底の見えない無責任。
かつて薬草酒は、疲れた旅人の身体を癒やす為に振る舞われていたことがあるという。
とある修道院では、そこでしか作られていない薬草酒を角砂糖に染みこませ、与えていたとか。
50度を超える強烈なアルコールと、濃縮された薬効成分、当時は貴重な糖分の固まり。
これらを同時に摂取した者は、身体の奥底から無理矢理たたき起こされるような感覚すらあったのかも知れない。
今ニコールが注文して振る舞ったのは、そんな薬草酒に砂糖を少し加えてレモン水で割ったもの。
強烈すぎてお酒に不慣れなものにはきつすぎる形ではなく、誰にでも飲みやすい形で提供されているそれは、確かに旅で疲れた難民女性にはぴったりだったのだろう。
薬効が染み渡って胃腸が動き出したその時、目の前にあるのはほかほかと湯気を立てるシチュー。
これでスプーンが動かないわけがない。
そして、薬草酒によって目覚め始めていた胃腸は、その暖かなご馳走を受け入れ、身体へと馴染ませていく。
などという分析をする余裕もなくシチューを平らげてしまった彼女は、はっと我に返ってテーブルへと目をやった。
シチューのあまりの食べやすさと美味しさに、一気に食べてしまって、パンを手にする暇が無かったことに、今更気付く。
これは、パンだけをかじるか、と思ったその時だった。
「おばさま、こちらにシチューのおかわりを!」
「あいよ!」
タイミング良くニコールの声が響き、ベティも機嫌良く応じる。
え、え、と戸惑っている内にシチューが運ばれ、目の前でほかほかと湯気を立てている。
どうすれば、と思わず周囲を見れば、いつの間にか他の面々の前にも新たなシチューが配膳されていた。
「皆様の食欲が旺盛なようで何よりですわ。食は命の源、とりあえず食べられているなら、なんとかなりますもの!」
罪の意識を感じる暇すら与えられずに向けられる、ニコールの笑顔。
どう見てもその顔は、早く食べてと催促をしている。
いいんだ。
美味しそうに食べている、ここまで共に流れてきた友人達を見て。
……若干複雑だが、タダ酒を涙ながらにかっくらっている男どもを見て。
自分も心ゆくまで食べていいらしい、とようやっと心と体が受け入れてきた。
改めて、湯気を立てているシチューを見て。
そっと、セットについていたパンをちぎり、それに浸す。
口に運べば、先程までとはまた違う味わい。
彼女が食べ慣れていたパンよりも柔らかなそれが、シチューを含んでさらにしっとりと味わいを増している。
ぎゅっと噛みちぎれば、シチューの味とパンの風味が合わさって、これでもかと旨さを押しつけてきた。
黙ってそれを受け入れてじっくり味わい、ごくんと飲み込んで。
最後に、そっと薬草酒で流す。
「はぁ……美味しい……」
思わず、そんな言葉が零れだした。
そう、美味しいのだ。
それは、肉体だけでなく、心が味わう感覚として。
今この時食べているこの味は、本当に美味しい。そう、心も体も告げている。
「うふふ、お口に合ったようで何よりですわ!」
隣で彼女を見つめていたニコールが嬉しそうに言って。
それから、小さくほっと吐息を零したことを、メイドのベルだけが気付いていた。
この難民一行の中でも、特に顔色の悪かった女性が食欲を取り戻して、おかわりまでした。
多分そのことに、ベルともう一人以外は誰も気付いていない。
そして、ベルはそのことを殊更口にはしない。
そのもう一人が、それを望んでいないことを、誰よりもよく知っているから。
「……お給料がいいからとかじゃないんですよね」
小さく小さく呟く声は、賑やかになってきた食堂の中では、誰の耳にも届かない。
いや、届かないとわかっているから、呟ける。
きっと、聞かれでもしたら、恥ずかしさの余りどこか遠くへと駆け出してしまいそうだから。
「さあさあ皆様、盛り上がってまいりましょ~!」
「「お~!!」」
そんなベルの若干複雑な心境など気付いた風もなく。
ニコールが音頭を取れば、男も女も、なんなら居合わせただけの客達までもが声を上げる。
そこからはもう無礼講、飲めや歌えやの大騒ぎ。昼間から。
だが、それに文句を言う者は一人もいない。物言いたげな者は一人いるが、結局言わないのだから仕方ない。
「あの、大丈夫なんですか、これって」
その勢いに、まだ少しばかり冷静だった難民女性が、通りがかったおかみのベティにこっそりと聞く。
そんな彼女を安心させようとするかのように、ぱたぱたとベティは手を振って見せた。
「ああ、大丈夫ですよ、ニコール様はなんだかんだちゃんと払ってくださいますから、気にしないで。
それに、うちの店としてもメリットがありますからね」
「え、このお店の、メリット?」
言われて、小首を傾げる。
ツケでこれだけ飲み食いされているこの店からすれば、支払いが遅れるだけで、メリットなど皆無にしか思えないのだが。
そんな彼女の顔を見て、言いたいことはわかる、とばかりにベティは、苦笑のような、それでいて楽しげな笑みを見せた。
「そうですねぇ、今日こうして、お嬢様の奢りで食べたでしょ? んで、こっちとしても味には自信があるから、胃袋を掴んだ自信はあるわけで。
そしたら、纏まった金が入った給料日に、どこに来ると思います?」
「あ……それは、まあ、ここですよね、外れはないし」
言われて納得したように彼女が返せば、ベティも満足そうにうんうんと頷いて返す。
確かに、村から出てきた彼女からすれば、この店の料理はご馳走と言っていい。
それが比較的リーズナブルな値段で食べられるのだ、ちょっと贅沢をしたい日に選ぶ選択肢の最有力になるだろう。
いわば先行投資、あるいは宣伝といったものなのだが、彼女にはそこまでの概念はなかった。
なるほど、とひたすら頷いていると、少しばかり揶揄うような声がかかる。
「もう一つ言うと、ね。こうやってお嬢様に連れて来られた人達は、いいお客さんになるんですよ」
「いい、お客さん?」
「ええ。だって、ねぇ。この街に来て最初にこうして連れて来られた店で、暴れたりしようと思います?」
「あ……それは……しない、ですよね……」
むしろ出来る限りお行儀良く、かつ、ちゃんと支払いをして、なんならちょっとお高めなのも頼みたい程。
ほんの1時間にも満たない時間の間に、すっかりこの店は、彼女にとっても大事なものになっていた。
それもこれも。
「ニコールお嬢様に連れて来てもらった店だから、行儀良くする。っていってもまあ、ここを使うのは大体平民だから、たかが知れてますけどね。
だけどまあ、うちで酔った挙句に取っ組み合いしたり、皿割ったり椅子を壊したりだなんて大暴れは、まずないですよ。手違いで、はありますけどね。
だからまあ、うちとしてもメリットは結構あるわけですよ」
そう言いながら、ベティはニコールへと目を向ける。
その先では、ニコールがまた男性陣と何やら話し込んでおり。
楽しげに笑うニコールを見て、ベティは小さく吐息を零す。
「ま、それに加えてお嬢様があれだけ楽しそうなんだから、まあいいかなって思いますしね」
カラカラと軽快な笑みを向けられて。
彼女もまた、思わず笑ってしまった。
「そう、ですね……なんだかあたしまで、まあいっか、って思っちゃいます」
ベティと女性は互いに顔を見合わせて、吹き出すようにもう一度笑う。
その向こうでは、ニコールが興味津々と言った顔で、難民男性の話を聞いていた。
「まあまあ、お住まいだった村では木こりをやってらしたの? だからこんなにたくましいのねぇ」
「ええ、だから力仕事には自信がありやすよ。倒した切り株五万本ってね!」
「サバ言ってんなコノヤロー!」
ニコールのよいしょに乗せられた自慢話にヤジが飛ぶ。
だが、実際に彼の身体は、仕事によって鍛えられた独特のたくましさを持っていた。
もちろんここまでの旅路で積み重なった疲労感は隠せないが、それでもなお、その腕は力強さを保っていた。
よく見れば、他の男衆も同様にたくましい。
「……もしかして、体力に自信のある方だけこちらにいらしたんですの?」
「へぇ、おっしゃる通り、長旅に耐えられるような体力のある者だけで連れ立って、あちこちへ。
年寄り連中や子供達は、有り難いことにシャボデー辺境伯様が面倒を見てくださることになりまして」
「まあ、シャボデー様が? 確かにあの方、強面な見た目なのに、とても人情家な方ですものねぇ。
であれば、こう言うとなんですけれども、出稼ぎみたいな形になっている、と」
「お恥ずかしながら、その通りでやす。あっしらが仕送りすることを条件に預かっていただいておりやして」
頭を掻きながら男が言うには、流れた先で職につけたならば稼ぎのいくらかを辺境伯領へと送金することが、支援の条件となっているそうだ。
シャボデー辺境伯領は他国との国境を守護する性質上、城塞など軍事施設が多く消費活動も多い反面、普通の人間が従事できる仕事は限られている。
彼らの住んでいた村はそんな軍事施設に食料を供給する役割を担っていたのだが、その村が壊滅してしまったことは辺境伯にとっても大きな痛手であったはず。
だというのに彼は、長旅に耐えられない老人や子供を受け入れたのだ。
辺境伯と面識もあるニコールからすれば、恐らく課された仕送りも形ばかり、送金する気持ちさえあればいいのだろうことは簡単に想像できてしまう。
「なるほどなるほど。なるほど、皆様は本当に運がよろしいですわね!」
うんうんと話を聞いていたニコールが、突如声を上げた。
驚いた難民達の視線が集まったのを見て、1秒だけ待って。
それからニコールは自信たっぷりな笑顔とともに口を開く。
なお、そんなニコールに慣れているらしい常連客達は暢気にスルーである。
「ちょうど今、このプランテッド領は建築ブーム! あちこちで家を建てているため大工や人足はいくらでも欲しく、木材の扱いに慣れている人材は喉から手が出るほどに!
そして、そこのあなた!」
饒舌に語っていたところでいきなり、びしっとニコールは難民達のリーダーを指さした。
「12×7は?」
「へ? ……ええと、84でしょうか」
「よろしい! 実によろしい! おまかせください、皆様には確かな、そしてしっかりがっぽり稼げる職場をご紹介させていただきます!
そして、我がプランテッド領の為に働いてくださいませ!
なお、住み込む寮は完備、紹介料は出世払いで承りますわ!」
ニコールの宣言に、盛り上がっていた難民達は、しん、と静まり返った。
何とか仕事にありつけないかと流れに流れてきた先でたまたま出会った伯爵令嬢。
その彼女が、食事を奢ってくれただけでなく、仕事まで斡旋してくれるという。
そんな都合のいい話が、あるだろうか。
当たり前の疑念は、当たり前でない笑顔の前に霧散する。
「何ぽかんとしてらっしゃいますの、ほらほら、こういう時はぶわ~っとですわよ、ぶわ~っと!」
ニコールが鷲掴みしようとするかのような形で下から上へと掘り返すような仕草を見せれば、やっと男達の頭に情報が理解されていく。
つまり、住む場所も働く場所も、なんとかなるらしい。
「ほ、ほんとに、なんとか、なる……?」
ぽつりと、誰かがつぶやいて。
次の瞬間、彼らの雄叫びのような歓声が爆発した。