理不尽は突然に。
こうして難民達がプランテッド領で受け入れられ、それから一ヶ月ほどが経った頃。
本格的に夏へと向かい始めたある日、プランテッド領に隣接するパシフィカ侯爵領にある、侯爵が出資している商会の建物にて。
「きょ、今日でクビって、どういうことですか!?」
商会の事務所で、女性の声が響く。
年の頃は二十前後、職業婦人らしく焦げ茶色の髪を短く整え、眼鏡の向こうには意志の強さを宿した焦げ茶の目。
そんな彼女が四・五人の従業員が働く中でいきなり声を上げたというのに、しかし誰も驚いたような顔をしていない。
なんなら、何人かはニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべているくらいだ。
ちなみに、彼女以外は全員男性である。
そして、その中でもとびきり嫌な笑い顔を見せている男が、無駄に豪奢な机を挟んだ向こうで、同じく無駄に豪奢な椅子にふんぞり返って座っている。
「どういうことも何も、言った通りだよエイミーくん。君との契約は今日まで、だから契約を更新しない。それだけの話だよ?」
「そ、それは、だからって、昨日までそんな話、一言もなかったですよね!? 今までは何もなければ自動的に更新ということでしたし!」
エイミーと呼ばれた女性が反論するが、ふんぞり返る男には蛙の面になんとやら、だ。
むしろ、昨日は話をするどころではなかった。
いや、この一ヶ月ばかりはずっと、仕事を詰め込まれて帰るのはいつも夜遅く。
昨日などは、どうやって帰ったのか若干記憶が曖昧なくらいだ。
「……まさか、ここのところ妙に仕事が詰まってたのは、最後に私を使い潰すつもりだったんですか!」
「いやだねぇ、人聞きの悪い。契約が終わる前に経験を色々積ませてあげようと思った親切心を、そんな悪し様に。実際、潰れなかっただろう?
そんな根性だから、契約を更新してもらえなかったんじゃないかい?」
『勝手なことを』と叫びたいのを、ぐっと飲み込む。
この男には何を言っても無駄だ、というのは今まで勤めてきてよくわかっている。
そして、これ以上言い募ったところで何も変わらないことも。
しばらく顔を俯かせ、自分に言い聞かせ。
ぎゅっと拳を握ったエイミーは、悔しさを隠すことなく曝け出しながら顔を上げた。
「……わかりました、もういいです。そういうことなら、私は今日までということで。
引き継ぎなんかは今日中で終わる分だけでいいってことですよね」
「引き継ぎぃ? あっはははは、君が何か引き継ぐことがあるってのかい、君がやってたことは誰かの手伝いか雑用だけだろぉ?
そんなの要らないから、何なら今出て行ってくれて構わないよぉ?」
それはもう愉快そうに、侮蔑で顔を歪めながら言う男、もう今となっては元上司と言って良いだろう男の嘲りに、彼女は身を震わせる。
自分がやってきたことが、手伝いか雑用。
そんな風にしか見えなかった男にいいように使われてきたのだと思うと、もう怒りを通り越して空しさすら覚えてしまう。
「そこまでおっしゃるのなら、お言葉に甘えて、これで失礼させていただきます」
「はいはい、今日までご苦労さ~ん。ああ、君が住んでる部屋も明日には退去してよね、あれ社員用だから。
引っ越し作業もあるだろうからってこの時間に返してやる俺ってば、優しいねぇ」
「は!? ……わかりました、そうします!」
出て行こうとしたところでいきなり掛けられた言葉の内容に、思わず彼女は振り返り。
それから、また言葉を飲み込んだ。
酷い扱いだが、彼が何故そうしたがるのか、そして何故彼女がこのタイミングでクビになったのか、察せられてしまったから。
「あ~、やっぱ新しく入るのって、室長の愛人?」
「だろうねぇ、んで、空いた部屋に住ませてそこで、ってことだろ?」
部屋を出て行こうとしたエイミーの耳に、ひそひそと抑えてはいるものの、そんな声が聞こえてきた。
そして、エイミー自身もそれらしい女性が室長と戯れているのを見たことが、何度もある。
その愛人を住まわせようというのだ、男性が使った部屋には住まわせたくないだろう。
この商会で数少ない女性職員、商会が借り上げている部屋に住み、契約満了が近い女性。
つまり、エイミーはうってつけだった、ということなのだろう。
室長にとって、ひいてはこの商会にとって、彼女とはその程度の存在だった。
だから。
エイミーは、ありったけの鬱憤を、溜息に込めて、吐き出した。
その程度の価値しかこの商会にはなかった、という嫌味は、もちろん誰にも届かなかった。
それからエイミーは自室に戻り、荷物の片付けを始めて。
すぐに、また溜息を吐き出した。
いや、今度は思わず笑ってしまった。
あっという間に、片付けが終わってしまったのだ。
元々、家具は備え付けの物があったし、それ以外の物を買い足す暇も、金もなかった。
服も実家から持ってきた幾ばくかばかり、それ以上を買い足す暇も、金もなかった。
ちょっとした備品は、本当にちょっとした備品。旅行鞄に簡単に収まる程しかなかった。
故郷から出てきて、増えた私物なんて、数える程しかなかった。
背負い袋一つと旅行鞄一つに収まるだけの荷物。
それが、彼女のこの数年の生活だった。
そう理解すると、ほろり、頬に涙が伝った。
「私、今まで、何をしてきたんだろうな……」
一人へたり込む部屋、彼女の問いに、答えてくれる者など居るわけもない。
呆然と天井を見上げる。
見慣れているはずのそれが、久しぶりに、微妙に汚れて、若干不気味な模様をしていることに気がついた。
「あは。あはははは。
あはははははははははは!」
笑えてくる。
全く面白くないのに、笑いだけが溢れてくる。
そうしないと、自分が壊れてしまう。
そして。
泣けてくる。
「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、バカヤロー!!!」
箍が外れて飛び出した渾身の叫びは、虚しく天井に吸い込まれていった。
そして。
いつの間にか、夜が明けていた。
片付けて、叫んで、いつの間にやら気を失うように眠っていたらしい。
それでも最低限、立つ鳥跡を濁さぬ程度には片付けている自分に、笑えてくるし、泣けてくる。
最早この部屋に、そしてあの商会に、そうしてやる義理などないというのに。
「いや、もういいや。もう、どうでもいい。忘れ物さえなければ、どうでもいいや……」
背中に感じる背負い袋の重みと、手にした鞄の重み。彼女が持っていくのは、それだけしかない。
今までの生活はなんだったのだろう。本当に、どうでもいい程度のものでしかなかったのか。
ぼんやりと、天井を見上げてしまう。
下級貴族であるモンティエン男爵家に三男三女の末っ子として生まれ、まともな縁談も望めぬとあって、何とか身を立てようと学業に精を出した。
運が良かったのか努力が報われたのか、女性では滅多にいない会計士の資格を取得し、パシフィカ侯爵家の所有する商会に就職できて。
そこまで、だった。
そこからの報われない日々を思い出して、何度目かわからない溜息を零す。
「これから、どうしたらいいのかな……」
実家には、戻れない。
長男である兄が跡を継いだ今となっては、婚期を逃しつつある末の妹など、迷惑にしかならないだろう。
では、どこに行けば。
その答えを、今のエイミーが持つわけもない。
しかし留まる場所もないエイミーは、荷物を抱えながら足取り重く歩く。
やがて辿り着いたのは、各方面へと向かう乗合馬車の駅。
ここからなら、どこかに行くことは出来るだろう。
そこから、生きていけるかはわからないが。
そんな淀んだ目で行き交う馬車を見ていたエイミーの目に、一台の馬車が目に留まる。
何故、というのはすぐにはわからなかった。
だが、程なくして気がついた。その馬車に乗り込む人々は、どこか表情が明るいのだ、と。
気がついたら、その馬車の前に、彼女は立っていた。
「うわっ!? お、おい、どうしたんだ!?」
気がついた御者がすぐ手綱を引き、馬を止める。
その様子を、茫洋とした目で見ながら。
「ねぇ、御者さん。その馬車に乗せてくれませんか?」
「いや、それはもちろん構わないんだが……どこ行きかわかってて言ってるのか?」
尋ねる御者に、エイミーは笑いかけた。
そのつもりだった。
御者にそう見えたかは別として。
「行き先はどこでもいいんですよ。何となく、その馬車に乗りたいっていうだけです」
「いや、まあその、こっちはそれでもいいんだけどさ……ちゃんと金は持ってるんだよな!?」
御者の問いに、エイミーはこっくりと頷いて見せ、先払いとばかりに御者の手に小さな金貨を押しつけた。
これ1枚で、乗合馬車ならば相当遠くまで行ける。まして、この馬車の目的地など、容易に。
それを受け取った御者は、もう文句など言えなかった。
「ああもう、わかったよ、乗りな! ただ、妙な真似だけはするなよ!」
「あはは、うん、人に迷惑をかけるようなことはしませんよ」
悲鳴のように上擦る御者の声に、エイミーが笑って答える。薄ら寒くなるような声音で。
彼の経験上、こういう客は自殺だなんだ、ろくでもないことしか考えていない。
不気味ではある。しかし、金も払い、大人しく座っている。
であれば、御者に断る権利はなかった。
「ったく、ほんっと、変な気を起こすなよ!? じゃあ、もう出るからな! プランテッド領都行き、出るぞ~!」
声を張り上げながら御者が鞭を振るえば、ゆっくりと馬車が動き出す。
その揺れに身を任せながら、夏だからか開けっぱなしの窓にエイミーは顔を寄せた。
「こんなはずじゃなかったのになぁ……」
小さく、ぼやく。
その視線の向こうには、眩しいほど青い空が広がっていた。
そう、本当に、眩しいほどの、青空が。




