ない袖は無理くり振る。
そのまま勢いに押されるように、軽さに流されるように、難民達はニコールの後について歩き出した。
路銀も心許なくなり、ここ数日ろくに食べることも出来ていなかった彼らからすれば、食事にありつけるらしいという期待だけでも有り難いもの。
衣食足りて、とはよく言ったもので、目先の心配が薄くなり少しばかり心の余裕が生まれれば、周囲に目も向くようになる。
「おやニコール様、ごきげんよう。またいつものですか」
「ごきげんよう、おばあちゃま。またなんて言わないでくださいます?」
通りを歩く平民らしき老婆が挨拶をすれば、ニコールもまた笑顔で返す。
普通の貴族であれば、平民が話しかけるなどとんでもないこと。
今すぐこの場で打ちのめされる、最悪斬り捨てられることすらありえることだというのに、そんな空気は微塵もない。
むしろ、それが当たり前のように周囲はまるで気にしていない。
いや、通りすがる人々が皆当たり前のように挨拶をしていくのだから、ニコールの存在そのものは気にかけられている。
そのかけられ方は、他領から流れてきた難民達にとって、見たこともないものだったけれど。
「随分と気さくな方なんですね……?」
「ええ、ご覧の通り。だから困っているところもありますが、それが良い方向に作用することもあり……だからこそ困ってもいます。
愛想を振りまくだけならまだしも、気前良くお金まで振りまきますからね……」
一人の難民女性が、ニコールの少し後ろに付き従うベルへと話しかければ、少しばかり眉を寄せながらベルは頷く。
実際の所、ニコールのこの性格が領民達に親しみを感じさせ、結果として人心の安定に繋がっているところがあったりもしているし、ベル自身もそのことはわかっている。
ただ、その代償として、例えばすっからかんになっているだとかもあるだけに、頭の痛いところだ。
「ほらほら何してますの! お店はもうすぐですから、ちゃっちゃと歩く!」
話をしている内に歩くのが遅くなってしまったか、少しばかり距離の空いた彼女らに気付いたニコールが振り返る。
そして、ニンマリとした笑顔を見せて。
「歩いた分だけ、お腹を空かせた分だけ、美味しいものが食べられますしね!」
その言葉に、ベルと話していた女性は思わずお腹を押さえる。
そう、彼女は先程お腹が鳴ったところをニコールにかばわれた女性だった。
だからこそ、そんな振る舞いをしてのけるニコールに興味を引かれた、とも言えるが。
ともあれ。
ニコールに促されて難民達の歩く速度も少しばかり上がり、案内されるうちに、一軒の食堂へと辿り着いた。
「たのも~! ベティおばさま、十人ちょっと、え~っと、十三人の団体様ご案内ですわっ!」
「あらあらまあまあ。これはこれはニコール様、いつもありがとうございます」
ば~ん! と勢いよく扉を開けてニコールが入れば、少々恰幅のいい、それなりの年齢の女性がニコニコとした笑顔で和やかに応じる。
その後にベルが当たり前のように続くのだから、それに引きずられるようにして難民達も食堂へと足を踏み入れた。
そんな彼らへと向けられるのは……あっさりとした視線。
ここまでの旅路ですっかり汚れた格好の彼らを、食堂の女将さんらしき女性も、店内にいる客も、蔑むでもなく当たり前のように視線を向け、しかしそれ以上は何もない。
その反応に、身構えていた難民達が呆気に取られ、拍子抜けする程に。
「ちょうどピークも過ぎたところですし……ええと、はい、これをこうして、っと」
彼らが立ちすくんでいる間にも女将さんはテキパキと動き、いくつかのテーブルをくっつけて団体席を作っていく。
……それをサポートするかのように、メイドのベルどころか貴族令嬢であるはずのニコールまでもが椅子を動かしたりしているように見えるのは気のせいだろうか。
難民達が思わず目をこすり、見直している間にテーブルのセッティングは終わってしまっていたため、尚のこと幻のようにも思えてしまうのだが。
「さあさあ皆さん、お座りになって? 食べられないものとかはございませんでしょうか。特になければ、こちらのシチューセットがお勧めですわよ。
それとも男性の皆さんは、こちらのがっつりお肉が食べられる方がいいかしら」
彼らが席に着くなり、ニコールがいくつかのメニューが書かれた板を差し出した。
最近流通しだした植物紙が貼り付けられたそれには、定番メニューと今日のメニューとが書かれている。
「ぶ、豚肉のソテー……え、いやいや、ここではこんな値段で食べられるんですか!?」
メニューとにらめっこをしていた難民達のリーダーが、思わず声を上げた。
地球の歴史で言えば近世に入ったくらいのこの国では、畜産はまだまだ充分な生産力になっておらず、豚肉と言えども高級品の扱い。
平民が口に出来ない、まではいかないが、それなりの覚悟がいるものだ。
だというのに、この食堂ではそれなりの……毎日食べるには辛いが、普段から浪費していなければ気が向いた時に食べられる、そんな丁度良いくらいの値段である。
カルチャーショックを受けているリーダーへと、ニコールは得意げに笑って見せた。
「ええ、こちらのお店が良心的なお値段をつけてくださっているというのも大きいですが!
それを差し引いても目を引くこのお値段は、ひとえに畜産農家の皆さんの努力あってのもの!
もちろん、我が領に畜産向きの広い平地がある、というのも大きいのですけども」
まるで我が事のように胸を張って誇るニコール。
思わず『おお~』などと言いながら、難民達は小さく手を叩く。
それが、リーダーから内容と値段を聞かされると、『おお~!?』というどよめきに変わった。
この国ではまだまだ識字率はそこまで高くないため彼らは書かれた値段がわかっておらず、内容が今ようやっと伝わったのだが、あまり裕福ではなかった村出身である彼らからすれば信じられない程の低価格。
それが、さも当然のように提供されている。
言われてよく見れば、あちらこちらでその豚肉のソテーセットを食べているのはどうみても平民だ。
……それに気付けば、店内に充満する肉の焼ける臭いが彼らの鼻を刺激してくる。
「ちなみにシチューは、じっくりことこと煮込んだたっぷりのお野菜と、鶏肉も入っておりますからね。
お腹に優しく、かつ元気の出るセットになっていますよ」
追い打ちをかけるようなことを言うニコールの顔は、あくまでも屈託無く、にこやかだ。
生産しあるいは調理した領民達を誇りはすれども驕りはしていない、そんな顔。
それは、彼らが知る貴族とはまるで違う表情だった。
そもそも、数ある中で彼女が勧めてきたメニュー。
歩き通しで疲れ切った者、特に女性にとって暖かいシチューは、疲れた胃腸にも優しくて嬉しいもの。
逆に、体力にまだ余裕がある男性達にとっては、肉は何よりのご馳走だ。
果たしてそこまで考えてのお勧めだったのだろうか。
ニコールの表情を窺うも、何とも読み取れない。
一つだけ確かなことは。
それらのメニューは、難民達の食欲を大いに刺激する、ということだった。
一人二人どころでなく、ほとんど全員のお腹が、ぐぅ、と訴えかけるように音を立てる。
「うふふ、良い感じで胃腸も刺激されたようですわね。
あ、折角ですから、エールなども頼みますか? あ、そちらの方はリキュールの方がいいかも知れないですわね」
ニコールがそう言えば、男性達の目が明らかに輝く。
歩き通しで疲れた身体に、程よく苦みが利いたエールを流し込む。
それがどれだけの幸福か、彼らはよくわかっていた。
「じゃあ、ベティおばさま、ソテーのセットとシチューと、エールと……」
反対意見や別の希望がないことを確認したニコールが慣れた様子で注文をしていけば、心得たとばかりにベティもメモを取っていく。
だが、それを聞いていたリーダーは段々顔が青くなっていった。
正確なところはわからないが、良心的な価格といえども十三人分となれば結構な金額になっていく。
さらにエールだリキュールだと重なっていくのだから、さらに倍、とまでいきそうなところまで。
彼の心配を知ってか知らずか、ニコールは随分と豪快な注文を終えて。
それらを承った女将さん、ベティがにっこりとした笑顔を見せる。
「で、ニコール様、お支払いはどうなさいます?」
大体の場合、こういった食堂では注文時の先払いであることが多い。
なんだかんだモラルの低い人間はいるもので、後払いだと食い逃げをするものもいるからだ。
そして、恐らくベティはニコールがすっからかんであろうことに気付いている。
若干圧迫感すら感じるベティに対して、ニコールもまたにっこりと笑顔を見せて。
「もちろん決まっていますわ!」
ぐんっ、とこれ見よがしに胸を張って、堂々と宣言する。
「ツケておいてくださいまし!」
途端に。
何となく固唾を呑んで見守っていた難民達はガタガタと崩れ落ち、わかっていたベルは、一人大きな溜息を吐いたのだった。