食べる、ということ。
「はい、おまっとさん!」
にこやかにベティがトレイをテーブルに置けば、ふわりといい香りが漂う。
トレイの上には、お酢が強めに利かされたドレッシングを纏ったサラダと、焼き直しをされてほかほかと湯気を立てるパン、そしてメインであるビーフシチューが鎮座したセット。
まだ生野菜の衛生状態に少々難のあるこの国では、そのまま食する場合、殺菌の意味もあって強めの酢で味付けすることがほとんど。いや、病気の要因などの解明はまだ進んでいないけれども。
それが、この見るからに濃厚そうなビーフシチューを相手には、ちょうどいい口直し、アクセントとなりそうだった。
添えられているパンも、指に触れた感覚は固いが、カチカチというわけではなく、中は柔らかいのだろうと伝わってくる。
そして、これらを従えるビーフシチュー。
濃い茶色のそれは、小麦粉をバターで炒めたブラウンルーがたっぷりと使われたもの。
漂ってくるのは、バターと赤ワインが混じり合った濃厚で食欲に訴えかけてくる香り。
主役である牛肉も具の野菜もかなり大ぶりな塊で、スプーンとフォークだけでなくナイフまで添えられているのも納得というもの。
だというのに、これだけバターを贅沢に使って、これだけ大きな塊肉が入って、その上でこのお値段。
果たしてこの店は儲かっているのだろうかと心配にもなるが、女将さんであるベティや従業員の服装、店内が綺麗に清掃が行き届いていることなどを考えると、きちんと儲けは出ているのだろう。
稼ぎが足りないとまず削るのは衣服、その次に食事である、とエイミーは色々な意味で経験則から知っている。
であれば。
この、良心的なお店は、ちゃんと利益を出せているようだ。
そのことに、何故かエイミーはほっとする。
「さあさあ、お熱いうちに……と、その前に乾杯でしょうか」
そう言いながら、ニコールがワインの入ったグラスを手にした。
この国では16歳から成人で、お酒を飲むのも許される。
見た目からして最近成人したらしいニコールの、指の温度が伝わらないようにとワイングラスの足下を手にするその仕草は、やけに手慣れていた。
きっとジュースだとかもワイングラスに注がれていたのだろう、とエイミーは無理矢理思って同じくグラスを手にして。
すぅ、とゆっくり息を吸い込む。
なんとなく。これを飲むと、何かが変わる気がした。
それは、今までの日々に戻れなくなる、ということ。
そしてそれは、全く躊躇う理由にならなくて。
「それでは、エイミーさんとの出会いと、これからの前途を祝しまして! かんぱ~い!!」
高々とグラスを掲げながら一滴もワインをこぼさない、と器用なことをしているニコールにあわせて、ちょっとだけグラスを掲げたエイミーは。
背中を押されたような気持ちでグラスを口にして、くいっと、彼女にしては勢いよくグラスを傾けた。
最初に感じたのは、華やかな香り。
果実だけでなく花のニュアンスも感じる複雑ながらも軽やかなそれの直後に、舌に触れるワインの感触。
アルコールは然程主張せず、重さや渋みの要因となるタンニンも強くはない。
けれど物足りないというわけでもなく、必要充分な芯のある味わいに感じたのは、明るさだった。
何も気にしないような脳天気さではなく、色々あっても、それでも前を向く、地に足のついた明るさ。
今日までの全てを抱えた上で、明日を見るような。そんな明るさの酒。
それが、エイミーの喉を鳴らし、胃袋へと染み渡る。
「い~い飲みっぷりですねぇ! いいですいいです、どんどん行きましょう!
あ、その前にシチューのお肉もいっちゃいましょう!」
胃に到達したワインの刺激か、何となく胃が動いたような感覚。
そこへニコールの煽りが入れば、思わずナイフとフォークを手に取ってしまうのも仕方が無い。
ワインの香りで開かれた嗅覚がシチューの匂いを嗅ぎ取り、胃へと更なる刺激を送り込む。
このままでは、お腹が鳴る。
それを誤魔化すには、これしかない。
そんな言い訳を脳裏でしながら、エイミーはフォークを肉の塊へと差し入れた。
ズブリ。
柔らかすぎず、堅すぎず。
適度な手応えでフォークが沈み込む。
さらにナイフを当てれば、す、とその刃が通っていくが、肉は崩れない。
肉の塊としてそこにある、それでいて食べるのを阻害しないくらいには柔らかい、絶妙な煮込み具合。
口に運んで咀嚼すれば、しっかりと返ってくる歯ごたえ。
ああ、肉を食べている。
そんな実感が、エイミーの脳裏をよぎる。
噛みしめれば、溢れてくる牛肉の滋味。存在を主張しながら、しかし食べられることを拒絶していない、そんな歯ごたえ。
脂肪のあまりない、だからこそ肉そのもののを味わえる赤身肉を二度、三度。あるいはそれ以上。
じっくり、しっかり堪能して、それを飲み下せば、血肉の元が身体の中に確かに入っていった。
それを追いかけるように、ワインをまた一口。
このシチューを煮込むのに使われたのと同じ赤ワインだったのだろうか、全く喧嘩することなく、いや、むしろ手を取り合う二つの味わい。
充分に濃厚、しかし長旅直後には少し重いかもと思われた味わいが、ワインの軽やかさに包まれて濃厚な旨味だけを舌に残して去って行く。
それでいて鼻をくすぐるのは、バターとワインが絡み合った濃厚で官能的な香り。
舌を引きずられることなく、それでいて誘われるように、もう一口、さらに一口、と食べ進めてしまう。
いや、それだけではだめだ。このままシチューにだけがっつくのは、はしたない。
そう思いとどまり、エイミーはナイフとフォークを一旦置いた。
その内側に、このシチューのソースを、この暖かいパンに付けて食べたらどうなってしまうのか、という誘惑と言ってもいい疑問を抱えながら。
エイミーがパンをその指先で捉え、そっと力を込めれば、サクリとその外側が割れる。
ほか、と上がる湯気に混じるのは、やはりバターの香り。
こんなにも、平民が食べるようなパンにも潤沢にバターが使われているという事実。
生産領地と、それを輸送しないと受け入れられない地域との差。
そこに商機があるのでは、などと考えるあたり、まだまだ職業病は抜けていないらしい。
今はひたすらにこの官能を。
そう心に言い聞かせて、千切ったパンにたっぷりとソースを付けてから、その口へと運ぶ。
ああ。
このためにこのシチューはあったのだろうか。
思わずそんな感慨を覚えてしまうような、至福の味。
バターの風味が利いたパンに、やはりバターで味を支えられたシチュー。
さらに小麦粉の甘みまで加わり、暴力的なほどに重厚でありながら、舌を疲れさせる程には重くない。
そこへワインを追いかけさせれば、先程よりもさらに官能的な味わいが生まれる。
なるほど、これがマリアージュというものかと、柄にもなく思ってしまうエイミー。
それくらい、彼女の今までを色々な意味で揺るがす味わいが、連続して襲いかかってきた。
いや。
そもそも、こんなにまで明瞭に味や香りを感じたのは何時以来だろうか。
特にこの一ヶ月ほどは、食事に味を感じた記憶が、ほとんどなかった。
それくらい心に余裕がなかったのだと、今更気付く。気付かされる。
「美味しいものを食べていれば大丈夫」と、あの老婆は言っていた。
ということは、何を食べても美味しいと思えていなかったあの頃の自分は、相当に拙かったのではないか。
そこに考えが至り、思わずぞっとする。
しかし、そこからはもう、抜け出した。
そして今、エイミーは、美味しいと思えている。
「いかがですか、美味しいですか?」
まるで見計らったかのように掛けられる問いかけに、否定の声など返せるわけがない。
「はい……美味しい、です」
答えて。
何故だか、涙がほろりと零れた。
「色々あったのでしょう。いいのです、泣いてもいいのです。でも、笑ってもいいのです。
何より!
食べていいのです! 飲んでいいのです! このニコール・フォン・プランテッドがここに居る限り! 誰にも文句は言わせません!」
すこーんと抜けた青空のような笑顔。
それを見れば……また、泣けてくる。
ただそれは。
あの日流した涙とは、まるで違う涙だった。
ぐし、と零れてきた涙をエイミーは袖で拭う。
もちろん行儀はとてもよろしくないが、構わないに違いない。
少なくとも、本来ならば咎めていい立場であるニコールは、目の前でニコニコとしているのだから。
ニコールの目も、顔も、雰囲気も言っている。
細かいことはいいから食べろ、飲め、と。
普段ならば、とても従うことは出来なかっただろう。
けれど、今のエイミーならば。
促されるままに、肉をまた頬張り、ワインを飲み下す。
昨日までの、いや、ついさっきまでの鬱屈した思いも飲み込むように。
腹の底に落ちたそれがじんわりとした熱に変われば、ほぉ、と大きく吐息を吐き出した。
ああ、美味しい。
舌ではなく、腹の底で味わう満足感。
それは、今までに無いほどに。
「うんうん、調子が出てきましたね、いいですいいです、いい飲みっぷりに食べっぷり!
さあさあどんどん行きましょう、飲みましょう、食べましょう!」
「は、はい、いただきます!」
促されて、エイミーはぐいっとワインを飲み干した。
「おばさま、こちらにワインをもう一杯!」
「あいよ!」
空いたと見ればニコールがおかわりを告げ、ベティがそれに応える。
まさかおかわりまでくるとは、と驚いた顔でニコールを見れば、返ってくるのはやはり笑顔。
「言ったではないですか、どんどんいきましょう、と。一杯や二杯では終わりませんよ!」
「わ、わかりました!」
一瞬だけ、大丈夫かな? と心配がよぎった。
それも本当に一瞬で、あっという間に流される。目の前にワイングラスがくれば、もう飲むしかないと思わされてしまっている。
だからエイミーは、またぐいっと、グラスを傾けた。