春風一過。
パシフィカ侯爵は、焦っていた。
予定よりは多少早かったものの、どうしようもないタイミングでこの晩餐会への招待を暴露したはずだった。
不参加という不名誉か、粗末なドレスを着て恥をかくか。
どちらか二択しか、なかったはずだった。
だというのに、目の前の光景は、なんだ。
「なんて素晴らしいお仕立て……ニコール様に本当によくお似合いで……」
会場の視線を独り占めしたニコールへと、国王ハジムの挨拶が終わってパーティが始まったと思えば、多くの貴婦人、令嬢達が挨拶に殺到し、口々にそのドレスを褒めている。
確かにそれは、素晴らしいドレスだった。
緻密で均一な縫い目、彼女の身体のラインをぎりぎりまで見極めた裁断と縫製。
単にダブつきが無い、だとかのレベルになく、ニコールの関節とその動きまで把握しているのか、腕を動かそうが首を動かそうが、ドレスに皺の一つも生じない。
それどころか、彼女の仕草、表情に合わせるかのようにレースやフリルの重なりも変化し、ドレスの表情まで変わっているかのような錯覚を覚える始末。
おまけに。
「……まあ、もしやこの生地は、数年前に引退したあの職人の……」
「確かに、このぎゅっと詰まったような密度でありながら柔らかさも兼ね備えたこの織りは……そんな貴重なデッドストックをこの日のために……」
そんな声が漏れ聞こえて、侯爵は渋面になってしまいそうなのを必死に堪える。
目の肥えた彼から見ても、使われている生地までも一級品。
伯爵家の分を越えない程度の、それでいて金銭では量れない価値のあるそれ。
そんな物を調達できるだけのツテがあるということ。
更にデザインも、目新しさもありながら伝統的な部分も押さえたものになっている。
これは、長らく貴族社会を渡り歩いてきたパシフィカ侯爵ですら、その知識をどこまで遡っても揚げ足を取れる部分がない。
恐らく、このデザインを監修した職人は、相当に宮廷儀礼に通じた者なのだろう。
「何故だ、何故そんな職人が、伯爵家などに仕えているのだ……公爵家から職人を借りるなども出来なかったはずっ」
パシフィカ侯爵は知らない。プランテッド家お抱えの職人が、ラフウェル公爵の普段使いを仕立てたことなど。
その職人、ルーカスがどれほどの人物なのかを。
公爵をも満足させる職人の仕事に、この短時間で見いだせる粗など無い。
それでも、と睨み付けるように目を凝らして見ていたのだが。
「素晴らしいドレスだ……貴女に似合っている、というだけではない。
そう、愛だ。このドレスには、作り手の愛が籠もっている。こんなに暖かなドレスを、私は見たことが無い」
盛り上がっていたところに、突如割り込んできた男性の声。
皆が振り返れば、そこに佇むのは一人の青年。
黒髪に褐色の肌、エキゾチックな彫りの深い顔には人懐っこい笑みを見せ。すらりとした長身にクリィヌックとはまた違った、しかし品の良さと豪奢さを併せ持った衣装。
今日の主賓、むしろ国賓である、ファニトライブ王国王子、サウリィ・アーカッシィ・ファニトライブが、そこに立っていた。
皆が慌てて淑女の礼を取るも、彼は小さく手を振って姿勢を直すよう告げる。
「どうぞ皆さん気楽に。ご歓談中に割って入ってしまい申し訳ない。そちらのお嬢さんのドレスがあまりに素晴らしかったものだから、不躾にも声を掛けてしまいました」
和やかな笑みに、直撃を受けた令嬢や婦人が頬を染め、あるいは立ちくらみを覚えてクラクラとしていた。
流石一国の王子だけあって、そのスマイルの威力は国際級。
そしてその威力は、全く外れた場所にも着弾していた。
そう、パシフィカ侯爵である。
何とかしてニコールのドレスにケチをつけようとしていたところに、隣国の王子がお墨付きを与えてしまった。
これで無理矢理なケチを付けでもすれば、即ち王子の意見に物申すということ。
それが妥当な意見であればまだしも、こじつけたものであれば一体どうなってしまうことか。
政治家としての感覚を持つパシフィカ侯爵には考えるまでもなくそれがわかり、言葉を飲み込むしかない。
くやしいを通り越して憎悪すら抱く彼の目の前で、さらなる追い打ちがかかる。
「素敵なお嬢さん、私はサウリィ・アーカッシィ・ファニトライブ。どうか貴女のお名前を。そして私と一曲踊っていただけませんか」
サウリィ王子がそう言えば、ホールに激震が走った。
ジョウゼフの顔は笑顔で固まり、イザベルの眉が少しばかり動く。
エイミーはぎょっとした顔になってしまい、マシューは爆笑しそうになるのを堪え。
そして周囲を取り巻く令嬢達は、悲鳴のような歓声を上げていた。
何しろ、サウリィ王子は先程公爵家の令嬢とファーストダンスを終えたばかり。
本来であれば身分が上の令嬢、淑女と踊っていくはずなのだが、一足飛びに伯爵令嬢であるニコールを誘ったのだ。
これがどういうことなのか、わからない人間はこの場にいない。
そして、パシフィカ侯爵にとっては更に別のことも意味していて。
がくりと崩れ落ちそうな膝を、持ちこたえさせるだけでも精一杯。
そんな彼の視線の先で、ニコールは淑女らしい笑顔を見せて。
「これは王子殿下、お名前をいただき光栄の至りにございます。
わたくし、プランテッド伯爵家が息女、ニコール・フォン・プランテッドと申します。
お誘いいただきましたのは誠に光栄でございますが、わたくしでは役者が足りないのではございませんでしょうか」
恭しく頭を下げながら告げたのは、断りの言葉だった。
これには周囲も、驚き半分、感心半分。
元々、階級が上の男性からダンスに誘われた場合、一度は断りを入れるのがクリィヌック王国のマナー。
それを、王子からお声がかかるという、普通であれば飛びつきたくなるであろう場面においても貫いたことは、驚きでもあり感心すべきことでもあるということなのだろう。
そのマナー自体は、もちろんサウリィ王子も把握していた。
だから、気を悪くした様子もなく。
「なるほど、華やかでありながら、慎みも忘れないとは素晴らしい。
春の風は気まぐれというが、どうか一度だけこちらに向かって吹いてはいただけないだろうか」
ニコールのドレスに春風の印象を受けたのだろうか、そんな誘いの文句を重ねられて。
流石にこれ以上お断りを入れるのはよろしくない、とニコールも判断したらしい。
「ありがとうございます、そこまでおっしゃっていただきましたならば、殿下へと向かって吹く風もございましょう」
そう言いながら、ニコールは差し出された手をそっと取った。
そして、サウリィ王子がニコールを伴ってホールの中央へと進み行けば、ざわざわとした空気がドヨドヨと明らかに動揺を含むものへと変化していく。
あまり社交界に顔を出さないニコールは、当然あまりその顔を知られていない。
『あの美しい令嬢はどこの家の方だ』と互いに言い合い、足の速い噂を聞きかじった者がその正体を伝えて、疑念は驚愕へと変わっていく。
伯爵家の年若い令嬢が、とてもそうとは思えぬほどの落ち着きぶりで王子に手を引かれる姿は、奇異と言ってもいい程のもの。
そんな周囲の動揺を、注目を集める二人だけが気にしていない。
互いに微笑みあいながら、手を取り腰に手を回して、ダンスの体勢となり。
それに合わせたかのように、音楽が流れ始めた。
王子のリードに従ってニコールが一歩踏み出せば……ふわり、ドレスの裾が、腰や腕にあしらわれたレースが流れるように踊る。
先程サウリィ王子が言った春の風、という言葉は比喩でも何でも無かった。
見ていた者達の脳裏に、そんな言葉が浮かぶ。
軽やかで自由闊達、それでいて奔放では無く、サウリィ王子の腕の中に収まるその姿は愛らしい。
時折視線を合わせて何やら楽しげに話しているが、一体どんな会話をしているのか。
それは、きっと聞かぬが花だっただろう。
「先程はドレスをお褒めいただき、誠にありがとうございます。
このドレスを仕立てた職人はルーカスと言いまして、腕はもちろんのこと、このような素晴らしい生地を手に入れられるようなツテも手広く持っておりまして、仕立て屋の鑑と言ってもよろしいのではないかと!
それから型紙を起こした者もですね……」
などと、色気も何もないドレス自慢、人材自慢をしていたのだから。
次から次へ、とめどなく流れていくドレスの蘊蓄。
それ自体は興味深かった為サウリィは笑顔を崩すことはなかったが、内心では『なんか違う』と絶賛混乱中であった。
今日集められた令嬢達は、サウリィとの政略結婚、というか玉の輿を狙っている者がほとんどだと思っていた。
実際、公爵令嬢ですら、その気配は滲ませていたのだから、間違いはないだろう。
だというのに、この目の前の伯爵令嬢は、まるでそんな気が無い。
サウリィを褒めるでなく、媚態を見せるでなく。
ただひたすらにドレス自慢、いや人材自慢ばかりをしている。それも、心から誇らしげに。
どうしてこうなった。
そんな呟きを脳内でした直後。
音楽が、止まった。
そしてまた、何ら名残を惜しむこと無くニコールの手は離れてしまう。
「流石は王子殿下、とても素敵なダンスでございました。
このニコール・フォン・プランテッド、お相手を務めさせていただき誠に光栄でございます」
胸に手を当て、恭しく頭を下げるその所作は、実に洗練されたもの。
サウリィは反射的に、教科書的に思わず礼を返してしまって。
彼が頭を上げたところで、一度吹いた春風は、するりと彼の手をすり抜け人混みへと消えていった。
「あ……」
思わず、手を伸ばして。
しかし、すぐにその手を下げた。
「……殿下、よろしければ、先程のご令嬢をもう一度お呼びしましょうか」
滅多にない執着を見せたサウリィへと、側近の一人が声を掛ける。
が、サウリィは小さく首を横に振った。
「……いや、それには及ばない。彼女はとても魅力的な人だけれど、私では、器が足りない」
「なんですと?」
思わぬ言葉に、側近は目を見開く。
容姿端麗、才色兼備、文武両道。
およそ王子として求められるもの全てを身に付け、人格も優れたサウリィ王子殿下。
その彼をして器が足りないなどと、一体何事か。
驚愕に言葉を失っている側近へと、サウリィは苦笑を見せる。
「さっき私は、彼女のドレスには愛が籠もっていると言ったけれど、それだけではなかったんだ。
彼女が職人達を、領民達を愛しているからこそ、彼らもまた彼女を愛し、その愛を込めてドレスを仕立てた……わかってしまえば当たり前だけれど、その当たり前の何と難しいことか」
少なくとも、サウリィはそこまで臣民を愛している自信は全くない。
だというのにあの少女は、プランテッド伯爵令嬢ニコールは、当たり前のように自然体で領民達を愛している。
今の彼に、同じ事が出来るとは、思えなかった。
「そして、だからこそ職人達の力を最大限に……いや、それ以上のものを引き出すことが出来たのだろう。
とてもではないが、今の私では彼女の隣に立つことなど出来ない。まずは己を磨かねば、ね」
「殿下……そのお志、ご立派でございます……っ」
少しばかり寂しげに、しかし誇らしげに笑うサウリィ。
その姿に、側近は言葉に詰まり、涙ぐんでしまう。
こうしてファニトライブ王国の王子サウリィは一夜で恋に落ち、失恋した。
その相手であるニコールが全く知ることもないままに。
ただ、この経験で少しばかり成長した彼は、後に善政を敷きファニトライブ王国を大いに栄えさせるのだが……それはまた別の話である。




