逆恨みすら飲み込まれ。
「な、なん、だと……?」
呆然、としか言いようのないパシフィカ侯爵の声が、夜風に流されて、消えた。
何かの間違いではないか。
そうは思えども、いくら待てども、彼が命令を下したはずの刺客達は現れない。
それどころか。
「いや~、ベルも腕を上げたね。ワンさんが8人おねんねさせる間に、4人も沈めてたヨ」
「そんな、私なんてまだまだで……ワンさんの動きも、相変わらずほとんど見えなかったですし」
和やかな口調で交わされる、物騒な会話。
その中にあった、合計12人という人数は、確かに彼が用意した刺客の数だった。
暗殺を得意とする者、正面からの格闘、あるいは剣術による戦闘を得意とする者などそれぞれに個性はあるが、いずれも腕の立つ強者ばかり。
少なくとも一人は王宮の近衛騎士を正面から打ち倒した腕があり、その他の者も同様の技術を持っていたはず。
その彼らが、たった二人に、しかも一人は女という二人組に、倒されたというのか。
とても信じられないが、しかし、彼らは腕が立ち己に自信があるだけに、動くべき時には動くモラルはしっかりとしていた。
であれば、この状況で、雇用主が呼びかけて、出てこないわけがない。
出てこないとすれば。
理解して、ガクリ、パシフィカ侯爵は膝から崩れ落ちた。
そんな彼を気にした風もなく。
「まあまあ! ワンさんの半分の数をだなんて、本当に素晴らしいわ、ベル!」
「そんな、私なんてまだまだで……」
ニコールが手放しに褒めれば、ベルはいつものポーカーフェイスで首を横に振る。
若干その耳が赤かったり、首を振る動きがぎこちなかったりはするが。
少し空気を読める人間であれば、そこはそれでスルーするところ、なのだろうけれども。
「いや~、ほんとお見事だたよ! ここは素直にお嬢様に褒められておくがいいよ、そのためにがんばたでしょ?」
空気を読めないのか読まないのか、ワンが余計なことを言えば、ついに堪えきれなくなってベルの顔がほんのりと赤くなる。
「べ、別にそのために頑張ったわけではありません!
ただその……そう、皆さんが頑張ってらしたから、私も頑張っただけ、ですから」
抗議のためか、珍しく声を張り上げて。
それから、我に返ったか声を抑え、顔を取り繕うベルだが……視線があちらこちらに漂ってしまう辺り、動揺は隠せていない。
実際、ここのところ業務で様々な活躍をしているエイミーに比べてアピール出来ていないのでは、という思いはあった。
それだけのために頑張ったわけではなく、一番はニコールの安全確保のためであったのも間違いはないが。
褒められたい、という気持ちが全くなかったかと言われれば、嘘になる。
そんな複雑なベルの気持ちを知ってか知らずか、ニコールは実に満足そうな笑顔を見せた。
「それでも、頑張ろうと思って、頑張ってくれたのよね? ありがとうベル、とても嬉しいわ!」
文字通りに。言葉通りに。真っ直ぐにぶつけられた感情はベルの胸を打ち、体温をさらに押し上げる。
普段の冷静さなど見る影もなく高揚してしまっている、と自覚させられてしまい、ベルは熱を放り出そうとするかのように、ブンブンと強く首を振った。
「そ、そう思われるのでしたら、今度のボーナスは奮発してくださいね……?」
何とか声を抑えながら、可愛くない憎まれ口、とベル本人は思ったことを、言うのだが。
残念ながら、相手はニコールである。出すべき相手に出すものを惜しまない、ニコールである。
「まあ! ベルがそんなことを言ってくれるだなんて……わかりました、わたくしのお小遣いを減らしてでもベルに報いましょう!」
「お待ちください!? そんな大げさな話にはしていただきたくないのですが!?」
勢い込んで言うニコールへと、もはや取り繕う余裕もなくベルが待ったをかける。
軽く『お小遣い』などと言うが、それはすなわち伯爵令嬢の個人予算ということであり、一ヶ月分のそれはベルの月収を遙かに上回る。だからあれだけ多くの人々相手に『ぶわ~っと!』やれているのだが。
そんな金額を使われそうとあって恐縮し、動揺し。
すっかりいつものペースを失ってしまったベルを見るニコールの目は、楽しげで……柔らかい。
変わらないもの。あるいは揺るがないものが確かにここにあるのだ、と、安心したような目で。
ただ、それを見ることができたのはワンくらいだったし、彼は二人を娘か孫を慈しむような目で見ていたのだけれど。
ともあれ。
ベルが思わず口にしたことに、ニコールは我が意を得たり、とばかりに頷いて見せた。
「そうですね、あまり大げさにしてもよろしくはないですね。何しろベルとワンさんのおかげで、『何もなかった』ことにできたのですから」
それはもう満足そうにニコールが言えば、ワンはうんうんと同じく満足そうに頷き、ベルは一瞬目を瞠り、それから呆れたようなため息を吐く。
そして。
そして、パシフィカ侯爵は。
ぽかんと口を開いたまま、絶句した。
『何もなかった』
確かに今、ニコールはそう言った。
そもそも出席すら危ぶまれるような状況を作られ、あれやこれやと妨害工作をされ、社会的に抹殺しようとしたそれらを掻い潜った先で物理的に抹殺されかけたというのに。
ニコールは、それらを全て、なかったことにしようと望んでいるかのようなことを口にしたのだ。
時に他人を容赦なく蹴落としてここまで来たパシフィカ侯爵としては、信じられない、と言う他ない。
そして。
困ったことに、長年社交界を渡り歩いてきた彼の目には、ニコールが心からそう言っていることがわかる。わかってしまった。
だから、理解出来ない。彼女が何を考えているのか。
「何を、言っているのだ……? 貴様は、私を破滅させようとしていたのではないのか……?
これだけの証拠があれば、私にとどめを刺すことなど、容易いのだぞ!?」
声を上げる侯爵には、わからない。全く以てわからない。
「『何もなかった』ことになどして、どうするというのだ!?」
混乱と、困惑と、少しばかりの純粋な疑問と。
それらが混じり合った声は、悲鳴のようでもあり、何かを渇望するようでもあり。
返すニコールの言葉は、それに応えるようでもあり、全く答えるつもりがないかのようでもあった。
「どうするも何も、何もしませんわ? だってその必要も、そのつもりもございませんもの」
あっさりと返されて。再びパシフィカ侯爵は言葉を失う。
その必要がない、とだけ受け取れば、これは侮辱的な言葉とも言えよう。
だが、そのつもりもない、とは。まるで最初から相手にされていなかったような。そうでなければ、はじめから敵対するつもりもなかったかのような。
混乱する侯爵へと、更なる追い打ちが掛けられた。
「わたくしとしては、領民が平穏無事に過ごせればそれでよいのです。
降りかかる火の粉は払いのけますが、そうでなければ、特段騒ぎ立てる必要もございません」
さも当然のようにニコールが言えば、ワンは楽しげにうんうんと頷き、ベルは少々困ったような顔で溜息を零す。
三者三様ではあるが、それぞれの表情が物語っている。パシフィカ侯爵を追い詰めたのは、副次的なものだと。
つまりは、彼を負かすつもりなど最初からなかった、そもそも勝負になっていないというか、勝負のつもりもなかったのだ、と。
そして彼は、独り相撲を取った挙げ句に自滅したのだ、とも自覚させられて。
魂が抜けたような顔をさらしてしまったのは、仕方の無いことだろう。
そんな侯爵へと、ニコールがかけたのは。
「こうして『何もなかった』ことになったとなれば、むやみやたらと奪いたくもありません。
何よりも、私財をかなり没収され、様々な制約も課せられたにも関わらず、これだけの工作を仕掛けられた閣下の人脈と政治力は並大抵のものではないのですから、お国のためにも失わせたくはないのです。
こう言ってはなんですけれども……閣下が真面目にその力を振るわれれば、それはもう千人力、むしろ万人力ですから」
侯爵は、耳を疑った。
ニコールがかけたのは、まさかの、彼を評価する言葉だったのだから。
そして、彼の脳裏に蘇る声。
過日、国王ハジムからかけられた言葉。
『真面目にやれ』
あの言葉は、彼を咎め立てたものではなかったのか。
真面目にやれと心から叱咤し、真面目にやればお前はやれる、という期待を現したものだったのだろうか。
そう考えが至れば。
知らず、彼の頬を涙が伝っていた。
「ですから、わたくしは『なかったこと』にしようと思います。
パシフィカ侯爵閣下におかれましては、そのお力を真っ当な方向に使っていただくよう願うばかりですわ」
ニコールが柔らかな笑顔とともにそう言えば、がくりとパシフィカ侯爵は身体の力を失い。
がっと、なんとか両手を床に衝いて身体を支えた。
視界が、揺らぐ。
身体の震えのせいで。目元から滲む何かのせいで。
そして。
膨らんで抑えきれなくなり、弾けた何かに押されるまま、パシフィカ侯爵は雄叫びのような泣き声を響かせたのだった。




