軽いからこそ折れぬもの。
予想だにしなかったパシフィカ侯爵の狂気に触れたジョウゼフは、それでも何とか持ち直し、エイミー宛の招待状を受け取ってプランテッド領へと引き返した。
もっとも、流石の彼も動揺は大きかったらしく、行きに比べれば進みは悪かったため、途中で一泊する羽目にはなったのだが。
何しろジョウゼフは温和な人情家ではあれど、基本的には理で物事を考える人間である。
その彼にとって見れば、己の勝手な矜持のためだけに全てを投げ打って逆恨みを果たさんとする侯爵の思考は、全く以て理解出来なかったのだから。
理解出来ないということは、彼が何をしでかすかわからない、ということでもある。
暗澹たる気持ちを抱えれば、ジョウゼフを背に乗せた馬の足取りが悪くなるのも致し方の無いところ。
それでも、留まっているわけにはいかぬと、彼は心を必死に奮い立たせ、プランテッド領へと戻ってきた。
こんなことが無ければ何もかも投げ打ってベッドへと身を投げ出したいところだが、そうもいかない。
ジョウゼフは疲れ切った心と体に鞭を入れ、すぐにニコールら関係者達を執務室へと呼び集めた。
「……ということで、ルーカスが届けてくれた知らせは、本当のことだった。
ありがとうルーカス、おかげで最悪の事態だけは免れた……」
「はっ、ありがたきお言葉……しかし……」
感謝の言葉を向けられ、ルーカスは恭しく頭を下げる、が……その表情は、晴れない。
確かに最悪の事態は免れたが、だがしかし、放っておけば同じ結果へと至ってしまうのは明白なこと。
そして、この場に居る全員がそこに至れるだけの頭を持っていて。
結果として、執務室は重い空気に包まれていた。
「本当にすまない。私の至らなさが招いたことだ……」
「あなた、そんなに自分を責めないでくださいまし。あの工事の間ずっと働きづめだったのですし、ましてこんな、斜め上にも程がある理屈で逆恨みをしてくるなどとは、誰も思いません」
「……ありがとう、イザベル。かといって、このままというわけにはいかない。
いずれ全ては明るみに出るだろうが、ただそれを待つだけでは、自力では何も出来なかったと後ろ指を指されることにもなるのだから」
パシフィカ侯爵の歪んだそれとは共感出来ないが、貴族に取って体面が重要であること事態はジョウゼフも認めている。
そしてそれは、実行すべきことを実行できるかによって左右される、とも。
だが、現状で打てる手は限られている。
「確かに手をこまねいてはいられませんが……申し訳ございません旦那様、パシフィカ侯爵がそこまで手を打っているのであれば、確たる証拠を掴むにも、晩餐会に間に合うかどうか、定かではございません……」
「そうなると、ドレスを間に合わせるのが一番確実ですけれども……晩餐会向けのドレスを仕立てるなど、それこそ三ヶ月はみたいところ。
それを、一ヶ月足らずで仕上げるだなんて……」
極めて高い情報収集能力を持つ執事のエルドバルだが、だからこそ、相手の能力がよくわかってしまう。
続くイザベルの言葉は、社交界に巣くう貴婦人達の審美眼と容赦の無さを知るだけに、重く響く。
もちろん、ルーカスの技術は信頼している。
だが、それでもなお、越えられない壁はある。
晩餐会までに打てる有効な手は、と大人達が深みに嵌まりかけていた、その時。
「あら、でしたら簡単な話になりますわね!」
すぱっと、空気を切り裂くように鮮烈で、しかし朗らかな声が響く。
その場に居た全員の視線が向かうのは……もちろん、ニコールだ。
集まる視線もなんのその、いつものように揺らぐことのない笑みのまま、彼女は言葉を続ける。
「つまり、ドレスを何とかすればいいだけのこと。
ねえルーカス、あなたのお店に飾ってあるドレス達って、わたくしは一度も社交の場で着ていないですよね?」
「はい、それは……い、いや、いけませんニコール様! 長らく展示していたドレスを、国賓を迎える晩餐会に着ていくなど!
確かに普通であれば気付かれないでしょうが、こんな手を打ってくる連中であれば、密かに調べていても不思議ではありません!」
ニコールの言わんとすることに気付いたルーカスは、思わず声を張り上げた。
敬愛するお嬢様が、数ヶ月もの間飾られていたドレスを纏って晩餐会に出るなど、ルーカスには耐えられない。
もちろん両親であるジョウゼフやイザベルとて、看過できない事態だ。
だというのに。
必死な視線を受けて、ニコールは、微笑んで見せた。
「もちろん、最終手段だということはわかっています。
けれど、割り切って考えれば、なしでもないのですよ」
落ち着いた口調で語るニコールの言葉を、その場にいる誰もが理解できない。
常識的に考えればアウトとしか言いようがないことが、どうしてなしでもないとなるのか。
当然とも言える声にならぬ疑問に、ニコールは笑って答えた。
「あのドレスはショウルームに飾られているもの。つまりドレスの素晴らしさを広告宣伝するためのもの。
であれば、わたくしがそれを纏って晩餐会に出ることは、すなわち! 出張ショウルームになるということです!」
「何をおっしゃっているのですか!?」
あまりに非常識な、そしてあまりに身体を張りすぎているニコールの言葉を受けて、絶句している面々の気持ちを代表してエイミーが声を張り上げる。
つまりニコールは、歩く広告塔、チンドン屋だとかサンドイッチマンだとかになろうと言っているのだから、血相を変えて止めるのも無理はない。
だが、そのことを理解しているのだろうに、ニコールは全く悪びれた様子もない。
「そもそも、わたくしは王子殿下の目に留まろうなどとはこれっぽっちも思っていませんし、元々社交界からは若干距離を置いておりますから、多少の陰口など気にもなりません。
であれば、既に出来上がっているものを身に纏って宣伝をすることに、デメリットなどあろうはずもありません!」
堂々と言い切るニコールに、一堂は思わず納得しかけて。
いや、何かが間違っている、と直ぐに我に返った。
この辺りは、ある意味流石と言って良いのだろう。
「いやその、こう、ちゃんと新しく用意出来なかった、との悪評は生じるのでは!?」
立ち直ったエイミーはツッコミ気質を発揮させて、そう問いかける。
いや、本来の性格であればツッコミ気質などではなかったはずなのだが。
ともあれ。そして、しかし。
そんな真っ当なエイミーの言葉をもってしても、ニコールの笑顔は崩れない。
「であれば、以前からそうやって投資し、準備してきたような余裕があったのだと言い返せばいいのです!
むしろ慌てて仕立てる方が、備えが足りないというもの!」
「納得しそうになる屁理屈ですね!?」
「ええ、そうですとも。我ながらそれなりに説得力のある屁理屈だと思います!」
「やっぱり屁理屈なんですか!?」
エイミーの悲鳴は、全員の心の代弁でもあった。
しかし同時に。
その声の張りもまた、代弁していた。
もしかしたら。
「屁理屈といえども理屈は理屈、その場でひっくり返せねばまかり通ってしまうものです!
そして、一晩を何とか凌ぎさえすれば、なんとかなります!」
一堂の耳に、脳裏に、『なんとかなりますわっ!』というニコールお得意のフレーズが呼び起こされる。
こんな屁理屈でごり押ししてでも、何とかするつもりなのだ、彼女は。
「もちろん、新しく仕立ててもらうのが一番ではありますけれど……わたくしは何とかなる目処が立った以上、エイミーさんのドレスを優先してもらわないといけませんし」
その言葉に、エイミーは目頭が熱くなるのを感じた。
ことここに至ってもなお、ニコールは己よりもエイミーを優先している。
それが、どれだけ人の心を打ち、奮い立たせるものか。
まるで頓着していない顔のニコールがどれだけわかっているのか、全く推し量れないけれども。
いや、あるいはだからこそか、奮い立つ者はいるのだ。
「ご安心ください、お嬢様。モンティエン様のドレスでしたらお任せを。もちろん、モンティエン様のお許しをいただければ、ですが」
すっかりと腹の据わった微笑みを見せながら、ルーカスが応じる。
ニコールが道化となる覚悟をあそこまであっけらかんと示したのだ、表に出ることのない裏方である自分が怯む道理などどこにもない。
矢面に立つ覚悟を決めたニコールを前に、ならばその背中を支える覚悟を決めた。
「先日、モンティエン様が当店にお越しいただいたことがございましたが、その際に、一着のドレスをお気に召していただきまして。
そのドレスを元にしてよいとお許しいただければ、一月と言わず、何なら一週間ででも仕上げてみせましょう」
今度は自信たっぷりに言い切るルーカスへと、全員の視線が注がれる。
……ほんの少しばかり、ニコールの目元が安堵に緩んだだろうか。
それを見られただけでもルーカスとしては言い切った甲斐があったし、だからこそやり遂げねばならない。
そして、やり遂げる覚悟だ。
「その上で……モンティエン様のお仕立てを完遂した上で、お嬢様のドレスをお任せいただければ、と願う次第でございます」
「それは、もちろん願ってもないことですけど……でも、エイミーさんのドレスを、どうやって?」
思わぬ申し出に、先程まで意気軒昂に語っていたニコールがおずおずと問いかける。
ルーカスの申し出は、勿論嬉しいものだ。
そしてそれは同時に、現実的とも思えないもの。
今から準備をするとして、それこそ一ヶ月で何とか間に合うかどうか、というものだろうに。
彼の表情は、揺るぎない自信に満ちあふれていた。
「モンティエン様がいらしたあの時、いつか貯金を貯めてご購入なさると語っておられました。
その言葉に、何より瞳の力に、遠からずお買い求めいただけると私は確信したのです。
であればいつ何時お求めいただいても即対応出来るよう準備するのが職人としての私の矜持。
既に生地は揃っており、型紙も起こして生地の裁断も終わっております。
後はお命じいただければ、全身全霊を持って仕上げてみせましょう」
「はい??」
ルーカスの朗々とした宣言に、間の抜けた声を上げたのは、当事者であるエイミーだった。
何しろ。
「ちょ、えっ、あの!? わ、私、あの時採寸してもらってないですよね??
なのに、なんで裁断まで出来てるんですか!?」
至極もっともな、悲鳴のような疑問に、しかし答えるルーカスの表情はどこまでも穏やかだ。
「こういった商売を長年やっておりますと、見ただけで寸法はわかってしまうものなのです。
私の場合、採寸は確認の意味合いが大きいですね」
「な、なるほど……? い、いえ、あの時私、コート着てましたよね!?」
「ええ、誂えたようにサイズの合った、よくお似合いのコートでございました。であれば、寸法を頂戴するなど造作もないこと」
「そ、そうなんですか……?」
あまりにきっぱり言い切られるものだから、エイミーは押し切られてしまった。
考えて見れば。
ちらり、ニコールやジョウゼフ達を伺うも、まるで動じた様子がない。
ということは、出来るのだろう。
「わかった、そういうことなら頼む、ルーカス。
もちろん特急料金は弾むから、職人達にも特別手当を出してくれ」
「ありがとうございます、伯爵様のお心遣いに、心の底から感謝致します。
どうかモンティエン様のドレス、そしてニコールお嬢様のドレス、このルーカスにお任せください」
腹を括ったような顔を見せるジョウゼフへと、ルーカスは恭しく頭を下げた。
その胸の内に、熱く滾るものを秘めながら。




