覚醒編①
──ずっと昔に大きな戦争があったんだよ。
そのせいでね、お空は真っ黒になって何十年も寒い日が続いたんだ。その後で青いお空は戻ってきたんだけど、強い紫外線……は難しくて分からないか? とにかくお空に穴が開いてね、危ない光が降り注いでくるようになったんだよ。だから生き残った人たちは穴に逃げ込んでそこに町を作ったんだ。
そこはいつの間にか「根之国」と呼ばれて……ん? 根之国っていうのはね、死んだ人がいる国のことだよ。うん、不思議だね。悠ちゃんも私も、まだ死んでないものねぇ。
それから、みんなで協力して生き延びてきたんだ。便利な道具を探したり、食べる物を育てたり、住む穴を広げたり、とにかく色んなことをして穴の中で生きてきたんだ……ん? 穴の外には怖いこわぁい怪物がいるからね、悠ちゃん食べられちゃうかなぁ……あ、ごめん、大丈夫だよ。悠ちゃんは私が護るからねぇ。
困ったな。──子、何とかして。おい、見放すな──。ん? ──子ちゃんは優しいねぇ。
──でもいいから、こら、──もかよこの薄情者。え? ──ちゃんも泣き出しちゃった?
遠い記憶の欠片。
緩やかな覚醒から続く、柔らかなものに包まれているような錯覚。
「悠ちゃぁん……」
微かな囁きは、夢の声の続きか。
曖昧な意識の境界を、甘い拘束が断ち切り、
ぼやけていた世界が、僅かな輪郭を手にする。
プラチナブロンドの髪から覗く伊凪悠理の緑眼の前には、ベッド脇の電灯に淡く照らされた大きな胸の谷間が視界いっぱいに広がっていた。
「……寧々ちゃんか」
悠理は自分の顔に押し付けられた胸を無感動に見ながら呟いた。彼の頭を抱え込み、柔らかな胸を押し付けているのは高見寧々子という名の女の子だ。ナチュラルボブの髪は栗色。年齢からすれば少し幼い顔に、起きている時は縁なしの眼鏡をかけている。
悠理は幼い頃から高見家で二つ年上の寧々子と共に育てられてきた。彼女の両親である育子と恭平は居候の悠理にも優しい。何故こうなっているのか、事情は知らないし興味も無い。母の記憶はあるのかもしれないが思い出す努力は面倒だからしない。伊凪悠理は、高等部1年のそんな少年だ。
「寧々ちゃん、起きてる?」
この状況は悠理にとって毎朝のことだから、彼女が寝たふりをしているのは分かっている。引き剥がそうと軽く腰を押す悠理に、寧々子は足まで絡めて離れまいと抵抗する。それでも悠理は、ただ淡々と同居人の拘束から逃れようとしているだけだ。
悠理は小さく溜息をつくと、寧々子の脇腹をくすぐった。
「フヒヒ……」
寝たふりをしていた寧々子が堪らず身を捩る。
「……起きる?」
そこに感情は微塵も無く、ただ不自然なほどの客観があるだけだ。これは寧々子の母の育子に原因がある。悠理が幼い頃から、育子は暴力を振るうことを徹底的に彼に禁じてきた。日頃は優しい母親の顔なのに、彼が他人に乱暴した時だけは極端に厳しくなった。だから悠理は、突き放せば終わるだけの寧々子の戯れにさえこうした手段を選んでいるのだ。
「まだぁ……」
悠理の問いかけに甘えるように囁く寧々子。その声に悪びれた様子は無いし悠理の行為を咎めることも無い。この程度は彼等にとって日常の行為だ。抵抗を続ける寧々子の脇腹で、悠理の指がさらに細かく動いた。
「フヒャヒャ! やだ! やめてぇ!」
ようやく諦めた寧々子の体がモゾモゾと動き、悠理と視線を合わせる位置まで下がってくる。
「悠ちゃん、おはよ」
寧々子の視界に悠理の顔が入ると、彼女はうっとりとした表情を浮かべた。目の前にあるのは、ショートヘアの少女のような整った小顔に、プラチナブロンドの髪から覗く物憂げな緑眼。全体的に薄い色素は幻想的な印象を彼に与えている。
寧々子の目に淫らな欲望が浮かんだ。唇を突き出し、吸い寄せられるように悠理に近づく。
「……もぉ、悠ちゃんのケチ」
悠理の唇と触れ合う寸前で、寧々子の唇は彼の指に阻まれていた。数えきれないくらい繰り返してきた毎朝の攻防。頬や額は許すのに悠理は一度も唇を許そうとしない。寧々子に大きな胸を押し付けられていたのに、その目は全く熱を帯びず冷静そのもので彼女を見つめている。
「学校、遅刻するよ」
「やだぁ……」
意地になった寧々子が媚びるような声で悠理を抱き寄せた。悠理は再び溜息をつくと、脇腹に添えていた手を仙骨のあたりに移してくすぐり始めた。
「イヒヒヒ! やだ! そこ弱い!」
さらに敏感な部分を刺激され、激しく身を捩って仰け反る寧々子。その両手が悠理のシャツをギュッと掴む。それでも彼は冷めた目で寧々子の反応を観察し続けている。
「……起きる?」
「うぅ……起きる! 起きます!」
我慢の限界に達した寧々子が逃げるように跳ね起きた。その途端に悠理は興味を無くしたようにベッドから起き上がり、部屋の灯りを点けて黙々と着替え始めた。
そんな彼の周囲、悠理の部屋の情景は味気ないものだ。岩盤を成形し塗装しただけの天井の下にはコンクリートで被覆されベージュ色に塗られた壁と茶色に塗られた床。電灯に照らされた室内にあるのは勉強机とベッドと衣装掛け。床に敷かれた絨毯。ただ、部屋の半分を占める大きなベッドだけが圧倒的な存在感を放っている。これは、2人がゆったり横になれるようにと気を利かせた寧々子の両親の無言の応援なのだが効果を発揮したことは無い。
「理不尽だよぉ」
寧々子の言葉も当然だろう。彼女には誰彼かまわず体を触らせるような性癖は無い。発育が良かった胸のせいで多くの男達の視線に晒されてきた結果、悠理以外の男は拒絶するようになっているのだ。それなのに、遠慮なく触りまくる悠理は彼女の体に興味が無い。寧々子の呟きは悠理に届かなかった。毎朝のことで慣れているとはいえ、ここまでアピールしている寧々子にとって彼の態度はつらい。これは彼女に対してだけではなく、悠理は感情が欠落しているのではないかと思えるくらい誰に対しても無関心だ。むしろ相手にしてもらえるだけで寧々子は特別と言える。
「寧々ちゃん、着替えないの?」
制服に着替え終わった悠理が冷めた目で寧々子を見た。学校指定の白いショート丈ブレザーに、自由が許されているスラックスの今日の選択は黒色だ。
「うぅ……着替えるよぉ」
ガックリと肩を落とした寧々子が部屋を出て行く。
伊凪悠理はその後ろ姿を黙って見送った。
200年以上前に戦争があった。最終世界大戦と呼ばれるそれは核爆発によって地上を焼きつくし、多くの動植物を巻き添えにして人類を絶滅の一歩手前まで追い込んだ。その原因は今となっては分からない。ただ一つ確かなことは、人間という存在は自らを滅ぼすだけに止まらず、三十数億年をかけて進化してきた複雑で多様な生物群系という、人間よりも貴重な存在さえ滅ぼすほど愚かだということだ。核戦争に続いた数十年の「黒い空」の時代と、オゾン層の破壊によって有害になった紫外線とが、しぶとく生き残った生命に更なる打撃を与えた。この苛酷な環境の中で生き残った人類がどれほどの数になるのかは今も分からない。
たとえば、「根之国」と呼ばれるこの石窟都市は山の麓に口を開いた洞窟を利用したもので、戦禍から逃げ延びた人々が定住し、少しずつ岩盤を掘削しながら居住空間を広げていった。少なくともこの石窟都市では、人々は石器時代からのやり直しを強いられたのだ。
ようやく失われた文明を取り戻したと言えるようになるまで200年以上を必要とした。その間、世界がどうなっているのか、どれほどの人が生き延びているのか、全く分からなかった。緩やかに回復してきたオゾン層のお陰で、紫外線は弱まりつつある。だが、大きく開放された地上に広がったのは、人間ではなく危険な捕食者たちだった。例えば、人間から進化したと思われる2m近い「野人」。スミロドンを彷彿とさせる「剣歯猫」。小型肉食恐竜のような恐鳥類。それらが満ち溢れた世界で、どう生き延びるかのほうが重要だった。生まれた子供をどう生き延びさせるかのほうが重要だった。文明を取り戻すために、過去の遺産を探し出すほうが重要だった。20万年前のホモ・サピエンスが遠く離れたホモ・ネアンデルターレンシスを知らなかったのと同じように、生き延びたかどうかも分からない他人を想像することに意味は無い。
だから、根之国で使われている「根之国暦」は、戦争後およそこのくらい経っただろうという不正確なものでしかない。断絶した過去とのつながりを取り戻す手段は無い。
今、人々が生きているのは、そういう世界だ。
根之国は地下3階、地上5階の八つの階層から成り、この中に2000人余りが生活している。最下層の貯水池から発電区域、農場区域、畜産区域、工業区域、管理区域と上に重なり、4階と5階が居住区域になっている。それぞれの区域の基本構造は魚の骨に似ている。中央坑道と呼ばれる半径2.5メートルの半円形断面の通路が山の北側斜面から南に伸び、そこから小坑道と呼ばれる通路が何本か東西に伸びている。この小坑道に沿って住居や各施設の入口が並ぶ。
坑道といっても天井に並んだ電灯が通路を照らしているので暗い雰囲気は無い。壁際には風導管、上下水道管、電線が這い、これが住民の生活を支えている。4階中央坑道の全長は292m。そのうち北側198mが居住区域になっていて、南側94mが教育区域になっている。居住区域側には中央坑道から分岐する全長145mの小坑道が東西にそれぞれ5本。10本の小坑道には1本につき18戸の住居が南北に分かれて並んでいる。4階居住区域にある住居の総数は180戸で、およそ700人が住んでいる。5階は居住区域のみで、265mの中央坑道から東西それぞれ10本の小坑道が伸びている。ここに280戸の住居があり約1000人が住んでいる。
根之国の行政機関は、管理局、防衛局、居住局、食糧局、教育局、製造局の6局で構成されている。これら6局の局長によって開かれる局長会議が根之国の最高意思決定機関である。
根之国暦237年6月11日。
時刻8時40分。根之国、地上4階。居住区域、中央坑道。
地上4階の居住区域から教育区域へと続く中央坑道を、伊凪悠理と高見寧々子は歩いていた。
コンクリートで被覆されただけの坑道は味気ないものだが、それでも整備は進んでいる。3階を管理区域として優先的に整備し、4階と5階を居住区域として拡張してきたのが石窟都市根之国の発展史だ。5階居住区域南側の整備は進んでおらず素掘りのままの坑道が多い。4階居住区域に住居がある悠理と寧々子は恵まれた環境にあると言えるだろう。
(理不尽だよぉ)
寧々子の目は虚ろだった。悠理との毎朝の攻防に進展は全く無い。彼女の必死のアピールも、悠理から感情を引き出すことが出来ない。肩越しに盗み見ると、当人は彼女の後ろを無表情で歩いている。
(魅力ないのかなぁ)
ずり落ちそうな縁なし眼鏡を指で押し上げて、寧々子はふと自分の胸を見下ろした。ショート丈のブレザーを押し上げた豊かな胸は歩みに合わせて柔らかく弾んでいる。細身の黒いスラックスに包まれたお尻だってなかなか魅力的だと彼女自身は思っている。それに、言い寄ってくる男子は昔から多い。そのうちの何割かは大きな胸が目的で、何割かは家柄が目的かもしれない。父の恭平は管理局医療部の部長で母の育子は教育局長だ。首長が存在しないこの都市の中で特に母の「局長」という肩書は特別な意味を持つ。寧々子と結婚できれば将来が約束されるのだから、本来であれば男など選り取り見取りの状態なのだ。それなのに寧々子は悠理以外の男に興味を持つことができない。子供の頃から悠理を見てきた彼女の物差は完全に壊れているのだろう。それは寧々子にとって不幸なことだ。手に届くところにいるのに、彼女の魅力と言えるものすべてが悠理には全く通じないのだから。
(もっとアピールしたほうが良いのかな?)
そろそろ我慢の限界なのかもしれない。家に帰れば行水中でも勉強中でも睡眠中でも機会はいくらでもある。育子も恭平も仕事が忙しく、家では2人きりの時間の方が多いのだ。
(うん。頑張ろう)
その密かな決意は彼女を燃え上がらせた。
寧々子は絡みつくような視線で後ろを盗み見る。
自分に迫る身の危険を、伊凪悠理は全く察知していなかった。
根之国の教育機関は教育局が管轄する初等部から高等部までの一貫教育の学校である。
児童、生徒の総数は初等部、中等部、高等部を合わせて500人に満たない。学校と呼べる施設は4階教育区域の他には無い。よって「教育機関」あるいは「学校」としか呼ばれない。それ以上の教育が必要であれば、各就職先で見習期間が設けられ専門的な教育が行われる。進学は試験の結果次第。初等部、中等部、高等部の各部で留年を許されるのは一度のみ。留年時の試験で合格点に達しなかった者、素行に問題がある者は退学となり教育の機会を失う。厳しいようではあるが教育にも時間と労力を使うのだから、時間を浪費させるくらいならば能力に見合う労働をさせたほうが効率的だ。無駄が許されるほどの余裕は根之国には無いし、使い捨てできる人手はいくらあっても足りない。不満なら外の世界で野盗にでもなれば良い。
この石窟都市ではまだ、人道を語れるほどの余裕を人々は手に入れられないでいる。
時刻8時45分。根之国、地上4階。教育区域、小坑道。
寧々子と別れた悠理は高等部1年1組の教室に向かった。中央坑道の壁に「高等部一年」と記された通路表示の先には二つの教室が並ぶ22mの小坑道が続く。教育区域全体で、このような小坑道が東西に6本ずつ伸びている。中央坑道突き当りにある教育局職員用事務室と合わせて、これが学校の全施設だ。
「おい! 伊凪!」「待てよ! 人形!」
1年1組の教室前で、悠理の前に2人の男子生徒が立ちはだかった。
「今日は逃がさねぇからな!」
さらに1人、後ろを男子生徒が塞ぐ。悠理は知らないことだが、前の2人は八十継男、八十三郎という名の兄弟で、後ろの1人は禍津一男という名の、3人組の親分的存在だ。偶然なのか彼等が仕組んだことなのか、彼等の他に生徒の姿は無い。
悠理は無言で立ち止まった。中央坑道とは違い小坑道は狭い。人がすれ違うには充分な広さがあるが2人に道を塞がれたら通り抜けるのは困難だ。その2人に悪意があれば余計に。
「気に入らねぇんだよ4階のヤツはよぉ!」「澄ました顔しやがって! 人形のクセによぉ!」
「俺ら5階の人間なんか相手にできねぇのか!」
口々に叫ぶ男子生徒。
禍津一男が八十兄弟を従えて悠理を襲う理由は実のところ寧々子にある。一男にとっての悠理は何度襲っても反撃してこない軟弱な男でしかない。それなのに高見寧々子という人気がある女子と一緒に住んでいる許せない奴。一男は3月まで寧々子と同じ学年だった。しかし、進級試験に不合格だった彼は留年し寧々子は高等部3年生になった。高嶺の花だった寧々子が絶望的な距離の存在になってしまった。惚れていたのに。一度も声をかけられなかったのに。それは完全な逆恨みだ。否、悠理が毎朝のように寧々子の体を触りまくっていると知れば、それどころでは済まないだろうが。
怒鳴り散らす彼等に対して悠理の反応は無い。あるのは木石を見るような圧倒的な無関心。
それが3人の怒りを煽った。この状況で悠理の態度はありえない。怯えていなければならない。恐怖で震えていなければならない。それが強者を前にした時の弱者の態度であるべきだ。
「っらああぁぁぁ!」
背後の一男が怒声を発して最初の一撃を繰り出した。大ぶりの右の拳。それが空を切る。
悠理は右に屈みながら攻撃を避け、一男と体を入れ替えるように軽く後ろに跳んでいた。
そして──「スイッチ」を入れる。
脳に負荷が掛かり、悠理の視界が、変わる。
色彩が減じ、すべてがゆっくりと、流れはじめる。
跳びかかる八十兄弟の、二つの拳を躱し、
「うぅおぉっ!」
振り返った一男に迫り、急激に進路を変え、一男の脇を小坑道の壁ギリギリですり抜ける。
一男からすれば目前に迫った悠理が急に目の前から消えたように見えただろう。思わず両腕で顔を庇った彼は、恐る恐る目を開き振り返る。その目には、何事もなかったように1年1組の教室に入っていく伊凪悠理の姿が映っていた。
教室の中には机が20程並んでいるが、高等部になると全てが生徒で埋まることは無い。初等部、中等部で学業を放棄した児童、生徒がいても、その穴を埋める補充は無い。教室の天井は悠理の部屋と同じように成形された岩盤の表面を塗装しただけのもので、壁と床とはコンクリートで被覆されていて壁だけが白色に塗られている。所々に修復の跡が見られるのは長く使用されている施設だからだろう。
悠理は教室の最後列、扉から最も離れた席に歩いていった。この場所は、彼の容姿が女子生徒達の勉学の邪魔になるからという理由で、中等部から続く彼の定位置だ。女子生徒からの挨拶は全て無視だが日常のことだから非難の目は向けられない。それどころか声をかけただけで女子生徒達は嬉しそうに騒いでいる。悠理と同じ教室というだけで彼女等は満足なのだ。高等部の女子生徒達は彼のことを「王子」と呼ぶ。常に虚ろな目をした悠理の纏う雰囲気がメルヘンの住人のように見えるらしい。男子生徒達は彼を「人形」と呼ぶが、これは無表情な彼への侮蔑が込められている渾名だ。
先ほどの襲撃など無かったかのように悠理は椅子に座った。路傍の石を誰も憶えていないのと同じように、意識にさえ3人の顔は存在していない。
「スイッチ」を入れたのは一瞬のことだ。悠理は多くの男子生徒の襲撃をこの能力で回避してきた。「タキサイキア現象」に近いのだろうか。危機的な状況において時間がゆっくりと進むように錯覚するあの現象だ。軽い倦怠感を代償に、悠理はそれを自発的に継続的に操ることができる。同じ能力を持った人間に会ったことはない。どうしてこんな能力を持っているのか、疑問の答えを導く手掛かりを彼は一つとして持っていないし探すつもりも無い。
「伊凪君、もしかしてイジメ?」
誰かが近寄ってきた気配。その声は宿儺咲良という女子生徒のものだ。ショートカットの黒髪に赤い縁の眼鏡。少しキツイ印象だが、真面目を絵に描いたような少女だ。誰であれ悠理が他人の名前を憶えているのは珍しく、同じ教室でさえ彼女と担任教師くらいのものだ。
「……別に」
そんな彼女に対しても悠理の反応は乏しく、目も合わせようとせず机の一点を見つめているだけだ。それでも、プラチナブロンドの髪から覗く憂いを帯びた緑眼が儚げに見える彼の印象を際立たせている。乱暴な男子生徒達から守ってあげなければならないという義務感を咲良に湧き起こさせるには充分な、弱々しく見える表情だった。
(放っといてくれないかな)
当の本人は何も気にしていない。ただ、「スイッチ」を入れた後の倦怠感で少し不機嫌になっているだけなのだ。
「いつでも相談してね。私の姉は管理局の局長代理なの。どうにかなるかもしれないから」
そう言い残して咲良は悠理の席から離れた。2人の様子を盗み見ていた他の女子生徒達から、非難、嫉妬、憎悪など様々な目が咲良に向けられている。この程度の会話でも「王子」を独占している彼女を妬むには充分だ。
8時55分、教室の扉が開いた。
「席に着け。ホームルームだ」
仏頂面で教室に入ってきたのは1年1組担任の火照緋焔。25歳未婚の女教師で、教育局高等部職員というのが正式な肩書だ。赤銅色の長いかきあげ前髪に、左目を眼帯代わりの鍔で覆い、ノースリーブの白いブラウスと細身の黒いスラックス。腰の固定具に緋色の柄の打刀「焔一文字」を差している。石窟都市で帯刀を許されているのは防衛局の隊員だけで、緋焔は防衛局予備隊員として登録されている。元は防衛局警察部の隊員だったが、4年前のある事件がきっかけで教育局に異動させられた。
緋焔の右目が教室の一番後ろの右端に固定される。そこには伊凪悠理の姿。彼女が悠理を知ったのは、教育局での研修期間中だった。元々緋焔は教育者になどなるつもりはなく、彼女好みの可愛い男子生徒を物色する程度の目的で研修期間を怠惰に過ごしていた。そこで中等部1年生だった悠理に出会い、ひと目で心を鷲掴みにされてしまった。緋焔はすぐに恩師で教育局中等部長だった高見育子に彼の担任になりたいと直訴した。研修期間を真面目に終えて成果を残せと育子に条件を出され、ついに4月から念願だった悠理の担任になれた。昨日までの緋焔は人生最良の日々を送っていたのだ。それなのに──。
「転入生を紹介する。荒波久遠、入れ」
緋焔は不機嫌を露わにして転入生を呼び込んだ。
「え? 転入生?」「そんなことあるの?」「転入生なんて聞いたことない」
口々に生徒達の驚きの声が上がり教室中にざわめきが広がった。無理もない。この石窟都市の教育機関はここだけで、転入生など彼等の常識ではありえないのだ。
緋焔の声と同時に1人の少女が教室に入ってきた。興奮を抑えられなかった生徒達の声が、少女を見ると同時に静まっていく。
荒波久遠と呼ばれた少女は、
腰まで届く烏の濡れ羽色の髪を姫カットで揃えた、
氷のように冷酷な光を黒い瞳に湛えた、
刀剣のような妖しい雰囲気を身に纏う、
人形のように美しい小顔の少女だった。
そして生徒達の視線を集めたのは、腰の固定具に差した打刀拵の漆黒の太刀。
白いブレザーに白い細身のスラックスは、太刀と相まって制服というよりも軍服に見える。
「……荒波久遠です」
自己紹介は、その一言だけだった。
「荒波は私と同様に防衛局予備隊員として帯刀を許可されて……おい、どこへ行く荒波?」
説明を始めた緋焔を無視して荒波久遠は教室の後ろへと歩き出した。真っ直ぐに、一点を見つめて。その視線の先には同じように彼女を見つめ続ける伊凪悠理。
久遠の足が止まる。悠理の席の横で。
見上げる悠理の顔には、生徒の誰も見たことがない驚きの表情があった。
「伊凪悠理さんですね?」
その問いかけは、確信に聞こえた。
彼の答えを待つことなく、
久遠は悠理の頬に手のひらを添え、
悠理の唇を奪った。
悠理の目が大きく見開かれる。
ガタガタガタ。周囲の生徒達が一斉に腰を浮かせる。凍りついた空気の中、2人に向けられた生徒達の目、目、目……。
それら視線の先で、悠理の唇を奪った久遠は、名残惜しそうに唇を離した。
離れない、2人の視線。悠理の頬は薄紅に染まり、久遠の目には恍惚があった。
「荒波……久遠さん?」
「はい。久遠と、お呼びください」
柔らかく微笑む久遠に対し、悠理の驚愕の表情は変わらない。
初めてだった。
荒波久遠は、伊凪悠理が初めて見た、明確な存在感を持つ人間だった。
この石窟都市の中で悠理は孤独だった。
色褪せた世界の中で生きていた。
皆は自分とは違う。自分だけが皆とは違う。
仲間と思えるものが存在しない。
全ての他人が虚像に思える。
それが悠理の世界だった。
だから、荒波久遠の存在は、悠理にとって天啓にも似た奇跡だった。
「そうか……」
悠理の短い呟きには、十数年分の想いが詰まっていた。
「そうですよ」
全てを理解した、久遠の優しい肯定。
冷酷な印象は霧消し、悠理を見る目には慈しみがある。
悠理の右手が久遠の実在を確かめようと伸びる。
頬に当てられたその手を、久遠は目を閉じて受け入れた。うっとりと、愛おしそうに。
「すごい……本当なんだ……」
悠理の手は細かく震えていた。彼が生み出した妄想ではなく、彼女は確かに存在している。
久遠の右手が悠理を抱き寄せ、プラチナブロンドの髪に頬を寄せた。
「後にしましょう。無粋な視線のない場所で、ゆっくりと」
「……うん」
久遠は悠理から体を離し、隣の机を悠理のそれに付けた。それだけでは気が済まなかったのか椅子まで近づけて、悠理の肩に自らの頭を預けた。それはもう、とても幸せそうに。完全な2人だけの世界。周囲の驚愕も当惑も嫉妬も、彼等は全く気にならないらしい。
「ちょ、ちょっと! 先生!」
甲高い声が緋焔を現実へと引き戻した。立ち上がって彼女を睨んでいるのは宿儺咲良だ。
「……どうした、宿儺」
「どうしたって! あんなこと許して良いんですか!」
「あ、あぁ……」
緋焔はまだ茫然自失から抜けきっていない。彼女は衝撃を受けていた。久遠が悠理の唇を奪ったことにではなく、久遠が悠理から表情を引き出したことに。彼の笑顔を見てみたい。彼から感情を引き出したい。それこそが、悠理を知ってからの緋焔の目標だった。担任になってからの2ヶ月間、彼女が必死になって果たせなかったことを、久遠は一瞬で成し遂げてしまった。
「先生! しっかりしてください!」
魂を抜かれたような緋焔に向かって、咲良が再び叫んだ。
「宿儺……カエサルと、ポンペイウスと、クラッススというと、何だ?」
緋焔はなるべく遠回しに事実を伝えようと突拍子もない質問をした。
荒波久遠は防衛局長の荒波永遠を母に、防衛局警察部長の荒波速雄を父に持つ、宿儺咲良並の選良だ。そして伊凪悠理の保護者は、緋焔にとっては恩師であり恩人でもある高見育子教育局長。この2人の局長と、会ったことは無いが天乃弥奈管理局長は根之国の三巨頭で、彼女等による三頭政治がこの石窟都市の政治体制だと緋焔は認識している。しかもこの3人、同年齢で若い頃からの親友というから余計に始末が悪い。
「はい。古代ローマの第一回三頭政治ですけど、それが?」
「その3人を相手に、ブルトゥスが反乱を起こしたら、どうなる?」
咲良の顔が「は?」となった。
「……そういうことだ」
成り行きを見守っていた生徒達も、「どういうこと?」という顔で緋焔を見つめている。
高等部1年1組担任の火照緋焔は、それ以上の質問を頑として受け付けなかった。
時刻13時30分。根之国、地上3階。管理区域、局長用会議室。
管理区域として最も整備された3階には、管理局、防衛局、居住局、食糧局、教育局、製造局の各本部が集っていて、居住区域の奥にある管理区域には、許可された人しか入ることを許されない。
その中でも、さらに入室が制限されているのが局長用会議室である。石窟都市の中にあってこの会議室は異質と言えるだろう。天井はしっかりと建材で覆われ壁には白い壁紙。そして床には黒い大理石調のタイルが貼られている。壁には防衛局偵察部の隊員が持ち帰った絵画が並び、部屋の中央には会議用の大きな円卓と映写機。そして、壁の一面には大きなスクリーンが貼られている。
円卓を囲む局長は6人。
管理局長、天乃弥奈、36歳。
防衛局長、荒波永遠、36歳。
居住局長、常立鳴海、29歳。
食糧局長、葦黴宝子、30歳。
教育局長、高見育子、36歳。
製造局長、葉槌多霧、30歳。
全て20代半ばの容姿をした女性だ。彼女等の服装は、一部例外はあるがほぼパンツスーツで、これが管理区域の女性職員の標準的な服装だ。スカートは私服としては残っているが職場で穿くのは少数派だ。局長達の視線は手元の会議資料に注がれている。スクリーンの前には1人の女性が立ち、資料の説明を続けている。
管理局長代理、宿儺結良、24歳。
局長会議の司会進行を務めているショートカットの真面目そうな女性だ。悠理と同級の宿儺咲良の姉で、妹とよく似た顔をしている。大きな違いは眼鏡を掛けていないことくらいか。
局長会議の参加者はこの7人のみで全てが女性だ。根之国の実務は力仕事が多く管理に男手を使う余裕は無い。岩盤掘削、都市防衛、治安維持、遺産探索、食料生産など男手はいくらでも必要で常に不足している。この問題は、局長による指導体制を確立する過程で解決されないまま現在も続いている。
「──続いての報告ですが……これは昨日、偵察部の隊員によって撮影されたものです」
結良の声に合わせて6人が書類をめくると、そこには1枚の写真が貼り付けられていた。
6人の目が険しくなる。そこにはサバナ地帯のような平原に二本足で立ち、手に棒切れや骨を持つ十数体の動物が映っていた。異様に長い腕に短い脚。不格好な二足歩行。大きな牙に頭頂の矢状陵。毛むくじゃらの体は2mほど。それは過酷な環境で突然変異した人間の姿と言われている。数百万年前の猿人を大型化したような姿は「人間」と呼ぶには抵抗があるかもしれない。
石窟都市の住人は、これを「野人」と呼んでいる。
「これも進化の一つの形だよ。少なくとも彼等は環境に適応しているからね」
天乃弥奈管理局長の目には多分に実験動物を見る研究者の狂気が含まれている。縁なし眼鏡をかけた彼女の目は緑眼。そして無造作に束ねられた長い髪はプラチナブロンド。彼女はスーツではなく研究用の白衣を着ているため一人だけ目立つ存在だ。36歳だが、その顔は20代半ばといったところか。管理局は水、空気、電気と生活の基盤を管理する重要な組織のため、管理局長は6人の局長の中でも筆頭と目されている。
「このままでは、地上の主役は野人か」
吐き捨てるように荒波永遠防衛局長。ワンレングスボブで切り揃えられた烏の濡れ羽色の髪に冷たい黒眼。その顔は荒波久遠とそっくりだ。久遠の母親だが、姉と言われたほうが納得できるだろう。防衛局の黒い制服は印象としては軍の礼装に近く、まるで男装の麗人だ。
「だからと言って、黙って滅びるわけにはいかないでしょうね」
こう続けたのは高見育子教育局長。高見寧々子の母親で36歳だが、弥奈と久遠と同じように20代半ばにしか見えない。長い栗色の髪を後ろで団子にまとめて黒縁眼鏡を掛けた顔に、娘と同様の大きな胸はまさに巨乳女教師だ。弥奈と永遠とは子供の頃からの親友で彼女が纏め役をしている。
「高見恭平氏がペルフェクトゥス計画に拘る理由も分かる気がするな」と永遠が呟いた。
ペルフェクトゥス計画というのは「ホモ・ペルフェクトゥス(完全な人)」を人為的に生み出そうとしている計画である。その前段階として数十年前の研究者が成し遂げたのが、老いを克服するためのアエテルヌス計画で、不老と常人の倍の筋力とを手に入れた「ホモ・サピエンス・アエテルヌス(不変の人)」と呼ばれるホモ・サピエンスの亜種が生み出された。局長会議に出席している7人は全員アエテルヌスだが、石窟都市の中で彼女等の存在は秘密にされている。2000人余りの人口の中で、40人に満たない彼女等は圧倒的な少数派だ。常人の倍の筋力を持つとはいえ、存在が知れ渡ればどうなるかは火を見るよりも明らかだろう。
次に進められたのが、大幅に筋力を強化した亜種「ホモ・サピエンス・フォルティス(強い人)」を生み出すためのフォルティス計画。荒波久遠と伊凪悠理はフォルティス計画によって人為的に生み出されたホモ・サピエンスの亜種だ。
その先にあるのが、厳しい環境で生き延びるための圧倒的な強さと耐性と思慮深さとを備える新人類「ホモ・ペルフェクトゥス」を生み出す計画である。「ホモ・サピエンス・ペルフェクトゥス」と亜種小名を「ペルフェクトゥス」にするのではなく、種小名を「ペルフェクトゥス」と予定している所に命名者の意気込みを感じることができる。しかし、計画は思うように進んでいない。フォルティス計画は失敗の連続で生き残ったのは少数だ。しかも悠理の場合、精神的な不安定さが危惧されている。
永遠の言葉に弥奈は軽く首を振った。
「焦っても良いことはないよ。そもそも数世代で人為的に進化を促すのは無謀なんだ。アエテルヌスの筋力はサピエンスの2倍程度でしかないし、フォルティスだって筋力では野人に適わない。ホモ・ペルフェクトゥスだって、生み出せたとして生存競争で野人に負けることだってありえる。私たちは未来の可能性を少しだけ広げることしかできないんだよねぇ」
弥奈の目は険しく、ここに居ない誰かを睨みつけているようだ。
「悠理君と久遠、2人の子供の遺伝子に手を加える計画もあるのだろう?」
突き放すような物言いの弥奈に永遠が食い下がった。
「2人とも実験体としてはイレギュラーだよ。どうしてあんな変異が起きたのか、その原因を調べさせている段階だもの。それにね、2人の意思も大切だと思うよ。久遠ちゃんがそれを許すとは思えないし、私は恨まれたくないもの。お母さんとしてはどう思う?」
「それを言うなら、弥奈も悠理君の母親だ」
「私はお腹を痛めてないからねぇ」
悠理と久遠は遺伝子操作によって生まれたが、誕生の過程には違いがある。悠理は人工子宮によって生まれ、久遠は受精卵を永遠の子宮に戻して生まれた。その結果、永遠は久遠の母親になり、弥奈は悠理の母親と名乗れなかった。そもそも、弥奈に男性経験は無い。
「2人ともまだ高等部1年生ですよ。その話はもう少し先にしましょう」
永遠と弥奈の間を、親友である育子が取り持つ。これはいつもの役目だ。
「では、当面の問題として野人の群れですが……」
管理局長代理の宿儺結良が逸れてしまった議論を元に戻した。
「この程度の数を相手に犠牲は出したくない。防護柵を使って防衛に徹するのが無難だ。見張りの増員を防衛部長に指示しておく」
永遠が結良の言葉を引き継いだ。先延ばしを提案した育子の意見に納得したのだろう。
石窟都市とはいえ、根之国の外には2㎢の農場があり、過酷な環境を生き延びた農産物を育てている。その周囲には竹で作られた防護柵と環壕と幾つかの見張り櫓を築いてある。防護柵を破られた場合は石窟都市の出入口へと続く細く短い坂道が防衛線になる。
「では、対応は荒波防衛局長にお任せします」
頷いた永遠と結良の間で対応が決まった。他の局長にも異存は無いようだ。
「では、最重要議題になります」
結良が円卓の上の映写機を作動させる。野人の対応では黙って聞いていただけの3人の局長が身を乗り出した。それほど重要な議題なのだ。それなのに、進行役の宿儺結良は壁際に移動して部屋の灯りを消し、後は勝手にしろという顔で自分の椅子に座ってしまった。スクリーンには「最重要議題 今日の悠ちゃん 映像編集伊凪悠理親衛隊」という文字。
映像が変わる。そこには悠理の寝顔のアップと寧々子の胸の谷間。無論、盗撮である。
「はぁ……カワイイ寝顔……」大きく吐息を漏らしたのは居住局長の常立鳴海。
「鳴海ちゃん、ヨダレが垂れていますよ」自らも興奮を隠せないでいる食糧局長の葦黴宝子。
「高見教育局長、娘さんのこと、放任しすぎでは?」おっとりと、製造局長の葉槌多霧。
「私の娘なんて、悠ちゃんにとっては抱き枕みたいなものですよ」
育子が娘を擁護した。3人の目に灯る嫉妬の炎に寧々子の危機を察したのだろう。
この3人は揃いも揃って1人の子持ちで離婚経験者。その理由は悠理に入れ込みすぎたからという生粋の悠理オタクだ。彼女等の首には悠理のプラチナブロンドの髪で作られた首輪が忠誠の証のように巻かれていて、天乃弥奈からは纏めて「三バカ」と呼ばれている。報復として3人が弥奈につけた渾名は「悪鬼」で、部下の結良まで巻き添えで「毒竜」と呼ばれている。
スクリーンは寧々子の姿を捉えた引きの映像に変わった。明らかに今朝の高見家だ。
「あぁ……私も添い寝したいよぉ」「添い寝だけでは済まないでしょう?」「悠ちゃんの子供でしたら、いくらでも、頑張って産みますよぉ」
「悠ちゃんには、まだ早いですよ」
暴走を始めた3人を牽制する育子。彼女は母親代わりとして表向きは悠理に対して一歩引いた立場をとっている。だが、この映像を撮影できるのが誰かを考えれば、裏では何をしているのか容易に想像できるだろう。
映像が切り替わる。次は高等部1年の小坑道で3人の男子生徒に囲まれた悠理の姿。
「またイジメですか?」「あの子たち殺しますか?」「そうですねぇ、消えてもらいましょう」
「まぁ待て。あいつらは卒業したら防衛局で預かる。偵察任務で使いつぶしてやる」
永遠の目が冷たく燃えている。その唇から「くふふ」とも「ぬふふ」とも「ぐふふ」ともとれる苦い笑いが漏れ続けている。冷静な永遠でさえ悠理のことになると私情優先になるようだ。口元で組まれた手の左袖からは、悠理の髪で作られた腕輪が少しだけ覗いている。
「殺されるほうが幸せでしょうね」「当然です。悠ちゃんを虐めたのですから」
「高見教育局長、どうにかならないのですか?」
多霧に問いかけられた育子が首を振るが、その目には殺意がある。
「過保護はダメですよぉ。この程度のこと、悠ちゃんにとっては何でもないことですからぁ」
震える声から察すると腸は煮えくり返っているようだ。彼女の左手首にも悠理の髪の腕輪が嵌められている。首輪にせよ腕輪にせよ、異性の髪で作ってあれば意味は同じだ。
「相変わらず見事な『加速』だな。久遠と良い勝負だ」
永遠が見つめる先で、3人の男子生徒の攻撃をすり抜けて悠理が教室に入っていった。
「感心してばかりもいられないよ。悠ちゃんにしても久遠ちゃんにしても、どうしてあんなことが出来るんだろうねぇ?」と弥奈。
全く解明されていない2人の能力を便宜上「加速」と呼んでいるが、これは2人に共通した偶然の産物と思われている。悠理と久遠とは別々の両親の遺伝情報を受け継いでいる。それなのに偶然に同じ変異が起きた。それとも、偶然では無いのか。「違う」と、天乃弥奈は言い切ることが出来る。管理局長とは別に、彼女は「管理局医療部新人類創造課長」というもう一つの肩書を持っている。新人類を生み出そうとする全ての計画の責任者は彼女で、重要度で言えばこちらの肩書の方が上かもしれない。2人以外のフォルティスは「加速」を使えないが、その理由は弥奈にも分からない。だが、進化とは本来そういうものだとも思える。全ての進化は偶然の積み重ねでしかないのだから。
長考に入りかけた弥奈の思考に悲鳴が割り込んだ。ふとスクリーンを見ると、そこには悠理と久遠のキスシーンが映っていた。
「あらら、やっぱり久遠ちゃんかぁ」
それは、弥奈を現実に引き戻すに充分の衝撃だった。悠理の顔には、久遠によって引き出された、驚きという感情があった。
「くっ……兵は拙速を尊ぶ。まさかいきなり唇を奪うとは……久遠、やるな」
心底悔しそうに永遠が呟いた。
「ちょ、ちょっと! どうして久遠ちゃんが4階にいるんですか!」
鳴海が吠えた。三バカの中で、彼女が一番の悠理オタクだ。
「うっかり悠ちゃんの写真を見せちゃったんだよねぇ」
「それは止められんな。久遠も寂しい思いをしていた。限界だと思っていたところだ」
弥奈の自白に永遠が納得したように頷いた。
「私としては、もっと早く転入させたかったのですけどね」
孤独の中で生きる悠理の姿を間近で見続けてきたのは育子だ。もっと早く久遠に会わせてあげたかったというのが彼女の本音だ。
「久遠ちゃんは箱入りで育てるって計画だったからね。恭平君は怒ってるだろうなぁ。永遠、黙っていてごめんねぇ」
弥奈が永遠を申し訳なさそうに見た。3階管理区域で育てていた久遠の、突然の転入劇を仕組んだのは弥奈と育子だ。久遠を計画通りに育てることに拘る高見恭平と、悠理と会わせることを望んでいた弥奈、育子、永遠との間には長い対立があった。久遠に悠理の存在を教えれば是が非でも会いに行くだろうというのは3人の共通した意見だったが、母親の永遠に事前に相談しなかったのは弥奈でもさすがにバツが悪いのか。
「問題無い。剣術も近接格闘術も充分に仕込んである。それに、久遠も喜んでいるからな」
事情を察した永遠の微笑。弥奈の独断と言える事案は彼女の一言であっさり解決した。
「白いスラックスは白無垢の代わりかな? 久遠ちゃんも可愛いことをするねぇ」
「気持ちは分かるが、あそこまですると男装の麗人だな。狙いすぎではないか?」
防衛局の黒い制服に身を包んだ永遠が自分を棚に上げて言う。(あんたもだ)という三バカ局長の冷めた視線は、薄明りが幸いして気付かれることは無かった。
「あのスラックスって永遠のお古だよね? 見たことある気がするなぁ」
永遠は沈黙をもって答えた。庇ってやったのに余計なことを言うなという目をして。
「しかし、ここまで一瞬で反応があるとは……予想以上ですね」
それまで壁際で背景と化していた宿儺結良が弥奈に疑問を呈した。悠理の反応は彼女の常識を超えていた。瞬時に久遠を理解して受け入れたように見えた。
「それだけ孤独だったんだよ。アウストラロピテクス属の群れの中でホモ属が1人だけで生きてきたようなものだもの。初めて会った同類だから惹かれるのは当然だねぇ」
「ということは、私たちでは相手にしてもらえませんか?」
身を乗り出して鳴海が聞いた。本気で心配しているのだ。
「それは、悠ちゃんがこれからどう変化していくか次第だね。駄目でも、久遠ちゃんが許してくれたら体外受精で産めば良いんだよ。可能性を広げるためだからね。私も悠ちゃんの子供、3人くらい産もうかなぁ?」
こちらも完全に本気で弥奈。
「それは駄目だろう? 卵子を提供しただけとはいえ弥奈は悠ちゃんの母親だ」
最重要議題に移ってから、永遠まで悠理のことを「悠ちゃん」と呼び出す。
「私も悠ちゃんの赤ちゃん産みたいよぉ。悠ちゃんに妹作ってあげたいのぉ」
「久遠の敵を増やすな。話がややこしくなる」
映像は火照緋焔と宿儺咲良との会話に移った。
「そういえば悠ちゃんの担任って緋焔ちゃんだったね? 久遠ちゃんと喧嘩しないかなぁ?」
思い出したように弥奈が育子を見た。実のところ、緋焔が防衛局から教育局に異動する原因となった4年前の事件とは、打刀で久遠に斬りつけた緋焔が逆に斬られたというものである。
打刀や太刀は野人を相手に使うものであり、住人に使うのは御法度とされている。
「彼女も悠ちゃんを知って大人しくなりました。もう馬鹿なことはしないでしょう」
高等部時代からの緋焔を知る育子が微笑しながら答えた。石窟都市からの追放処分もありえた彼女を防衛局から引き取って教師にしたのは育子だ。不器用な生き方しか出来ないが根は真面目な緋焔を惜しんでの措置だった。警察部内で「火竜」と渾名され、力だけを求めて生きていた緋焔を高見家に呼び悠理に会わせたことで、彼女は教師という生き方を受け入れることが出来たと言える。
「緋焔ちゃん、動揺してるだろうね。久遠ちゃんに先を越されちゃったんだからねぇ」
悠理を変えたいという思いが教師としての彼女を支えていた。その目標を目の前で簡単に達成された衝撃は想像に余りある。これは弥奈だけでなく他の局長達も同じ思いだろう。
「成程な、だから不用意なことを口走っているのか」
永遠が苦笑する。画面の緋焔は咲良に唐突な質問をしていた。
「……三頭政治ね。そんなつもりは無いんだけどなぁ」弥奈は不満そうだ。
「誰が誰と思っているのか知りたいものだな」永遠が次に浮かべたのは不敵な笑み。
「緋焔ちゃんがブルトゥスでしたら、刺したいのは私でしょうか?」
育子は楽しそうだ。悪態をつかれても緋焔のことが可愛いのだろう。
「結良ちゃんはどう思う?」
「皆様ほど擦れてないだけだと思います」
上司の質問に結良は無表情で答えた。本音では根之国の最高意思決定機関は局長会議ではなく年増の井戸端会議だと思っているが、いくら「毒竜」でも口にできることではない。
「ここにもブルトゥスがいるぞ? どうするカエサル?」
永遠が苦笑を浮かべながら弥奈を見た。弥奈も良い後継者を育てているようだ。
「三頭政治って言われてもね。陰の独裁者に比べたら弱いよねぇ」
結良の暴言を受け流して弥奈が肩を竦めた。暴言とは思っていないのかもしれない。
「彼に逆らえる局長はいませんからね。真の独裁者と言っても過言ではありません」
育子まで教育者とは思えぬことを口走った。
「彼女もいずれ知ることになる。本当の権力者がどういうものなのかを、な」
永遠の予言に、結良の視線がスクリーンの悠理に向けられた。彼女の左手首にも悠理の髪を縒り合わせた腕輪が嵌められている。彼女が管理局長に就任する頃には根之国に人知れず独裁者が生まれているかもしれない。成長した伊凪悠理に仕える自分を想像して彼女の頬が赤く染まった。久遠に内緒で悠理と身を重ねる背徳的な自分を想像してしまったのだ。結局、結良も骨の髄まで悠理に汚染されている。彼女等の未来の独裁者は、とにかく可愛いのだ。
密かに身悶える宿儺結良を無視して、局長たちの井戸端会議は続いた。
時刻15時10分。根之国、地上4階。教育区域、中央坑道。
教育区域から居住区域へと続く中央坑道を高見寧々子は呆然と歩いていた。転入生が「王子」の唇を奪ったという噂は放課後までに高等部の全教室に広がっていた。「悠ちゃんが? それはないよ」友人から噂を聞いた寧々子の第一声がそれだった。悠理が女子生徒と仲良くしているなんてありえないことだ。寧々子があれほど誘惑しても崩せなかった悠理の鉄壁を1日で攻略できる女など存在するはずがない。彼女は信じなかった。信じられなかった。
それなのに──、
今、寧々子の眼前で、ありえない事態が起こっていた。あの悠理が女の子と腕を組んで歩いている。十数年を共に過ごした彼女が、一度も見たことの無い困惑した顔で。
(あれ? どういうこと? どうしてこうなったの?)
その思いだけが頭を巡り続ける。
虚ろな目が捉え続けるその先で、伊凪悠理は溢れ出す自分の感情に戸惑っていた。その根源は全て彼の左腕を抱え込んで隣を歩く女子生徒にある。その困惑は、何故か心地良かった。
「荒波さん、歩きにくいよ」
「駄目です。離しません」
何度も繰り返した会話だが、それでも久遠は楽しそうだ。彼女は悠理のことを知ろうと色々と質問してきた。11月生まれの悠理に対し久遠は5月生まれで半年ほどお姉さんだった。
押し付けられた柔らかな胸を意識していると気付かれないように、悠理は大いに努力しなければならなかった。そんな彼の純情を久遠は明らかに楽しんでいる。はしゃぎたくなる気持ちは理解できた。彼女も悠理と同じように孤独な世界で生きてきたと分かるからだ。
初めて見た時の刀剣のような鋭さは微塵も無く、薄紅に染まった頬は緩みっぱなし。それでも久遠の美しさは損なわれず、年相応の少女の魅力に溢れている。女性に対してそんな事を思ったのは初めてだ。こうして並んで分かったことだが久遠は悠理より5cmほど背が高い。睫毛は長く、艶のある長い黒髪は美しく、良い匂いがした。それから、濡れたような唇。
(キス、したんだ……)
もちろん初めてのことだ。奪われたというほうが正しいのだが不快感は全く無かった。会ったばかりの相手なのに当然のこととして受け入れていた。
「悠理さん?」
「……あ、ごめん」
唇の呪縛から解かれた悠理の頬が赤く染まった。自分が何を考えていたか、久遠に見透かされたと分かったからだ。
「いいえ。お望みなら、いつでも良いですよ。私の唇は悠理さんだけのものです」
久遠の顔が変わる。幼さが消え去り、引き込まれそうな蠱惑の微笑に。
「荒波さん……」
無意識に彼女を求めた悠理の唇は、久遠の指に阻まれた。
「私のことは久遠と呼んでください。そう呼んでくださらないと、してあげませんよ」
久遠が悪戯っぽく笑う。弄ばれている自覚が悠理にはある。でも、それが心地良い。
「……久遠」
触れた指を這うように、悠理の唇が動く。
「……もう一度です」
「久遠、お願い」
堪らなくなった悠理は歩みを止めた。
久遠もまた足を止めて悠理と向き合う。
その顔には悪戯な笑み。男の欲望を弄ぶ小悪魔の顔。
強烈な欲求に悠理は翻弄されていた。慣れない感情を制御する術を、彼は持っていなかった。
「……良いですよ」
久遠の指が離れる。吸い寄せられる悠理。
そんな彼に、久遠は軽く、唇を触れさせた。
「……久遠?」
「お預けです。こういうことは2人きりの時にしましょう」
不満顔の悠理から、久遠は右に視線を逸らした。
その視線を悠理が追うと、大きく目を見開いて立ち止まる寧々子の姿。
悠理の心には見られたという羞恥も後悔も無かった。彼にとっての寧々子は、同居する年上の女性でしかない。
長い沈黙。そして……、
「悠ちゃんが……悠ちゃんが……悠ちゃんが……」
ブツブツと呟きながら寧々子が歩き出した。立ち止まった2人を追い越して居住区域へと歩いていく。
がっくりと、肩を落として。
「寧々ちゃん、どうしたんだろう?」
「どうしたのでしょうね?」
無邪気に問う悠理。それでも彼にとっては進歩なのかもしれない。久遠に会う前の彼なら寧々子の異変に気付きもしなかっただろう。久遠と出会い、孤独ではないと知ったことで悠理の心に余裕が生まれたのかもしれない。
「それにしても……悠ちゃんですか。私も他の呼び方を考えるべきでしょうか?」
「悠理で良いよ」
「悠理……良いですね。距離が近づいた気がします」
抱きこんだ悠理の左腕に、久遠がさらに胸を押し付けてきた。
そんな彼等の先、中央坑道の四つ辻の陰から3つの人影が飛び出した。そして2人にむかって全力で走ってくる。
「おい! どういうことだ!」「人形! 高見さんと二股か!」
待ち伏せしていたのは禍津一男と八十兄弟だ。
「てめぇ! 高見さん泣かしやがって! ぶっ殺したらぁ!」
惚れた弱みか一男が完全に激昂している。彼等が悠理を待ち伏せていたのは高等部に広まった噂を耳にしたせいだ。さらに、涙を流しながら通り過ぎた寧々子を見て我慢できなくなって飛び出したのだ。
「悠理、何ですかこの下品な輩は」
汚物に対する目で3人を見た久遠が、見るに堪えないと言いたげに悠理に視線を戻した。
「……知らない」
悠理もまた木石を見る目。そもそも憶えるという無駄な努力をするつもりが無いのだ。
「ビッってんのか!」「女の前でボコってやらぁ!」「殺すぞ! コラぁ!」
3人が口々に叫んでいるようだが、彼にとっては雑音でしかない。
いつもであれば「スイッチ」を入れて終わりだが今日は久遠がいる。排除しようにも喧嘩は育子に禁止されている。
対応に迷う悠理の目の前に久遠の太刀が突き出された。
「私の愛刀、『黒姫一文字』です。しばらく預かってください」
二コリと笑って押し付けてくるそれを悠理は黙って受け取った。それは、普段目にしている担任の火照緋焔の打刀と比べて鞘の幅が広い、異形の太刀だった。
「テメェ! 女に守ってもらうなん──ゴフッ!」
「なにしやが──グハッ!」「ちょ、待て──ゲホッ!」
歩み寄った久遠が問答無用の腹蹴り3発。それだけで一男と八十兄弟は地面に倒れた。
久遠は何事も無かったかのように振り返り「帰りましょう」と悠理に声をかけた。
悠理は彼女の姿に見とれていた。細身の白いスラックスに包まれた足が、しなやかなムチのように繰り出されていた。悠理は黙ったままは彼女に歩み寄り太刀を差し出した。
「ありがとうございます。さぁ、帰りましょうか」
コンクリートの地面に倒れて動かない3人には目もくれず、久遠は打刀拵の太刀を腰の固定具に差して再び悠理の左腕に抱きついた。
「……久遠、強いね」
多分、自分よりも強いだろうと悠理は思った。
「あの程度の相手でしたら、悠理も『加速』を使わずに勝てますよ」
それが何を意味しているのか、彼はすぐに理解した。
「やっぱり、久遠も使えるんだね?」
それは確信だった。久遠は自分と同じだから。
「はい。あの程度の相手でしたら使うだけ無駄ですよ。疲れますからね」
久遠が「加速」と言った能力は一瞬の使用であっても軽い倦怠感を引き起こす。視覚からの情報量を少なくして脳の処理速度を上げ、まるで攻撃を始める前から避けているように相手に認識させる。加速していると思うのは相手だけで動きそのものは彼の速筋が生み出す以上の速さにはならない。悠理が考える「スイッチ」はこのようなものだから、「加速」と名付けられるのは少しばかり抵抗がある。だが、久遠とそんなことで無駄な議論をする気にはなれないから、悠理は自分で考えた「スイッチ」を忘れることにした。
「ごめん。本当は僕が追い払うべきだったのに」
悠理の謝罪に、久遠は小首を傾げて考えた様子だった。
「……悠理は、喧嘩をしたことがありますか?」
「無いよ。面倒だし、育子さんにダメって言われてるから」
「成程、それが正解でしょうね。悠理が本気で殴ったら普通の人間は死にますよ。喧嘩をする前に、まずは手加減を覚える必要がありますね」
悠理の答えに久遠は納得したように頷いた。
「そうなんだ? 僕も覚えた方がいいのかな?」
「必要ありませんよ。あの程度の輩でしたら、何人でも私が排除しますから」
久遠が知っているらしい自分を、知りたいとは思わなかった。それよりも久遠が自分と同じだと知れた喜びのほうが大きかった。悠理の中で、世界が少しずつ色彩を増していった。
高見家の前に着いても久遠は悠理から離れなかった。
(そういうことなんだ……)
玄関のドアを開くと育子が立っていた。この時間に彼女が家にいるのは珍しいことだ。
「お帰りなさい、悠理君。久遠ちゃん、ようこそ」
「はい。お世話になります、育子さん」
果たして、予感は当たっていた。悠理の心に喜びが湧き上がる。
「あらあら、寧々子に元気が無かった理由が分かったわ」
育子は腕を組んだ2人を笑顔で見つめた。
「寧々ちゃんが?」
悠理が不思議そうな顔をする。
「悠理君は気付いてないものね」
笑顔を保ちながら、育子は内心かなり動揺していた。
(悠ちゃん、こんなに表情が豊かになって……寧々子が落ち込むのは当然ね)
局長会議で映像を見たはずなのに、改めて目の前で見ると実感として迫ってくる。寧々子が何年かけても引き出せなかった悠理の顔だ。悲しんでいた寧々子と違い、育子は喜びに目頭が熱くなるのを感じた。弥奈と協力して久遠を悠理と会わせたのは正解だったと思った。
「やあ、お帰り」
育子の後ろから、夫の高見恭平が現れた。
「お世話になります、高見さん」
久遠がまず声をかけた。育子とも恭平とも顔見知りだとしたら、久遠は3階管理区域で生活していたのだろうと悠理は推測した。
「久遠ちゃんはね、私の親友の娘さんなのよ。今日からウチで預かることになったの」
育子の説明だけで充分だった。久遠と一緒の時間が増える以上に重要なことなど無い。悠理の頭はすでに久遠だけで占められていた。
「上がりなさい。自分の家だと思ってくれよ」「荷物は届いていますからね」
「はい。お邪魔します」
久遠が丁寧にお辞儀する。その淑やかな態度に悠理は吹き出しそうになった。ついさっき、3人の男を蹴り倒したばかりなのに。
「……悠理?」
久遠がジロリと睨んでくる。余計なことを言うなという顔だ。
「…………」
顔を背けつつ、悠理は別のことを考えていた。
(今……僕、笑った)
笑った記憶は彼の中に無かった。そんな悠理を見て、恭平の目が一瞬だけ冷たく光る。
「育子……僕は管理局に戻るよ。家にいると約束していたのに悪いが、急用を思い出した」
「……分かりました。ごめんなさいね、久遠ちゃん」
育子は咎める目を夫に向けたあと、久遠に向き直って詫びた。
「いいえ。それよりも高見さん、いい加減にしないと、浮気されても文句は言えませんよ」
久遠の警告に、恭平は笑顔を見せただけで急いで自室に戻っていった。
「ほら、悠理君も早く入りなさい」
3人を黙って見ていた悠理を、育子は優しく迎え入れた。
時刻20時30分。根之国、地上4階。居住区域、高見家。
いつもであれば寧々子に勉強を教えてもらっている時間だが、彼女の姿は家に無かった。勉強といっても高等部1年生の復習ではない。寧々子の復習にあわせて3年生の勉強を教えてもらっているのだ。実のところ、悠理は試験でズルをしている。自分の成績が目立たないように点数を下げているのだ。初等部1年生の頃は普通に解答していた。ただでさえ目立つ容姿に加えて常に試験の点数が高得点では他の児童の標的になるのは当然だろう。異質な存在を排除しようとする人間の特性を、彼は嫌というほど経験してきた。目立たないように、面倒なことは回避するようにという人格形成は彼の生存本能がさせたことかもしれない。
だが、今の悠理の頭は久遠のことで一杯だった。同じ家にいる状況が余計に彼を落ち着かなくさせていた。そのせいで机に向かっていても勉強が手につかない。悠理は明らかに自分の感情を持て余していた。こんな経験は初めてで、どう対処すれば良いのか分からなかった。
扉が叩かれた。悠理の鼓動が少し早くなる。
「……久遠?」
それは確認ではなく期待だったのだろうか。果たして、その声に久遠が部屋に入ってきた。
悠理の鼓動がさらに早くなる。彼女が着ているのは黒いネグリジェ。白い肌との対比は扇情的だった。行水したのか長い黒髪はタオルで巻いている。すぐにでも抱きつきたい衝動を悠理は必死に抑えた。嫌われるようなことは出来ない。悠理は距離感を測りかねていた。
「私に聞きたいことがあるかと思いまして」
探るような久遠の口調。彼女も思いは同じか。
悠理に答えを返す余裕は無かった。久遠の真意を読み切るには経験が足りなかった。
久遠は黙ってベッドの端に腰掛けた。悠理の行動を促すように。
悠理の心を捉えたのは、初めて見た彼女の白いうなじ。
久遠の香りが悠理の思考を麻痺させていく。
自分が男であることを、強く意識させられた。
覚悟を決めて、悠理は久遠の隣に座った。
久遠が薄く笑う。手探りする彼を見透かしたかのように。
躊躇う悠理の肩に久遠が頭を預けてくれた。心の中に安堵が広がる。
「……ひとつだけ、教えて」
悠理はようやく思い出したように口を開いた。どうしても知っておきたいことがあった。
「何でしょうか?」
「久遠は……いつまで一緒にいてくれるの?」
それだけは知っておきたい。しかし、口にしてみて怖い質問だとも思った。
「いつまで、いて欲しいですか?」
問い返した彼女の言葉は、悠理の中にある不安を消してくれた。その答えは決まっている。
「ずっと一緒にいてくれる?」
「はい。悠理の望みのままに」
悠理は大きく息を吐き出した。悠理が知りたいことはそれだけだったし、それ以上に重要なことは無かった。彼女を知った今、彼女がいない世界に耐えられる自信は無い。
「それだけ、ですか?」
拍子抜けしたような久遠の問いに悠理は頷いた。もしかしたら、久遠は彼以上に彼のことを知ることが出来る環境にいたのかもしれない。だが、久遠が生きてきた背景など、久遠という存在と比べれば些細なことだと思った。そして、彼自身が何者であるのか、さえも。
その気持ちを、久遠は理解してくれただろうか。
「……寧々子さんにも、優しくしないといけませんよ」
唐突に久遠は話を変えた。それは悠理が予想していない意外な言葉だった。
寧々子には悲惨なことだが、彼の意識からは消えていた名前だ。
「……怒らない?」
久遠が許すとは思えない行為だ。彼女は独占欲が強いと悠理は推測していた。逆のことを言われたほうが自然だと思えたのだ。
「怒りませんけど、嫉妬はします」
当然という顔で、久遠はさらりと言った。
理不尽とは思わなかった。むしろ嫉妬した久遠を見たいと思った。
「それなら優しくするよ。寧々ちゃん以外の人にも」
「意地悪ですね」
久遠は悠理をベッドに押し倒した。
「……本当に私で良いのですか? 私はたぶん嫉妬深いですよ?」
「他に好きな女ができたなんて、許しませんよ?」
「嫌われても、死ぬまで放しませんよ?」
全ての問いに悠理は頷いた。それらの気持ちは彼も同じだった。
自分だけのものにしたいと初めて思った。
他の誰かが触れるなんて許せないと初めて思った。
悠理はすでに篭絡されていた。おそらく、初めて会って唇を奪われた瞬間から。
「今すぐ私のものにしたいのですが……妊娠するようなことは、まだできませんね」
「……うん」
ようやく悠理は彼女との距離を測れたと思った。久遠も彼と同じように、もっと距離を縮めたいと思ってくれている。
久遠の唇が悠理の唇に重なる。
初めての口づけよりも激しい。でも、たどたどしい。
誰にも邪魔されない。誰の目も気にしなくていい。
初心者同士の、互いを求めるだけの乱暴な興奮。
それでも、唇が離れるたびに2人の呼吸は荒くなっていった。
だらしなく緩んだ顔も、荒い鼻息も、流れる唾液も、全てさらけ出した。
何も考えず、ただ互いの唇を貪り、舌を求めて絡めあった。
悠理の両腕が、久遠の細い腰を抱きしめる。
久遠の指が悠理の髪を乱す。
より強い結びつきを求めて。
そして、ようやく顔を離した久遠が、欲情した目で悠理を見下ろした。
2人の息は大きく乱れていたが、悠理には少し物足りなかった。
「……久遠?」
「行水に行きましょう。悠理はまだですよね?」
その言葉は、またも唐突だった。久遠に侵された脳は、それでもどうにか言葉の意味を理解した。
「……面倒臭い」
甘える声で悠理が言う。
「駄目です。もうしてあげませんよ?」
「うぅ……」
それは脅迫だった。断るという選択肢は初めから無かったのだ。
「入りましょう。洗ってさしあげますから」
悠理は風呂場に引きずり込まれた。
時刻20時40分。根之国、地上4階。展望室。
4階教育区域から居住区域までを真っ直ぐに貫く292mの中央坑道は、その北側の行き止まりにある頑丈な扉から18メートルの小坑道に続いて展望室に達する。元は掘削した石を外に廃棄するための坑道だったが、掘削が終了した後は通気孔として利用され、今では監視所を兼ねた展望室として活用されている。山肌に沿って横に広げられた空間は外界と強化ガラスで仕切られ鉄柵で防護されている。野人の侵入に備えるためだ。
核爆発によるオゾン層の破壊によって一時的に生物に有害となった日光ではあるが、長い時間をかけて穏やかになりつつある。それでも外での生活が出来ないのは、野人だけではなく、剣歯猫や大型恐鳥類などの危険な生物が多くいるからだ。人間はもう、生態系の頂点にはいない。それでも、石窟都市のような狭苦しい空間に住む人々が日光を求めるのは当然だ。20人ほどが入れば窮屈に感じる程度の空間で、北向きの展望室は日当たりが悪いのだが、住人にとって無くてはならない憩いの場だ。
壁際に沿ってベンチ状に削り残された岩盤はコンクリートで被覆され、研磨された石板がその上に置かれている。そこに座って外を眺めれば、遠くにはサバナ地帯のように所々に灌木の茂みが点在する草原と山々を、眼下には緩やかな斜面に広がる日除けの黒いシートで覆われた農場と、その真ん中を貫く1km弱の比良坂と、それらを囲む竹の防御柵と環壕と見張り櫓を目にすることが出来る。これが根之国の住人が展望することができる外の景色だ。
今、ガラスの外には真っ暗な闇がある。
壁際のベンチに1人座り、焦点の定まらない目で闇を見つめているのは高見寧々子。家を出た彼女の足は無意識にここに向かっていた。悲しいことがあった時のいつもの行動だ。
「やっぱり……」
寧々子の横に座ったのは、娘を捜しに来た母の育子だ。
呆けた顔で反応を示さない娘の横顔を彼女は困った顔で見つめた。逡巡があった。寧々子に悠理の秘密を話すべきか、それとも秘密のままにしておくべきか。話せば寧々子は育子と同じ側にくる。悠理の秘密を共有し、自分のものにならない悠理を間近に見ながら彼から離れられない生涯を送ることになる。話さなければ、いずれは悠理を諦め他の誰かを好きになるかもしれない。
どちらが正解なのか、育子には判断出来なかった。
「……聞いているわね? 寧々子には、悠理君の秘密を知る覚悟がある?」
だから、本人に決めさせるしかないと思った。局長達に無断で悠理の秘密を話すのは許されることではない。だが、このまま放置したら寧々子は立ち直れないかもしれない。育子の独断だが、弥奈も恭平も許してくれるだろうと思った。それは母親としての判断だった。
「悠ちゃんの……秘密?」
のろのろと、寧々子が振り向いた。泣き腫らした目に浮かんでいるのは恐怖と興味とだろうか。こんな精神状態でも反応してしまうほど、寧々子にとって悠理は大きな存在なのか。
「あんなに綺麗な男の子だもの、秘密があるのは当然よ。知れば不幸になるかもしれないし、知らなければ他の誰かと幸せになれるかもしれない。どうしたいかは自分で決めなさい」
そう言われても想像は容易ではなかった。悠理の傍で不幸になる自分と、他の誰かと寄り添う自分と。より想像できなかったのは、悠理以外の誰かと体を重ねる自分だ。それは恐怖だった。オゾマシイとさえ思った。2人の接吻を見てなお、悠理以外は考えられないと思った。
「……知りたい」
寧々子は自分の決意を口にした。それ以外の選択肢は無いと思えた。
「本当に良いの? 悠理君と結ばれる未来は無いわよ」
「他の誰かなんて考えられない。悠ちゃんと離れて誰かと一緒になるなんてありえない」
ここにも、悠理に骨の髄まで汚染された女がいた。
育子は周囲に誰もいないことを確認し、悠理の正体を寧々子に教えた。フォルティス計画によって生まれた荒波久遠と伊凪悠理。そして、悠理に期待されているであろう、新たな計画の中での彼の役割。最後に、育子も寧々子も「ホモ・サピエンス・アエテルヌス」と呼ばれる人為的に創られた亜種であるという事実。
寧々子は黙って聞いていた。あるいは絶句していただけかもしれない。育子の話が終わっても、寧々子はしばらく黙り込んでいた。
「……寧々子? 大丈夫?」
娘を心配して育子が声をかけた。混乱するのは無理もないことだ。
「悠ちゃん……そういうことなんだ。だからあんなに無反応で……」
ようやく、寧々子が絞り出すように声を発した。
「分かってあげて。悠理君はずっと……見ているのが辛くなるくらい孤独だったのよ」
娘の反応に育子は胸を撫で下ろした。
「そうだね。ずっと寂しかったんだね。だからあんなに嬉しそうだったんだ」
寧々子の中で全ての疑問が氷解した。だからと言って、これから先の自分を想像することは出来なかった。これまでと同じように悠理と接することが許されるのだろうか。
「私どうなるの? どうすればいいの?」
「そうね……これは久遠ちゃん次第だけど、寧々子にも悠理君の赤ちゃんを産む機会はあるかもね。悠理君とそういうことが出来るわけではないのよ。恭平さんに頼んで体外受精して、それを寧々子の子宮に戻すの。許されるのはそこまででしょうね」
「悠ちゃんと、私の……赤ちゃん……」
寧々子の顔に生気が戻る。悠理の子供を妊娠した自分を想像したのだろう。
「まだ先の話よ。久遠ちゃんが悠理君の子供を産んで、その次が寧々子でしょうね。これは久遠ちゃんもまだ知らないことだから話しては駄目。悠理君には絶対に内緒」
そのくらいの権利は確保しようと育子は思った。そうでなければ寧々子が不憫すぎる。
「……うん、分かった」
「これで寧々子もこちら側の人間になったわね。あなたはこれからの人生の全てを悠理君に捧げることになるのよ。裏切ることは許されない。裏切ればあらゆる意味で悠理君と会えなくなると心しておきなさい」
育子の目に鬼が宿る。初めて見た母の本性に寧々子の背筋は凍り付いた。秘密にできなければ殺される。これが、根之国の権力者の顔だ。
「……帰りましょう。女の子が出歩く時間ではないわよ」
育子の変容は一瞬だった。すぐに、いつもの優しい母の顔に戻った。
根之国の真実を垣間見た寧々子は、大人しく母に従った。
時刻21時30分。根之国、地上3階。管理区域、管理局医療部新人類創造課。
根之国の中で新人類創造課とその設備は最重要機密になっている。管理局職員の中にも知らない者が多い。不老の亜種を生み出したアエテルヌス計画、荒波久遠と伊凪悠理を生み出したフォルティス計画は、数十年前からこの課で秘密裏に進められてきた。人間は特別な種だという思い込みが蔓延る中で、自分よりも優れた亜種を許せる人間がどれほどいるだろうか。ただでさえ窮屈な石窟都市で暮らす人々が亜種排斥に動くのは容易に想像できることだ。だからこそ、少なくとも排斥できない勢力になるまでは、研究は秘密裏に進められなければならない。
新人類創造課長は天乃弥奈である。管理局長との兼務だが、新人類創造課長の仕事の方が比重としては大きい。管理局の細々した仕事は局長代理の宿儺結良に丸投げしている状態で、管理局長室は結良のための部屋になっている。
今、課長室にいるのは弥奈と高見恭平。そもそも課長程度に個室を与える余裕は無いのだが、ここでも弥奈は特別だった。恭平との関係も複雑だ。医療部長である恭平は、新人類創造課長である弥奈の上司になるのだが、管理局長としては弥奈が上の立場になる。雑然とした課長室の中で、2人はソファに座って対峙していた。
「それで? 育子を怒らせてまで戻ってきた理由は何かなぁ?」
相も変わらず白衣を着た弥奈が気安く言う。恭平は弥奈の3歳年上だ。
恭平が苛立ちを見せて弥奈を睨む。管理局に戻ってきたのは夕方なのに、この時間まで弥奈に待たされたのだ。普段はおっとりした性格だが研究になると人が変わる。それが恭平の欠点であり研究者としての美点かもしれない。のめり込むと周りが見えなくなるのだ。
「はいはい、分かってるよ。悠ちゃんの変化に驚いたからだよねぇ」
焦るなよという手振りを見せながら弥奈が答える。現状を考えれば焦る理由は分かるのだが。
「僕はね、悠理は精伸面に問題があるかもしれないと危惧していた。その危険性があれば次の人類の候補としては不適格だと考えていた。だから、寧々子との交配でアエテルヌスとフォルティスの交雑を研究するつもりだった」
弥奈に自制を促されて恭平はソファに深く座りなおした。
「フォルティス計画は失敗の連続だったからね。心配しなくても、久遠ちゃんと会ったことで悠ちゃんは成長を始めると思うよぉ?」
「君には僕の焦りが分からないだろう。君は野人が勝者になる未来を許容している」
恭平の言葉に、眼鏡の奥の目が変わる。先ほどまでの笑みは消え、冷たい人形のような顔に。
「決めるのは我々ではない。選ぶのは自然だ。こんな洞穴に住む人類を野人はどう思っているだろうな。野人からすれば我々の方が劣った存在ではないのか?」
口調も真面目なものに変わる。弥奈にも研究者としてのスイッチが入ったのか。
当然のことだが、この新人類創造課にも野人の死体がある。彼等が手に入れた強さを解明したいと思うのは研究者として当然の欲求だ。一般に、核戦争後の放射線による急激な進化と思われている野人だが、たかだか二百数十年でそれはありえない。特定の塩基が意図的に組み替えられているというのが研究者の共通した認識だ。これは剣歯猫や恐鳥類にも言えることで、それらは何らかの目的を持って生み出された生物だと思われている。そして、それらの生物が生み出されたのは、おそらく、この「根之国」だろう、とも。住人達には秘密にされているが、石窟都市の前身は、研究施設だと考えられている。そうでなければ、二百数十年で新たな亜種を生み出すまでの技術を再築することは出来ない。外の世界に怪物達を吐き出した元凶。ここが「根之国」と呼ばれている所以だ。
そうだとしても、野人や剣歯猫や恐鳥類が環境に適応しているというのは別の話だ。同じく人の手によって生み出されたアエテルヌスやフォルティスが、今の環境に適応できるかどうか、決めるのは彼等自身ではないのと同様に。この先、ホモ・サピエンスが生活圏を広げていったとしても、生存競争で野人に勝てないかもしれないというのが弥奈の予想だ。その上で、石窟都市に住む人類はどうあるべきか。野人との共存は可能か。ホモ・サピエンスが進出した先で、ネアンデルタール人もフローレス人もデニソワ人も結果的に滅びた。今度はホモ・サピエンスが滅びるのではないか。
「それでも僕は可能性を広げておきたいと思う。700万年の人類の進化を無駄にはしたくない」
恭平は弥奈の変化に驚かない。この顔こそ本当の彼女だと知っているからだ。
「その結果が核戦争でもか?」
弥奈は敢えて問う。恭平の言葉に異論は無いが、弥奈には迷いがあった。このまま野人が生き延び、文明を手にしない未来こそ地球にとって最良の選択ではないか。生き延びるべきだったのはホモ・サピエンスではなく我々以外の人類だったのではないか。
「それは人類が弱さを克服できなかったからだと思っている。直立二足歩行を手に入れたことで人が失ったものは多い」
それは武器となる牙。逃げるための速さ。凶暴であるための筋力。直立二足歩行をするようになってから脳が大きくなり始めるまでの450万年、人類は弱い存在でしかなかった。逃げるための速さを持たない分、肉食獣にとっては草食動物よりも捕まえやすい獲物だっただろう。生物としての武器を失っても種として生き延びることができたのは、人類が賢かったからではない。ただ旺盛な繁殖力によって食われた以上に子を産んできただけのことだ。圧倒的な武器を手に入れ食物連鎖の頂点に立った人類が増えすぎたのは、弱い立場だった頃の繁殖力が残っていたからで、これは当然の帰結だ。
肉食獣から身を護り、肉を得るために使われはじめた石器が、他人の土地を奪い他人から土地を護るための青銅器や鉄器に変わり、最後には自国を攻撃するかもしれない他国を先に攻撃するための核兵器に変わった。殺されるかもしれないから先に殺す。この思いは自分の中の弱さが生み出した妄想でしかない。暗闇の中にいるかもしれない肉食獣に怯えるのと同じ心で、他の多くの生物を道連れにして人は人を滅ぼしかけた。圧倒的な知性を維持したまま、裸でも自然の中で生き残ることができる強さを手に入れたら、人のありようは違うものになるのではないか。自然が野人を選んだというのであれば、自分はそれを超える人類を生み出してみせる。それが高見恭平の思いだった。だからこそのフォルティス計画。その先に、本当に目指す新人類「ホモ・ペルフェクトゥス」がある。
「反論はやめておく。それよりも、今の悠理は恭平君の眼鏡にかなったのか? 私は遺伝上とはいえ母親だから色眼鏡ということもある。客観的な意見を聞きたい」
「それを言うなら僕だって親みたいなものだと思っている。だからこそ僕は君達のように楽観的にはなれなかった」
悠理を生み出したのは確かに恭平だ。弥奈の卵子と、彼女の幼馴染であり野人十数体を道連れに死んだ伊凪悠斗の精子とに変異を加え、人工子宮を使って生み出した。だからこそ弥奈は、自分が悠理の母親だと思えないでいるのだ。
「違いないが、私は悠理を愛しすぎている。客観性を求められても困る」
弥奈の目は真剣だった。だから恭平は苦笑した。ここにも悠理に汚染された女がいることを思い出したからだ。
「……どうしても僕の口から言わせたいのか?」
「好きに解釈すれば良い。結果よりプライドを優先させるつもりは無いだろう?」
「……僕の意見を言わせてもらうと、これで悠理は新人類を生み出す最重要の候補になった。君達が望んでいた通り……それよりも遥かに悠理は近づいているのかもしれない。僕に相談も無く危険な賭けに出て勝ったのは君達だ。これで満足か?」
恭平の嫌味にも一理ある。今回、独断で悠理と久遠を会わせたのは弥奈と育子だ。久遠を会わせても悠理が変化しなかった時、悠理から久遠を引き離すことが出来たのかと言いたいのだ。彼は悠理を失敗作だと思っていた。女の勘とかいう曖昧なものに負けたと思って不愉快になっているのだ。
「交配相手は?」
恭平の嫌味を無視して弥奈は探る目を向けた。今後の方針によっては久遠が敵になる事態が起こりうる。突然の接吻は久遠の焦りから出た行動だと弥奈は確信していた。
「当初の予定では、荒波久遠は別のフォルティスと交配させるつもりだった。しかし、悠理も久遠も研究の成果としてはイレギュラーだ。計画に拘ればせっかくの機会を潰してしまうかもしれない」
「安心した。あの2人を引き離すのは無理だ」
それは弥奈の本音だ。久遠は決して悠理を手放さない。それこそ命がけで歯向かうだろう。
「フォルティス計画は手持ちの個体で続けるが、新たに生み出すことはしない。その分の余力をペルフェクトゥス計画に向けようと思う。久遠の負担を考えて、2人が成熟するまでは待つつもりだ。その後は……せっかく手に入れたイレギュラーだ。予定通り他のフォルティスとの交配も試す価値はある」
久遠が聞いたら激怒するだろう。そんなことを平気で口にする恭平の目には研究者の狂気がある。それを見た弥奈は手綱を引く必要を感じた。
「たとえ人工子宮によるものであっても、久遠が他の男との子供を許すと思うな。久遠は恭平君が思う以上に貞操観念が高い。悠理の子供を産みたいと願う女は多いだろうが」
「その理屈であれば、久遠が他の女に悠理の子供を産ませるのを許すか?」
研究者の冷徹な眼差しで恭平は弥奈を見据えた。邪魔をするなと言いたいのだろう。
「久遠を怒らせたら計画は頓挫する。悠理を連れてここを出るくらいは平気でやる女だ。初代フォルティスに逃げられたことを忘れるな」
弥奈の目が据わる。そこには一歩も引かないという強い意志があった。
沈黙。
2人の視線は離れない。研究者の矜持がぶつかりあう。
やがて、先に目を逸らしたのは恭平だった。
「納得はできないが命令として聞いておこう。久遠との交渉は任せる。そのくらいはしてもらえるのだろうな?」
「当然だ。女同士の話だよ」
計画の成否は久遠次第で無理を通せば全てを失う。久遠はそれだけの力を持っているし覚悟もある。その時には自分も恭平も彼女に殺されているだろう。それは弥奈の確信だった。
「3年か……長いな」
呟いた恭平が部屋を出ていく。
「久遠を説得か……疲れる仕事だな」
弥奈は大きく息を吐いた。
伊凪悠理を囲む世界が、大きく変わろうとしていた。
* * *
根之国暦237年6月12日。
時刻5時17分。根之国、地上1階出入口。
もともとは切り立った山肌に口を開けた洞窟へと続く斜面だったが、細い坂道だけを残し周囲を平坦になるまで掘り下げてある。眼下に広がるのは防護柵の跳ね橋へと続く1km弱の長く緩やかな比良坂と、その左右の斜面に広がる農場と、それを囲む長い防護柵と環濠と見張り櫓。これが野人を防ぐ最初の防衛線で、外にはサバナのような荒れた景色が広がる。
「状況は!」
防衛局防衛部長、磐筒豪希が吠えた。年齢44歳。額に巻いた鉢金に、黒い保護眼鏡と黒い合皮の戦闘服。防衛局防衛部隊員120人を統率する、名前の通りの屈強な男だ。豪希は野人接近の報告を受けて出入口近くの防衛部隊員控室から飛び出してきたのだ。偵察隊が持ち帰った情報から見張りを強化していたが、予測より早い襲撃だった。
「野人十数体! 弓で応戦中!」
伝令が叫ぶ。数からして偵察隊が発見した野人の群れで間違いないだろう。
双眼鏡を覗く豪希の目には、20人ほどの隊員が複合弓で応戦している姿が見える。十数体の野人が相手では分が悪いか。接近されたら野人の膂力は脅威だ。事実、数体の野人が環壕と竹の防護柵を越えて侵入している。隊員の半数は槍に持ち替えて応戦を続けていた。打刀や太刀は最後の武器。野人との戦闘で防衛部隊員が使う主武装は複合弓と槍だ。しかし、豪希が腰に佩くのは刃長89cm、反り3.5cm、戸間安平作刀の太刀「豪希安平」。槍よりも太刀での戦いを好む彼のために戸間が特別に鍛えた太刀だ。
「皆殺しにしろ!」
走り出した豪希の後ろを、槍を手にした20人の隊員達が鬨の声をあげながら続く。
戦場まで走り続けた豪希は太刀を抜きながら状況を確認した。柵外の環壕で倒れた野人は数体。こちらの被害は2人か。野人に殺された隊員は、無残にも腕を引きちぎられ、殴られた顔面は崩壊している。これが野人の膂力だ。人類が700万年前に失った力を、野人は取り戻している。
「チッ!」
豪希の口から舌打ちが漏れる。戦死者を出してしまった。
身近の野人に向かって豪希は太刀を袈裟に斬り下ろした。奇声を発して野人が倒れる。
続いた隊員たちが、防護柵を乗り越えようとする野人に殺到する。
援軍の到着で大勢は決した。
(野人接近の予測時間を間違えたか)
次の交代から見張りを増やす予定だった。彼が判断を間違えたことで2人の戦死者を出してしまった。これでは防衛局長に合わせる顔が無いが、報告には行かなければならない。陰鬱な気持ちを振り払い彼は周囲を見回した。
「止めを刺せ! 野人の生命力を侮るな! 見張りを次の隊と交代させろ!」
豪希は矢継ぎ早に支持を飛ばした。
その豪希に1人の隊員が歩み寄った。その腰には刃長72cmの打刀拵の太刀。これが防衛部での標準的な太刀だ。
根之国を代表する刀工は2人。戸間安平と金屋一。戸間の太刀の刃長70cm余りに対して金屋の打刀の刃長は60cm余り。金屋の打刀は都市内に侵入した野人と戦うことを考慮したもので警察部隊員が帯びることが多い。対して戸間の太刀は防衛部隊員向きだ。ただし、防衛部の隊員達の中で豪希のように佩刀している者は少ない。打刀拵にして腰の固定具に差している実用重視の隊員が圧倒的多数だ。戸間も金屋も偏屈で気に入った相手にしか作刀しないから、ほとんどの隊員は彼らの弟子が作る無銘の太刀か打刀を使っている。
指示を出し終わった豪希が振り向く。
「野人の死体と戦死者の遺体は肥料小屋に運びます」
隊員の声は陰鬱なものだった。これは石窟都市内で死んだ住人も同様なのだが、例え戦死者とはいえ弔うことは許されない。死んだ者は土に帰り次の命の糧になる。冷酷かもしれないが、食物連鎖の中で生きるとはそういうことだ。共食いをしないだけ野人よりはマシだ。
豪希は太刀を鞘に収めながら無言で頷いた。短く、悼むように目を閉じて。
「それから、環壕の中で死んでいるイノシシを発見したと報告がありました。野人が追いかけてきたのかもしれません。襲撃が予測より早かったのはこの所為でしょう」
農場を囲むように巡らせた環壕と防護柵が防ぐのは野人だけではない。農作物を狙って侵入しようとする野盗や、剣歯猫や2m近くある大型恐鳥類に、イノシシやシカを防ぐ目的もある。イノシシやシカを捕まえれば当然食料で、見張りの隊員は積極的に狩ることを許されている。これは防衛部隊員の特権だ。石窟都市の一階は畜産区域になっておりウシ、ブタ、ニワトリ等を飼育しているが、肉の配給量は充分とは言えない。
「……それは防衛部で食べるか。可能なら回収させろ」
隊員に命令しながら豪希は石窟都市へと続く比良坂を振りかえった。その先には、灌木と竹に覆われた山々と山肌に設置された多量の太陽電池パネル。彼が野人と戦うのは、この都市に住む妻と2人の娘の為でもある。当面の敵は苦手な(若い顔で叱責されると娘に怒られているようで情けなくなる)荒波永遠防衛局長だが。
彼は再び隊員に振り向いた後で、軽く顔をしかめて見せた。
「荒波局長に報告してくる。後は任せて良いか?」
「了解です」
隊員は少しだけ気の毒そうな顔をした。彼も怖い印象しかない防衛局長は苦手なのか。
そんな素直な隊員の反応に、磐筒豪希は苦笑を浮かべた。
時刻8時40分。根之国、地上4階。居住区域、中央坑道。
居住区域から教育区域へと続く中央坑道を悠理と久遠は歩いていた。
悠理の左腕には、そこを定位置と決めた久遠が抱きついている。今日の彼女は濃紺のロング丈のプリーツスカートに黒いオーバーニーソックスだ。スカートを穿いても悠理以外に肌を晒すつもりは無いのか。昨日の今日でどういう心境の変化があったのか、悠理には分からなかった。
「……多いね」
何度も見かけた警察部隊員の黒い制服を再び見つけて悠理が言った。
根之国の防衛を担う防衛局には三つの部がある。120人の隊員からなる防衛部と、60人の隊員からなる警察部と、20人の隊員からなる偵察部だ。警察部隊員は腰に差す打刀の他に右腰に警棒を吊るしている。打刀は野人が都市内部に侵入した場合に備えて帯びているもので住人に向けるものではない。
「もしかしたら、野人の襲撃があったのかもしれませんね」
「入ってきてるの?」
3階管理区域に住んでいたと悠理が推測している久遠の知識は新鮮だった。
「念のための見回りだと思います。侵入を許したら警報が鳴るはずですよ」
「そうなんだ。知らなかったよ」
呑気に言う悠理に久遠は呆れた顔を見せた。
「警報については周知されていますよ。もう少し危機感を持ってください」
どうやら久遠には説教癖があるようだ。起き抜けの寝ぼけた悠理を着替えさせ髪を梳かし、あれこれと世話を焼きながら小言を言う久遠を彼は思い出していた。
「久遠は見回りに加わらないの? 確か予備隊員だったよね?」
藪蛇を自覚した悠理は話題を急激に変えた。彼女の腰には金屋一作刀の太刀「黒姫一文字」。この太刀は金屋の作刀の中でも異形の一振だ。刃長72cm、反り2cm、元幅(刀身の根本の幅)4.5cm、元重(刀身の根本の厚み)1.2cm、重量2.6kg。斬るよりも殴りつける目的に特化した棍棒のような太刀だ。当然だが鞘も厚く幅広く、とてもではないが太刀には見えないし独特の優雅さも無い。何より、久遠のような少女が扱える太刀には見えない。
久遠は軽い溜息で説教を諦める意思を伝えた。
「予備隊員という肩書は帯刀のための方便ですから、緊急時以外に動く義務はありませんよ」
帯刀許可証を持つということは、外敵に侵入された場合には率先して対処する義務を負うということだ。これも人手不足を補うための仕組と言える。実のところ久遠は悠理を護るためだけに帯刀しているのだが、これは一部の防衛局員しか知らない極秘事項だ。
「安心してください。悠理は私が護ります」
先程までの不満は霧消してしまったように、久遠は上機嫌で悠理に擦り寄った。彼女の感情の変化を気にした様子は悠理にも無い。結局、お似合いなのかもしれない。
人目も気にせず寄り添って歩く2人に、憎悪の視線を向ける3人の姿があった。
「高見さんの元気が無いのはアイツのせいだ」
禍津一男の怒りは消えていない。それでも、彼等を相手に異常な強さを見せつけた久遠は3人に圧倒的な恐怖を植え付けていた。あんな化け物に勝てるわけがない。
「あの女がいると無理だよ」
一男の後ろから八十継男が引き留めた。八十兄弟の兄のほうだ。
「んなこたぁ分かってる。あの女が離れるのを待つんだ」
彼等の中では悠理は未だに自分たちより弱い存在だ。あんな軟弱なやつに負けるわけがない。それが禍津一男の認識だった。
時刻8時47分。根之国、地上4階。教育区域、高等部1年1組。
腕を組んだままで教室に入った悠理と久遠に多くの視線が集中した。皆の「王子」を初めて振り向かせた許せない女。その視線は敵意、嫉妬、憎悪──あらゆる負の感情を含んでいた。
2人にそれを気にする素振りは無く、彼等だけの世界を作り出している。悠理が最後列の自分の席に座ると久遠がすかさず机をくっつけ、椅子まで長椅子のように並べて悠理の肩に頭を預けた。これが教室での彼女の定位置らしい。完全なる暴挙である。
教室中の女子生徒から敵意を向けられる久遠に宿儺咲良が歩み寄った。
「あの……荒波さん、教室でそういうのはちょっと……」
「……はい?」
上機嫌だった久遠の目に、普通の女子生徒を震え上がらせるには充分な攻撃性が宿る。
「いえ、あの……昨日のような、教室でキ、キスとか……」
咲良の声が「キ」のあたりから小さくなった。刀と言い豪胆な性格と言い、彼女にとって久遠は不気味な存在だ。それでも勇気を振り絞って話しかけた理由は彼女にも分からない。
「諫言と受け取りましょう。ご心配なく、あのようなことはいたしませんよ」
鷹揚に頷く久遠。それはまさに女王の風格だった。
さすがにムッとした咲良に、「ごめんね、宿儺さん」と横から声がかかった。
それは、咲良が初めて聞いた、感情がこもった悠理の声だった。
「え……」
それは咲良を絶句させるに充分な衝撃だった。悠理の顔には確かに申し訳ないと読み取れる表情があった。彼女が何度話しかけてもこんな表情にはならなかった。咲良は悠理と久遠の顔を見比べる。久遠の顔には「そういうことです」と書いてあった。
(この人が、伊凪君を変えた? この人が、伊凪君に選ばれた人?)
その認識は咲良を傷つけていた。ここにも悠理に汚染された女がいたのだ。
久遠が勝利宣言のようにニッコリと微笑む。咲良はフラフラと自分の席に戻っていった。
「宿儺さん、どうしたのかな?」
このあたりは相変わらずの悠理が問う。
「悠理は、あの人の名前を憶えているのですね?」
彼の質問には答えず、久遠は問いを返した。
「うん。そうだね」
悠理が名前を憶えている女性。それだけで久遠にとっては警戒を必要とする相手だった。
(苗字からすれば、宿儺管理局長代理の妹でしょうか?)
そうであれば彼女もアエテルヌス計画によって不老と常人の倍の筋力を手にした新たな亜種だろう。死ぬ寸前まで老いを感じさせない容姿を保つ遺伝子は久遠も悠理も持っているから問題ではない。久遠にとっての問題は、アエテルヌスに対して悠理が反応しやすいと思えることだ。
(宿儺咲良、憶えておく必要がありますね)
知らないうちに咲良は久遠の要警戒名簿に登録されてしまった。
8時55分、教室のドアが開く。
「席に着け。ホームルームを始める」
そこには昨日の事件の影響か、虚ろな顔の火照緋焔。
その後ろから、1人の男子生徒が教室に入ってきた。灰茶色の髪に不敵な面構え。学校指定の白いショート丈ブレザーに誰かを思い出させる白いスラックス。そして、赤鞘に金茶の柄糸という鮮やかな打刀拵の太刀を腰の固定具に差した、とにかく目立つ男だった。この男の顔を、生徒の誰も見たことが無かった。
ただ1人を除いて。
「うっ……」
悠理の横から呻き声。振り向いた彼の目に映ったのは苦い顔をした久遠だった。
「この度、転入してきた南方武瑠だ」
「お前の教室は隣の2組だ」
やる気の感じられない緋焔の言葉が、武瑠の自己紹介を肯定していた。
「そんな……」「どうなっているの?」「2日続けて?」
ただでさえありえない転入生が2日続くというのは誤魔化せる事態ではない。それでも、悠理ロス症候群を患っている緋焔は無気力な態度を崩さなかった。
「……久遠、あの人と知り合い?」
悠理が興味を持ったのも無理はない。南方武瑠という男を悠理は自分に似た存在として認識していた。自分に似ているということは久遠とも似ている。そんな男が久遠と知り合いらしい。
悠理の心に、新たな感情が生まれた。
「最悪ですね……」
久遠が呟いた。その目は南方武瑠を憎々し気に見つめている。
「……同学年であれば、話す機会もあるか。自己紹介をするか?」
緋焔の言葉に武瑠は一瞬だけ悠理を見た。そして呆然と見つめる生徒達を前に喋りはじめた。
「一つだけはっきり言っておくことがある。俺はそこにいる荒波久遠と婚約している──」
武瑠の言葉に、教室中の生徒の視線が一斉に後ろを向いた。悠理の横で苦虫を嚙みつぶしたような顔をしている久遠へ。嫌いな奴が自分と同じ発想をしていることに気付く余裕があるかどうかは彼女自身にしか分からないことだろう。
その横では悠理が大きく目を見開いて固まっていた。これは南方武瑠の快挙と言って良い。伊凪悠理に初めて精神的な打撃を与えたのだから。
「悠理、バカが言うことを信じてはいけませんよ」
努めて冷静に久遠が言うが、その声は彼に届かなかった。
「……そうなの?」
ゆっくりと久遠に向いた悠理は、泣き出しそうなほど不安でいっぱいの顔をしていた。
「嘘ですよ。私は悠理のものです」
その顔を見て久遠は優しく悠理に微笑んだ。
そんな2人を武瑠は憎悪を含んだ目で睨みつけていた。
「──それなのにだ。しばらく離れていた間に、俺の婚約者に悪い虫がついているように見受けられる。これはどういうことだ?」
武瑠の問いかけを久遠は無視した。関わりたくなかったからだ。
そんな久遠の姿は答えに窮していると武瑠には映った。彼の頭脳が急激に回転を始める。
(久遠が黙り込んだ理由。それは淑やかな久遠が口にできないようなことをされたからだ。久遠が俺以外の男を好きになるはずはない。つまり久遠は無理矢理あの男に手籠めにされたのだ。そして脅されているのだ。ばらされたくなければ言うことを聞けと)
「お前は脅されているのだな。つまり悪いのはその男だ。しかし俺も話の分からぬ男ではない。過ちを認めれば今度だけは許してやろう。今すぐ俺の久遠から離れるのだ!」
どう見ても久遠から近づき悠理の唇まで奪った昨日の所業を教室中の生徒が目撃していた。そして、久遠の苦い顔と武瑠の態度から全生徒が事態を把握しつつあった。
(こいつ、ウザいやつだ)
およそ好感というものと無縁の久遠だが、この時ばかりは全生徒が同情していた。
(こんなのと婚約していたら、逃げたくなるのも分かるわ)(だから必死に王子にアプローチしていたのね)(やっと逃げられたと思って安心していたんだ。それなのに可哀そう)
かなりの誤解が含まれているが、久遠への悪意は同情に変わっていた。
武瑠から悪人指定された悠理はキョトンとした顔で久遠を見た。武瑠の論理の飛躍についていけなかったのだ。久遠は困った顔で悠理を見返した。
彼女の困惑を被害者の逡巡と武瑠は捉えた。そして、彼女を脅している男は無反応。
(つまり拒否するというのだな。俺は警告した。強者としの度量も見せた。それでもなお拒否すると言うことはあの男は俺に喧嘩を売っているということだ。久遠を賭けて戦えと言っているのだ。無知ゆえの傲慢には酌量の余地があるが寛容な俺にも我慢の限度というものがある。身の程知らずの男に俺の力を示し久遠を俺の手に取り戻す)
「良かろう! その喧嘩を買ってやる! 俺の愛刀南方安平の錆にしてやる! 血溜まりの中で己が無知を呪うがよい!」
南方武瑠の1年1組での立場が確定した。関わりたくない。それは全生徒に共通の認識だった。
久遠が静かに立ち上がる。その目は冷たく、刀剣のように鋭かった。
彼女の中に嵐が吹き荒れていた。
悠理への暴言。悠理への攻撃宣言。
それは看過できるものではない。
「久遠?」
悠理が問う。南方武瑠は強いと分かるからだ。
「大丈夫ですよ」
久遠は武瑠に向かって歩き出した。
(分かってくれたのか久遠。お前は脅されていただけなのだ。お前がこの場でなすべきことは俺に助けを求めることだ。お前の過ちを俺は許す。お前の汚された身も心も俺が綺麗に浄化してやる。それが男の度量というものだ)
「そうだ! お前は脅されていただけなのだ!」
武瑠が大きく両の腕を広げる。久遠を腕の中に迎えるために。
久遠の歩みは止まらない。
その目はただただ冷たく、刀剣の鋭さを湛えていた。
身に纏うのは怒気か闘気か殺気か。
「さぁ! 俺の腕の中に戻るのだ!」
両腕を広げた南方武瑠の腹に、
久遠は本気で横蹴りを突き刺した。
「…………」「…………」「…………」
絶句する生徒達の視線の先で、壁に激突した武瑠は静かに崩れ落ちた。
それを見届けた久遠は淑やかに自分の席に戻り、何事も無かったかのように再び悠理に寄り添った。それはもう、とても幸せそうに。
悠理のほうは「またやったよ」と言いたげな呆れ顔。
「……では、出欠の確認をする」
担任の緋焔が無気力に生徒の名を呼び始める。久遠の暴力行為は目に入らなかったようだ。
「ちょ、ちょっと! 先生!」
昨日に続いて宿儺咲良が抗議の声を上げた。しかし、緋焔は全く取り合わない。
「あれ、放置して大丈夫なの?」
ピクリとも動かない武瑠に、さすがに不安になった悠理が聞いた。久遠は明らかに本気で蹴りを入れていた。動かない武瑠を放置して出席の確認が続いている。
「あれで死ぬほど可愛げがある生き物ではありませんよ。残念ですが」
「そうなんだ」
言外に死ねばいいという意味を嗅ぎ取って悠理は安心していた。久遠は本当に武瑠のことが嫌いのようだ。悠理から見ても好きになれる要素は見つからなかった。
「それよりも悠理?」
久遠の目がキラリと光った。良からぬことを企んでいる目だ。
「……何?」
悠理が少しだけ身を引く。それを久遠は追いかけた。
「先ほどの悠理の顔ですが……本当にあのバカの言葉を信じていたのですか?」
久遠の脳裏には悠理の泣き出しそうな顔が刻み込まれていた。悠理にそんな顔をさせた武瑠に、実のところ少しは感謝しても良いかもしれないと久遠は思っていた。悠理が見せた新しい顔に久遠の心は激しく高揚していた。とにかく、可愛かったのだ。
「う……だって、久遠は僕より先に南方……君に会ってたんだよね?」
それは明らかに久遠が予想している悠理の感情だ。
「そうですね。それは事実です」
「そ、それに婚約者って……」
悠理の言葉に久遠がニヤリと笑う。
「もしかして、嫉妬ですか?」
我慢できず久遠は核心をついた。
「そう……なのかな? 分かんないけど……アイツ嫌いだ」
悠理の拗ねた顔を見るのも久遠にとっては楽しいことだ。無視できない初めての同性である南方武瑠は、悠理から多くの感情を引き出しているのだろう。
「……あのバカが役に立ったのは初めてですね」
悠理の顔に「どういうこと?」と疑問が浮かぶ。
「そうですね、元婚約者というのが正解かもしれません」
久遠の言葉に悠理が不安を浮かべた。元とはいえ婚約者は彼にとって無視できない存在だろう。そんな悠理の顔を見て久遠の胸は再び激しく高鳴った。今すぐにでも押し倒したい衝動を必死に我慢しなければならないほどに。
「周囲が勝手に言っていただけです。私は了承していませんし、触れさせたこともありません」
武瑠も久遠と同じホモ・サピエンス・フォルティスだ。初めて会った時から久遠は南方武瑠が嫌いだった。高見恭平に交配候補と教えられた時も全力で拒否した。新人類創造課の中でも意見は分かれており、予定通り武瑠と久遠とを交配させようとする高見恭平と、悠理と久遠とを結婚させようとする天乃弥奈(荒波永遠、高見育子含む)の間で意見が戦わされてきたのだ。弥奈の策略で久遠に選択肢を与えたことにより、天秤は大きく弥奈側に傾いたと言える。
いずれにせよ久遠は悠理以外の相手を認めるつもりは無い。たとえ相手が高見恭平だろうが天乃弥奈だろうが、誰が何を言ったところで気持ちは変わらない。どうしても邪魔すると言うなら殺すだけだ。与えられた機会を最大限に生かして手に入れた悠理を、今さら誰かに盗られるなど納得できることではない。特に、あの女には──。
それから放課後まで2人の周囲は騒がしかった。
久遠は女子生徒達から「がんばって」と応援され、悠理は「しっかりしないとね」と激励された。どうやら武瑠の言動から大いなる勘違いが蔓延してしまったらしい。2人にとっては有難迷惑な話だが「好意として受け入れましょう」と言った久遠に悠理は大人しく従った。意識を取り戻した武瑠が悠理に詰め寄るたびに久遠は蹴り倒し、余りのしつこさに悠理まで辟易し始めた頃にようやく放課後を迎えた。
「何故だ! 何故そこまで俺を拒絶する久遠!」
ようやく自分が本当に拒絶されていると察した武瑠が叫んだ。
周囲の生徒は「またか」という顔で避難を始める。
(どういうことだ? 久遠は脅されていないというのか? それなら何故俺を拒絶する。あれほど愛し合っていたというのに。こんな軟弱な男に俺が負けるとは思えない。負ける要素など微塵も無い。男の魅力とは強さなのだ。つまり俺の方が久遠に相応しいということだ)
久遠としては大きな一歩だった。自分が拒絶されていると、武瑠は理解できたようだ。
「分かりました。よく見ておきなさい」
久遠は悠理の腰を抱き寄せて指で顎を上げた。(これって逆じゃないかな?)と思いつつ、時々男らしく見える久遠に悠理は大人しく従うことにした。
2人の唇が重なった。
生徒達がどよめく。それは昨日と違って悪意があるものではなく、これなら武瑠でも理解できるだろうという期待と、良くやったという称賛が込められているようだ。
昨日と違うことがもう一つ。今日の悠理は積極的だった。自分から久遠の唇を求めていた。
悠理も必死だった。元婚約者に久遠を奪われたくない。
久遠が武瑠を選ぶとは思えなかったが、小さな芽でも潰しておきたいと思った。
その気持ちを久遠は感じ取っていた。自分を取られまいと必死になる悠理。
確かに愛されているという自覚。それは身が震えるほどの感動だった。
だから、昨日よりも情熱的な口づけになった。
濡れた音を響かせて、2人の唇が離れた。
「私たちは愛し合っているのです。邪魔しないでください」
久遠の目は真剣だ。誤解のしようが無い証拠を見せつけたつもりだった。
武瑠の目は大きく見開かれていた。
この事態を理解していると誰もが思った。
(公衆の面前でここまで破廉恥な行為をするなど淑やかな久遠にはありえないことだ。俺が知る久遠は近寄っただけで恥ずかしがって逃げるほどの照れ屋だ。久遠の変節を論理的に説明する重要な因子を俺は見逃している。それは何だ? 久遠の心を変えた……心を……変える?)
「そうか! キサマが久遠を洗脳したのだな!」
南方武瑠の指が勢いよく悠理に向けられた。周囲から幾つもの大きな溜息。
悠理の隣では久遠が真っ赤な顔をして震えている。
接吻のせいではない。それは誰の目にも明らかだった。
避難途中の生徒が慌てて武瑠の背後を空ける。
久遠はそれを確認していたのだろうか。
生徒達が避難を済ませた無人の空間を、
くの字を保ったままの南方武瑠が吹き飛んでいった。
「……悠理、付き合ってください」
苛立ちを隠せない久遠の言葉に悠理は疲れた顔を向けた。精神的に疲れる相手に会ったのは初めてだった。とにかく、武瑠はしつこかった。
「3階に行きます。文句を言わないと気が済みません」
悠理の耳元で久遠が囁いた。「誰に?」という当然の疑問を悠理は口にしなかった。
時刻15時30分。根之国、地上3階。管理区域、中央坑道。
悠理が初めて訪れた管理区域には、あちこちに警察部の隊員が立っていた。居住区域とは比較にならない厳重な警備を久遠は咎められること無く次々と素通りしていく。すれ違った隊員達は何故か彼女のことを「姫」と呼んだが、うんざり顔の久遠に悠理は敢えて質問しなかった。
久遠の訪問先は防衛局本部。そこで彼女は防衛局長との面会を願い出た。その入口で待たされている間だけが久遠の思い通りにならない時間だった。
やがて、入口の扉が開いて隊員が彼等を笑顔で中に招き入れる。通された防衛局長室には黒い制服を着た2人の隊員がいた。1人は、端正な顔だが目付きは精悍な若い男性。そしてもう1人は、久遠にそっくりな顔をした20代半ばに見える女性だった。
「伊凪悠理君だね。初めまして、久遠の父の荒波速雄だ。防衛局警察部長を任せられている」
女性の後ろに立つ男が自己紹介した。
「……防衛局長の荒波永遠。久遠の母だ」
重厚な机の向こうで椅子に座ったままの女性が続いた。その顔は、母と言われるよりも姉と言われるほうが納得できる。久遠よりも成熟した顔は妖艶で、久遠と同じ艶やかな黒髪は顎の高さで揃えられている。黒い防衛局の制服が彼女の魅力をさらに引き立てていた。そして、制服の布を押し上げている胸は久遠よりも明らかに大きい。
「……悠理」
久遠が悠理の尻をつねった。自分の母親に見とれているのは面白くないのだろう。
「あ、すみません。伊凪悠理です」
悠理は軽く頭を下げた。そんな彼を見て永遠の唇が微かに笑ったように見えた。
「久遠が迷惑をかけているようだね」
父親の速雄が苦笑する。精悍さが崩れ穏やかな目に変わった。
「いいえ。そんなことは──」「聞かなくても分かることだ」
悠理の言葉を遮って永遠が断定した。
「母上!」
抗議の声を上げる久遠を永遠が片手で制する。
「分かっている。恋人を紹介しに来たのだから余計なことは言うな、だろう?」
「違います!」
久遠が再び発した強い声に永遠は顔をしかめた。
「大声を出すな。南方武瑠だろう?」
久遠は完全に手玉に取られている。さすがは母親というところか。
「そうです。何故転入を許可されたのですか?」
ようやく意図した話題になって久遠は少し落ち着いた。
「お前に許可して南方武瑠に許可しないというのは筋が通らない」
これは言い訳でしかない。実のところ武瑠を野に放ってしまった責任は永遠にもある。転入した久遠を追いかけるために関係各局に面会の約束も無く突撃し自分も転入させろと屁理屈をこねる武瑠に職員全員の心が折れたというのが実情だ。永遠も武瑠に嫌気がさして悠理に実害があるようなら殺してしまえと許可を出したのだが久遠に言えることではない。
「迷惑です。あの男の性格はよくお分かりでしょう?」
「……実害があったのか?」
永遠の目が鋭く光った。南方武瑠を殺したとしても文句を言うのは高見恭平くらいだろう。むしろ大喜びする職員の方が多いはずだ。いくら彼がフォルティスでも睡眠中を襲われたら死ぬ。「あった」と久遠が答えれば武瑠は今夜中に行方不明になるだろう。
「ありませんけど……」
残念なことに武瑠を排除する機会は知らない内に彼女の前を通り過ぎていた。永遠の後ろに立つ速雄が少しだけ安心したように見えた。性格はともかく、戦力としては有用だ。
「しかし、あの男は悠理を狙っています」
久遠が食い下がった。ここで引いたら悠理が危険な目に遭うかもしれないのだから当然か。
「お前が護れば良い。何のために覚えた格闘術だ?」
「もしものことがあります。常に一緒というわけにはいきません」
久遠の言葉に永遠が少し考えて悠理を見た。彼も速雄と同様、黙って立っていただけだ。
「悠理君はどう思う? 君は南方武瑠に勝てるかな?」
悠理に問う永遠の声は優しく、微笑には艶があった。高等部1年生の少年を魅了するには充分な大人の色気に、彼の頬が赤く染まり鼓動がさらに速くなる。隣に立つ久遠の目が鋭くなった。
「……負けると、思います」
永遠に見とれながら悠理は何とか答えた。ただし、そこには一つの嘘があった。「加速」のことを言って良いのかどうか悠理には判断できなかったのだ。
「率直だな」
「強がっても勝てないものは勝てません。現状では、ですけど」
永遠は興味深そうに悠理を見ている。こんなに多弁な彼を見るのは初めてだからだ。実のところ悠理と話す今を永遠は心から楽しんでいるし、自分に見とれてくれた悠理を益々愛しく思っていた。今更ながら娘に独り占めさせるのは惜しい。とは言え、それは母親として許されることではないのが永遠には残念だった。義理の息子になれば誘惑する機会は増えるだろうが。
「お前が悠理君を鍛えたらどうだ? 南方武瑠は別としても、無駄になることではあるまい」
永遠は久遠に別の提案をした。悠理を独占できる娘に責任転嫁するくらいは許されるだろう。
「……分かりました。私が悠理を鍛えます」
「私から南方武瑠に自制を促しておく。時間稼ぎくらいにはなるだろう」
永遠が口の端で薄く笑った。それこそ娘が求める言葉と分かっているからだ。
「始めからそのつもりでしたね?」
久遠は確信した。彼女の母親も間違いなく悠理に汚染されている。久遠の要警戒名簿に母の名が書き込まれた。そんな永遠が武瑠を放置するはずがない。
永遠の回答は無言だった。その顔は明らかに肯定を表していた。
「話は終わりだな。そんなことより、私から悠理君に渡したい物があるのだが……」
娘の話には興味を無くしたように、永遠は机の引き出しから何かを取り出した。彼女の指先には、幅2cm程の黒い首輪が引っ掛けられていた。
「お前に恋人が出来たら渡そうと思っていた、お前の髪を編み込んで作った首輪だ。お前がスカートを穿く気になるほどの相手だ、悠理君にこれを渡しても問題は無いだろう?」
異性の髪で作られた装身具を身に着ける。これは根之国ではその人に束縛されることを意味する。夫婦間では昔の結婚指輪に相当するものだが、悠理と久遠の立場では婚約指輪ということになるか。久遠は永遠に歩み寄って首輪を受け取った。そして疑いの目を母に向ける。
「心配しなくてもお前の髪だ。私の髪は速雄を拘束するためのものだからな」
久遠は振り返って悠理を見た。顎を上げて付けてくれと仕草で示す彼の首に、久遠は自分の髪で作られた首輪を巻いた。それは彼の首に丁度の長さだった。当然だろう。その首輪は始めから悠理に合わせて作られているのだから。荒波永遠は娘の結婚相手として悠理以外を認めるつもりなど微塵も無い。南方武瑠など論外だ。
「……似合うな。これで悠理君はいずれ私の息子になると考えて良いかな?」
永遠の目が愛おしそうに悠理に向けられた。とても義理の息子を見る目には見えなかったが。
悠理は躊躇無く頷いた。それはすでに、久遠と2人で確認しあったことだ。
「……母上には感謝します。忙しいところをお邪魔しました。これで失礼します」
求めていた言葉を聞けたからには、これ以上の滞在は不要だった。悠理を母の目に晒すのは不安だ。それに、悠理もまた永遠に惹かれているように見える。
「悠理君、またおいでなさい。今度は1人でね。その時は2人でゆっくり話をしよう」
果たして永遠の声には女があった。久遠の不安を掻き立てるだけの艶が。
「そんなことはさせません」
悠理が答えるよりも先に久遠は断言した。そして悠理の腕をとって扉に向かう。ペコリと2人に頭を下げて、悠理は久遠に引きずられていった。
2人が消えた扉に永遠は舌を出していた。防衛局長とは思えない無邪気な顔で。それは誰にも見られなかったはずだ。
「……良い顔をしていたな」
永遠の背中から速雄が声をかけた。娘の生き生きとした顔を見るのは久しぶりのことだ。
「当然だろう。悠ちゃんを手に入れたのだからな。よくやったと褒めてやりたい気分だ」
答える永遠の下から「狭いよぉ」と声がした。永遠が椅子ごと後ろに下がると、机の下から白衣の天乃弥奈が這い出てきた。そして無理に曲げていた腰を「イテテ」と言いながら必死に伸ばしている。
「悠ちゃんには見せられない姿だな」
永遠が苦笑する。これが悠理の母親とは……。
「まさか悠ちゃんの婚約に立ち会うとはね。妬けちゃったよ」
永遠の皮肉は無視して、ずり下がった縁なし眼鏡を上げながら弥奈が素直な感想を口にした。
「高見恭平氏を怒らせてでも強行した甲斐があったな」
「恭平君と言えば……私達とは思惑が違うけど、今まで会わせなかったのは正解だったかもだよ。2人が幼馴染だったら、ここまで早く婚約することは無かっただろうね」
「何だ? それは弥奈の経験談か?」
珍しく速雄が口を挿んだ。女同士の会話では聞き役に徹しているのがいつもの彼だが、弥奈の言葉から、弥奈と伊凪悠斗とのことを連想したのだろう。弥奈の幼馴染だった悠斗は、速雄と仲が良かった。悠斗が弥奈を好きだったのは速雄でさえも気付いていたことだ。それなのに、弥奈に告白することなく、彼は野人との戦闘で死んだ。新人類創造課で保存されていた精子で悠斗は悠理の父になったが、それは本望では無かっただろう。
速雄の言葉を弥奈は頭を掻きながら無視した。それは「止めろ」の合図だ。
「それよりも南方武瑠のことだ」
弥奈の合図を受けて永遠が話題を変えた。速雄には分からない親友同士の呼吸だ。
「武瑠か……どうしてあんな子に育っちゃったんだろうね? まぁ、面白いけどね」
弥奈が首を捻る。当事者にしては無責任な物言いだ。
「悠ちゃんに危害を加えるようなら殺すか? 南方武瑠を野放しにしたのは我々だからな」
冗談のようで実は本気の永遠。そう決断することに一片の痛痒も感じないだろう。
「刺激としては良いんじゃない? 恋路に試練は付き物だよ」
「馬に蹴られる役回りか。どこまでも不憫な奴だな」
確かにそうではあるが、久遠に蹴られて死なない武瑠が馬に蹴られたくらいで死ぬわけがない。久遠が聞いていたら大いに憤慨しただろう。もっと普通の試練にしてくれ、と。
「本当に危険だと判断したら、久遠ちゃんが殺すと思うよ?」
「……そうだな。その時は私も協力してやろう。確実に殺せるように」
「悠理君がどれほど強くなるか楽しみだな」
不穏な会話を続ける2人に速雄が割って入った。武瑠を殺す前提はやめて欲しいのだ。
「父ちゃんが残した『白姫一文字』を、悠ちゃんに渡す日も近いのかなぁ?」
弥奈が速雄の意を酌んで話題に乗った。天乃弥奈の亡き父、刀工天乃鬼一が最後に作刀した異形の太刀は永遠に保管を任せてある。鬼一が「白姫」と名付けたのは弥奈と悠理のどちらを想ってのことかは分からない。鬼一の弟子だった金屋一が作刀した久遠の「黒姫一文字」は「白姫一文字」を写したものであり、警察隊員達が彼女に付けた渾名「姫」もここからきている。久遠がそれを聞いた時の複雑な表情は金屋の狙い通りだった。
弥奈の感慨に、頷く速雄の顔は確信に満ちていた。
「悠ちゃんに会わなくてよかったのか? 母親だと名乗り出ても良い頃と思うが?」
永遠が再び話題を変えた。自分の子供に近づくために机の下に隠れる母親というのはどうなのだろう。彼女には真似できないことだ。
「子供を産んだことが無いのに母親って言われても、私のほうも自覚無いもん。育子が母親のほうが悠ちゃんは幸せだと思うよ?」
弥奈が再び頭を掻く。この話題に関してはいつも平行線の二人だ。
「今さら言えんか? まぁ、私がどうこう言うことではないな」
永遠が話題の終わりを弥奈に告げた。夫の前で弥奈と喧嘩をするつもりは無い。
「そうだ。育子がね、寧々子ちゃんに悠ちゃんのこと教えちゃったんだって」
思い出したように弥奈が言った。軽い口調だが局長の間で独断専行は制裁の対象だ。悠理に関することでは特に。
「寧々子が壊れるかもしれないと危惧したのだろう。寧々子のような優秀な人材を失うことは大きな損失だ。いずれはこちら側にくる予定だから、時期が早いか遅いかだけの問題だろう」
永遠は多弁だった。それほど育子と寧々子とを護りたい気持ちが強いのだろう。
「私もそれで良いよ。育子にも制裁は無くて良いよね?」
弥奈としても始めからそのつもりだったのだろう。彼女に拘りは無いようだ。
「事情が事情だ。他の局長には私から言っておこう」
「良かったよ。これで寧々子ちゃんにも悠ちゃんとの子供を産ませてあげられるね」
「それは良いが、最初の子供は久遠に産ませてやれよ?」
久遠の母親として、永遠は軽く弥奈を睨んだ。
「分かってるよ。悠ちゃんの子供、いっぱい作ってあげるんだ。私にできることは、可能性を増やしてあげることだけだからね」
こうしてまた1人、悠理の犠牲者名簿に女性の名前が加えられた。この名簿の救いのないところは、犠牲者が自ら望んで加わっていることだろうか。
「もう寂しくないよね。これからは久遠ちゃんが一緒だから」
弥奈の悲しげな呟きは、2人の耳には届かなかったかもしれない。
時刻16時10分。根之国、地上4階。居住区域、中央坑道。
悠理と久遠は4階居住区域に戻っていた。久遠は定位置となった悠理の左側で幸せそうな顔をして歩いている。悠理の首には久遠の髪の毛で作られた黒い首輪。これで悠理は正式に久遠の婚約者になったということだ。時々それを見ては久遠の顔が綻ぶ。予想外の贈り物だから余計に嬉しくて仕方ないのだ。南方武瑠のことなど、もうどうでも良くなっていた。
「……そういえば、久遠は永遠さん似だね」
そんな久遠を見て、思い出したように悠理が言った。彼の目に映った荒波永遠は魅力的な大人の女性だった。未来の久遠を見ているようで胸の高鳴りが治まらなかった。
「そうですか?」
唐突な話題に久遠は思ってもいない答えを返す。
「うん。久遠が大人になったら、あんな感じになるのかなって思った」
悠理の視線がチラッと、永遠よりは慎ましい久遠の胸を捉えた。
それは一瞬のことだったが、当然ながら久遠は悠理の視線を見逃さなかったし、その意味も正確に理解した。幸せに包まれていた久遠の笑顔が急激に温度を下げていく。
「成程……悠理は母上の胸のほうが好みなのですね?」
久遠の口元は笑っていたが眼は全く笑っていなかった。彼女の中で、要警戒名簿に書き込まれたばかりの永遠の順位が跳ね上がった。やはり悠理を1人で母に合わせる状況だけは避けなければならないと久遠は心に刻み込んだ。
「そんなことはないけど……」
悠理が感じたのは恐怖なのか。彼は逆鱗というものが実在すると初めて知った。
「そうですよね。寧々子さんの胸も大きいですし」
問い詰めるような久遠の口調。目に鋭さが増した。
「寧々ちゃんは関係ないよ」
いきなり飛び出した名前に悠理は危険を察知した。寧々子の胸は永遠よりもさらに大きい。
「寧々子さんくらい大きければ、触っていても楽しいでしょうね」
何で知ってるの──と、口にしかけて悠理は慌てて口を閉じた。しかしこれについては悠理にも言い分がある。確かに彼は寧々子の体を触りまくっている。事実はそうだが実感は無い。寧々子は少し存在感がある身近な女の子でしかないのだから、楽しかったかと問われて「いいえ」と答えても嘘ではない。
「そんなの考えたことないから分からないよ。僕を変えたのは久遠だよ」
「……成程、それはそうですね」
久遠は怒りを収めてしばらく考え込んだ。そして、
「では、悠理の好みかどうか、しっかり確認してください」
などと、とんでもないことを言い出した。
「確認って?」
「寧々子さんは胸を触られているのに私は触られていないというのは納得できません。まさかとは思いますが、触れないとは仰いませんよね?」
「言わないけど……」
そんな怖いことを言えるはずがない。だが、寧々子に対抗しようとする久遠の気持ちは彼には分からないものだった。そもそも彼にとって久遠と寧々子は比較の対象ではない。
釈然としない悠理の顔に、久遠は再び考え込んだ。
「……有り得ないことですが、私が南方武瑠の裸体に触れたことがあるとすれば、悠理はどう思いますか?」
あまりの衝撃に久遠の言葉の前半が吹き飛んだ悠理は、立ち止まって大きく目を見開いた。
久遠は安心させるように悠理の髪を撫でた。
「例えばですよ。あのバカの肌に触れたことなど一度もありませんし、触れさせたこともありません。程度の差はありますが、少しは私の気持ちを分かっていただけますか?」
「……うん」
「私の体は悠理のものです。悠理のお望みのままに、悠理だけが私に触れて良いのですよ」
久遠の纏う雰囲気が妖艶なものに変わった。誘われたように目を閉じた悠理の唇に、求められるままに久遠は唇を重ねた。疎らな通行人が目を逸らして通り過ぎて行く。それさえも気にならないように、2人は長く唇を触れ合わせた。舌を使わず、唇だけで撫で合うように。
「今夜も悠理の部屋に伺いますね。婚約記念日ですから、特別な夜にしましょう」
「……うん」
やはり男女逆転の2人だが、そのほうが彼等にとっては自然なのかもしれない。
時刻19時15分。根之国、地上5階。居住区域。
5階居住区域の住居数は280戸。4人家族が平均として、許容人口は1120人。現在の住人は965人で、『根之国』で最も多くの人が住んでいる。居住区域は、中央坑道の真ん中にある警察部隊員控室と4階に続く中央階段で南北に分けられていて、南側は開発の途中だ。
その南側居住区域の住居の一室に、10人程の男たちが集っていた。
部屋の壁も天井も成形した岩盤に塗装しただけで、床だけがコンクリートで被覆されている。5階居住区域の中でも南側は掘削されたばかりだから、4階や5階北側に比べて粗雑で、散らかった諸々の物と合わせて貧相な印象だ。その中で男たちは口々に不満を言い合っていた。彼等は全て肉体労働に割り当てられている。勉学を途中で放棄した者も多い。仕事が終われば彼等はこうして仲間の家に集まって愚痴を言い合う。この石窟都市に娯楽は少ない。酒を造る余裕も無い。彼等の不満は日増しに溜まっていくだけなのだ。
中心に座っている男の名は禍津熊男、43歳。居住局掘削部職員。悠理を付け狙う禍津一男の父親だ。彼は腕力で彼等のリーダー的存在になっている。
「聞いたぜ、禍津さん。一男のやつが4階の女に惚れてんだってな」
八十太助が熊男に言った。彼は八十兄弟の父親だ。二つ年下の太助は昔から熊男の手下のような存在だ。
「俺は聞いてねぇぞ」
熊男が意外そうな顔をした。
「相手は4階のお嬢様らしいぜ。継男と三郎が話してたんだ」
太助が下卑た顔でニヤリと笑う。女の話が昔から好きなのだ。
「チッ、相手にされるわけねぇだろ」
熊男が苦々しい顔で吐き捨てた。偉そうな4階の連中は5階の住人を馬鹿にしている。それが彼の認識だった。
「一男もいい腕っぷししてるぜ」「襲っちまえばいいんだよ」「俺らの苦労なんか分かるわけねぇだろ」「分からしてやりゃいいんだよ」「おお。俺らならケーサツにも負けねぇぜ」
男達の会話を黙って聞いていた熊男が周りを見回す。その眼力に男たちが黙り込んだ。
「お前ら考えたことはねぇか? 俺らはいつまでアイツらの下で黙って穴掘りしなけりゃならねぇんだ? アイツらの命令を聞く必要が本当にあんのか?」
「禍津さん、どういうことだ?」
太助の目は期待に満ちていた。
「俺らだけで独立したらどうだ? この5階を俺たちの国にするんだよ」
熊男がニヤリと笑った。どうだという顔で。
「マジかよ? そんなことできんのか?」「アイツらの言うことなんか聞かなくてよくなるんだぜ?」「俺もアイツらキライだ」
男たちの中に、熊男が見せた希望が広がっていった。
「俺らだけじゃ少ねぇ。仲間を集める必要がある」
熊男が煽る。男たちの目が輝いていた。
「こうしちゃいられねぇ! 片っ端から声かけろ!」「おぉ! 400人くらい集まるぜ!」
それは根之国人口の2割近く。5階南側住人の総数に近い数字だ。ここに住む人々は、岩盤の掘削、住居等の建築、修復等の重労働に携っている者が圧倒的に多い。それだけ不満を溜めている住人が多いのだ。熊男配下の男たちの自信は当然と言える。
「皆を中央坑道に集めろ! 独立だ!」
熊男の叫び声に合わせて、男たちは部屋を飛び出していった。
彼等の言い分の方が、あるいは正しいのかもしれない。全てを見通せる者がいれば(石窟都市に宗教は無いが)、根之国というのはアエテルヌスの女性達が乗っ取り、ただ悠理のためだけに運営している都市と理解するだろう。
独立の話は、その夜のうちに5階南側の居住区域に広がっていった。
(続く)