抜いてはならない伝家の宝刀。
ベイルード伯爵が次なる手を打つと決めてから、数日後。
「はい? 一部の街で治安が悪化している、ですって?」
突然もたらされた知らせに、ニコールは目を瞬かせた。
領主の気質故か、のどかで平穏なプランテッド領に比べると、旧パシフィカ領は人も多くその分治安もあまりよろしくはなかった。
ましてしばらくまともに統治されていなかったのだから、悪化していたのは仕方の無いこと。
そこにジョウゼフが介入したことで、一定の落ち着きを取り戻していたのだが、そこに来てこの知らせなのだから、ニコールが驚くのも無理はない。
「ああ、まだ凶悪犯罪が増えているところまではいっていないんだが、喧嘩沙汰や軽い犯罪なんかは増えてきてしまっていてね。おまけにその場所が……」
執務室でニコールに説明していたジョウゼフが、地図を広げて指で示していく。
それらの街の共通点は、一目で明らかで。
「……いずれも、西部との境界付近の街ですわね?」
「ああ、そういうことだ。……何某かの工作の可能性もあると思って、今調べさせているところだ」
言うまでもなく、首謀者として真っ先に浮かぶのはベイルード伯爵。
だが、現時点ではまだまだ情報が不足しており、はっきりとした事は言えない。
「何なら私が現地に行って、調査の指揮を直接執りたいくらいなんだが……流石に、他の仕事もあるから身動きが取れないんだ」
「なるほど? そこでわたくしの出番ということですね!」
何とも苦り切ったジョウゼフに対して、ニコールの浮かべる笑顔は明るい。
話をすればこうなるだろうとわかっていたジョウゼフとしては、苦笑を零すしかないのだが。
「本当は君の出番になんてさせたくなかったんだが……私が動けず、商会の立ち上げだとかの君の仕事が一段落ついてしまっている以上、君が行くのが一番早いのは事実なんだよね……」
「ええ、ええ、お任せください! このニコール、プランテッド家の息女としてお父様の代わりにきっちり調査いたしますわ!」
それはもうキラキラと目を輝かせながら言うニコールは実に楽しそうで。
父親として真っ当な心配をしている脳裏に親の心子知らず、という言葉がよぎりながらも、ジョウゼフは話を進めていく。
「……それにあたって、サーシャくんを呼び戻してマシューを君に付けるし、ワンさんにも同行してもらうからね?
わかってると思うけど、治安が悪化している地域なんだから、身辺には気をつけるように」
「まあまあ、ワンさんまで付けていただけるだなんて、大盤振る舞いですわね!
しかし、そこまで心配するような状況では、まだないような?」
「うん、今はまだ、ね。しかし、これが相手の工作である可能性が高い以上、慎重になってなりすぎるということはない。
なんなら、この騒動自体が私達をおびき寄せる餌の可能性だって高いのだから」
小首を傾げるニコールへと頷いて返しながら、しかしジョウゼフの表情は晴れないままだ。
もちろん、ジョウゼフやニコールが出張って直接的な加害を受ければ、犯罪としての捜査はもちろんのこと、明確な不正行為の可能性があるとしての調査も入ることだろう。
だから本格的な暗殺だとかは考えにくいためニコールの派遣を渋々ながら決断したのだが、それでもやはり不安は拭えない。
「もちろんその可能性は高いですけれど、あちらも思い切ったことは出来ないでしょうし、であればワンさんまで付けていただけるのであれば、大体なんとかなると思いますわよ?」
「うん、それはそうなんだけどね。万が一のこともあるから絶対マシューやベル、ワンさんから離れないように。いいね?」
びしっと指を突きつけるジョウゼフに対して、ニコールはやはり良い笑顔のままである。
「はい、わかりました。必ず一人では行動しないようにいたしますわっ!」
「……ああ、一人にならなければいいというわけではないからね? ベル達と一緒に居ても、無茶はしないように」
「……もちろんですわ、お父様。わたくし、そんな無茶などいたしませんから」
本当かな、と疑いの眼差しを向けていたジョウゼフが、ふと何かに気がついた顔で言えば。
すい、とニコールの視線が横に逸れた。
「……ベル、頼むよ」
「はい、旦那様。お嬢様の御身の危険の及ばぬよう留意いたします」
「おかしいな、ちゃんと聞いてくれたはずなのに、若干不安が残るのは何故なんだろうね?」
諦めたようにベルへと話を振ったジョウゼフだが、返ってきた言葉に一瞬だけ考えて。
先程より重くなった息を吐き出したのだった。
そんなやり取りがあって数日後の、とある街にて。
「おいおい、こりゃ何の騒ぎだ?」
新たな現場へと向かう移動の途中だったカシムが、何やら騒ぎになっているところへ顔を出した。
見れば、彼の同僚達とどうにも柄の悪い連中が揉めている。
「おう、カシム! いやな、こいつらこの街で雇われた人足だっつーんだが、こいつらに仕切らせろとか訳わかんねーこと言ってきてよ!」
振り返った一人がそう答えれば、その彼の肩を突き飛ばすようにして一人の大男が前に出てきた。
人相からしても、入れ墨の入った腕からしても、明らかに真っ当な人間ではありえない。
普通の人間ならば、目の前に立たれただけでも怖じ気づくところだが……流石に厳しい現場で揉まれた男達は、一歩も引かずにいる。
まして彼らを率いるカシムであれば、なおのことだ。
「なんだ、あんたがこいつらの頭か? 聞いての通り、今度の現場は俺等が仕切らせてもらうからよ。
当然、日当の配分だって俺達が決めさせてもらうぜぇ?」
ニヤニヤしながら顔を寄せてくる大男だが、両手を腰に置いたカシムは怯むこともない。
それどころか、右眉を軽く上げながら笑って見せ。
「おいおい冗談言わねぇでくれよ、そんなろくに計算も出来なさそうな顔でよぉ」
「……あん? なんだとこら?」
カシムの軽口に、大男は一瞬で激高した。
今にも殴りかかりそうな空気の中、しかし矢面に立っているカシムは相変わらずの笑み。
何しろ、もっと恐ろしいものを何度も見てきたのだから。
「この程度で切れる奴になんざ、とてもじゃねぇが命なんて預けらんねぇよ。
お前みてぇな奴はな、普段偉そうにしておいて、いざ鉄砲水だ決壊だってなったら真っ先に逃げ出すだろうからなぁ」
「んだとぉ!? やんのかこら!」
頭に血が上った男がカシムの胸ぐらを掴むが……男に比べれば小さいはずのカシムの身体はびくともしない。
落ち着いた様子で、ぽんぽんと男の手を叩き。
「落ち着きなって、こんな下らねぇことでステゴロなんざして、手を痛めて仕事に障りが出てもしょうがねぇ。
腕っ節で決めようってんなら、もっと良い方法があるだろ?」
「なんだよ、その良い方法ってのは」
ここまで揺るがないことに勢いを削がれたか、大男も少しだけ聞く耳を持ったらしい。
問われたカシムは、にやりと唇の端を上げて見せ。
「決まってるだろ、腕相撲さ!」
「は? ……いや、いいじゃねぇか、わかりやすい」
「あんたと俺の一騎打ちでもいいが、それじゃ納得出来ない奴もいるだろうし……そうだな、5対5の団体戦でどうだ?
そっちの連中も、腕っ節にゃ自信があるんだろ?」
そう言いながら、カシムは大男の背後に並び立つ連中へと目をやる。
大男ほどの体格はないが、いずれも絵に描いたような荒くれ者。
こんな挑発をされて、乗ってこないわけもなく、いずれもやる気だ。
「いいだろう、やってやろうじゃねぇか!」
「よっし決まりだ、そんじゃ……ああ、そこのテーブル、貸してもらうぜ!」
顔なじみらしい店へと声をかければ、迷惑がられるどころか『いいぜ、やっちまえ!』と檄が飛ぶ始末。
テーブルが設置されれば、何だ何だと野次馬も集まってくる。
「おっしゃ、そんじゃいっちょおっぱじめようか、腕相撲大会をよ!」
「おう、やってやらぁ!!」
いつの間にやらカシムが仕切っている空気の中、腕相撲大会が始まった。
流石こんな言いがかりをつけてくる連中だけあって中々の腕っ節で、二人終わったところで一勝一敗。
互角の空気の中、迎えた三人目。
「よっし、んじゃ次はお前だ!」
「おうさ!」
大男側から出てきたのは、中堅だけあって、リーダーの次に大柄な男。
筋肉の付き具合からしても、かなりの豪腕に見える。
「こりゃまた、強そうなのが来たじゃねぇか。んじゃ、こっちは……」
不敵な笑みを浮かべながら、カシムが後ろを振り返ったその時だった。
「はいはーい! 次は、わたくしが出ますわ!」
暑苦しく野太い声が飛び交っていた中に、降って湧いたように響く涼やかな声。
え、まさか。
カシムや人足達がぎょっとした顔でそちらを見れば、誰あろう、ニコール・フォン・プランテッドがベルを従えてやってくるところだった。
呆気に取られ声を失っているあいだに、いつの間にやらニコールはテーブルの前に来ている。
そして、大男達はあまりに意表をつかれた展開で口をパクパクさせるばかり。
いや、野次馬達すら呆気に取られ、静まり返ってしまっていた。
急にしんとした周囲の空気に、流石のニコールもおや、と何やら気付き、周囲を二度、三度と見回して。
「……あら? お呼びでない? ……これはどうにも、お呼びではございませんわねぇ……。
これはまた失礼いたしました!!」
朗らかにニコールが告げれば、それを聞いていた周囲の人間はガタガタと膝から崩れ落ちてしまったのだった。




