言わば、一手詰め。
そして、エイミーがマシューにエスコートされて会場に戻ってきたのに、いまだご婦人方に囲まれていたニコールは、それでも気に掛けていたのか、気付いて。
周囲の人々に気付かれぬよう、小さく吐息を零した。
長時間に渡る夜会だ、どうしても生物学的に席を外さないといけない時間も生じてしまう。
そこで万が一のためにとマシューをあてがったのだが、それが功を奏したかどうかはわからないが、無事に帰ってきた。
まずはそれだけでも重畳。
となると、後は。
「ふぅ……申し訳ございません、皆様とのお話があまりに楽しすぎて、少々飲み過ぎてしまったようです。
少し、涼んで火照りを冷まして参りますね」
そう断って、ニコールは囲みから抜けた。
ちらりと両親の姿を探せば、ラフウェル公爵と何やら話し込んでいる様子。
であれば、一人席を外すのも仕方ないところだろう。
そんな風体を装って、ニコールは会場から離れたところにあるバルコニーへと出た。
春も半ばを過ぎ、夜風と言えども幾分寒さは緩み、お酒の入った身体には心地よい。
豪奢な柵に手を掛けて、風の音を聞くかのように目を閉じる。
しばし、自然の音に身を任せて。
それから。
聞こえてきた足音に、ゆっくりと振り返った。
そして。
予想通りの顔に……微笑みを見せながら、とっておきのカーテシーを披露してみせる。
「これはこれは、お初にお目にかかります侯爵閣下。
このような場所で、奇遇でございますわね?」
ニコールの挨拶に、現れた人物……パシフィカ侯爵はピクリと眉を跳ねさせ。
しかし、その感情の動きをすぐに飲み込み、ギロリとニコールへ目を向ける。
それでもまだ、睨む、という程には感情を出していないのが、彼のせめてものプライドだろうか。
そして、感情を抑え付けているからだろうか、しばしの沈黙が流れて。
その間も、ニコールは微塵も揺るがずにカーテシーの姿勢をとっていた。
つまりは、不安定な格好で、頭を差し出したまま。
彼が何者であるかを考えれば、なんとも無防備……いや、むしろ自殺行為とすら言って良いだろうに。
ニコールは平気な顔で頭を下げ続け、だからパシフィカ侯爵は何も出来ない。
「そうか。確かに、こうして会うのは初めてなのだな、ニコール・フォン・プランテッド」
今更気付いたかのように、どこか心ここにあらずな声で返す侯爵。
社交界などで遠目に見たことはあったかも知れないが。
こうして言葉を交わし相まみえるのは、これが初めてだった。
侯爵からすれば、とてもそうは思えないのだが。
「だが、わしは知っている。貴様のことを、よく知っている。金に物を言わせて人を雇い、根掘り葉掘り調べ上げた。
そのはずだ。
……だというのに……わからん。貴様は、一体何なのだ……?」
プランテッド領を調べさせれば、すぐに浮かび上がった特異な存在。
ニコール・フォン・プランテッドの行いによって、パシフィカ侯爵家の凋落は始まり、今こうして、終焉を迎えようとしている。
そのことは、ことここに至っては、パシフィカ侯爵とて理解せざるを得ない。
だからこそ。
己を破滅へと導いた死神の正体を知りたい。いや、知らねばならぬ。
自身へと言い聞かせている侯爵を前にして、声を掛けられたから、とカーテシーの姿勢を解き、パシフィカ侯爵へと相対するニコールは、あどけない少女としか言いようのない外見。
だというのに。事ここに至っては政敵というべき侯爵を前にして、微塵も動揺した気配がない。
それがまた、何とも憎たらしい。
「何だと問われましても、どこにでもいる普通の伯爵令嬢ですわよ?」
「貴様のような女が、普通の令嬢なわけがあるか! このわしを、栄光あるパシフィカ侯爵家の当代であるわしをここまで追い詰めた貴様が!」
あまりに飄々とした様子で返されたものだから、ついに侯爵の我慢も限界を迎えた。
激高し、唾を飛ばしながら声を上げ、睨み付け。
そしてそれらは、柳の枝を揺らす風のように受け流される。
「お言葉ですが侯爵閣下、わたくしも、わたくしどもプランテッド領の面々も、閣下を追い詰めたつもりなどございません。
失礼ながら、御自らご自身を追い詰めておられた。それだけのことです」
あっさりと。さも当然のように返されて。
また声を上げそうになった侯爵は、踏みとどまった。
思い返せば、確かにプランテッド領から積極的に工作を仕掛けられたわけではない。
むしろ、降って湧いた難題を、あるいは侯爵が仕掛けたトラブルを、解決していっただけに過ぎない、と言えばそうなのだ。
ただ、普通であればとても成せることではなく、それ故に今こうして、侯爵は追い詰められているのだが。
「そもそも事の発端は、エイミー・モンティエン嬢の理不尽な解雇。
そのこと自体は、事後とはいえお調べになっておわかりでしょうけれども」
問われて。パシフィカ侯爵は、何も言い返せない。その通りだと、彼も知ってはいるのだから。
「元を辿れば、彼女を解雇した責任者こそが元凶。そこから資材発注関連のトラブルが起こり、現場で作業が出来なくなっただけのこと。
そして、わたくしどもが放出された人材をご縁があって雇い入れたことに、何ら問題はございませんでしょう?」
例えばこれが、引き抜きによるものであれば話はまた変わってくるが。
そうではなくエイミーは解雇されたのであり、彼女がプランテッド領にやってきたのはたまたまだ。
そして、エイミーをニコールが拾ったのも。
それらはつまり。
「まあ結局のところ、こうなったのは日頃の行いの結果、としか言いようがございませんわね」
「き、貴様、言うに事欠いて、日頃の行いだと!? わしが、わしが間違っていたとでも言うのか!!」
あっさりとニコールが言えば、侯爵は堪えきれなかったか、声を上げた。
だが同時に、その声に虚しさを感じてもいた。
「全てが、とは申しませんし、利を求めることも否定はいたしませんが。
それでも、間違っていたところはいくつもあり、それらが重なったからこその今ではございませんか」
激高する侯爵へ、ひたりと向けられるニコールの視線は、静かだ。
糾弾するでなく、嘲るでなく。
声も表情も、淡々と、侯爵を追い詰めていくかのような圧があって。
知らぬ間に、侯爵は一歩、足を引いていた。
「そして、それらの間違いを恥じること無く、改める事無く。
あまつさえ死なば諸共とばかりに、わたくしどもへの攻撃へと向かう。
流石にそれは、愚かしいと言わざるを得ませんわよ?」
娘、いや、孫ほどの年頃と言っても良い少女から、淡々と諭すように。
それはパシフィカ侯爵からすれば酷く屈辱的で。
だからこそ、繋ぎ止めていた何かが、切れてしまった。
「……ああ、そうかもなぁ……愚かしい。そうかもなぁ。
だがな、貴様にはわかるまいよ、ニコール・フォン・プランテッド。
貴様のような巡り合わせを持たず、奪わずとも人も物も集まるようなこともない人間は、持って生まれた立場にしがみつくために手段など選んでいられないことなど!」
血を吐くような叫び。
あるいは、それを聞いて絆される者もいたかも知れない。
だが、今その言葉を聞いたのはニコールただ一人であり。
彼女は、そんな詭弁に眉一つ動かさなかった。
「そのようなお考えだから、人も物も寄りつかないだけではございませんこと?
そもそも、侯爵家の生まれと言うだけでも恵まれてらっしゃるのに、それ以上を求めたからこその不正行為だなんだでは。
足るを知らなかった閣下の、自業自得にしか思えませんわね」
この国でも上位にある貴族の生まれ。
当然権威もあり財力もあり、だからこそ私財をかなり没収されてもなお、これだけプランテッド家に対して工作をしかけるだけの金も出せた。
それを守っているだけでも充分裕福な生活は送れただろうに、それ以上を望んだのは、彼自身だ。
そして、そのためにあれこれと手を打って。
結果として、最終的には彼の首を絞めることになった。
であれば、誰が元凶かは、明らかだろう。
だというのに侯爵は、あるいはだからこそか、受け入れることが出来ない。
「うるさい! それでも貴様のせいなのだ、貴様さえいなければ、全ては上手くいっていた!
今でもわしは土木事業をこの手に握り、富を得ていた、そのはずだ!」
目は血走り、最早彼に道理は通らぬのだろう。
対話が決裂となれば、後は。
ニコールは、少しばかり身構える。
「やはり貴様がいなければいいのだ、ニコール・フォン・プランテッド!!
貴様さえいなければなぁ!」
今にも食いつかんばかりの目で。上半身が前のめりとなった、余裕などかけらもない姿勢で。
パシフィカ侯爵はニコールへと腕を突きつけた。
「やれ! やつを、ニコール・フォン・プランテッドを殺せぇ!!」
ニコールが佇むバルコニーの、そのまた向こうへとパシフィカ侯爵は指示を飛ばし。
「あ~、ごめんね、呼んだ連中は全員おねんねしてるヨ?」
返ってきたのは、そんな飄々とした男の声。
ぎょっとしたパシフィカ侯爵の視線の先に現れたのは、夜闇に溶け込むような暗い色の服装を纏った、ワンとベルだった。




