牙を剝く悪意。
その狙いがどこにあるのか、いまだうかがい知れないベイルード伯爵の不気味なやり口にジョウゼフ達が警戒を強める中、西部は外面だけは綺麗なまま発展を見せていた。
急速に安定させられた治安の中、富裕層が金を動かし、金融や先物取引の取引が増大。
上がった多大な利益を目当てに宝飾品などの高級商材の流通も活発化し、人の流動も盛んになっている。
持っているものが、その資産を回すことで更なる利潤を生んでいくそのサイクルは、東部では見られないもの。
おまけに統治する側もそれに協力し、通行税などの優遇措置などもとっているため、更に拍車がかかっていく。
こうして西部は、今までに無い好景気を迎えていた。
そうなってくると更なる利益を求める者達が考えることは、古今さほど変わらない。
「いつもお世話になっております、ベイルード様。本日は貴重なお時間をいただきまして……」
「余計な挨拶はいい。貴重だとわかっているなら、さっさと用件を言いたまえ」
ある日の昼下がり、執務室へとやってきたでっぷりと太った商人のおべっかを、ベイルード伯爵はばっさりと斬り捨てる。
どうやらあまり機嫌が良くないらしいと見た商人は、額に滲んだ汗をハンカチで拭いながら慌てて本題へと入る。
「これは大変失礼いたしました。本日はですね、常日頃お世話になっております伯爵様へと感謝の気持ちを……」
「帰れ」
「……はい?」
と、懐から何かを取り出そうとした商人へ、ベイルード伯爵は冷たく言い放った。
まさかの言葉に商人は動きを止め、理解出来なかったのか間の抜けた声を出してしまう。
そんな商人を冷たい目で見据えたベイルード伯爵は、感情のこもらない声で再度口にする。
「聞こえなかったのか? 帰れと言ったのだ」
「なっ、い、いやですね、しかしベイルード様」
何とか我に返った商人が、それでも懐から何かを取り出そうとしたのだが、それを鋭い声が制止した。
「動くな。もしも懐から取り出そうとしている物が賄賂の類いであれば、私は躊躇なく貴様を牢にぶち込む」
「は!? な、なんですと!?」
そんな宣言をされてしまえば、商人とて迂闊に懐から物を取り出すことは出来ない。
何しろ、まさに伯爵が指摘した通り、賄賂として渡すつもりの金貨が入った袋だったのだから。
動きが止まってしまったのを見て、ベイルード伯爵は侮蔑の意味を込めて鼻を鳴らして笑う。
「フン、やはりか。貴様のような、型どおりで何も考えておらん馬鹿が多すぎて辟易しているんだ、私は」
「ば、馬鹿とは、一体……」
袖の下を渡そうとして拒絶されたことなど今まで無かった彼は戸惑い、困惑しきっていた。
あちこちの領で、彼はこうやって様々な便宜を図ってもらっていたのだから。
そんな商人へと向けるベイルード伯爵の視線は、冷たい。
「こんな簡単なこともわからんから、馬鹿だというのだ。
いいか、今私は、プランテッド伯爵と昇爵を賭けて争っている。
そんな中で賄賂を受け取り、貴様等への便宜を図り……それをプランテッド家に掴まれでもしたら、どうなると思う?」
「……あ。そ、それは……大変なことに……」
説明を聞く内に、商人の顔色が青くなっていく。
何しろ、便宜を図ってもらおうとした相手に対して、思い切り足を引っ張りかねないことをしようとしていたのだから。
「バレなければいい、などと思うなよ? あちらの間者の腕は侮れん、防ぎきれるとは言いがたい。
……そもそも、こうやって賄賂を送ろうとしてきた貴様自身が、工作員かも知れんしなぁ?」
「ひぃぃぃ!? ち、違います、とんでもございません、滅相もない!
申し訳ございません、私が馬鹿で迂闊でございました!!」
射貫くような視線を向けられ、ぶわっと商人の顔中から汗が噴き出す。
殺される。
そうとしか思えなかった商人は、テーブルに額を擦り付けながら平謝りするしかなかった。
必死に謝る商人を、無言のまま見下ろすことしばし。
「わかればいい。今後はこのような行為は絶対にやらないように。
問答無用で牢にぶち込んでもいいのだが、貴様にはまだまだ働いてもらわねばならんからな」
「はっ、はいっ、ありがたき幸せっ!」
最早擦り付けるどころかゴンゴンと音を立てながら額を打ち付ける程に頭を下げる商人。
何しろあれだけ苛烈な処刑を繰り広げているベイルード伯爵だ、自身の邪魔になる贈賄行為など、極刑に処されるに決まっている。
それも、商人一人に留まらず、一族郎党皆、の可能性すら十二分にあるのだ、それを事前に防いでもらえただけ有り難いというもの。
例えそれが、領内の経済発展のためのコマを一つ失うのが惜しい、というだけの話であっても。
ベイルード伯爵の顔を見ればわかる。
あれは絶対に、商人に情けをかけるための行為ではなかったのだと。
だが、理由はともかく、こうして命拾いをしたのだ、まさか改めて捨てるような真似など出来はしない。
「本日は誠に申し訳ございませんでした、貴重なお時間をいただきながら……」
「全くだ。……ああ、いや、どうせなら仲間内でこの話を言いふらして回れ。
これ以上馬鹿どもに付き合ってはいられんからな」
「はっ、はいっ! 必ず、必ず周知徹底いたします!」
命拾いをした商人は、一も二もなく即答。
これ以上ベイルード伯爵の気が変わらないうちに、と逃げるように辞去したのだった。
「まったく、今が普段と違うことなど、少し考えればわかるだろうに。
端金のために相手の付け入る隙を作るなど愚の骨頂。所詮目先の利益を追うだけの商人にはそれがわからんか」
淡々とした口調の中に、侮蔑の色が滲む。
彼からしてみれば、商人など領内の経済を回すためのコマでしかない。
先程止めて贈賄を未然に止めたのも、減ってしまえば効率が下がるから以上の意味はないのだ。
そうして彼は、彼の考える勝ちへの材料を積み上げていく。
「そして、付け入る隙がなければ、作れば良い。
人を惹きつける魅力はあれど、立ち回りは若く青いな、ニコール・フォン・プランテッド。
実際に若いから仕方もあるまいが、自分から望んで舞台に上がったのだ、よもや卑怯とは言うまいな?」
くつり、と小さく喉を鳴らし、ベイルード伯爵の目が標的を捉えた猛禽類のごとき鋭さを帯びる。
その場に、彼の呟きを聞いたものはおらず、故に彼の言葉が意味するところを理解したものはいない。
だが、その真意は程なくして明らかになった。
数日後、ニコールの元へ王都からの召喚状が届く。
その内容は『公共事業を取り扱う商会の運営において犯罪者と関わっている、という嫌疑に対する査問会を開く』というものだった。




