第八話 教会へ行こう
世界全土に広がる"教会"の最重要聖典を開くとはじめにこう始まる、『かつて世界に秩序はなく、知性なく、言葉はなかった』である。
野は薊の棘に溢れ、水は濁り、曇天が覆い日は見えず、飢えた人々は獣に混じって同胞を喰い合っていた。
そこに始まりの神々が地に現れ、野に恵みを下し、水を清め、雲を払い、野人に言葉を与え給うた。ひろく知られている神話で、世界史に刻まれる事実として世界全土の人間が信じている"史実"と遇されている御伽噺だ。
神が実在し、その恩寵を甘受する世界において、教会権威はとてつもなく強大なものであるのは言わずもがな分かる話である。すべての民は等しく教会の教えを信じ、敬虔な信徒であることを美徳とする。
驚くべきことに悪党であろうが、その例から外れることはなかった。
「教会に行くぞ」
「……こんな朝早くにか」
「年がら年中教会の門は開かれている。お前も無事都市に着いたのだから、旅の幸いをノルザ=レカンテに仰ぎ感謝しろ」
朝早く、まだ太陽が登ってもいない頃。アリウスはツェーリの部屋の戸をガンガンと叩き、顔を見せるや否やそう言った。
宿の共用部は魔石灯の灯りにぼんやりと照らされている。他都市と比べれば安価に手に入る魔石灯だが、それでも高値のものである。だが、アリウスが根城にしている"百舌鳥の止まり木亭"では、とある酔っ払いが夜中不便だと抜かして強引に設置されている。
「ふぁ……。うん、祈りは大事だ。そうする。その後は?」
「今日は朝日が出るくらいには迷宮で共にモグラ(魔石掘りを目的とする迷宮探査の蔑称)をする。日の暮れる前に迷宮を出て、道具屋を巡る」
「分かった」
答えてパタンと扉を閉じるスノウエルフだが、彼女はアリウスに対して謎の多いちぐはぐな男だな、という印象を受けていた。
会って一日過ごしたが、案内をする親切心もあれば、人に命令することも礼儀を払うこともしない、若くからして冒険者をしているのに、聖史だけでなく魔導にすら一家言があるような様子。
纏っている寝衣を脱いで、白い肌を晒しながら服を着替える。
あの知識を蓄えるにあたっては高度な教育を必要とするだろう。冒険者をやりながら学ぶにしても、どこで学ぶべきところがあるだろうか。教会やらなにやらと抜かしていたが、果たして基礎教育を必要とする体系的な高度教育が身につくなんてあるだろうか? と。
長老や里のものから口伝で知識を授かる、という伝統的な家庭教育――環境によって知識の極端な差が生じる――を受けたツェーリですらその程度の疑問が浮かんでいる。最も彼女自体も謎の多いちぐはぐな女なわけだが。自分のことは棚に上げるのが世界の常である。
雪絹の薄い肌着に北方エルフ文様の入った丈の長い服を着てから、薬液や野戦糧食、妖精魔術の媒介が入ったポーチをつけて、扉を出る。
「遅い」
「すまない」
アリウスの方はすっかりと背中に盾を背負っている装備に変わっている。今日の狩場は昨日とは違うのかもな、と思いながら宿の外へと歩き出した。
都市には尖塔の目立つ巨大な建造物がある。カイネの建築物は多くの場合、迷宮遺構を再利用しているものだが、これも例に漏れることはない。過去ここにはリッチロードの居城であった。"踏破者"エーンが茶瓶で思い切りぶん殴った伝説は有名で教会の石碑にはその話が刻まれている。
「大きい」
「田舎の出だと見ない規模だろう」
「里は田舎ではない。……ここほど人が多くはなかったが」
「都市の外が田舎だ。田舎の人間はすぐ自分のところはまだマシって言うから分かりやすい」
さらりと偏見に塗れた言葉を吐いて、教会の門を潜る。たしかにアリウスの言う通り、教会の門は開かれていた。門のそばには聖印を身に着けた僧兵が立っていて、アリウスに会釈した。
外壁は遺構を飾り付けるように神話の何某かをモチーフにしたであろう彫刻などが飾られていたりと、手が入れられていたのが分かったが、教会の中はより人の手が入っていた。
壁には宗教画が飾られ、天井から床、いたるところが神話のそれを背景とした美術品が所狭しと並べられている。入ることの出来る宗教体験として優秀な教会だった。
早い時間だというのに、奥中央に置かれている複数の聖印に膝をつき祈るものが何人もいる。剣をもった冒険者のみではなく、平服を来た商人に、襤褸を纏った貧民、やたらめかしこんで香水臭が漂う娼婦。人種もヒトのみに留まらず、獣人やドワーフ、はたまたヌビチョンカまでいる。
「おい。司教呼んで来い」
祭服に身を包んだ薄毛の男に命令口調でアリウスが命じると、おそらく聖職者であろう薄毛の男は抗弁もなく受け入れて奥の部屋へと向かった。いつものことなのだろうな、とツェーリは理解した。
ツェーリは並び立つ聖印の中から、中央やや右から中央へと視線を移動させてスノウエルフの祖神であるノルザ=レカントの聖印を探す。
祖神というのは、自分の種族を創りたもうた神のことを指し、一般的に主として祈りを捧げる祭神とするものを指す。その次に主神、その次に加護を受けたい神へ(漁師なら海の神であったり、冒険者なら戦いの神であったり)祈りを捧げるというのが伝統的だ。
「む」
しばらく見つからず、おかしいなと首を傾げていたらアリウスがあっちだと指をさす。だいぶ端の方に祀られていた。神格としては高いというのに、と多少不満を抱いたが、聖印の元へと向かって膝を着く。アリウスは手を合わせるわけでなかったが、瞳を閉じて祈りを捧げていた。やはりちぐはぐな男だった。無頼ぶってるくせに信仰心は厚いのか、と。
瞳を閉じて代々から伝わる聖句を唱える。あとはしばらく無言で感謝の意を祈祷するだけ。胸の内に潜む苦悩もまた祈りと共に出す。言葉にするわけではないが、神がそれを汲む。汲まないことの方が多いが。
それでも人々が祈るのは、信仰心だけでなく、時折何か思い付きのように祈りを捧げる信者に御神託やら加護を降ろすことがある。……それよりも不信心者に神罰を下すことの多さが祈りへと駆り立てるのだが。
「おはようございます。アリウス様」
祈っていたアリウスに、話しかけるものが一人。銀糸でイアハートの聖印が刻まれている黒い祭服に身を包んだふくよかな老人だった。でっぷりと膨れた腹に油でテカテカしている顔。よく食べているんだろうな、とツェーリは悪気無しに思った。
「ルクレツィアから聞きましたよ。"また"追放されたと」
「ままあることを一々口にするのが趣味か」
「またそんなことを言って、もうすこし慎みを――」
「寄付だ。受け取れ」
説教をしようとする老人にアリウスがなにやら袋を押し付けると、老人は溜息を吐いて受け取る。ずっしりと重そうな、たっぷりと中身が詰まった袋を差し出す仕草も手慣れているようだった。
「倫理というものを軽視するのはよくないことです」
「俺が不信心であるならば神罰を賜るであろうし、そうでないのなら俺なりに敬虔だと認めてもらっていると理解している」
「勿論。アリウス様の信心を疑いはしません。が、神の法と人の法は別です」
「俺が無法者であるならば懲罰を賜るであろうし、現に追放という形で罰を受けて罪の清算は終わっている」
「もしや『餓狼の牙』以外に責めを受ける言われはないと思っていますか?」
「思ってない。常に説教をくらいえる事由がなにがしかあるだろうが、踏み倒せるのなら踏み倒すつもりでいる。司教の説教もその一つに含まれるな」
そんなことより、とアリウスが言うと司教が溜息を吐く、ぷるりと顎肉が震えた。
Q.この教会の設定お話に関係してくるの? ねえ意味あるのこの話?
A.信じろ、祈れ。