?」
「私が殺した。体中を弄り回されることに耐えられなかった」
「……私でもそうするでしょうね。弥寿という女に同情の余地はありません」
唇に人差し指を当てた弥奈に久遠は頷いた。確かに、他人に話せることでは無い。
「これ以上は局長会議で話し合う。久遠にも参加してほしい」
弥奈は2人での話し合いの終わりを告げた。
「……分かりました」
聞いていなかった予定だが、久遠は弥奈の言葉を受け入れた。
そこで話し合われるのは自分と悠理にとって重要な事だと確信したからだ。
弥奈は立ち上がった。
「有難う。嫌な思いをさせることになるが許して欲しい」
そして久遠に対して深々と頭を下げた。
久遠は黙って弥奈の謝罪を受けた。
「お詫びということではないが……これを受け取ってくれないか?」
弥奈がポケットから取り出したのは、プラチナブロンドの首輪だった。悠理が巻いている久遠の髪の首輪と同じ編み方だ。久遠はすぐにそれが悠理の髪を編み込んだ物だと理解した。
「悠理には永遠から贈ったようだから、私から……と言うわけにはいかないから、育子から貰ったことにしてくれ。受け取ってもらえるだろうか?」
「それは喜んで。ですが、良いのですか? 大切にしている物でしょう?」
「心配しなくて良い。これは保存用で一度も使ったことが無いものだから」
弥奈が左袖を少し上げて見せると、そこにはプラチナブロンドの腕輪。
「成程。それでは遠慮なく頂戴します」
顎を上げた久遠の首に、弥奈は悠理の髪の首輪を巻いた。少し寂しそうな顔で。
それから、弥奈は何故だか頬を赤らめてモジモジしはじめた。
「もう一つ……個人的にお願いがある。私にもキスして欲しい」
弥奈の言葉に久遠は気が遠くなった。彼女の事はまだまだ理解できていないようだ。
「……そういう趣味はありませんが?」
努めて冷静に久遠は断ろうとした。
「私にもない。でも、久遠にキスして欲しい」
だが、弥奈の表情は母と同じ年齢とは思えないほど純粋で、真剣だった。
「……仕方ないですね」
何故そう答えてしまったのか、久遠にも分からなかった。
弥奈がそう望んだ理由も考えないことにした。
久遠と弥奈がテーブルを挟んで近づいた。
軽く、触れるように唇を合わせながら、これは浮気になるのだろうかと久遠は考えていた。
時刻15時30分。根之国、地上4階。居住区域、警察部隊員控室。
時間は少し戻る。悠理と久遠が4階で別れた後へ。
この日、警察部隊員控室を訪れたのは悠理1人だった。用事があると久遠に告げられ4階中央坑道で別れたのだ。訓練の準備は終わっていると彼女は言った。
久遠と会って数日しか経過していないのに、1人で行動するのは久しぶりのように感じて悠理は戸惑っていた。彼女との時間はそれだけ濃密だった。それまでの退屈で希薄で長かった日々とは違い、久遠と出会ってからの時間の流れは速い。久遠と出会った今、彼女を失うという事態を受け入れることはどうしても出来ない。渋々ではあるが、悠理は1人で控室に足を運んだ。警察部隊員控室は隊員達で溢れていた。どれも見たことが無い顔ばかりで戸惑っていたところ、運良く彼を見つけてくれた大戸直毘に格技場を使わせてほしいと申し出た。
格技場に悠理と共に移動したのは直毘だけではなかった。その他にも8人の警察部隊員が同行した。これが大戸隊の全隊員だ。5階南側居住区域の独立騒動が続いた1日の中で大戸隊への命令は待機だった。防衛局は暴力的鎮圧を回避する方針を隊員達に徹底していた。5階中央階段付近に警察部隊員を集中的に待機させているが静観しているのが現状だ。よって、今日も大戸隊の隊員達は暇だった。荒波永遠が悠理の訓練要員として真面目な大戸隊長を選んだことは極秘事項だ。それから、火照緋焔は今日も格技場に姿を見せていた。
「鬼姫」の恋人は強いという噂は見学していた大戸隊の隊員達によって警察部内に広まりつつあった。木刀を持った3人を無手で瞬く間に倒したという話を信じる隊員は少なかったが、話半分としても「鬼姫」の初めての恋人に隊員達が興味を持ったのは当然だろう。格技場の壁際に並んだ隊員達は口々に悠理を評価していた。今は主に容姿についてのことだが。
「おい、本当にあの坊やが強いって?」「どう見ても強そうに見えないぜ」「女の子じゃないのか? 姫の趣味がそっちだったってオチだろ」
彼等の視線の先、悠理は格技場の中央で黙って立っていた。無口で無表情。彼の中にあるのは不安なのか恐怖なのか、その顔から感情を読み取ることは警察部隊員にも不可能だった。
格技場の入口からゾロゾロと20人の男子生徒が入ってくる。当然のように悠理はどの顔も憶えていないが、これまで何度か彼を襲ってきた生徒達だ。嫌がる八十三郎に久遠が命じて集めさせた生贄だ。禍津一男ほどではないが悠理に恨みを持つ男子生徒は多い。その上で久遠は、もしも悠理を倒すことができたら自分を好きにして良いという条件を伝えさせたのだ。だから彼等は発奮していた。男子生徒が悠理に持つ恨みの全ては女性絡みだから、今度は逆に思い知らせてやるというのが彼等の狙いだった。
「大戸君、いくら何でもこの人数は多い。姫は何を考えているのだ?」
緋焔が直毘に中止を促した。彼女も悠理の正体を知らないからだ。
「もしもの時は止めればいい。暴動鎮圧の訓練には丁度良いだろう」
「……そうか。姫はそこまで考えていたのか?」
緋焔は納得して引き下がった。隊員は揃っているし、彼女も黙って見ているつもりは無い。
「どうかな?」
直毘の答えは、緋焔には意外だったかもしれない。
「何でケーサツがいんだ!」「先公までいるじゃねぇか!」「だましやがったな! 人形が!」
口々に生徒達が叫んだ。彼等からすれば当然のことだろう。
騒ぎ立てる彼等に直毘が歩み寄る。釈明するべきは悠理ではなく自分だと考えたからだ。
「君たちの邪魔をするつもりは無い。これは伊凪君の訓練だと聞いている」
腹の中では介入を考えていたが直毘は嘘をついた。すぐにでも止めるべきだという思いはあったが別の思いもあった。「鬼姫」の自信がどこから来るのか見てみたい。
「まぎらわしいんだよ!」「早くやろうぜ! 勝ったらあの女を好きにできるんだろ!」
「狙ってたんだよ」「相手にされるわけねぇだろ」「楽しみだぜぇ!」
口々に生徒達が騒ぎ出す。彼等は久遠を手に入れたつもりだろう。壁際で聞いていた警察部の隊員達に共通する思いは(こいつら命知らずか)だったが。
悠理はそこまで気楽ではいられなかった。ここに久遠がいれば昨日のように不満を露わにしただろう。自分に向けられた罵詈雑言は雑音にしか聞こえないのが悠理だが、久遠に向けられた卑猥な言葉は許せなかった。久遠に触れて良いのは自分だけ。これは義憤ではなく我儘だ。それこそが悠理の本質だった。これは独裁者の素質の片鱗かもしれない。
(手加減、しないといけないんだ)
それは久遠から出された課題だが、彼の中で手加減したくないという思いが強くなっていく。悠理は怒りながらも冷静になろうと努めていた。
それは、突然始まった。
抜け駆けを狙った生徒がいたのだ。
「よっしゃぁ! オレが一番にあの女を──」
その言葉は最後まで続かなかった。
終わる前に殴り飛ばされていた。
拳を振り回すことさえできずに。
「野郎!」「やっちまえ!」
残りの生徒達が次々に襲い掛かる。
悠理の目にあるのは怒りか。
それとも理性か。
防御することなく、
十数発の拳と蹴りを浴びながら、
それでも悠理が歩みを止めず、
全員を殴り倒すのに、
1分も掛からなかった。
それは根之国の住人そのもの。悪鬼羅刹の戦いだった。
「そこまで! そこまでだ! 伊凪君!」
大戸直毘の声に悠理は我に返った。
彼は起き上がりかけた生徒の顔を蹴ろうとしていた。虫でも殺すかのような無表情で。
ゆっくりと直毘に振り向いた悠理の目には理性が戻っていた。
「……すみません」
無表情に変わりはなかったが、直毘に向けた言葉には少しばかりの感謝が込められていた。
止められなければ殺していたということだろう。
(姫の言葉は本気だったのか)
戦慄と共に荒波久遠の言葉を思い出していた。
『相手を殺してしまわないように、ですよ』
彼女は確かにそう言った。冗談だと思っていた。それが本気だったと理解したことで、直毘はこれ以上この訓練を続けさせることは出来ないと判断した。
荒波永遠が見込んだ通り、大戸直毘は久遠よりも常識人だった。
「すまんが彼等を治療してくれないか」
直毘は壁際で絶句していた隊員達に声をかけた。
隊員達が倒れた生徒達に駆け寄り怪我の状態を確認しはじめた。どうやら全員重症まではいかないようだ。それを確認して、直毘は安堵しつつ悠理に向き直った。
「ギリギリで理性を保てたようだね」
「……久遠に怒られるから」
悠理の言葉に直毘は思わず苦笑した。
(なるほど、姫でなければ制御できないということか。この力、扱うのは難しい。惜しいが警察部向きではない)
悠理を勧誘するつもりだった直毘の、それが冷静な結論だった。
「これ以上、同じ訓練を続けるのは無意味だと思う。怪我人を増やすのは君も本意ではないだろう。伊凪君は剣術を習ったことはあるかな?」
その上で悠理に提案した。直毘の言葉に彼は首を振った。
「そうか。君は寧ろ剣術を習う方が良いと思う。荒波部長には進言しておくよ。いずれにせよこの訓練を続けさせるのは警察部の隊員として認められない。分かってくれるね?」
悠理は頷いた。もともと永遠と久遠とに言われて始めたことで無理に続けようとは思っていない。怪我人を増やすことを不本意とは思わないがそれは口にしなかった。彼等はもう久遠に手を出そうとはしないだろう。それよりも、直毘の提案は悠理にとって魅力だった。久遠の「黒姫一文字」と、南方武瑠の「南方安平」を思い浮かべていた。彼が望むのは自分を護る力ではなく久遠を護る力だ。久遠よりも弱い自分が久遠を護ることは出来ない。久遠を護るためには彼女と同じくらい強くならなければならない。伊凪悠理は初めて、自分から力を欲した。
「……久遠と相談します」
「それが良い。今日はもう帰りなさい。後のことは我々に任せてくれ」
悠理は素直に頷いた。
彼を知る者からすれば意外な行動かもしれない。人間嫌いと思われている悠理が久遠と出会ったことで他人の言葉を聞くようになっている。それが久遠の関係者に限られるとしても。
格技場を出ていく悠理を見る直毘に緋焔が歩み寄ってきた。
「……大戸君は、この結果を、予想していたのか?」
緋焔の言葉は上ずっていた。知らなかった悠理の一面を目の当たりにして胸が高鳴っていたのだ。まさか自分が惚れた可愛い少年がこれほど強いとは。彼女の問いに直毘は頭を振った。
「残念だが、我が隊への勧誘は諦めるしかない」
「何故だ? あれほど強いのだぞ?」
彼の意図を察していた緋焔は、信じられないという目を直毘に向けた。
「強すぎるのだ。警察部の隊員にあそこまでの力は必要ない。寧ろ有害でさえある。俺はようやく伊凪悠斗の伝説を信じる気持ちになった。あの力は住人に向けるべきではない。野人に向けるべきものだ。その方が根之国のためになる」
直毘は断言した。
「本人にその気があるかな? この場合、姫にと言ったほうが正しいかもだが。私なら伊凪君にそんな危険なことはさせない。大切に部屋の奥に隠しておくだろうな」
どうすれば荒波久遠から悠理を奪うことができるのだろか。それが緋焔の本音だろう。
「何であれ剣術を覚えることは無駄にならない。予備隊員であれ緊急時には戦力だ。それであれば姫も納得してくれるだろう」
直毘の言葉に緋焔は反論しなかった。
「あの少年に渾名を付けるとしたら何が良いですか?」
壁際で見物していた隊員達が2人に話しかけた。さっそく渾名の話になっているようだ。
「今の気分では『羅刹』としか思えないな」
緋焔がしみじみと言う。心の中では「愛しい」と「可愛い」のどちらを付けるべきか迷っていた。20人の男子生徒を殴り倒す悠理の姿は、数年の成長を見続けてきた彼女にとっても新鮮だった。メスの本能を強く刺激するオスの顔をしていたのだ。
「羊の皮を被った狼と言ったところか。『白金の狼』か『白金の羊』はどうだ?」
珍しく直毘まで隊員達の無駄話に加わった。彼も冷静ではいられなかったのだろう。
近いうちに、悠理にも警察部内での渾名がついているかもしれない。
時刻19時10分。根之国、地上3階。管理区域、局長用会議室。
緊急招集された各局長は皆、沈鬱な面持ちで会議の始まりを待っていた。
今、局長用会議室にいるのは7人。
防衛局長、荒波永遠。
教育局長、高見育子。
居住局長、常立鳴海。
食糧局長、葦黴宝子。
製造局長、葉槌多霧。
彼女等は円卓を囲んで座っている。
管理局長代理、宿儺結良は会議資料の束を手に、壁際のスクリーン横の定位置に立っている。
各局長は5階の独立騒動への対応に追われ疲れ切っていた。
そしてもう1人は、管理局医療部長、高見恭平。
彼は勧められた椅子を断って壁際に立っている。妻の育子がいるからか、研究室で弥奈に向けていたような冷酷な顔はしていない。しかし彼も、幾分かの緊張を顔に浮かべていた。
7人は天乃弥奈管理局長を待っている。そして、もう1人の出席者を。
扉が開く。そして、何故か腕を組んだ弥奈と久遠が入ってきた。いつものように縁なし眼鏡を掛けた弥奈は笑顔だが、久遠は困惑した表情を浮かべている。
「お待たせぇ。5階はお祭り騒ぎだねぇ」
まるで他人事のような弥奈のノリはまるで高等部の女子生徒だ。さっきまで泣いていた人物と同じとはとても思えない。
各局長は無言。ただ、その目は弥奈に注がれている。
「はいはい。分かっていますよぉ」
弥奈は久遠と2人でスクリーンの前に立ち、ようやく久遠の腕を解放した。
「荒波久遠嬢との交渉は終了しました──」
にこやかに宣言した弥奈は、久遠との話し合いを説明した。伊凪悠理との子供を産むことは許すが彼との性交渉は認めない。悠理の子供を産むには久遠の許可が必要。そして、
「──荒波久遠嬢は体外受精を望んでいません。彼女と悠理の子供に遺伝子操作をすることを久遠嬢は拒否しました。彼女の卵子を提供することはありません」
これは壁際に立つ高見恭平だけに向けた言葉だった。
弥奈の言葉と同時に久遠は恭平に視線を向けた。一目で分かるほどの殺意を込めて。
根之国の運命がこれで決まったのかもしれない。悠理と久遠との子供に遺伝子操作をしないということは、新人類を生み出そうとする研究の後退を意味する決定だ。あるいは、悠理の遺伝子に可能性を求めるしか無くなる決定だ。恭平からすれば、人類の存続よりも個人の感情を優先する度し難い決定だ。恭平はしばらく俯き、やがて顔を上げて何も言わず退出した。彼が知りたかった内容はこれが全てだった。女達の結束に、彼は負けを認めるしかなかった。
会議室内には静寂。恭平が去って行く足音だけが聞こえてきた。
やがて、それも消えて数十秒。
「やったぁ!」いきなり立ち上がりバンザイをしたのは待ちきれなかった常立鳴海。
「気が早いですよ。久遠さんの許可が必要と言われたでしょう?」と葦黴宝子。
「疲れが吹き飛びましたねぇ」おっとりと葉槌多霧。
3人とも喜びを満面に浮かべている。
荒波永遠は微笑を浮かべ。高見育子は涙を堪えて。宿儺結良は冷静に。
そして、思い出したように局長の若手3人が久遠に小走りで近づき、椅子に座るように半ば強制的に誘導した。彼女等の首には久遠の物より細い悠理の髪の首輪。
「ささ、こちらの席へ」「荒波さん、お飲み物はいかがですか?」「素敵な首輪ですねぇ。羨ましいですぅ」
余りにも分かりやすいご機嫌伺いに久遠が呆れた顔で弥奈を見る。
「つまり、こちらのお三方は悠理との子供を望まれていると理解してよろしいのですね?」
「そうだねぇ」
弥奈がニコニコ顔で肯定した。
「あのっ」
突然、育子が立ち上がって久遠に頭を下げる。
「娘の寧々子に、久遠さんの次に子供を産むことをお許しいただけないでしょうか」
育子の声は悲壮なほどに真剣だった。
「あっ、それはね──」
言いかけた弥奈を手で制して久遠が言葉を継いだ。
「天乃局長ともお話しして、私の次は寧々子さんと決めました。ですが、私としては寧々子さんと同時期に妊娠できればと思っています。生まれてくる子供にお友達をと思いまして」
久遠は育子に笑いかけた。
「……有難う、存じます」
育子の目からは涙が溢れていた。これで寧々子に悠理との子を産ませてあげることができる。
「ですが、それは私と悠理が卒業してからの話です。それから、寧々子さんが産む子供にも遺伝子操作は認めません。悠理にも知られないようにしてください」
口を押えて嗚咽を堪える育子が三度大きく頷く。彼女の隣に座る永遠が、背中を擦って育子を座らせた。
「育子はどうするのかな?」
この空気でさえ、相変わらずの口調で聞く弥奈に、育子は大きく頭を振った。
「私は望みません。寧々子の母ですから」
「私も同じだ。久遠の母親だからな」
育子に続いて永遠が言った。久遠と目を合わせた永遠が、軽く頭を下げて謝意を示した。
「私は……悠ちゃんに母親として名乗り出ろと言われちゃったよ。どうしよ?」
助けを求めるように永遠と育子を見る弥奈。
「……まぁ、良い機会ではあるか」
名乗り出るべきだと背中を押していた永遠としては、ようやく勇気を出す気になったかという感想だろう。
「何にしても、私は悠ちゃんの妹を産むつもりだけどね」
「天乃局長! 抜け駆けですよ!」「久遠さん私もお願いします」「私も子供欲しいですぅ」
取り残された3人の局長が久遠に縋りつく。
「分かりました。分かりましたけど、私が出産してからにしてください」
久遠が堪らず許可を出した。(この三バカ!)と心の中で罵りながら。
「やったぁ! 久遠ちゃんありがとぉ!」「うぅ……夢が叶いました」「悠ちゃんの赤ちゃん、産めるのですねぇ」
「はいはい、落ち着け三バカ。会議を始めますよぉ」
弥奈が椅子に座りながら声をかけると3人は漸く自分の席へ戻っていった。その声に反応して、ひたすら静観していた宿儺結良が一歩前に出た。
「では、本日の最重要議題です」
結良が手に持っていた会議資料を全員に配る。
そこには、盗撮と思われる照れた顔の悠理の写真が貼られ。そして「最重要議題 悠ちゃんの独裁国家建設計画 写真提供、伊凪悠理親衛隊」の文字。
久遠は怒鳴りたい衝動を必死に堪えた。何から怒るべきか分からないほど情報が渋滞している。視線を感じてそちらを見ると、永遠が面白そうに久遠を見ていた。
(どういうことですか?)
キッと睨むと永遠は両手で口を押さえてソッポを向いた。吹き出しそうになるのを必死に堪えているようだ。その左袖からはプラチナブロンドの腕輪が覗いている。
「これは……貴重な写真です」「こういう顔の悠ちゃんは新鮮ですね」「癒されますねぇ」
久遠の中でも三バカ局長に認定された鳴海と宝子と多霧が口々に言った。
「まずは新体制への移行ですが、天乃局長、説明をお願いします」
この状況でさえ真面目な顔を保った宿儺局長代理が、3人を遮るように弥奈に説明を促す。
「はーい。新しい局として創造局を作ります。管理局医療部の新人類創造課を新人類創造部に格上げして創造局に移設、さらに悠ちゃんの子供のための保育部を新設します。新人類創造部長は私、保育部長は寧々子ちゃん、そして創造局長は久遠ちゃんにお願いするね?」
「私が局長ですか? 務まるとは思えませんが?」
堪らず久遠が弥奈の説明を遮った。
「悠ちゃんの遺伝子を利用して次の人類を生み出すんだよ? 面倒なことは私に任せて良いからね。久遠ちゃんには大切な仕事があるでしょ?」
久遠が首を傾げる。「大切な仕事?」と目で問いながら。
「悠ちゃんに気付かれないように精子を採取しないといけないでしょ? 創造局で一番大切な仕事だよ? だから局長は久遠ちゃんしかいないよね?」
説明を聞いていた他の局長がウンウンと頷く。反対意見は無いようだ。
「嫌なら他の誰かに任せるけど?」「謹んでお受けいたします」
弥奈の問いに久遠が即答した。
3人の局長から「チッ」と舌打ちの音。その役割を狙っていたようだ。
この時、根之国に最強の権力者が誕生したのかもしれない。局長筆頭と目されている天乃弥奈さえ凌ぐ絶対的権力を持つ局長が。
「寧々子ちゃんの保育部長就任はどう思うかな?」
弥奈が久遠に了解を求める。
「しかし、寧々子さんは悠理のことを知らないのでは?」
「育子が話しちゃったんだよ。ショック受けてたからねぇ」
弥奈の言葉に育子が反応して頭を下げる。もう涙は止まっているようだ。
寧々子の突然の復調を久遠は思い出していた。その理由が分かったのだ。
「成程、そういうことでしたか。分かりました、寧々子さんでしたら悠理の子供を雑に扱うことは絶対にしないでしょうね」
久遠の了承に他の局長が頷く。寧々子に自分の子供を預けることに異存は無いようだ。悠理の子供たちに囲まれた寧々子の幸せそうな姿は容易に想像出来る。
「それから、私の創造部長就任に伴って、管理局長は結良ちゃんに任せるね」
「私ですか?」
今度は結良が弥奈を遮った。聞いてなかったのだろう。
「現状でも宿儺が局長のようなものだ。問題あるまい?」
永遠が賛意を表す。事実、5階南側独立騒動で管理局の陣頭指揮を執っているのは結良だ。
他の局長も頷く。水、空気、電気と生存に関わる全てを管理する管理局長は職務の性質から局長の筆頭と目されている。24歳とはいえ宿儺結良以外の管理局長はありえない。
「分かりました。お受けしますが──」
そこで結良は口ごもった。そして彼女には珍しく急にモジモジし始める。
「──あの、私も悠理様の子供を産みたいのですけど」
そして久遠の顔色を窺うようにチラリと見た。
(彼女もそうでしたか。悠理は年増殺しなのですね)
悠理に汚染された女がどれくらいの数になるのか、久遠は気が遠くなる思いだった。
「承諾します」
久遠の一言に、結良は深く頭を下げて感謝を表した。
「宿儺局長代理ってムッツリだったんですね」「悠理様ですって」「気付きませんでしたねぇ」
結良の顔が真っ赤に染まる。これまで必死に隠してきたことだ。
「はいはい、結良ちゃんをイジメないの。今から宿儺管理局長だよ。結良ちゃん、お願いね」
弥奈の激励に、頬を赤らめたままだが真面目な顔の結良が一礼した。
「天乃局長は、どうなるのでしょう?」
おっとり声の多霧が当然の疑問を口にする。新人類創造部長の肩書だけでは局長会議には出席できない。
「私としては研究に没頭したいんだけどねぇ」
「却下!」「却下ですね」「それは却下ですねぇ」
3人が口々に弥奈の意見を拒否した。意外に人望があるのだろうか。
「今さら逃げるなど虫が良すぎるということだな。あと数年は我慢しろ」
永遠が3人を代弁した。数年もすれば、年齢と外見との乖離で彼女達は表舞台に立てなくなる。そうなれば弥奈と同様に永遠も育子も研究室等に籠ることになるだろう。
「大局長とか適当な肩書作れば?」「総局長にしましょう」「局長会議顧問はどうですか?」
「それでは総局長として天乃局長には引き続き局長会議に出席して頂きます」
結良が有無を言わせぬ勢いで言い切った。彼女も弥奈を逃がすつもりは無いらしい。
弥奈は苦い沈黙で受け入れた。本気で身を引くつもりだったのだ。
「では、続きまして創造局の施設についてです」
管理局長になったはずの結良が流れのまま司会進行を務める。彼女以上の適任者がいないのは、ここにいる全員が分かっていることだ。
結良の発言を弥奈が引き継ぐ。
「3階管理区域の奥を拡張しようと思っているんだけどね。保育部の施設を造って、できれば私達が子育てするための住居も欲しいな。悠ちゃんにも他の住人にも内緒にするには根之国の中に別の小都市を建設するつもりで悠ちゃんの子供たち専用の区域を造るべきだよ。3年あれば必要最低限の施設は形になるかな」
「まるで後宮のようですね。自分が知らない間に王様になっているなんて、悠理が知ったらどう思うでしょう。私としては複雑な気分です」
久遠の当惑は当然だろう。悠理に教えるつもりは微塵も無いが。
「悠ちゃんはもう久遠ちゃんのものだよ」
宥めるように弥奈。久遠にへそを曲げられては計画自体が破綻してしまう。
「そうなれば、やはり5階の独立騒動は問題だろうな」
永遠が問題を提起する。本来であればこれが最重要議題のはずだ。
「では、各局長は現状を報告してください」
結良が素早く引き継いだ。これは緊急を要する議題だ。
まず、防衛局長の荒波永遠が手を挙げて発言の意思を示す。
「防衛局としての方針は今のところ静観だ。5階南側の住人に無用な刺激を与えぬように警察部隊員に徹底している。不測の事態に備えて隊員を5階に集中配備しているが、その分下層が手薄になっている。5階に同調する動きが下層でも起これば厄介なことになる」
次に手を挙げたのは教育局長の高見育子。
「5階南側から通う生徒数は初等部、中等部、高等部を合わせて91人です。現状ほとんどの生徒が登校していますが、今後は流動的と考えるべきでしょう。教育局としては生徒達に独立の是非を押し付けるつもりはありません。ただ、冷静に判断するように生徒達に求めています」
次に発言の順番を求めたのは居住局長の常立鳴海。
「5階の居住人数は965人です。その中で、独立を望む南側の人口は405人。独立支持派の住人がどれほどの数になるかは不明としか言いようがありません。それから、5階南側に住む居住局掘削部職員の見野豊香から相談がありました。彼女の仲間が家族を含め62人、5階南側からの退去を希望しています。その他に、個別に退去を希望している住人が30人ほどいるようです。他階の住人は今のところ静観しています。同調者は少ないと思われます」
食糧局長葦黴宝子、製造局長葉槌多霧からの発言は無かった。
「現状で5階南側居住区域に残る住人は310人ほどですね。総人口2143人からすれば大きな数字です。これ以上の混乱が続けば、今後の都市運営に支障が予想されます」
結良が総括する。久遠は少しばかり感心した表情を浮かべて聞いているだけだ。
天乃弥奈総局長が挙手して発言を求める。
「今日は徹夜だね。久遠ちゃん、5階に行って独立派を皆殺しにしてくれないかな?」
久遠の目が真剣に変わる。そして、
「ご命令とあれば」
そう言って弥奈を見つめる。
「ごめん、冗談です。久遠ちゃん本当にやっちゃえるから」
実は本気だったのだが両手を上げて弥奈は降参した。良識を思い出したらしい。それから、
「……独立したいんでしょ? させてあげれば?」
と、冷めた目であっさりと言った。
「……良いのか?」
永遠が真面目な顔で聞いた。弥奈の顔から冗談で言っているのではないと分かったからだ。
「100人の移住は頭が痛いけどね。4階以下の空き家はそのくらいあると思うよ。小さい子がいる家族には良い環境を優先して確保。独立したいと言ってくればどうぞと答えれば良いよ。期限を設けて希望者はその間に移住。その後は5階の中央坑道を、中央階段南側で閉鎖。通学を希望する生徒には通行証を発行。食料、水、空気、電気は供給量を調整しながらこれまで通り供給。あとは交渉しだい。これでどう?」
弥奈は冷めた目のままで言い切った。悠理のための会議のはずが独立騒動のせいで思うように進まないのが腹立たしいのである。弥奈もまた我儘だ。
彼女の提案を各局長はそれぞれに咀嚼していた。
「弥奈は、この騒動の終着点をどう見ている?」
永遠の声は少しだけ優しかった。弥奈の怒りが本気だと分かっているのだ。
「内部分裂で最悪住人同士の殺し合い。空中分解。どれくらいの期間でそうなるかは分からないけどね。後始末が大変だよ」
「死者が出るのを見過ごすしかないのか?」
「このままの事態が続いて独立を認めなければ、いずれは武力衝突になるよ。こちらに被害を出すのは馬鹿々々しいよ。つきあってられない」
「成程。私としても防衛局の隊員に被害は出したくない。だが、子供が巻き込まれるのは胸が痛むな」
「子供だけ渡せとは言えないでしょ? 人質と勘違いされるよ。子供を巻き込むようなら野人以下だね。そんなのが住んでいるとは思いたくないけど」
他の局長は弥奈と永遠との会話を黙って聞いていた。
弥奈の提案に反対する局長はいなかった。
「それから鳴海ちゃん、掘削部の見野豊香ってどんな人?」
弥奈がいきなり居住局長の鳴海に話を振った。
「えぇと、アネゴ肌の褐色筋肉美女ですね。年齢は確か30歳くらい。私は好きですよ?」
「すぐに受け入れるって返事して。それから、受け入れ可能な住居の数と場所を確認。退去希望者には準備を急ぐように勧告。裏切り者扱いで襲われるかもしれない。必要なら防衛部と警察部で護衛。製造局は着の身着のままで退去してくる住人に備えて生活必需品を増産。他の局も手が空いている職員は居住局を応援。反対意見が無ければすぐに各局員に指示を出して。総力戦で乗り切るよ。対策会議は2時間後に再開。はい、行動開始」
弥奈の一方的な指示に、弥奈と久遠以外の局長が一斉に立ち上がって会議室から出て行った。不満の色は無く皆が真剣な顔をしていた。緊急時の弥奈の判断力を各局長は信頼しているのだ。
久遠と2人だけになるのを待って、立ち上がった弥奈が久遠の椅子の後ろに回り込む。そして、脱力したように背中から抱きついた。
「ごめんね。悠ちゃんのための会議だったのに」
弥奈は本当に申し訳なさそうに久遠に謝罪した。少しだけ甘えたような声で。
「仕方ありませんよ。それとも本当に独立賛成派を斬ってきましょうか?」
後ろから回された弥奈の手に久遠は自分の手を重ねた。その指に弥奈の指が絡む。
「本気だって分かった?」
「分かりますよ。私も同感ですから」
2人は同時にクスクスと笑った。年齢を超えて2人は友達になっていた。
弥奈は久遠から離れて隣の椅子に座った。久遠から活力をもらって落ち着いたのだろう。
「悠ちゃんについては2人で会議しようか。それが終わったら久遠は帰って良いよ。今日は本当に徹夜だ」
「独裁者って、悠理ではなくて弥奈のことでしょう?」
久遠の言葉に、弥奈は軽く肩を竦めて見せた。
「私は悠ちゃんにも久遠にも逆らえないよ? それより、久遠ならどう対処する?」
「迂遠ですけど仕方ないですね。独立賛成派を何人か斬り殺せば早いのですが、それはできないでしょう?」
「私もそう思うよ。見せしめとして何人か殺せば終わるけど、恐怖政治の始まりと思われるだろうね。もうね、早く悠ちゃんのための都市を造って引っ越したいよ」
弥奈は足をバタバタさせて苛立ちを表した。まるで子供だ。
「成程、だからとりあえずは3階の奥に閉じこもるのですね」
久遠が苦笑する。自分の勘違いに気付いたのだ。3階に新たに造られる区域は悠理のための後宮ではなく、人間嫌いの弥奈のための天岩屋だった。
「そういうこと。別の都市への引っ越しは、何年後どころか何十年後かもね」
「それまでは我慢ですか。そういえば、私の就職先は分かりましたが悠理はどうするのですか?」
「就職先が必要かな? 主夫で良いんじゃない?」
弥奈がキョトンとした顔になる。本当に考えていなかったらしい。
そもそも根之国には主夫どころか専業主婦というものが存在しない。慢性的な人手不足で、皆が何かしらの仕事をしているのだ。
「それでは悠理が駄目になります。今でさえ物臭な性格を直そうと悩んでいるのですから」
久遠は軽く弥奈を睨んだ。子供を窘める母親のような顔で。
「久遠は厳しいね。まぁ、それはまた相談しようか。卒業まで2年以上あるからね」
全ては2人が卒業してからの話だが、それまでに弥奈は準備を進めておくつもりだった。悠理の子供たちのために最高の環境を用意するのだ。
「それにしても、10年もすれば悠理の子供だらけになるのでは?」
「うん。悠ちゃんの子供がたくさん溢れるんだ。いずれ遠い未来に、悠ちゃんの子孫が地上に溢れていくんだ」
弥奈は遠い目をした。まるで純真な乙女が夢を見るように。
「成程、弥奈の本当の狙いはそれなのですね」
「ごめんね、悠ちゃんを独占させてあげられなくて」
弥奈の謝罪に久遠は黙って微笑した。「仕方ないですね」と彼女の顔が言っていた。久遠が選んだ男には多くの欠点があるのだが、その最たるものは新人類を生み出す父親候補として女性達に祭り上げられていることだろう。久遠が何人彼の子供を産もうと遺伝子の多様性は望めない。彼女自身が他の男との子供を認めないのだから、未来は悠理に託すしかないのだ。理解は出来るが喜んで受け入れられることではない。
「今日はこれくらいかな。いつまでも久遠を借りておくのは悠ちゃんに悪いから」
「何でも悠理が優先なのですね」
「当然だよ」
その言葉は「愛しているから」と聞こえた。
久遠は立ち上がった。素直に従おうと思ったのだ。ここで出来ることは何もない。
立ち上がった久遠に弥奈が唇を突き出した。
「チューして」
その唇を久遠の指が止めた。
「駄目ですよ。私の唇は悠理のものです」
「ケチ!」
久遠は苦笑しながら局長用会議室を出た。悠理に早く会いたいと思いながら。
時刻20時10分。根之国、地上4階。居住区域、高見家。
帰宅した久遠は手早く行水を済ませて、ネグリジェ姿で悠理の部屋の扉を静かに開けた。
悠理は机に伏せていた。背中がゆっくりと上下し、小さな寝息が聞こえていた。待ち疲れて眠ってしまったのだろう。
久遠は微笑を浮かべ、彼の髪に口付けてから「悠理」と耳元で囁いた。
身を起こした悠理の緑眼は、ぼんやりと久遠の姿を捉えた。彼の手が久遠を求めて伸び、その顔が久遠の胸に埋まる。
「久遠……遅いよぉ……」
甘えるような悠理の声。それは弥奈と似ていたが、胸が締め付けられる愛おしさは決定的に違うものだ。弥奈の孤独は自業自得だが悠理には何の罪もない。それなのに強いられた十数年の孤独は悠理を歪めてしまっている。弥奈に母親として名乗り出ろと要求したのは、弥奈の為ではなく悠理の為なのだ。
「お待たせしました。さぁ、ちゃんとベッドで寝ましょうね」
久遠の手がプラチナブロンドの髪を優しく撫でる。
「ん……」
疲れているのか、答えながらも悠理は動こうとしない。
20人の男子生徒を相手にしたくらいで悠理が疲れるとは久遠には思えなかったし負ける心配もしていなかった。あるいは、物臭で人間嫌いの悠理にとっては、久遠と離れて1人で格技場を借りるほうが疲れる行為だったかもしれない。
禍津一男と八十兄弟を相手に久遠を盗られまいと真剣になった悠理の顔は、一瞬のことだが充分に男を感じさせてくれるものだった。今日も同じ顔で20人の男達を殴り倒したことだろう。その貴重な時間に立ち会えなかったのは無念としか言いようがない。
「久遠……またアイツらに変なこと言った」
その言葉で、久遠は悠理がまた拗ねていると理解した。
「……すみません。もう二度と口にしませんから、許してください」
「あんなこと言われるの、もうイヤだ。久遠は僕のだ……」
昨夜も苦労したのだ。感情の制御に慣れていない悠理は一度拗ねるとなかなか機嫌を直してくれない。久遠は溜息をついて悠理を抱き上げベッドに横たえた。そして薄い布団を彼の肩まで掛ける。
「久遠……一緒に、寝て……」
こうなると悠理は聞き分けの無い子供だ。ようやく甘えられる相手ができた悠理は、久遠に対してとことん甘えるつもりのようだ。
「分かっていますよ。どこにも行きません」
言われなくても始めからそのつもりの久遠は悠理の横に滑り込んだ。悠理はすぐに久遠に抱きついて、彼女を確かめるように脇腹から背中を撫でる。
「っく……もぉ、いたずらっ子ですね」
久遠もまた悠理の髪を撫でながら少し残念に思う。彼女が感じているのはくすぐったさと僅かな快感で、陶酔するほどの快楽は無い。
「久遠……その首輪、どうしたの?」
彼女の首に巻かれたプラチナブロンドの首輪に、悠理はようやく気付いた。
「育子さんから頂いた悠理の髪の首輪ですよ。これでお揃いですね」
「うん……久遠は僕のだから……」
眠る前の口づけを求めてくる悠理に、久遠は軽く唇を触れさせた。そして、額に頬にと何度も、寧々子が触れた部分を上書きするように唇を触れさせた。久遠自身が、彼女の存在を払拭できていないのかもしれない。10年以上を悠理と共に育ってきた寧々子は無視できる存在ではないようだ。彼女だけではない。悠理に汚染された女がどれほどの数になるのか考えるだけで嫌になってくる。それらの女達は久遠よりも長く悠理を見続けているのだ。
だからこそ今はこうして、会えなかった十数年の穴を埋めていくしかない。
「……悠理?」
久遠の呼びかけに反応は無かった。
彼女の温もりに包まれて、悠理の唇からは安らかな寝息が漏れている。
(どこが独裁者なのでしょうね。こんなに可愛い甘えん坊なのに)
久遠の顔は優しい苦笑に変わっていた。
時刻20時20分。根之国、地上2階。工業区域、小坑道。
地上2階の工業区域は石窟都市の住人の生活を支える日用品から野人相手の武器まで、必要とされるものを可能な限り作り出している職人達が住む区域だ。
天乃弥奈は慣れた様子で小坑道を進み一軒の住居兼作業場の前で足を止めた。その扉の表札には「金屋一」の文字。弥奈は扉を叩くこともなく無遠慮に扉を開け、「おいちゃーん」と呼びながら中に入っていった。作業場の中には熱気が籠っている。金屋は椅子に腰かけて仕事で疲れた体を休めていた。その隣にはもう一人の男が椅子を並べて座っている。
「あれ? 戸間のオッチャンもいたんだ?」
弥奈が「戸間のオッチャン」と呼んだのは戸間安平。金屋と並ぶ刀工である。
「おう、久しぶりだな、弥奈ちゃん」
父である天乃鬼一の作業場にふらりと現れ、修業時代の金屋の作刀を、鉄火に憑かれたようにジッと見つめていたのが幼い頃の弥奈だ。
「弥奈ちゃんか? 別嬪さんになったのう」
そう言う戸間は60代前半。鬼一とは腕を競った仲で、彼も幼い頃の弥奈を知っている。
「おいちゃん、刀作って」
弥奈は唐突にそう言った。
「刀って? どんなのだ?」
弥奈は内緒話をするように金屋と戸間に近づいて囁いた。
「なにぃ?」「あぁ? そんなもの誰が使うんだ?」
目を大きく見開く戸間と、思わず聞き返した金屋。その前に弥奈は1枚の写真を突き出した。
「お願い。私が初めて愛した人の為に作って」
弥奈は、それまで金屋が見たことの無い顔をしていた。恋する乙女の顔。それは伊凪悠斗の前でも見せなかった顔だ。
「そうか……そういうことだったのか」
金屋は勘違いをしていた。弥奈は悠斗を失ったから結婚しないのだと思っていた。
違う。弥奈は悠斗を愛してなどいなかった。弥奈にとって悠斗は、ただの幼馴染でしかなかったのだ。
「……そいつの名は?」
弥奈は金屋の耳に囁く。金屋は大きく目を見開いた。
「……分かったよ、弥奈ちゃん。どうするつもりか分からんが、他ならぬ弥奈ちゃんの頼みだ。金屋一の入魂の一振、作って見せる」
金屋は満面の笑みで弥奈の頼みに応諾した。
「待て! ワシにやらせろ!」
戸間がすかさず口を挟んだ。黙って聞いていられる話ではなかったのだ。
「すっこめジジィ! 弥奈ちゃんはワシに頼みに来たんだ!」
睨み合う2人の刀工に弥奈が不安気な顔になる。
「あのね、2人で作ってくれても良いから、ちゃんと使える刀をお願いね」
「当たり前じゃい!」「任せとけ弥奈ちゃん!」
戸間のオッチャンとおいちゃんは競うように弥奈に答えた。
* * *
根之国暦237年6月15日。
5階南側居住区域住人311人を代表して、禍津熊男は一方的に独立を宣言した。
見野豊香の仲間を含めた94人は無事に5階南側から退去し、それを待っていたように5階南側居住区域の独立は局長会議によってあっさりと承認された。最初の交渉で根之国交渉団が何より驚いたのは、独立派交渉団の中に何故か南方武瑠の姿があったことだろう。自称「国王」の武瑠には他の交渉団も苦い顔をしていた。力をなによりの価値と見なす5階南側の住人にとって、それでも彼の強さは無視できないものだったのだ。
その後、数日に渡り繰り返された交渉は困難を極めた。独立派からの要望が支離滅裂だったからだ。独立派住人の対立をそのまま持ち込んだような要望に、常立鳴海居住局長が率いる交渉団は辟易していた。
* * *
根之国暦237年6月19日。
時刻20時30分。根之国、地上4階。居住区域、高見家。
格技場での訓練を終えて高見家に帰った伊凪悠理は、行水と夕食を済ませた後で寧々子に勉強を教えてもらっていた。久遠が来てから中断していた高等部3年生の勉強を再開させたのだ。これは悠理の為の勉強というより、教育者を目指している寧々子の為の勉強だ。
家には2人しかいない。独立騒動の後で頻繫に外出するようになった久遠について、悠理は警察部予備隊員としての用事だろうと思っているし寧々子にもそう伝えている。2人だけで食事し、こうして勉強するのは彼等にとって長く続けてきた日常だった。むしろ2人きりの時間の方が多かったのが悠理と寧々子だ。
が……悠理は密かに悩んでいた。
これまでどれだけ誘惑されても冷たく対応してきた幼馴染が、彼の中で鮮明な存在として認識されるようになっていたからだ。久遠に刺激されたことで覚醒した感受性が、寧々子を異性として捉えるよう彼に強いてくるのだ。それを知らない寧々子はノースリーブのワンピースという無防備な格好で悠理に勉強を教えていた。悠理と2人きりになる時は露出気味になるのが彼女だから、今日もいつものノリで選んだのだろう。
「悠ちゃん、休憩する?」
彼の集中力が無くなってきたと勘違いしたらしい寧々子が聞いた。悠理が注意力散漫になる要因は、無邪気に押し付けられる彼女の大きな胸にあるのだが。
「……うん」
「明日、空けといてって久遠ちゃんに言われたけど、何か知ってる?」
曜日というものが無い根之国では、教育機関の休みは毎月5の倍数の日と決まっている。そもそも「根之国暦」が数十年の誤差があると思われる不正確なものでしかない状態で、曜日を復活させる積極的理由は無かったのだ。
「……知らない」
悠理も言われたことだが、何があるのかまでは教えてもらえなかった。
「疲れてる? 今日はやめようか?」
「そうじゃなくて、寧々ちゃんの胸が当たるから……」
ついに口にしてしまった悠理の顔を不思議そうに覗き込んだあとで、寧々子は意地悪な笑みを浮かべた。彼の頬が薄く赤らんでいることに気付いたのだ。
「あれ? 悠ちゃんって私の胸には興味無かったよね?」
「そうだけど……」
口ごもる悠理の首に柔らかいものが押し当てられた。思わず首を竦めてしまった彼の頭の上から楽しそうな忍び笑いが聞こえてくる。
「どうしちゃったのかな? ねぇ、悠ちゃん?」
「寧々ちゃん……」
しばらく弄ぶように悠理に胸を押し付けた後で、寧々子は後ろから彼に抱きついて髪に頬を当てた。
「そうか……久遠ちゃんに会って、悠ちゃん本当に変わったんだね」
彼女の声音には、安堵と落胆と感謝と──様々な感情が綯い交ぜになっているようだ。
「寧々ちゃんも、そう思う?」
「思うよ。とっても良いことだと思う。久遠ちゃんに感謝しないとね」
「うん……」
寧々子の頬が下がり耳元に唇が寄ってくる。少しだけ荒くなった呼吸が悠理の耳をくすぐる。
「……私の胸、触ってみる?」
「寧々ちゃん?」
悠理の声が少しだけ慌てた。これも無かった反応だ。
「今まで何回も触ったんだよ? 忘れてないよね?」
「でも……」
無感情だった頃には無かった抵抗さえ、彼女には新鮮だった。「興味はあるけど久遠に悪い」と顔に書いてあるのだ。ここまで読み取れるほど感情が表に出てくるようになったのは大きな進歩だ。
「いきなりは無理かな? それなら抱っこしてあげる」
寧々子は悠理の横に回って、彼の顔を胸の谷間に埋めるように抱きしめた。
「大丈夫。久遠ちゃんには内緒にしてあげるから」
行水を済ませた寧々子は、久遠とは違う女の子の匂いを放っていた。毎朝のようにされていた行為のはずだが、悠理にとっても新鮮な感触だった。それほど、五感の全てが鋭敏になっている。
「……寧々ちゃん、こんな匂いだったんだ」
「え? 変な臭いする?」
「しないよ。良い匂い」
寧々子はホッとしたように小さく溜息をついた。
「どうかな? 今までと違う感じがする?」
「……うん」
「これが私だよ。今度はちゃんと憶えて。そのためだからね。」
「……うん」
寧々子の抱擁を、悠理は素直に受け入れていた。彼女をもう一度憶えるための行為という理由は無理があるかもしれない。久遠への罪悪感はあったが、寧々子への興味を抑えられなかったのも事実だ。
「休憩終わり。勉強の続きしようか」
寧々子は悠理を解放し、椅子の後ろに回った。
素直に従う彼の胸には、得体の知れないモヤモヤが残っていた。
久遠が帰宅するまで、2人だけの勉強は続いた。
* * *
根之国暦237年6月20日。
時刻11時30分。根之国、地上4階。展望室。
悠理と寧々子は、久遠に連れられて展望室に来ていた。何故か、見張りの隊員の姿は見えない。
しばらくして姿を見せたのは、久遠の母親の荒波永遠だった。独立騒動の混乱は続いていたが、それ以上に重要な案件のために無理やり時間を作ったのだ。寧々子と永遠の間で紹介と挨拶が交わされ、永遠が、今日の目的を口にした。「悠理君……母親に会ってやってくれないか?」と。
寧々子が大きく息を吸い込む音。久遠は無言だった。
久遠に視線を向けると、彼女は詫びるように深く頭を下げた。それで、久遠も望んでいることだと悠理は理解した。
「……良いですよ」
悠理の言葉に感情は無かった。
「しばらく待ってくれ」
悠理の返事を受けて、永遠が展望室から出る。そして、高見育子と、彼女に引きずられるように歩く1人の女性を連れて戻ってきた。悠理と同じ白金色の髪と緑の瞳。天乃弥奈だ。弥奈の顔は緊張でこわばり、体は細かく震えていた。根之国で最高の権力を持っているようには見えない、弱々しい姿だった。彼女にとっては、断頭台に上るより怖い瞬間なのだ。
「……天乃弥奈。悠理君の母親で、私と育子の親友だ」
「悠理君……黙っていたこと、謝ります」
育子が深く頭を下げる。
「……ここで、根之国の成り立ちを、教えてくれたよね?」
悠理の目から弥奈への感情は読み取れないが、弥奈の目から涙が溢れてくる。
「悠ちゃん……憶えてたんだ……」
それだけを口にして号泣しはじめた弥奈を横目に、永遠に歩み寄った久遠が耳打ちする。
「夢で見る光景ということでしたが、事実ですか?」「……事実だ」
久遠は憶えていない様子で、思い出そうと考え込んでいる。寧々子の記憶からも、久遠は小さい頃に悠理と会っているはずなのだ。それを憶えていないというのは惜しい。
号泣する弥奈を、育子が壁際のベンチに座らせる。
「弥奈は駄目だな。私から事情を話そう」
永遠が経緯を話し始める。アエテルヌス計画とフォルティス計画。弥奈の卵子を使って、人工子宮で生み出された悠理。研究方針決定の過程で起きた天乃弥奈と高見恭平の確執。悠理を失敗作と見なし、南方武瑠を久遠の交配相手と考えていた恭平と、久遠を悠理に会わせるための弥奈の独断。
「──というわけで、弥奈は悠理君の母親として名乗り出て良いものか悩んでいた。ただ、分かって欲しいのは、高見恭平氏とは違って、弥奈は悠理君を第一に考えていた。それだけは理解してやって欲しい」
「……お母さん、何でお父さんと結婚したの?」
初めて知った父親の正体に、寧々子は怒りを露わにした声で聞いた。悠理や久遠を実験動物としてしか考えていない父に、心底腹を立てていた。しかも、彼女自身と悠理の子供まで研究の対象にしようと考えていたのだから、許せる話ではなかった。
「かっこ良く見えたのよ、あの頃は」
「私達も、教育期間が終わるまでは3階の限られた区画で生活していたからな。選べる相手は少なかった。アエテルヌスが普通に生活するようになったのは、最近のことだ」
「そうなんですか?」
寧々子がゾッとした顔をする。もしかしたら、自分もそうなっていたかもしれない。
「……僕は、どうなるんですか?」
真実を知っても、悠理に動揺は無いように見えた。周囲とは違う自分を意識し続けてきた十数年だったから、彼にとって、普通ではない誕生は当然のことなのかもしれない。それよりも、ようやく始まった久遠との人生が、どうなるかの方が知りたかった。
「これまでと変わらない。普通に生活して、卒業して、いずれ久遠との子供を私に見せてくれたら嬉しい」
「でもね、そういうことは久遠ちゃんの体が成熟してからにして欲しいの。出産は危険を伴うものだから、せめて高等部を卒業するまでは──」
育子の教育者らしい言葉に悠理は頷いた。久遠を危険な目に遭わせるつもりは毛頭ない。
「──それに、寧々子も負けるつもりは無いのでしょう?」
「もちろん。だけど……結局、弥奈さんは悠ちゃんの何になるの?」と寧々子。
「本人は、母親になると恋人になれないと駄々をこねている」「その可能性はありません」
永遠の言葉に、久遠が即座に反応する。
「……でも、家族ですよね?」と悠理。
「良いのか? こんな女だから、母親らしいことは何も出来ないと思うぞ」
「良いと思うわよ。それに、私も悠理君の母親を譲る気は無いもの」
育子の口調も強い。悠理を育ててきたのは自分だという自負があるのだ。いくら親友でも、これだけは譲れないだろう。
「とりあえず、困った姉くらいに考えてやってくれないか?」
「……良いですよ」
悠理の返事を聞いて、さらに号泣する弥奈。十数年間溜めこんできた悠理への想いが、一気に吐き出されているようだ。
「お父さんを追い出して、奏弥さんに一緒に住んでもらおうよ」
寧々子の言葉は辛辣だった。恭平への怒りが治まらないようだ。
「ゆ……悠ちゃんの家……用意してあるから……」
子供の用にしゃくりあげながら、ようやく声を出す弥奈。
「どこに?」
「4階……たくさん部屋あるから……皆で住めるよ」
「どうやら、いつかはと思っていたようだな」
「だって……私に反応してくれないかもって……怖かったんだよぉ……」
悠理は、仕方ないという顔で弥奈の隣に座る。
「悠ちゃぁん!」
抱きついてきた弥奈を受け止めて、悠理は自分と同じ色の長い髪を撫でた。
「これで、ようやく元に戻れたわけだな。あの頃のように」
永遠がしみじみと言う。長い道のりだった。
「全てが、というわけではないわよ。私も悠理君の家に引っ越します」「あ、私も」
育子と寧々子が当然のように言う。久遠は口を挟まなかった。それを決めるのは悠理で、断らないことも分かっているからだ。
時刻21時50分。根之国、地上4階。居住区域、高見家
この日、初めて高見家で食事をし、悠理と一緒に行水した弥奈は、その間じゅう嬉しくて泣き続けていた。そして、悠理のベッドで一緒に寝ることになり、ひとしきり泣いた後でようやく落ち着いた弥奈は、悠理の横で静かに横になっている。
「ねぇ……悠ちゃん……」
「……何?」
長い沈黙の後で、弥奈が意を決したように悠理を呼んだ。
「私のおっぱい、吸ってくれない?」
「……何言ってんの?」
泣き止んだと思ったら突拍子も無いことを言う弥奈は、確かに困った肉親のようだ。
「そういうことじゃなくて、そうしたら少しは母親の自覚が芽生えるかもだから」
「……僕って、誰のおっぱい飲んでたの?」
「永遠だよ。久遠ちゃんを産んですぐだったから」
「ふーん」
どうにか話を逸らそうとする悠理。だが、
「ダメかなぁ……それだったら、私の処女もらってくれない?」
と、更に要求が続く。
「……何言ってるの?」
さすがに呆れ声の悠理。
「いやぁ……姉ってことなら、アリかな、と」
「無いよ」
「そんなぁ……ずっと守ってきたんだよ? 悠ちゃんの遺伝子って私とかなり違うから、子供ができても大丈夫だよ」
母であれ姉であれ、確かに困った肉親のようだ。悠理もまた、母とも姉とも思えないでいるからお互い様なのだが。
「久遠が許すと思う?」
「だからこっそり。ちょっとで良いからぁ」
悠理の部屋のドアが勢いよく開く。ドカドカと入ってきたのは久遠と育子と寧々子。
「許すわけありません」「悠ちゃんの母親として許しません」「やっと会えたのに、悠ちゃんを困らせてどうするんですか?」
3人が、弥奈を無理やりベッドから引きずり降ろして、そのまま部屋から出て行く。
「盗み聞きしてたな! 卑怯だぞ!」
「言える立場ですか?」「朝まで説教よ!」「悠ちゃん、安心して寝て良いよ」
最後に寧々子が、部屋のドアを閉じた。
1人になった悠理は大きく溜息。
10日ほどで、彼を取り巻く環境は大きく変わった。久遠と出会い、肉親がいたことも知った。少しは1人で考える時間が必要だろう。その変化は、彼にとって心地良いものと思えるが、急激すぎる変化に戸惑っているのも事実だ。
悠理は、静かになった自室で、久しぶりに1人の夜を過ごした。
(続く)