すり合った袖は掴まれる。
「さあさあ、こちらですわ!」
エイミーの了承を得たそのご令嬢は、ずいっと前に立って歩き出した。
そして、その後ろに付き従うお付きらしいメイド。
二人揃って、エイミーがついてくることをまるで疑っていない。
いや、もしかしたらメイドの方は、エイミーとの間に入って、万が一に備えているのかも知れないが。
ともあれ、折角案内してくれるというのだ、無碍にする必要もないだろう、とエイミーは彼女について歩き出した。
「あらまあお嬢様、またいつものですか?」
歩き出してすぐに、そんな声がかかる。
また。いつもの。お嬢様、というのは予測はしていた。
ということは、こんなお節介なことを、このお嬢様はいつもやっているのだろうか。
随分と変わったお嬢様だ、と思いながらも、エイミーは口にも顔にも出さない。
いや、そもそも、まだ顔の表情筋は上手く動かないだけなのかも知れないが。
「もう、まただなんて言わないでくださいまし?」
そしてご令嬢の返しも手慣れたもの。
そういう人物なのだろうとは思っていたが、やはり平民から気軽に声を掛けられても気分を害した様子はまるでない、どころか、にこやかに笑っている。
一応はかつて貴族令嬢の端くれであったエイミーからすれば、なんとも奇妙な光景だった。
などとエイミーがぼんやり考えている間に二人の会話は終わっていて。
「すみません、お待たせしてしまって。では、改めてまいりましょう」
「あ、いえ、大丈夫です、お気になさらず」
さらりと謝罪をしてくるその姿に、むしろエイミーの方が戸惑ってしまう。
エイミーなど比べるのも恐れ多いような仕立ての服を見るに、裕福な商家の娘か貴族令嬢。
そんな彼女が、もはや男爵令嬢の面影など欠片もないエイミーに躊躇うこともなく謝罪をするその姿は、それこそ恐れ多いものであるはずなのだが。
彼女のあっさりとした態度に流されて、思わずエイミーもあっさりと流してしまった。
だが、流すわけにもいかないことがある。
「あの、まだ名乗っていませんでしたよね。私、エイミー・モンティエンと申します」
まずは、自分から名乗る。
目の前の少女の雰囲気からして、恐らく自分より身分は上。
そして、この街について誰よりも詳しいと豪語し、街の人々も彼女をよく知っている様子。
となれば、恐らくは。
とんでもない人に声を掛けられてしまった、と恐れおののきながらも、エイミーは少女を真っ直ぐに見る。
その視線を受けて、怯んだ様子もなく、にこやかな笑顔はそのままに。
「あら、これは失礼いたしました。わたくし、ニコール・フォン・プランテッドと申します」
返ってきた予想通りの答えに、エイミーは頭がくらりとするような感覚を覚えた。
そんなエイミーの心情を知ってかしらずか、またニコールは歩き出し、エイミーは仕方なくついていく。
まさか、上位貴族である伯爵令嬢のお誘いを振り切って逃げ出すわけにもいかない。
かといって、連れて行かれた先で失礼をしない自信もない。
何より、伯爵令嬢に連れて行かれるような店で食事をして、財布がもつ自信がまるでない。
進むも地獄、退くも地獄。
そんな心境で、とぼとぼ、あるいは恐る恐る、ニコールの後をついていく。
しかし、エイミーの心配は良くも悪くも杞憂に終わった。
「こ、こちらのお店ですか……」
思わず漏れ出た言葉には、安堵の色が濃かった。
案内されたのはベティの食堂、どう見ても平民御用達のお店である。
これならば、少なくとも財布への致命傷は避けられるはず。
そんなエイミーの内心を知ってか知らずか、振り返ったニコールの顔は申し訳なさそうだ。
「すみません、男爵家の方をお連れするのには不適だったかも知れませんが……」
「いえいえ、とんでもないです。家を出て働き糊口を凌ぐ身、貴族として扱われるのも慣れていませんから。
……というか、よくご存じでしたね、モンティエンの家なんて」
本音半分、いや、八割に謙遜二割でエイミーは言う。
何しろ、跡継ぎ以外は働きに出ねばならない程度の領地しか持っていない弱小貴族。
幸いある程度の教育がされる環境はあって、兄たちは文官として働く口を見つけていた。
反面、縁を繋ぐ旨味がないため、姉たちは嫁ぎ先を見つけるのに苦労していたが。
そんなどこにでもある弱小男爵家を、色々噂は聞くが、曲がりなりにも伯爵家であるプランテッドのお嬢様が知っているとは、まさかである。
「ええ、父が種々の手続きで王都にいった時にモンティエン家の方に対応していただいたそうで、とてもいい仕事ぶりだったと申しておりましたの。
もしかしたら、エイミーさんのご家族かも知れませんね?」
「それなら、二番目か三番目の兄のどちらかだと思います。父は家督を譲って引退していますし」
「なるほど、確かに若い男性の方だったようですし」
エイミーの返答に、ニコールは納得した様子で頷いた。
そして、改めてエイミーを見て。
「エイミーさんも働いてらっしゃるように見えましたので、こちらにご案内したのですよ。
働いてらっしゃる方は、お金をご自分で扱われて価値もわかっているからか、ご自分で払えるくらいのお店でないと気軽に飲み食いできない方が結構いらっしゃって」
その言葉に、合点がいったように「ああ」という呟きが零れてしまう。
エイミーを侮って連れてきたわけではない、と遠回しに伝えてくるニコール。
確かに彼女の言う通り、エイミーはここに連れて来られて、安心した。
食事代は自分で払うもの、と頭にあったから。普通の貴族令嬢のように、奢られることなんてまるで当たり前ではなかったから。
そして、奢られることに対する抵抗も、確かにあったから。
「確かに、私もこういったお店の方が気楽です。お気遣い、ありがとうございます」
心からそう言って、頭を下げる。
下げているというのに、何だか心は少しばかり軽くなった気がした。
「そう言っていただけたのなら、何よりです。ご安心ください、味は間違いございません、わたくしが保証いたします!」
どーんと胸を張りながらニコールがきっぱり断言するのを見ると、また少しばかり心が軽くなった気がする。
こうやって人を乗せるのが上手いのは、流石伯爵令嬢、というべきなのだろうか。
「さあさあ、表で立ち話もなんです。早速入ってしまいましょう!」
そう言うと。
不意に、ニコールがエイミーの手を取った。
その柔らかさと暖かさに、思わずドキリとしてしまう。
人と手を繋ぐなど。そのぬくもりに触れるなど、どれくらいぶりだろうか。
それくらい、エイミーはこの数年、孤独だった。
だというのに、目の前の少女はあっさりとエイミーの手を掴み、ぐいぐいと引っ張っていく。
そんなエイミーの感慨に気付いた様子もなくニコールは、ばーん! とばかりの勢いで店に入り。
「ベティおばさま、合計三名様ご案内ですわ!」
と元気よくかつ景気よく呼びかける。
「はいはい、ようこそいらっしゃいました。
でも大丈夫なんですか、お嬢様。こないだツケを払ってもらったばっかりですけど」
「大丈夫ですわ! 流石に三人分くらいなら問題無い程度には残っていますので!」
当たり前のように交わされる会話にエイミーは目をぱくちりと瞬かせ、ベルは小さく溜息を零す。
どうにも、ニコールの辞書に『反省』の文字は無いようだ。
そしてそのニコールが、ひくりと鼻を動かす。
「……もしやこの匂い……今日はビーフシチューがありますの!?」
「ええ、流石ですねぇ。牛のいいとこが塊で手に入ったんで、久しぶりに」
一気にテンションを上げたニコールへと、ベティは嬉しそうに答える。
豚や鶏に比べると、牛の肉はまだ少しばかり手に入りにくい。
それだけに、塊肉を丁寧に煮込んだビーフシチューは、格別なものがあるのだ。
「……お嬢様、よだれを垂らしでもしたら、ケイトさんとセシリー先生に言いつけますからね?」
「もっ、もちろんですわ、そんなはしたないこと、しませんわよ!?」
そう言いながら、慌ててニコールは口元をそっと拭う。幸い、袖口は濡れていないから、よだれはセーフだったようだ。
ただ、そもそも袖で口を拭うという行為自体が伯爵令嬢としてアウトなのだが。
ちなみに、セシリー先生とは、ニコールの家庭教師をしているセシリー・チェリウェルという女性のことである。
「まあ、色々と言いたいこともありますが……まずはモンティエン様をテーブルにご案内しませんと」
「流石ベル、冷静な段取りですわね。ではおばさま、あちらの席に座ってもよろしいかしら?」
「ええ、ピークも過ぎましたし、お好きにどうぞ」
熟れたやりとりで座るテーブルが決まれば、あれよあれよとエイミーは席についた。ついていた。いつの間にか。
なんだか狐につままれたような気分にもなるが、その張本人である令嬢は、確かに今もまだ、エイミーの目の前にいる。
「さ、ここは一つビーフシチューを注文してみませんか? 合わせるのならばこちらの赤ワインがおすすめですわよ!」
さっと見せられたメニューに、思わずエイミーは目を見開く。
王都の相場を知る彼女からすれば、それらはどれも極めて安価。
ありとあらゆる物が流れ込んでくる代わりに需要と供給の関係で物価が上がっている王都と、生産地であるプランテッド領の違いといえばそうなのだろう。
それでも、この値段は破格と言わざるを得ないものだが。
「じゃ、じゃあ、それで……」
ニコールの圧に押し流されるまま、エイミーは頷く。
まだ日も高いのにワインなんていいのかな、なんて思ったりはしたが。
どうせ明日も仕事はないのだ、構うもんか、と思うエイミーが少しだけいた。




