君は僕の婚約者とは違うね
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『ほら、ヴェロニク。ご挨拶しなさい。このお方が次の国王にして、お前の未来の旦那様になる人だよ』
『……は、はじめまして。ヴェロニク・セザンヌともうします。よんさいになりました』
『はじめまして、ヴェロニクじょう。ルイ・ラフーセだいいちおうじです。ぼくもよんさいです』
『でんかはどんな王さまになりたいのですか?』
『お父上みたいに、だいじな人をまもれる王さまかな』
『すてきですね』
『けっこんしたら、きみのこともまもってあげるね!』
『お誕生日おめでとうございます、殿下』
『ありがとう。君の誕生日ももうすぐだね』
『覚えててくださったんですね』
『もちろん。毎年お祝いしたいから』
『ねえ、ヴェロニク』
『はい、殿下』
『学園でも、卒業後も、ずっと仲良くしよう。素敵な夫婦になろうね』
『殿下……』
『そうしたら、僕のことも名前で呼んで貰えるかな?』
『ふふっ……とても光栄ですが、畏れ多いことでもありますわ』
『ははっ……そうかな?でも……そうしてもらえたら、嬉しいな』
『カルメン嬢。君こそが運命の人だ。君は美しくも愛らしい。僕の婚約者とは大違いだよ』
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立つ鳥跡を濁さず、という言葉が東国にはあるらしい。友人によると引き際は美しくあれという戒めを表す言葉らしいが、まさに今の私に必要な言葉かもしれない。つまり、婚約者を蔑ろにする殿下と、その心を射止めている伯爵令嬢を学園で眺めているしかない私のような人間にとっては。
「カルメン、おはよう」
「おはようございます、ルイ様!今日もとても麗しく存じます!」
そして学園の渡り廊下で衆目環視の中、堂々とのろけている方々こそ、この国で王位継承権を持つ一人であるルイ・ラフーセ第一王子と、カルメン・トリュフォー伯爵令嬢だ。婚約者同士でもないお二人は、私が見ていることにも気付かずに廊下の真ん中でいちゃついている。
「……やってるわね。日に日に大胆になっていくみたいだわ」
「ねえ、ヴェロニク。時間をずらしてから行かない?あれの横を通るの、すごく嫌なんだけど……」
もう見慣れた私はため息一つ漏らすのみだが、平民ながらも極めて常識的感性を持つ友人ブランディーヌにとっては耐え難い空間らしい。もちろん私にとってもきついのは確かだけども、残念ながら教室へ戻るにはここを通るしかない。それに――
「――ブレンダ、それはいいアイデアだと思うけども、他所で時間を潰したところで同じ教室でまた会うわ。なるべく視界に入れないようにして、さっさと歩いて通り過ぎましょう」
「え、ええー……やだなぁ……」
私は二人の世界に浸りきってる若い男女に会釈をして通り過ぎ、ブレンダもそれに倣いつつも目線は限りなく庭の方へ向けられていた。この二人相手でなければ、彼女はもっと綺麗なカーテシーを見せる。元々王族嫌いな部分こそあるが、特にこの二人に対しては苦手意識が強いらしく、まともに目を合わせようともしなかった。
私のことに気付いたかどうかは不明だが、不快な惚気は通り過ぎる最中にも行われていた。
「カルメンはいつ見ても可愛いな。気も利くし、所作も美しい。さすが僕の婚約者とは違うな」
「まあ!かわいいだなんて、そんな……!」
まだ殿下の物になった覚えはないのだが。あるいは平民を友人に持ったことを暗に揶揄しているだけかもしれないが、身分と関係無く公的な場では品行方正なブレンダと、公衆の面前でいちゃつく二人、果たしてどちらがより上品なのでしょうね。
「……ヴェロニク、大丈夫?私は、もう、吐きそうなんだけど」
その囁き声は不快で彩られていた。だがそれを咎める気が起きないほど、私の心も荒んでいる。
「自称出会った時から気持ちが通じ合う運命の恋人達らしいから仕方ないわよ。きっと本人たちも止められないんだと思うわ」
「ヴェロニクは王子様に優しすぎるよ。婚約者を蔑ろにして他の女性に夢中になっていい理由なんてないと思うよ?私が一度ガツンと言ってあげようか」
この子の歯に衣着せぬ言い方には入学した時から助けられてきたものだが、言ったことを本当にやりかねない危なっかしい部分もある。
「気持ちだけ受け取っておくから、我慢して頂戴」
とはいえ、私も婚約者として何度か進言したことはある。醜聞になるからせめて学園では控えるようにと。でも――
『――僕と彼女の幸せなひと時を邪魔しないでもらおう。婚約を破棄されたくなければな』
結果は伯爵令嬢の肩を抱いての逆上に終わった。はっきり申し上げて仮に婚約破棄を宣言しても有責はあちら側だと思うのだが、そのあたりの論理破綻にも気付いていないらしい。
「あんなに好き合ってるならさっさと婚約破棄してあっちと結婚すればいいのにね。でも王子様が破棄しないってことは、今も王子様はヴェロニクと結婚する気はあるってこと……?王子様の考えてることがわからなくて怖いよ」
「ありがとう、ブレンダ。でも、本当にそこまでにした方がいいわ。王家の影に聞かれているかもしれないから」
本当なら殿下も私との婚約はさっさと破棄したいはずなのだ。あくまで推測だが、破棄に相当するだけの明確な失点が私側に無い以上、流石に私情だけで断行はできないと判断して機会を窺っているのだと思う。恋に溺れる中でも、王子としての政治的判断力が、最後の一線を越えさせないでいるのだと思いたい。
これは最後の希望なのか、それとも絶望の一歩手前と見るべきなのか。
「それもいつまで保つか……ね」
「ん?なんか言った?」
「いえ、独り言よ。さ、急ぎましょう。次の授業を受ける準備をしないと」
「え?あ、次って魔法訓練!?いけない、早く着替えに行かないと!ほらヴェロニクも急いで!」
恐らく表沙汰にせよ秘密裏にせよ、殿下が私情を優先して婚約破棄を言い渡したその時こそ、この国の未来を暗示することになるだろう。王政という専制政治を敷く我が国に、国益よりも私情を優先する統治者が誕生する意味はそれほどに大きい。
愚かな将に率いられた優れた兵は、愚かな兵を率いる一人の優れた将に駆逐されるという。なら、愚かな王に率いられた国の場合は、どうなるのだ。
……馬鹿ね。私の方こそ、自分を大きく見ようとしているのではなくて。たかが学園の一生徒に過ぎないくせに、仮定だけで国の未来を憂うだなんて。そもそも王妃になるのかどうかすら今や怪しいというのに。
今日も一日存分に甘いひとときを過ごした御二方は、別れを惜しんでそのまま伯爵邸へと二人で向かい、蜜月を噛み締め合うらしい。これも二人が出会ってからほぼ毎日行われている。
不貞もいいところだが、王家の影たちも目に見えないところで同行していることは殿下も承知してるはずなので、本当の意味で一線を越えることはないだろう。だが、そもそもそんなものが安心材料になってしまうあたりが実に残念だ。
私は寮住まいのブレンダと途中で別れ、公爵邸へ向かう馬車へ乗った。カルメン嬢と出会う前は、いつも隣には殿下が座っていたせいか、今は奇妙なほど広く感じる。私と殿下が疎遠になってからもうすぐ一年が経とうとしているというのに、この半端な広さには慣れない。
「立つ鳥跡を濁さず……か」
ズキリという胸の痛みと一緒に、揺れる馬車の中で友人から教わった言葉が小さくこぼれた。まるで隣にぽっかりと空いた空間を埋めようとするかのように。
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公爵邸の晩餐は、学園のそれと違ってとても静かだ。幼い弟妹も含めた全員が可能な限り音を立てずに食べ進め、ロウソクとシャンデリアに頼った照明は薄明るくも儚さを演出する。それは一日の終わりを象徴していた。きっと私の学園生活も、この晩餐のように終わるに違いない。
「ヴェロニク。最近殿下との時間よりも、友人と過ごす時間の方が長いのではないかとの懸念が聞かれたのだが、事実か?」
普段は寡黙な父上が、突然質問を投げかけてきた。驚愕のあまり反応が遅れる。食事中に父上の方から話し掛けられたことなど今まであっただろうか。これまであまり見られなかった光景に、家族とメイド達の注目が集まる。
「……質問に質問で返すようで恐縮ですが、一体誰がそのようなことを?少々踏み込んだ懸念であるように思えます」
「王家の影は未来の国母を見守る義務もあるからな」
つまり影の報告も全て筒抜けだから父上が知ってて当然と言う訳ですか。恐らく更衣室でも誰かに監視されていたのだろうと思うと不快極まるが、ある意味私を守ってくれている訳だし恨むのも筋違いだろう。それに細かい説明をせずに済むなら面倒がなくて良い。
私は父上が全て知っていることを前提にして、内心を語ることにした。
「……二人は運命の恋人たちを自称しています。若くして婚約者を持たなくてはならない殿下の気持ちもわからなくはありませんから、今は未来の国母として温かい目で見守っているだけですわ。友人はそれに付き合ってくれているに過ぎません」
ただしブランディーヌからは、体温をゆっくりと奪う類のぬるま湯に例えられた。あまりそれを悟られたくもないので、父上から目線を少し外す。
「お前はそれでいいのか?」
「是非もないことです」
が、それを父上が尋ねるのですか?婚約からして私が物心付く前に、父上と陛下によって結ばれたものですよ。
本当ならそれもそのまま言葉に乗せたかったが、公爵令嬢かくありきと躾けられた私は、センシティブな本音をひた隠すことを本能に刻み込まれている。
「私としては婚約がそのまま履行されるならそれが一番で、王が跡継ぎ確保のために多重婚したいと言うなら、それも良いと思ってます。過去に例が無い訳でもありませんから」
「悪くない心掛けだが……公爵家と王家をより深くつなぐための政略結婚とはいえ、愛のない結婚は辛いぞ。ちゃんと学生のうちによく話し合っておきなさい」
愛?今、愛と言ったのか、父上は。愛を意識する前の幼児の首に、婚約の枷をはめた貴方が。
その言葉が信じられなかった私は、思わず外した目線を戻し、父上の目をじっと見返してしまった。だが折角目が合ったというのに、父上は一瞬だけ目を見開くと、この話は終わりだとばかりに食事を再開してしまった。何故か母上やメイド達も気まずそうにしており、幼い弟と妹だけが流れについていけずに小首を傾げている。
私の瞳に何が映っていたのかは知らないが、よほど直視するのが躊躇われたのか、その食事の間は誰も私の目を見ることはなかった。
全く何を恐れているのやら。私の瞳は親弟妹と同じ青色だろうに。
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『でんか!おたんじょうびおめでとうございます!』
『ありがとうヴェロニク!きれいなおはなだね!』
『これからもいっぱいおいわいしますね!けっこんしてからも、ずーっと!』
『うん!ぼくもヴェロニクのたんじょうびをいわうよ!いっぱいおいわいする!』
……懐かしい夢だ。私と殿下が本当に小さい頃の夢。結婚の意味もよくわからなくて、父上と母上みたいになるんだろうなとぼんやり考えていた頃のこと。
「……あ」
そうだった、忘れていた。今日は私の誕生日だ。
「おはよう、ヴェロニク!……あれ、眠れなかった?」
「おはよう、ブレンダ。ちょっと色々あったのよ」
「ふーん……?あ、お誕生日おめでと!くそー抜かれたー!はい!これプレゼント!」
「ふ、ふふふ……!ありがとう!貴方だってすぐ追いつくわよ!時間は平等なのだから」
プレゼントの入った箱を受け取ると、冷えていた胸が温まっていくのを感じた。入学するまではいつも殿下と一緒に過ごしていたが、いつの間にかブレンダと過ごす日々が当たり前になっている。高貴な生まれである私に平民の友人など釣り合わないと周囲から言われたこともあったが、私から笑顔を忘れさせないでくれるのは彼女の軽口のおかげだ。身分差など関係ない。
……身分差。もしかしたら殿下も、同じ気持ちなのだろうか。だとしたら、私にできることは、やはり。
「あれ、どうしたのヴェロニク?さっきより顔色悪いよ。……やっぱり具合悪いんじゃないの?」
友人からの贈り物を前に考え事をするなんて、貴方も随分と偉くなったものね、ヴェロニク。
「ごめんなさい、やっぱりちょっと寝不足みたい。でも親友のプレゼントのおかげで一日頑張れそうだわ。ありがとう、ブレンダ」
「ほ、ほんと?えっへへー!絶対ヴェロニクなら喜んでくれると思って一所懸命考えたんだ!だから私の誕生日にもちゃーんとお祝いしてよー?公爵令嬢様ー?」
「ふっ!?あっははは!わかったわ、ブレンダ!とびっきりを用意するから待ってなさい」
「言質頂きましたぁ!」
「ヴェロニク」
突然背中からナイフで刺されたような衝撃を受け、肩が震えた。その声を聞いたブレンダも青ざめている。恐る恐る振り向けば、そこには私の婚約者……であると思われる、ルイ・ラフーセ第一王子が立っていた。
あの殿下が、私に目を向けている。入学してからは殆ど無視されてきたというのに。
「……っ、おはようございます、殿下」
この挨拶をするのも、一体どれくらいぶりか。
「ああ」
ブレンダと登校するようになってからは、殿下と一緒だった時よりも20分ほど早く家を出ている。そうしないと、恋する二人の恋物語を毎日目撃することになるから。
「殿下?」
「……これを受け取るがいい」
殿下の手には小さな箱が乗っていた。ブレンダが渡したものよりも一回り小さい、手のひらの中に納まる箱。何が入っているかはわからないが、ささやかなものであることは間違いない。
「よろしいのですか?」
だが、何故か私の心の中には……否定できない喜びの風が吹いていた。ここ最近では殆ど感じなかった、春風を思わせる温かさだ。
「ああ」
殿下の方はまるで義務感から渋々と渡してるようにしか見えない。それでも、私の誕生日を少しでも意識してくれていたことが……忘れないでいてくれたことが嬉しかった。
恐る恐る受け取ると、その箱は見た目通り非常に軽く、何が入っているのか、あるいは空なのかすらわからない。
「ありがとうございます、殿下。私の誕生日、覚えててくださったんですね」
殿下は何も答えない。だけど意味もなく私に物を寄越すお方でもない。
恐らく中身が空虚だったとしても、私は今日という日を忘れられないだろう。政略結婚と割り切り、亡国の王となりうる人であったとしても、学園が始まるまではお互いに意識しあっていた仲だったのだ。そう簡単に割り切れるものではない。
「ヴェロニク」
「はい、殿下」
自然と笑みが浮かんだ。きっとあの日出会った時と同じように。
「…………っ!?いや、なんでもない。ではまたな」
激痛を浴びたように表情を歪めた殿下は、まるで鎖を引きちぎるかのように強引に私に背を向けると、いつの間にか遠くに見えていた女性へと早足で向かった。
「カルメン、今日は早かったね!ああ、君は本当に愛らしい。僕の婚約者とは大違いだ」
「ルイ様、おはようございます!今日はお早いのですね?」
「たまたまさ。さあ、早く学園に向かおう。少しでも長く、君と過ごす時間が欲しい」
恐らく殿下は満面の笑みでもって、カルメン嬢を迎えているに違いない。私には絶対に向けないであろう、親愛の情の最たるものが張り付いていることは、見えなくてもわかった。
温まった心が、箱を持った指先が、急速に冷えていく。渡された小箱はあまりに軽く、力を入れなければ取り落としてしまいそうだった。
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その後のことは、よく覚えていない。気がつけば私室のベッドに座って、二つのプレゼントを抱きしめていた。学園ではブレンダが何度か声を掛けてくれていたのはわかっていたが、ちゃんと返事ができていたとは思えない。明日、ちゃんと謝らないといけないだろう。
『けっこんしたら、きみのこともまもってあげるね!』
「殿下……」
かつての幼くも優しい声が胸をえぐる。あの暖かな瞳は、確かに私だけを映していた。
思い出した。思い出してしまった。
あの時だ。恋を意識したのは。
私はあの時、人生で初めて……恋をしたんだった。
「殿下……殿、下……っ!あ……あああ……っ!」
ぽたぽたと大量の涙が二つの箱に落ちていく。プレゼントなんて受け取るんじゃなかった。冷たくあしらうべきだった。どうして向き合ってしまったのだろう。どうして、彼の目を見つめてしまったのだろう。カルメンではなく、私だけを見てくれたことを、どうして一瞬でも喜んでしまったのだろう。
先日父上に言った言葉が、精一杯の虚勢であったと、認めるしかない。
異性として、一人の女の子として、殿下のことをお慕いしている自分がまだ生きていたことを、認めるより他になかった。
「どうして……どうして、運命の恋人が、カルメンなんですかっ!!私じゃダメなのですかっ!?殿下をお慕いする資格が、私には無かったのですかっ!?彼女の方が……私よりもそんなにも良いのですかっ!?」
『――僕の婚約者とは大違いだ』
「どうして彼女と私を比べるのっ……!?そんなにも私が憎いというのっ!?……ああ……殿下……!!殿下ぁぁぁ!!」
思考とは関係なく言葉が飛び出してくる。止めようとしても、喉と、胸と、頭の痛みがそれを許さない。心の叫びを全て吐き出すまで止められそうにない。理想の国母を目指すことで覆っていた心の殻は、たった一つの小さな箱によってひび割れてしまっていた。
入学以来、胸に秘めていた痛みを全て吐き出した私は、自分がまだ二つの箱を握り締めていることを思い出す。ハンカチで顔を拭ってから、改めてそれを見下ろした。
「…………一体、何が……入っているのかしら……?」
箱を持つ手が、恐怖のあまりカタカタと震える。だが少なくとも一つは、私に笑顔を与えてくれることが期待できた。まずは、ブレンダが渡してくれた方を開けてみることにしよう。そうすれば二つ目の箱を開ける勇気も持てる気がする。
ふやけた箱の中には、小さな熊のぬいぐるみが入っていた。そして中には小さな手紙が一枚入っている。
―――『何があっても友達だからね!!! あなたの専属メイド候補筆頭より』
涙目のまま笑顔が浮かんだ。この子は出会った時からずっと、傷付いて自暴自棄になりそうになった私を横から支えてきてくれている。私の代わりに私以上に怒ってくれる彼女がいるから、私はまだ政略結婚を捨てることなく、公爵令嬢としての自分を保てているのだ。もし彼女がいなかったら、とっくに嫉妬で狂っていただろう。
「……ありがとう、ブレンダ」
ぬいぐるみを抱きしめると、そこからは不思議と温もりを得られるような気がした。……うん、大丈夫だ。今ならきっと、殿下のプレゼントも受け取れる。
空でもいい。侮辱の手紙でもいい。どんなものでもちゃんと受け取ろう。そうすれば殿下のことを綺麗に諦めることができる気がする。もし中身が決定的な何かだった場合は、たとえ修道院に入ることになったとしても、こちらから婚約を破棄して身を引くことにしよう。
或いは、カルメン嬢には申し訳ないけど、彼女に軽い嫌がらせをして婚約破棄の口実を差し上げても良いかもしれない。怪我をさせず、あくまで私の独断でやったことにすれば、一族郎党処刑とまではいかないはずだ。その方が殿下に正当性を与えることができて、政治的にも好ましいかもしれない。
もう手は震えていない。悲壮な、しかし強い決意を抱いた私は、小さな箱の封印を解いた。
そこに入っていたのは、手紙とすら言えない一枚の紙きれ。恐らくはちぎったノートの切れ端だろう。やはり私に対するプレゼントなどこれが妥当かと妙に納得してしまい、過剰な覚悟が生んだ余裕からか苦笑すら浮かんだ。
だが、そこに書かれていた言葉は、私の想像を遥かに超えていた。
―――『ぼくを しん じて。ぼく■ ■■■■■■ ヴェロニク。 ルイ』
「…………えっ?」
たどたどしく書かれた文字は荒く、異常に大きい上、赤黒い。恐らくペンではなく、もっと粗雑な棒切れにインクではない何かを付けて強引に書いたのだろう。あまりに強い力で押し付けながら書かれたためか、紙の一部には穴が空いている。そして、ヴェロニクという文字の前には、赤黒いものでぐしゃぐしゃと消した跡があった。
一度は収まっていた手の震えが大きくなる。その恐怖は、私自身に向けられた悪意に対するそれよりも、巨大で、拭い難く、かつ深刻だった。
「ま……まさか……!?殿下!?」
不穏な内容に冷や汗が止まらない。こんな手紙、普通じゃないことはすぐにわかる。私の自惚れでなければ、恐らくこの手紙に書かれた言葉は――
「……っ!父上っ!お話がありますっ!!」
――殿下の絶叫だ。
--------
「ルイ様」
「ああ、ヴェロニク」
ルイ様がまたお間違えになった。ああ、なんてことなの。何度教えても、二人きりの時ではいつも名前を間違えて呼ぶのはどうして?
「私はカルメンですわ。あなたの愛するカルメンです」
あなたの妻になる女ですわ。早く覚えてくださいまし。
「……ああ、そうだ。君はカルメン。君は、なんて愛らしく、そして優しいんだ。僕の婚約者とは大違いだよ」
「ああ……!そうです!愛しております、ルイ様!貴方様の流れるような金色の髪も、空色の瞳も、誰にでも公平に優しい仁君の器も、全てです!貴方様に相応しい女になりますわ!心も、身体も、子供も!」
「ありがとう、カルメン。愛しているよ」
「私もですわ、ルイ様!」
感激のあまり抱きついてしまった私のことを、一体誰が責められようか。愛する人から愛を宣告されることの尊さを、誰かが否定することなどできない。身分など全て捨ててもいい!貴方さえ手に入るなら、私は全てを捧げますわ!
「やはり君は、ヴェロニクとは、違うね」
その通りですわ、私だけの旦那様。そう、私はヴェロニク様とは違う。ヴェロニク様よりもっとルイ様を愛しておりますの。お互いに愛し合い、輝かしい未来を共に歩むのです。
……そこに疑う余地は、無いはずなのに。
入学式で出会ってからずっと、ルイ様は婚約者様ではなく私だけを見てくれている。であるはずなのに、何故あなたの目を見るたびに不安を感じるのでしょうか。あなたが名前を間違えるたびに、間違えないでほしいと感じるのと同じくらい、今のあなたのままであって欲しいと願ってしまうのは何故?
ルイ様は本当に私を見ているのでしょうか。
「愛しているよ、ヴェロニク」
本当にこのままでいいの?カルメン・トリュフォー伯爵令嬢。
--------
「こ、これは……本当に、殿下がお前にお渡しになったのか?」
「確かです、お父上」
「馬鹿な……これはまさか、血液で書かれているのではあるまいな……!?」
私は殿下から渡された紙切れを父上にお見せした。お茶汲みのためたまたま近くを通ったメイドが「ひっ!?」という喘鳴と共に失神してしまうほど、その手紙の有様は凄惨を極めている。
「その可能性はあります。ペンの代わりに何かの先端を使い、インクの代わりに血液を付着させ、かなり大きく強引に線を引くことでかろうじて文字を象っているように見えます。理由はわかりませんが、通常の手段で手紙を書くことが困難な状態にあるのでしょう」
「お前は……!?」
「申し訳ありませんが、今は何も言わず、私の話を聞いてください」
青ざめるメイド達を無視して、状況の整理に努める。今は我が身の不幸を嘆いている時ではないのだ。今一番お辛いのは、殿下にほかならないはずだから。
「口頭で状況を伝えてこないことから、私を含めた周囲に対する意思伝達に関する部分を強力に制限、または強要されているのだと思います。ペンもインクも使えず、紙きれに単語を並べるのが精一杯なほどに。脅迫だけでは不可能でしょう。魅了魔法か、あるいは呪いか――」
法務省を統括する父上は、たとえ罪人が友であろうとも法の下の平等を厳守して罰を数える様から、冷静を超えて冷血に例えられているほどの堅物だ。その父上ですらこの手紙には激しく動揺し、私の言葉を遮ることができずにいた。
「――いずれにせよ父上、これは殿下に……いえ、王家に対して何か良からぬ攻撃がされていると見るべきです。まずはこの手紙の中の、乱暴に消された文字を解析するべく、王城の鑑定班に回すべきかと。それと影たちに対して改めて、最近の動向について詳しく報告させる必要があると思います」
少しでも早く殿下をお救いしたいが、焦ってはいけない。まずは事の真相を明らかにしないと犯人を裁けない。大丈夫……殿下を害するつもりなら、とっくにそうしてるはずだ。
私が自分でも驚くほど冷静なのは、為すべきことが明確であるためか、それとも父上の血がそうさせるのか。あるいは普段冷静な人が動揺している時程、隣の人間はより冷静になるという、それだけのことかもしれない。
「……すまない、いくつか確認させてくれ。この手紙を渡してきたことを証明できる人間はいるか?」
「私の友人であるブランディーヌが証人になれます。ただ友人である以上第三者とは言えず、身分が低いので強要を疑われるかもしれません。恐らく裁判所の証言台に立てる見込みは薄いと思います。それでも状況を整理する助けにはなるはずです」
「だがその場に居合わせたなら、その友人の身が危険だな。すぐにでも我が屋敷に迎え入れて保護する。身分は?」
「平民」
敢えて間髪入れずに即答したが、父上は眉一つ動かさなかった。
「なら学生寮で呼び出せばすぐだな。家族へも事後報告で良いだろう。使いを出すから、今日からしばらくこの家でお前が面倒を見なさい。登校する際も同じ馬車を使え。それと二人には影とは別に、専属の護衛を秘密裏に付ける。以後はなるべく二人離れずに行動しろ」
私は何度目かわからない衝撃を父上から与えられた。意外なことに、父上は私の友人が平民であることに嫌悪するどころか、むしろ好都合だと感じているようだ。ただ呼び出す手間を確認しただけらしい。
「よ、よろしいのですか?」
「当然だ。大切な友人なのだろう?」
これもまた即答だった。平民だと知ってなお、娘の友人なら保護して当然だと即断できる貴族など、この国に何人いるだろう。多分、私でも難しい。よほど娘のことを信じていない限りは。
――私は今まで父上のことを見誤っていたのかもしれない。実のところ私は父上のことを、政略を最優先する冷たい人だと思っていた。だが、目の前にいる人はそんな冷たさからは対極にある。ただ娘とその友人を案ずる、一人の父親にしか見えない。
この一件が落ち着いたら、二人きりで過ごす機会を作らせてほしい。私は父上のことを知らなさ過ぎるようだ。
「もう一つ。お前はこの消された文字の内容に心当たりはあるか?」
「おそらくはぼくのカルメンと書かれていたのでしょう。入学式以降、違和感を覚える程、殿下が夢中になっている女の名前です。……が、これは私の強い願望と、希望的観測が色濃すぎると思います。消された文字についてはプロの鑑定班に任せて、私達は彼女と殿下に関する情報を集め、補強するのが良いでしょう」
「そうだな」
カルメンが犯人であってほしいとは思っている。その方が物事が単純に進むからだ。王家に直接害を成した罪で本人を断罪して、一族郎党の処遇は隣国の責任で処理させればいい。いや、精神操作の痕跡程度なら、王家が殿下を精密鑑定すればすぐに見つかるだろう。もしカルメンの魔力が感知できれば、それで犯人探しは終わりだ。
だが仮に犯人を即決裁判で処刑したとしても、最大の問題が残ってしまう。それを今日手紙を読んだばかりの父上が掬い上げた。
「いずれ精神操作か抑圧する類の魔法や呪いを殿下に使用しているのだと思われるが……これを解かずに犯人を処断するのは危険だな。魅了魔法なら術者の魔力を断てばすぐ解けるが、呪いは術者が存命中でなければ解くことはできず、むしろ死した後にこそ強固になると聞いたことがある。……とにかくまずは殿下の体をお調べしよう。話はそれからだ」
「ありがとうございます」
「お前は今後もこれまで通り過ごす傍ら、殿下の様子を見守れ。何か解呪に役立ちそうな事柄が見つかった場合は私に報告しろ。ただし、直接的な接触は危険だから可能な限り避けるのだぞ」
近寄りがたい印象ばかりが強かった父上が、これほどまでに頼もしく見えたのは、これが初めてかもしれなかった。
「うわあ…こ、これが本物の公爵邸!?広っ!?天井高っ!?」
「ブレンダ。はしゃぐのは父上にご挨拶した後にしてもらえると、私も紹介しやすいのだけれど」
「あ、ごめん!……くださいませ?うぅー敬語って苦手なんだよねー……」
まだブレンダは気付いていないようだが、二階の端から見ていた父上の頬が引き攣っていた。なんか、ごめんなさい父上。
「まあでも、これもインターンシップだと思えば悪くないかもね!なんせ私はヴェロニク専属メイドを目指す将来有望な才女ですから!いずれこの屋敷で働くかもしれないことを考えれば悪いことではないわ!」
だけどこうして私を笑わせようとしてくれるのは、今はブレンダだけなのです。お許しください。
「ふふっ……随分と賑やかな才女もいたものね。さ、父上が先程から白い目で見ているわ。貴方を紹介させてね」
「ふぇ!?あ……ご、ごめんなさいまし……」
とにかく、これでブレンダの安全は確保できた。明日からは殿下を縛る何かを解くべく、動かねばならない。
待っていてください、殿下。必ず私がお救いいたします。
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「ルイ様、また周囲の方々が私達のことを睨んでいますの……だけど許してあげてくださいまし。きっと皆様は私たちのことが羨ましいだけで、悪意は無いと思いますから」
「ああ、かわいそうなカルメン……そしてなんて慈悲深いんだ。僕の婚約者よりもずっと器が大きいね。心から君を愛している」
「ルイ様……!今私はとても幸せです!」
その日から私は、殿下たちの様子を見て心を痛めつつ、王立図書館に貯蔵された魔術関連の本をひたすら読みふける日々を送っていた。解呪についてはプロに任せるにしても、私も犯人の手管について予備知識として知っておくに越したことはないからだ。積極的な干渉には否定的な父上だったが、その点には賛成してくれた。
ブレンダも手伝いを申し出てくれたが、肝心な古代文字を読むことができず、本の中身が理解できなかった。そこで他生徒に対する聞き込み調査といった、間接的な手伝いだけをしてもらっている。
その調査開始から数日後の夕方。ブレンダが私に聞き込み調査の報告をしてきた。
「やっぱりっていうか、私達が見てないところでも二人はイチャイチャしてるみたいだよ。一度帰り道を追ってみたけど、ずっと愛を囁きあってるみたいだった」
「……そうなのね。他には何かわかった?」
「うーん……あ、何かにつけて最後は僕のヴェロニクとは違うねって付け加えてるよ。失礼な話だよね」
それは私が最も心抉られる言葉であると同時に、入学後に最もよく聞く言葉だった。当然気付いてないわけではなかったが、見ていないところでも私と比較し続けていると知るのは、なかなか辛いものがある。
だが殿下が精神操作下にあるとするなら、この言葉にはそれ以上の意味がある。同じフレーズを言い続けているというそれ自体が、殿下に掛けられたものの正体を浮かび上がらせるからだ。
「こうも何度も同じことを言わされているのだとしたら……強力な魅了魔法に掛けられている可能性の方が高いわね」
まず魅了魔法は対象を術者が希望する感情に誘導する作用がある。一番簡単なのは無条件の好感を持たせることで、新興宗教の教祖が洗脳とかによく使うらしい。
あるいは昔、転生者と呼ばれる者達が強力な魅了魔法を無意識に周囲へ放ち続け、結果として魔王すら娶ったという驚くべき記録も残されてはいる。だがこちらは山を動かしただの、海を割っただのと言った荒唐無稽な記録も混ざっており、真実味が薄い。
今存在するかもわからない転生者のせいにしていたら何でもありになってしまうので、今は考慮しないでおくのが無難だろう。
さて、カルメンがどれほどの魔法技術を持っているかは不明だが、手紙をまともに書かせないほどの制限を加えた魅了魔法ともなれば、協力者がいるにしても相当卓越した使い手だ。脅威ではあるが、その分かなり犯人を絞り込めるだろう。魔法であれば魔力供給源である術師を潰せば解けるので、対処もしやすい。
一方で呪いは、術者が希望しない行動を封じることに特化している。封じられる範囲はかなり広く、動作や思考、記憶や感情に至るまであらゆるものに干渉することができる。また、魅了魔法のように対象を操作することは困難だが、術者の命を大幅に削るような代償さえ払えば不可能ではない。
そしてこちらは魔力は必要とせず、禁忌とされる儀式さえ間違えなければ誰でも使うことができる。だからこそ禁忌なのだ。
「……呪いの方だとは思いたくないわね」
呪いが作用する対象は、相手の魔力ではなく魂そのもの。魔力を血液に例えるなら、魂は心臓に例えられる。そして魂に直接働きかける時、呪術をかけた本人にも同等以上の代償が伴うという。そして呪いを解く方法は、基本的に術者にしかわからない。
殿下に掛けられた制限の詳細はわからないが、少なくとも日常生活は送れないほどの代償は支払う必要があっただろう。殿下にまともな手紙を書けないようにした時点で、術者もペンや食器を握れなくなっているはずだ。
「多分、術者の方も生きていたとしてもまともな状態とは思えないわ。そうしたら殿下の呪いを解く方法も聞き出せないかもしれない」
それにしても……考えただけでも恐ろしい話だ。自分にも相応の苦しみが伴うというのに、それでも陥れたいと思うほど、人は憎しみに生きることができるということなのか。
思考の海にさらわれた私を、ブレンダの声が拾い上げた。
「ねえ、ヴェロニク。魔法だか呪いだか知らないけど、本心で思ってないことも喋るもんなの?王子様が言ってることって、全部言わされてることなの?」
「ブレンダ……」
……それは……わからない。少なくともカルメンは殿下の寵愛に満足そうにしているが、それが自慰によるものなのか、あるいは計算外の睦言に対する喜びなのか。
前者と断ずるには、あまりにも純粋に喜んでいるように見える。だがもし後者だとすれば……もしも殿下の言動が、カルメンにとっても予想していないものだとしたら、殿下のお心は既に私から――
「もうやめない?なんだか真実を知ったところで、ヴェロニクが傷付くだけに思えてきたよ。私、これ以上ヴェロニクが傷付くのを見たくないよ。あんな人放っておいて、新しい恋を探すのもいいんじゃないかな?公爵令嬢なら、引く手あまたじゃない」
ブレンダの気遣いが胸に沁みる。だけど……。
「……いいのよ。どういう結末になろうとも、私は受け入れるつもりなの。それにもし新しい婚約を結ぶにしても、今の気持ちにけじめをつけてからじゃないと前に進めないわ。だから貴方も、悪いけど最後まで付き合って頂戴ね」
「……うん!」
そうして大小さまざまな情報が集まってきた頃、事件は起きた。
カルメンが殿下に魅了魔法をかけた件で、憲兵へ自首してきたのである。
--------
「ルイ様」
「なんだい、ヴェロニク?」
今日もルイ様はふたりきりの時だけ私をヴェロニクと呼ばれる。学園ではいつも心震える程の愛を囁いてくださり、ヴェロニク様とは違うと認めてくださっているというのに。
「私は、カルメンですわ」
「ああ、カルメン。すまない。こんなにも優しく、愛らしい君の名前を間違えるなんて。君は――」
「――僕のヴェロニクとは違うのに、ですか?」
先日、ルイ様がヴェロニク様に何かを手渡していたのを見た時から、ずっとモヤモヤしたものが胸から離れなかった。あの日、入学式でルイ様が私に夢中になってから、そんなことは一度も無かった。
いつだってヴェロニク様ではなく私を見てくれていたし、ヴェロニク様を見ようとはしなかった。まるでヴェロニク様のことが見えていないかのように。
だから私の魅了魔法は完璧に効いているのだと疑わなかった。ルイ様はもう私だけのものだと、そう確信していましたのに。
それなのに、どうして、それを私自身が信じられなくなってきているのでしょう。
……ううん、違う。そうじゃない。きっと、そう思いたかっただけだったのでしょう。
「……申し訳ありません。本当は私も最初からわかっていたんだと思います。だけど、ルイ様が……いえ、殿下が私だけを見つめてくれるのが嬉しくて、本当に嬉しくて、認めたくなかったんです。私のことだけを愛してくれているんだって、そう信じたかったんです」
「カルメン?なんのことだい?」
……ルイ様が私を見つめる時、その瞳はいつも遠くを眺めていらっしゃる。私じゃなくて、私に他の誰かを重ねて見ているのはなんとなくわかっていた。そしてそれが誰なのかなんて、いくら頭の良くない私でもわかりますわ。
私の魅了魔法は、最初から成功していなかったのでしょうね。だって私の拙い魔力で、こんなにもルイ様を理想的な姿に縛ることなんて、できるはずないんだから。
きっとルイ様は、この先もずっと僕のヴェロニクとは違うと言い続けてくれるに違いありません。だけどきっと……私の一生をかけたとしても――
――僕の恋人とは言ってくれないに、違いありませんわ。
「殿下。もうやめにしましょう。恋人ごっこをするには、私では力不足です」
「……ヴェロニク?」
「私はヴェロニクではありません、殿下。どうかこのカルメンに嘘偽りなくお話しください。殿下は……殿下の目には――」
ああ、神様。どうか愚かな私をお裁きください。そして――
「――私のことが、ヴェロニク様に見えているのですね?」
殿下を歪めた者に断罪を。
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カルメンは殿下と共に自ら王城へ下り、準誘拐と傷害の容疑で牢に繋がれることとなった。そして取り調べの中で、彼女は殿下に行ってきた罪について落ち着いた様子で自供すると同時に、自分の魅了魔法は失敗しており、魅了魔法に掛かっていないにも拘らず殿下が自分に傾倒した本当の原因は、彼女自身にもわからないと主張したという。
「では、彼女は未遂だったのですか?」
「一応魔法による暴行未遂として処理されるだろうな。カルメンの魔力量を測定したところ、殿下の行動を縛るほどの魅了魔法を扱うには明らかに魔力不足だった。自供の内容に矛盾はないし、正直に話していると見て、ほぼ間違いない」
王城の魔道士たちの測定精度は、民間のそれよりも遥かに正確とされている。その結果を疑うことなど不可能だ。
「まあ、当面の罪状としてはそうなるということだ。王族に対する攻撃は未遂であっても罪には違いないが、当人に罪の意識が強く、監視中も特に危険な兆候や企みが見られなかった点から、死罪にはならないだろう」
……良かった、と思っていいのだろうか。少々複雑な気持ちだが、確かに殿下に対して危害を加えたり、私に対して悪意ある言葉を投げたりしたことは一度も無かった。彼女としては、殿下の愛を一身に受けたいという、ただそれだけだったのかもしれない。それならば魔法に関して罪を償ってくれさえすれば、私から言うことは何もない。
しかしそのカルメンが犯人じゃないとすると、一体誰が……?いえ、それよりもまずは。
「殿下は無事なのですか?」
「左腕の一部に切り傷があった。カルメンもそのことを知らなかったようだから、恐らく例の手紙を書くときに傷付けたのだろう。そしてもう一つ、こちらがより重大なのだが……強力な呪いが掛けられていることがわかった。魔術班が解呪を試みているが……かなりの代償を払った強力な呪いらしくてな。無理に解くと殿下の魂に過度な負担が掛かる恐れがあり、手が出しにくい状況だ」
呪い……!?強力な魅了魔法ではなかったの!?では、では、今までカルメンに対して愛を囁いていたのは、強制ではなく、本心から――
大きく震え始めた私の肩を、父上の手が温めてくださった。
「待て、ヴェロニク。結論を急ぐな。殿下にお前のことを尋ねても、溺れるように喘ぐばかりで何も話せなかった。殿下の魂がかなり広範囲に、そして深く縛られていると見るべきなんだ。まだお前から心が離れたと見るのは早いぞ」
どうやら思っていたことが口に出ていたらしい。乗せられた手の温かさが、ほんの少しだけ冷静な部分が戻してくれた。ブレンダがこの場に居なくてよかった。いくら親友とはいえ、これを見られるのは恥ずかしい。
「……そうだ。消された手紙の文字の件なのだがな」
私の心境を気遣ってくれたのか、父上は別件を報告し始めた。最近の親心に触れるたびに、婚約を決めた父上に逆恨みしていた自分の矮小さが恨めしくなる。
「何かわかったのですか?」
「消された文字はカルメンではなかった。いや、そもそも消されたのは人名じゃなかったんだ」
父上の手には、私が預けた手紙。そしてそこには、筆跡から予測された文字が注釈されていた。
そんな……こんなことって……!?
「殿下を信じるんだ。戦っているのは、お前だけではない」
その手紙には、恐らく呪いの縛りによって、書いてる最中に意図せず消してしまったのであろう一言。
『ぼくは きみをあいし――』
私への愛の告白が、書きかけで消されていた。
「ああ……殿下っ……!!……ごめん……なさい……!殿下……!私……私……殿下の……ことを……!!」
私は自分こそが悲劇の主人公だと思っていた。一番殿下を信じていなきゃいけない身でありながら、殿下のことを疑っていた。なんという思い上がり、なんという浅ましさだろう。
私が知らなかっただけで、殿下もまた戦っていたというのに。
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「お疲れさまでした、殿下」
検査で疲れた僕に、ヴェロニクがハーブティーを持ってきてくれている。このヴェロニクは、多分侍女の一人だろう。
「ああ、ありがとうヴェロニク。君は僕の婚約者とは違うな」
困惑の表情を浮かべつつも、満更でもなさそうな表情をした彼女は、丁寧に頭を下げるとそのまま退室していった。
……あれがヴェロニクじゃないことなんて、わかっている。他のヴェロニクに対して、僕のヴェロニクと比べている異常さだって、うんざりするほどわかっているのに。この顔が、この体が、この声が、ヴェロニクの姿をした女達を求め、比較して止まない。
女性が皆ヴェロニクに見えるのだ。冷静に見えて情熱的で、物事を俯瞰しているようで一途な、僕だけをまっすぐに見つめてくれる、初恋相手のあの子に。そして最後に僕はこう締めくくるのだ。ヴェロニクの姿をした女に対して、「僕の婚約者とは違うね」と。
気が狂うかと思った。いや、すでに狂っているのかもしれない。狂っていなければ、今日まで正気でいられるはずがない。
今日まで生きてこられたのは、実のところカルメン嬢のおかげだった。純粋で独占欲が強く、学園でも他者に見せつけるように接してくれていた彼女のおかげで、結果として他の令嬢とは距離を離すことができた。学園で2人以上のヴェロニクから話しかけられないでいられたのだ。
僕に駆け寄ってくるヴェロニクがカルメン嬢であると確信できることが、皮肉にもおかしくなった僕の心の支えだった。
不特定多数の女が、それこそ年端も行かぬ童女ですら幼き日のヴェロニクに見える中、彼女とは全く違う態度で一貫してくれたカルメン嬢が傍らにいてくれたからこそ、僕に諫言する本物のヴェロニクを見失わずに済んだのだ。もし彼女がヴェロニクに成り代わろうと考えて接してきていたら、間違いなく僕は狂死していただろう。
最終的に僕の呪いを自力で看破し、正道を選んだカルメン嬢は、ある意味で僕の理解者と言えるかもしれない。この呪いが解けたら、セザンヌ公には寛大な処置を願い出たい。
だが……この呪いが解ける日など来るのだろうか?この手で本物のヴェロニクを抱き、変わらぬ愛を約束できる日など、本当にやってくるのだろうか。
「ヴェロニク……愛している……愛しているんだ!!君のことを誰よりも、ずっと昔から……君だけを……!」
なのに、なのにどうして、僕の体は本物のヴェロニクを拒絶してしまうのだ。慕う彼女を悪し様に蹴散らし、愛の言葉を捧げることを許さず、好きでもない女を彼女と比べるのはどうしてだ……どうしてなんだ……!?
「ああっ!ヴェロニクっ……!すまない、本当に……すまない……!必ずやこの呪いを打ち破って、君に愛の告白をする!君が望むなら僕の首を捧げても構わないから……!だから、頼む……!待っていてくれ!行かないでくれっ!離れないでくれっ!僕を見捨てないでくれっ!君を愛することを許してくれっ!!ヴェロニクぅー!!」
片羽をもがれるような思いが喉を裂き、目を潰すような絶望が心を刺す。情けない男の嗚咽が、高貴な部屋の中に響いた。
僕の限界は、もうすぐそこまで来ているのかもしれない。
--------
「落ち着いたか?」
「……はい。ありがとうございます、父上」
「では、話の続きをしよう。まだ話さねばならないことがあるからな」
私がひとしきり泣き終えたのを確認した父上は、法の番人としての顔を取り戻した。私も気持ちを切り替えなくてはならない。
「殿下のご様子が変わったのは、入学の日のいつからだ?可能な限り詳しく思い出せ」
「確か……新入生代表の挨拶を終えた時には、すでに様子がおかしかったと思いますわ。壇上から私を見て、その……舌打ちをしていましたから」
あの時は信じられなくて、見間違いかと思っていた。……ううん、まだうつむくな、ヴェロニク。今は客観的事実へ向き直ろう。
「入学式の日は、朝からほぼ殿下と過ごしていました。登校する際は昔のお優しい殿下だったと思います」
「……でかした、ヴェロニク。これで術者をかなり絞り込めるぞ。これほど強力な呪いであれば、ある程度まとまった時間、対象に触れる必要があるからな」
父上の目に冷たい光が宿った。それは罪人をギロチンにかけるための書類に向き合う時の輝きと同じで、あらゆる感情を排除したことを表している。
「入学式が始まる前にほぼ全員が衣装替えをしているだろう。恐らくその更衣中に呪いをかけられたに違いない。つまりその時間に殿下と同じ部屋にいた人間が、術者である可能性が高い」
確かに、あの日は私も他の令嬢と同じく式典前の更衣を行っていた。それはあのカルメンも同様だったはず。
「では、殿下お付きの侍女達の一人でしょうか」
「十分にあり得る話だ。当時の侍女全員に対して取り調べを行うことにする。だがなヴェロニク――」
父上の目と声色にギロチンを思わせる鋭さが伴った。あくまで一人の人間として、あくまで法を守る者としての強さと冷たさを象徴する鋭さ。
かつて友を断頭台にかけた日と、同じ冷たさだ。
「侍女以外にもあの日、自由に動けた人間がいるだろう。その者が侍女に紛れて更衣を手伝い、接触して呪いをかけた可能性も同様に高いと思う。いや、むしろ外部の犯行と見る方が妥当だ。仮に侍女がやったとして、動機が考えられないからな」
当時自由に動けた人間……?新入生は全員更衣していたのだから、先生の中に術者がいると言っているのだろうか?でも先生たちも当時は式典の進行で忙しかったはずだし、仮に途中で抜け出したなら他の同僚が気付くはずだ。
「鈍いフリはやめろ、ヴェロニク。お前が先に気付いていたはずだ」
だけどそんな考えこそ、現実逃避だったのかもしれない。絶対にありえないと思い込みたくて、ここにあの子がいない理由さえも考えないまま棚上げしてたものだから、父上に言われるまで可能性の一つから外し続けていたんだ。
「平民だよ。平民の特待生だけは金銭的事情を考慮されて、制服による出席が認められているからな」
親友の可能性を。
--------
「ヴェロニク、こんな時間にどうしたの?」
その日の晩、私はブレンダを屋敷の広間に呼び出した。部屋の壁には数人の護衛兵……学園で私達を見守ってきた王家の影達が並んでおり、有事の際は私の身を護るよう父上に指示されている。
「こんな夜中にごめんなさい、ブレンダ。どうしても今晩、あなたと話したいことがあったの。大事な話なのよ」
理由は言うまでもない。彼女が、殿下を洗脳した犯人である可能性が高いからだ。当然のことだが、父上からは二人だけで会うことには強く反対され、すぐにでも憲兵に拘束させると言って引かなかった。それは法の番人としての冷たさであると同時に、父として娘の安全を護ろうとする温かさでもある。
それでも、私は譲らなかった。だって、私はブレンダの――
「――ねえ、ブレンダ。あなたは私の親友よね?いちばん大切な友達……なのよね?」
違う。しっかりしろヴェロニク。そんなことを聞きたいんじゃないでしょう。ちゃんと確認するのよ。あなたが犯人なの?と。
「……?もちろんだよ、ヴェロニク。何があっても私はあなたの味方。どんな敵からでも守るわ。学園を卒業したら、あなたの専属メイドになるのが私の夢なんだから」
……ああ、嬉しい……本当に嬉しい。こんなにも裏表なく、正面から私の友達であることを宣言してくれる。身分差があってもなくても関係無く、この子は私にとって一番の友達だって、自信を持って言える。
「……私もよ、ブレンダ。あなた以上の友達なんて、この世界にはいないわ。殿下でさえ、最高の旦那様にはなれても、あなた以上の友達にはなれない。きっとこれからも、あなたは……私にとって一番の、唯一無二の親友だわ」
そう、生まれてはじめてできた、最高の親友。私の半身。
『大丈夫?あの人、あなたの恋人?』
『……婚約者ですわ。あなたは誰?』
『私?私はブランディーヌ!平民よ!是非ブレンダって呼んでね!ほら、これで涙を拭いて!話ならいくらでも聞いてあげるからさ!』
いつも一番辛い時にあなたは現れ、私のことを支えてくれた。
『き……緊張したぁー……!ていうかあれ何!?あれが王族のオーラなの!?よくあんな人と結婚しようと思えるね!?』
『オーラとは……?子供の頃から一緒だから、気にしたことなかったわ。それに、本当はすごく優しくて思いやりのあるお方なのよ』
殿下に心無い言葉を投げかけられた時も、無視された時も、いつだって傍にいてくれた。
『ねえ、ヴェロニク』
『なにかしら?』
『相談なんだけどさ……卒業したら、あなたの専属メイドになりたいんだけど、駄目かな?』
あなたという希望があったから、絶望の中でも挫けないでいられたの。
だから……だからこそ。
「お願い、ブレンダ。一度しか聞かないわ。たとえそれが嘘でも、私はあなたを信じるから。父上からも、王家からも、私があなたを守るから。だから……答えて頂戴」
「……」
せめて私の手で。
「入学式の日に、殿下を呪ったのは……あなたなの?」
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沈黙が広間を支配した。あまりにも静かで、あまりにも息苦しい。まるで水の中にいるかのようだ。
笑ってほしい。笑い飛ばしてほしい。可能性の1つでしかないのだ。もしあなたが否定したら、侍女の一人を冤罪で犯人に仕立て上げてでも、あなたを守ってあげたい。あなたが私と殿下の敵だなんて、考えたくもないの。
お願い、ブレンダ。笑って。いつもみたいに。
「……そっかあ。まあ、そりゃバレるよね」
…………嘘、でしょう?
「だってさ、あの時に呪える人といったら、あのメイドさんたちか、着替えなくてもいい平民だけだもんね。でもあの時しかタイミングが無かったんだよ。ルイ王子に近付けるタイミングも、カルメンに会わせるタイミングもさ」
自分から疑ったのに、彼女の自白が信じられない。嘘だ。嘘であってほしい。私はただ、泣きながら頭を振ることしかできなかった。
「いや……!そんなことって……!?」
「ごめんね、ヴェロニク。あなたの予想通り、私がやったんだ。私が殿下に呪いをかけて――」
「嫌ぁっ!嘘よっ!!優しいあなたがそんなことするはずがないわ!!お願いよっ!!嘘って言ってぇ!!」
耐えきれなかった私は、ブレンダに抱きついた。危険を感じた護衛兵達が身動いで、鎧がこすれる音がする。
「友達でしょ!?親友じゃないの!?どうしてそんなこと言うのよ!!なんでこんなことを!!」
「……ごめんね?」
ブレンダは力なく笑っている。まるで、この日が来ることをわかっていたかのようだ。
「ねえ、ヴェロニク。転生者って、知ってる?」
それは、私が図書館で調べ物をした時に見つけた、荒唐無稽な伝説の人物たちだ。
「っ!?まさか、あなたが!?」
「そう、転生者なんだ。元だけどね。私ね、入学する一年前に熱が出たの。そして次の日から急に色々な知識が頭に舞い込んで来たんだ。異国のことわざ、文明、そしてゲームの攻略情報。それは私の前世の記憶……ヴェロニクは信じられないだろうけど、この世界は前世のとあるゲームとそっくりなの」
彼女の言葉が、全然頭に入ってこない。だけど……そういえばこの子は、入学したときから今日まで、時々私が知らない言葉を使っていた気がする。
『さくっと別れちゃえばいいのよ!立つ鳥跡を濁さずって言うでしょ!』
『まあでも、これもインターンシップだと思えば悪くないかもね!――』
あれは、彼女の前世の記憶から出た言葉だったのか。
「前世の私は、死ぬ前にその恋愛乙女ゲームを何度もプレイしてたの。そのゲームの中の悪役令嬢、ヴェロニク・セザンヌが大好きだったんだ。浮気する殿下の恋を成就させるために、自らを悪役に仕立てて婚約破棄の口実を作ってあげるくらい献身的な人だった。……友達になるなら、こんな人が良いなって思ってたんだ。彼女が破滅するたびに、私なら裏切らないのにって、ずっと思ってた」
ゲームだとか、悪役令嬢だとか、聞き覚えのない単語が多くて混乱しながらも、私はブレンダの言葉を黙って聞き続けた。黙って聞くことしか、できなかった。
「だけど、同じくらいメイン攻略対象のルイ王子のことが嫌いだったの。だってヴェロニクみたいな素敵な女の子が横にいるのに、主人公とかサブヒロインのカルメンに心移りして、ヴェロニクの演技にも気付かないまま彼女を断罪しちゃうんだよ?しかも、その後は何も知らないまま主人公と幸せな余生を過ごすの。許せないって思ったんだ。所詮ゲームなのにね」
いつも殿下から目をそらしていたから、ブレンダは殿下のことが苦手だと思ってた。だけど、それは少し違ったらしい。あまりに嫌悪感が強すぎて、直視できなかったんだ。
「……とんだクソゲーって思ってたよ。まあ、そのゲームの主人公が私なんだけどさ」
一つ一つ、ささやかな違和感が解消されていく。彼女しか知り得ない情報が出るたびに、ブレンダが術者であることの説得力が強くなる。口の端が自嘲に歪むブレンダは、今にも泣き出しそうだった。
「ヴェロニク。私が殿下に掛けた呪いは、3つあるんだ」
さらりと衝撃的な真実を告げられて、私だけでなく周囲の兵までもが顔を青くした。
「3つ……!?1つでも危ういというのに、どうやって!?」
「まず1つ目は、他の女がヴェロニクにしか見えなくなる呪い。殿下の女性に対する認識を縛ったんだ。代償は、術者が人間を認識できなくなること。見えてても人間だってわからなくなるんだ」
やはり、呪いの代償はかなり大きいようだ。だが、いきなり矛盾が生じている。ブレンダは私を認識しているじゃないか!?
「2つ目は、好きな人に真意を伝達できなくなる呪い。言動を縛って、好きなのに嫌いって言わされたり、時には何も言えなくなったりするんだ。嘘つきになるって言えばわかりやすいかな?代償は、術者も意思伝達できなくなること。誰にも、何も伝えられなくなるんだ」
私が矛盾を感じていることに、ブレンダ自身もとっくに認識しているはずなのに、ブレンダは話すのをやめない。鬱々としてるのに晴れやかな、全てを諦めたこれと同じ顔を、私は一度だけ見たことがある。
断頭台にかけられた父上の友人が、父上に詫びた時と同じ顔だ。
「そして3つ目は、求愛の強要。常にヴェロニクの顔をした誰かを愛さずにはいられなくなる。その際必ずヴェロニクと比較させることで、ヴェロニクを裏切ったことを忘れさせないんだ。代償は……術者の魂そのもの。もう、支払えるものが残ってなかったからね」
「そんな……ありえないわ!!だってあなたは生きているじゃない!!一体――」
「言ったでしょ?元転生者だって」
泣きながら笑うブレンダは、自身の胸に指を這わせた。
「捧げたのは私の体に転生してきた者、ルリ・キタモトの魂。私は転生者の知識だけ受け取って、彼女を葬ったのよ。望んだのは……彼女自身だったけども」
まるで、墓標を撫でるかのように。
「ゲーム中に死んで転生した彼女だったけど、もうあの子は生きることに疲れてたんだ。だから私と混ざる前に全部託して、眠ることを選んだの。……あの王子に最初から私以外の誰かに浮気させて、先に破滅させてやろうと考えたのもあの子。私もルリに賛同してそれに乗っかったって訳。そうすればその後は、私があなたを支えられるでしょう?」
「何を言ってるのよ……馬鹿なこと言わないでッ!!」
「――っ!」
ここにきてようやく衝撃から立ち直った私は、それでも黙って聞いているつもりだった。これが友達と話す最後の機会になるなら、いっそ遺言だと思って全部受け入れてあげるつもりだった。何を言っても許してあげようと思った。
だけど……できない。そんな聖女様みたいな優しさは私には持てない。たとえ処刑が決まっている友人だとしても、許せないことを言ってたら言い返さないといけない。友達なら……ううん、友達だからこそ、時にはちゃんと怒って喧嘩してでもぶつからないといけないんだ。
だから……最後の喧嘩をしよう。ブレンダ。
「勝手なことばかり言わないで!そんなことしなくったって、私はあなたと仲良くなれたわ!殿下のお心があなたに移ったところで、それが親友のあなただったら納得するわよ!何が破滅よ!私が好きで破滅して何が悪いのよッ!!」
「なっ……!?そ、そんなの今の殿下が私の方を向いてないから言えることでしょ!殿下の浮気相手と友達になれる訳ないじゃんか!?カルメンが私だったら、ヴェロニクは友達になれたの!?なれるわけないよ!!」
「なれるわよ!!絶対になれる!!いつも私を笑わせてくれて、辛い時にもずっと一緒にいてくれた、素敵なあなたのことを嫌いになる訳がない!!あなたとだったら、私は殿下の浮気相手でも友達になれるわよ!!」
「簡単に言わないでよ!!その辛い思いをさせたのも私なんだって言ってるでしょ!?攻略情報を知らないからそんなことを言えるんだよ!!ヴェロニクのそれはっ!!」
自分が何を言ってるのか、ブレンダが何を言ってるのか、もうよくわからなかった。きっとブレンダもそうだろう。それでも、これだけは言わないといけない。もう、理屈じゃないんだ。
「ええ知らないわよ!!ゲームだか攻略情報だかなんだか知らないけど、そんなこと私が知る必要はないわ!!だってあなたは、気に入らない末路を知っててそのとおりに動くような、つまらない女の子じゃないでしょ!?」
「……っ!?」
私の襟首を掴む手が緩んだのを感じた。逆に力が入った私は、ブレンダと鼻がくっつきそうになるほど引き寄せて一気にまくし立てる。
「浮気する殿下に対してガツンと言ってやるんじゃなかったの!?あれはあなたの本心でしょう!!だったら自分に浮気してきた殿下に言ってやればよかったじゃない!!この浮気者って!!それでお終いよ!!その後は殿下が何を言ってきたって私が全部守ってあげたわよ!!」
「そ……んな……!?」
いつの間にか、二人共泣いていた。泣きながら怒ってた。自分が正しいと思ったことを、正しいかどうかさえ考えないまま、怒鳴り合い、掴み合っていた。
「私をもっと信じなさいよ!!あなたの親友を見くびらないで頂戴!!」
広間中に響く怒声は、ビリビリと空気を揺らした。
「…………ごめん……っ!」
この手に落ちる涙の冷たさを、私は生涯忘れることはないだろう。きっとこの先、親友を泣かせることなんて二度とないに違いないから。
「ごめん、なさい……ヴェロニクっ……!!私……っ、間違ってたんだね……!!」
「ブレンダ……っ!!……この……馬鹿ぁ!!」
私達はもうそれ以上何も言えず、ただ強く抱きあいながら泣いた。泣いて、泣いて、泣き続けた。
--------
私は一人、殿下の部屋の前に立っていた。中からは殿下のすすり泣く声が聞こえてくる。
ブレンダは騎士たちに連行される前に、呪いの解き方を教えてくれた。
『ルリの魂はもう無いけど、術者は私だから処刑される前なら呪いは解けるよ。解き方は……殿下が一番望んでいることを、ヴェロニクがしてあげればいい。ヴェロニクが本当に殿下と結ばれたいならそうさせてあげようって、そう思ってたんだ』
『殿下の望み?それは一体……』
『それはヴェロニクが気付かないと駄目。私から言われたからじゃなくて、心から殿下のためにしてあげないと意味がないの。でも……ヴェロニクならきっと大丈夫』
『ブレンダ……』
『だって私が自慢できる一番の親友だもの!』
深呼吸を一度だけして、覚悟を決めた私は部屋の扉を開けた。部屋の中には明かりが一つもなくて、わずかな月明かりだけが部屋を照らしている。
目が慣れた頃、奥で殿下がテーブルに伏せながら泣き続けているのが見えた。いつから泣いているのかはわからないが、ベッドや調度品が乱れているのを見るに、もうかなり長い間錯乱していたらしい。
「殿下……お久しぶりです」
「……ヴェロ……ニク?」
私を見つめる瞳は、ただ空虚だった。ひと目見ただけでは正気が残っているかどうかすら疑わしい。
「……お前は……誰だ?何をしに来たんだ……また侍女の誰かが、体でも開きに来たのか……?ふ……ふはは……愚かな女どもが……お前らがヴェロニクであるものか……」
恐らく、ヴェロニクとは違うと言われた若い侍女の中に、勘違いした輩が数名いたのだろう。それがどれほど殿下を追い詰め、傷つけるかを想像することもできずに。
「違います、殿下。私は今日、殿下に謝りに来たんです」
「……出ていけ」
突き放すような声はどこまでも冷たく、もはや手遅れかと思うほど擦り切れている。以前の私であれば出て行き、悲劇の主人公である自分に酔いながら涙していただろう。
だけど、もう逃げないと決めたのだ。殿下はずっと私を信じて一人で戦い続けてきた。ならば今度は私が殿下を信じる番だ。殿下が戦う時は、私も一緒に戦いたいのだ。
「私はずっと殿下に甘えていました。殿下はいつだって優しくて、私との未来を願ってくださいました。私にはそれが当たり前で、そんな殿下と結ばれる自分は幸せ者だと疑っていませんでした」
「……なんだ?今日は随分と芝居がかったヴェロニクだな。お前に僕のヴェロニクを語る資格などあるのか?お前に何がわかる?彼女はお前なんかとは違うんだ。彼女は……」
露悪的な笑みは、私に対する激しい軽蔑に染められている。……傷付くな、ヴェロニク。殿下の言うとおり、あなたにそんな資格はないのよ。
「毎年欠かさずにお誕生日をお祝いしてもらいました」
「……それがどうした」
「お約束どおり、いつだって私を僻みや妬みから守ってくださいました」
「……やめろ」
「学園でも私を守るために――」
「やめろぉーー!!」
突然叫んだ殿下は、私を床に押し倒した。その目は血走っていて、限界まで見開かれている。怒りと、憎しみと、狂気に彩られていたが……私の心に恐怖はない。殿下をここまで追い込んだのは、私自身に他ならないのだから。
「そうまでして王家の子を宿したいのか!!この汚らしい売女が!!ヴェロニクの姿で僕を誘惑するんじゃない!!僕のヴェロニクを汚すんじゃない!!それとも望み通りにしてやれば黙るとでも言うのかぁ!!」
殿下の両手が私のドレスを破るべく掴んだ。歯を食いしばり過ぎたためか口の端から鮮血が流れだし、両目からは涙が溢れ出ている。
「……それが殿下のお望みであれば、私は全てを差し上げます。私の首も、私の子も、殿下が望むままに」
「き……さま……!?」
「ですが……その前に今少しだけ、お時間をください」
ドレスを握る手に私の手を重ねると、ビクリと殿下の全身が震えた。
「私は……殿下から頂くばかりで、何もお返しすることもなく、それを当然のように受け取っていました。それなのに殿下がお辛い時に、私だけが辛いかのように、自分を慰めて過ごしてしまいました。これは私の罪……ですから罰は必ず受けましょう。ですが……何があろうとも、私は――」
『学園でも、卒業後も、ずっと仲良くしよう。素敵な夫婦になろうね』
『殿下……』
『そうしたら、僕のことも名前で呼んで貰えるかな?』
「――あなただけをお慕いしております、ルイ様。たとえあなたの手で命を絶たれようともお恨みは致しません。どんなに傷付こうとも、どんなに裏切られようとも、あなただけを愛し続けます。私は……ヴェロニクは、あなただけのものですわ」
突如、殿下の体から黒いモヤのようなものが流れ出てきたと思うと、それらを全て払うかのように閃光が部屋を満たした。その光はあまりにも眩く、月ですら薄らぐほどだった。
光が収まると同時に、殿下の体が震えだした。だけど力なく回された腕の優しさが、怒りによる震えではないことを証明していた。
「くっ………うっく………!すま……ない……すまなかった……ヴェロニク……!!」
その瞳には優しさが灯り、強すぎる罪悪感で押し潰されそうになっている。
「ルイ様……」
「僕もだ……!僕も君を愛している……愛しているんだ!ずっと君に恋をしていた!君に夢中だった!君を傷付けたくなかったのに!君を守るって!!な、なのに、こんな……こんなこと……!」
「大丈夫です、ルイ様……!私はこんなことでは傷付きません……!私の心も、体も、ルイ様だけのものですから……!」
「ああ……!ヴェロニク……!」
「愛しております、ルイ様……!もう二度とあなたをお一人にいたしません!たとえ我が身に破滅が訪れようとも……絶対に!」
「ああ……ああ!!僕もだ、ヴェロニク!!絶対にもう離さない!!離すものか!!僕の命に誓って!!」
部屋が暗くて本当に良かった。きっと私の顔は、二人分の涙で酷いことになっていただろうから。
--------
「ブランディーヌ・バスティア。ルイ第一王子への傷害、殺害未遂、及び国家転覆未遂の罪に対する即決裁判により、お前の処刑が決定した。執行は三日後だ」
「……はい」
牢に繋がれたまま告げられた当然の処刑宣告を、私は特に感動もなく受け止めていた。王族に害を成したのだから、こうなることはわかっていたことだ。
数日前に見えた光。あれはきっと、ヴェロニクがルイ王子の呪いを破った時の光に違いない。だからもう……本当に思い残すことはなにもない。
……ううん、そんなことはないかな。最後にもう一度だけ、ヴェロニクとお話したかったな。
「お前、既に家族がいないんだってな。随分と寂しい死出となるが、一族郎党処刑よりはマシかもな。すぐに家族とも再会できるだろうよ」
「……そうですね」
「ふん……それと、ヴェロニク様からお手紙を預かっている。死ぬ前に読んでおくように」
それは丁寧に折られた封筒で、裏には彼女の字でヴェロニク・セザンヌと書かれていた。私は封蝋を切ってもらうと、手が震えるのも止められないまま中の手紙を開いた。
そこには、とても丁寧な字で短くこう書かれていた。
――私の一番の親友へ。今度は私達の娘として生まれてきなさい。必ずよ。 あなたの一番の親友より――
――次に生まれた時は二度と悪さしないよう厳しく躾けてやるからな。 君の親友の夫より――
「……ありがとう……!そして、ごめん……!本当にごめんなさい、ヴェロニク……!ルイ王子……!」
その手紙は、手足に繋がれた鎖の冷たさを忘れるほどに温かかった。
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その三日後。ヴェロニク達が見守る中、ブランディーヌ・バスティアに対し服毒による処刑が執行された。その表情は穏やかで、夢を見ながら眠っているようにしか見えなかったという。
本来王族に害を及ぼした罪人は、見せしめとして断頭台に乗せられる規則となっており、今回の処置はかなり例外的なものであった。しかしそれは、ただヴェロニクに配慮したためなどという生温い考えによるものではない。
敢えて断頭台に乗せて民衆に首を晒さなかったのは、今回の事案が転生者であれば誰でも実行できるテロ行為であったためだ。すなわち、呪いを使って王族に害を加えたにしてはブレンダがあまりにも健常すぎた為、呪いの反動を回避する方法を探る者が出てもおかしくないと、そう判断されたのだ。
一つの体に2つの魂があれば、実質代償なしで致命的な呪いをかけられるなどという事実は、絶対に他国や民衆に知られるわけにはいかない。少なくとも3つの呪いを個別にかけられるだけでも脅威ではあるのだが、そんなことをせずとも心臓の動きを縛ってしまえば王国を転覆させることなど容易だった。
よって極めて政治的な判断からの服毒処刑であったのだが、後に刑を執行したセザンヌ公が遺した手記の末尾に、当時の並々ならぬ心境を語っているとされる一文が記されている。
『要するに私が父として娘とその友人にしてやれることなど、たかが知れているということだ』
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ルイ様と私は学園を卒業してすぐに結婚し、その結婚式は大々的に行われた。殆どの人が祝福してくださったものの、殿下の学園でのカルメンに対する態度に関してあらぬ噂が流れることもあった。
しかし学園を退学させられたカルメン自身が「殿下に魅了魔法を掛けて無理矢理言わせたのは自分だ」と声高に宣言したことで、少なくともルイ様は被害者であると認識された。
もちろん、そのようなことを堂々と言ってカルメンが無事に過ごせるはずもなく、伯爵家を勘当させられていた彼女は安月給の職すらも失い、間を置かずに路頭に迷うこととなってしまった。
それを知ったルイ様の動きは速かった。なんとスラムの売春宿に堕ちようとしていたカルメンを寸前で捉え、侍女として登用したのだ。
『カルメン。呪われていた僕が死なずに済んだのも、こうしてヴェロニクと結婚できたのも、ある意味では君のおかげだと思っている。君にまだ罪の意識が残っているならば、身重となったヴェロニクと僕の下で仕える気はないか』
『大変ありがたいお申し出ですが、私にそのような資格はありません、殿下。人の心を曲げてまで愛を得ようとした私が、金のために体を開くというのなら、むしろ相応しい末路です』
『ならば言い方を変えよう。これは君に対する僕の復讐だ。君は僕らが幸せに暮らす様子を一番近くで見守らなければならない。そして心を操ろうとした僕に、今度は君が操られ続けなければならないのだ。そんな僕の命令に対して、君に拒否権があると思っているのかな?』
『殿下……わかりました。このカルメン・トリュフォー……いえ、今は姓無きただのカルメンでございますが、この身を殿下とヴェロニク様に捧げることをお誓いいたします』
その後、カルメンは殿下がご用意した殿方と結婚し、老境に差し掛かる頃に流行り病で亡くなるまでの間、寝る間も惜しんで仕え続けてくれた。特に生まれた子供たちはカルメンによく懐き、長女のブレンダに至っては「カルメンさんみたいな立派な侍女になってお母様に仕えたい!」などと夢を語るほど、彼女たちの良き模範となってくれたのだった。
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「ふぅー!この部屋の掃除も完了!我ながら見事なモップさばきだったわ!」
「ブレンダ王女!?またメイド服着て掃除してるんですか!?一応王女様なんですからメイドの真似事なんておやめください!」
「うるさいなー!お城がよりキレイになるんだから良いでしょ!?あ、お母様の部屋はこのまま私がやるから、あなた達はお父様の執務室をお願いね!」
「え!?ちょっとブレンダ王女!?……ああ、もう!」
「失礼しまーす、お母様。……あれ、お母様?」
「……すー……すー……」
「ほえー…、お母様が居眠りなんて珍しい……ん?手紙を書いてたのかな?……へへ、ちょっと覗いてみちゃったりして!」
――私の親友へ
あなたを亡くしてから、もう18年が経つのね。
あれから本当に色々なことがあったわ。カルメンが侍女として仕えることになったり、父上が現役を引退したりね。それに私も、子供を4人も生んだの。皆してあなたが贈ってくれた熊のぬいぐるみを取り合いしていたわよ?……あなたにも抱き上げてほしかったのに、本当に残念だわ。
長女には勝手にあなたの名前を与えたのだけど、一体誰に似たのやら、王女様なのに侍女に混じって仕事を手伝っているのよ。おかげで部屋中いつ見てもキレイだけど、いつまでもお姫様らしさが備わらなくてちょっとこの先が心配だわ。
ねえ、ブレンダ。
あなたは、ちゃんと私の娘として生まれ変われたのかしら?それとも私が生まれ変わった時、一緒に生まれてきてくれるのかしら?
あなたがしたことを私は一生許さないけど、今でもあなたが一番の親友なのよ。きっとこれからもずっと、一番の親友はあなただけだわ。
もし、これから何十年も経って、あなたの元に行くことになったら……もう一度、私と友達になってくれないかしら?
……ほんと、どうしてこんな手紙を今更書いてるんでしょうね。持ってても仕方ないし、書き終わったらあなたのお墓にでも持っていくわ。時間はあるだろうから、墓の下でじっくり読んで頂戴。
それじゃあ、また書くわね。バイバイ。
――あなたの親友より
追伸。私には"立つ鳥跡を濁さず"なんて生き方は、きっと無理だわ。
「ははっ……何よこれ。本当に何言ってんのよ、お母様」
「……本当にありがとう。私の一番の――」
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