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知らなかった。こんなところに喫茶店があったなんて。
晩秋の冷たい雨に降られて困っていた私の目に飛び込んできたのは、小ぢんまりとした、しかしどっしりとした存在感を持った喫茶店だった。いつからここに建っていたのか、造りは古風で、だからこそ私は郷愁に似た安心感を覚えていた。
重たげな扉に手をかけると、からからと軽やかな鐘の音を添えて、思った以上に軽く開いた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中から、建物と同じように落ち着いた声で、店主らしき男性が迎えてくれた。五十代にさしかかろうかという、店と同じように穏やかな雰囲気の男性だった。
まず入口で濡れたスーツの肩や袖をハンカチで払いながら、さりげなく店内を観察した。全体にくすんだ感じがするけれど、それがとても心地よい。壁際で若い女性が生花を活けているが、それも存在を主張しすぎず、ひっそりと佇んでいるように見えるのに好感が持てた。若いのにセンスがいいなぁと感心しながら、それは恐らく店主の趣味なんだろうと想像した。私の他には初老の男性客が一人、カウンターの手前から二番目の椅子に、私と同じくらいの年代のサラリーマン風の男性が一人、窓側に並んだ二つのテーブル席の奥に落ち着いていた。その男性たちまでもが喫茶店の一風景であるかのように、静かに空間に溶け込んでいる。
まるで異空間に紛れ込んだような、落ち着かないような気分になる。初めて入る店だからだろうか。おずおずと店内を進み、カウンターの一番奥の椅子に浅く腰掛けると、すかさずカウンターから氷の入ったお冷が運ばれてきた。私はそっと目礼をして、一口含んだ。それからメニュウを確かめると、コーヒーと紅茶しかない。そういう格の喫茶店なんだと思った。それはとてもこの店に似つかわしかった。
ひとつひとつのグラスを丁寧に磨き上げている店主に、遠慮がちに声をかけた。
「アールグレイをください」
男性はそっと柔らかい微笑を見せた。
「かしこまりました」
それからお茶が運ばれてくるまでの間、手持ち無沙汰で見るともなく店主の手の動きを追っていた。彼はまずティーポットに湯を入れ、頃合を見計らい、中の湯をカップに移す。用意されたカップは白磁で、竜胆を思わせる青紫色で小花模様が描かれていた。ポットに茶葉を入れて湯を注ぐ。茶葉が蒸れるのを待つ間に、カップと茶漉しの準備を整える。その後、かすかに赤みがかった琥珀色がカップに静かに満たされ、ポットには覆いがかけられ、そのどちらもが私の目の前にそっと置かれた。
「お待たせいたしました」
「ありがとうございます」
軽く頭を下げて、私はそう応じていた。思わず口をついて出たのだった。それほどに彼の紅茶の入れ方は丁寧で、そして無駄がなかった。かといって機械のような精密な動きでは決してなく、温かみが感じられた。
だから私も、その紅茶を心して味わった。カップを口許に寄せたとき、湯気とともに香りがふわりと散って、口に含むとそれは中から私を満たした。かすかな渋みとさわやかな飲み口。これまで飲んだどのアールグレイよりも、おいしかった。
おかげで私は雨にいらいらしていた気持ちを、ほぐすことができた。
ポットが空になってお冷も全部空けてしまっても、雨は止みそうにない。私はアールグレイのお代わりを頼んで、持っていた文庫本に目を落としながら、ゆっくりと味わった。こんなに落ち着いた気分でお茶を頂くこと自体、もう暫くぶりのことだった。
精神的にも肉体的にも、余裕がない毎日だったから。
ゆったりしていれば、思い出したくもない数々の揉め事を思い出し、一方できっと一生忘れられるはずもない思いに囚われ、どうしようもなかった。だからなりふり構わず、ただひたすらに日常に埋もれようとしていた。くたくたになるまで働いて自分を追い詰めていれば、疲れるけれど辛くはない。それだけの理由で仕事に精を出す。
いつ限界が来るのだろう。
――心のどこかで怯えながら生活している自分に気がついてはいたけれど、緊張が緩んだあとにやってくる虚無感と脱力感が恐ろしくて、気を緩めることが出来なかった。こういう形での息抜きが出来る――なんてこと、これまで気がつかずにいた。もったいないことをしていたな、と思う。
ふっと顔を上げると、どうやら雨が小降りになってきたようだ。私は窓から外を伺い、時間を確かめてから席を立った。もっとのんびりこの時間を味わっていたかったけれど、いい加減に戻らないと、上司からどんな責め句を浴びせられるか解らない。
「ごちそうさまでした」
言って席を立つと、店主がにこりと微笑んだ。
「ありがとうございました。またのお越しを」
おそらく言いなれているであろうその言葉で、魔法にかかったような気がした。
そうだ、またここでアールグレイを飲もう――素直にそう思えたから。
それから私は、外回りの合間にその喫茶店に立ち寄るようになっていた。店の名が『喫茶房』というシンプルなものだったと知ったのは、確か四回目に立ち寄ったときだ。
『喫茶房』に立ち寄り、最初に座った席が空いていればそこに落ち着き、アールグレイを注文する。店主が紅茶を入れてくれる間は、何もしないでぼんやりとその手を見つめていることが多かった。
手に恋をした――なんて言っても、信じてもらえないだろうか。
けれど私は確かに、あの手に――正確に言うなら、彼が紅茶を入れる仕草すべてに、恋をしたのだ。ゆったりとして、どこか温かくて。
彼が入れてくれた紅茶が美味しいのは、きっと彼がその一杯一杯に心を込めて、丁寧に、優しく淹れてくれるから。
いつしか私は彼の店でアールグレイを楽しむひと時を『お茶会』と称するようになっていた。『お茶会』は外回りの都合上、木曜日の午後が多かった。毎週木曜日の同じような時間に現れる私のことを、店主はすぐに覚えてくれたようで、今では席に着くと何も注文しなくてもアールグレイが運ばれてくるほどになっていた。他にも何人もそういう常連客がいることにも、気がついていた。そのうちに私は店主と二言三言言葉を交わすようになり、そしてまた同じような常連客とも顔馴染みになっていた。
今ではこの『お茶会』が、私のたった一つの楽しみだった。
こんな私が楽しみを持って――そして恋をするなんて、もしかしたら許されないことなのかもしれない。
だけど――アールグレイを飲みながら、常連客と他愛無い会話をしながら、そして店主と言葉を交わしながら、私は心のうちでそっと呟く。
きっと誰にも言わないから。心にそうっと秘めておくから。
どうか――どうかこの楽しみを、許して。恋をすることを許して――と。
彼に愛されたいなんて、決して、決して願わないから――
季節は初冬から晩冬に移ろいでいた。街路樹の葉も跡形なく散り落ちて、風は身を切るように鋭く冷たい。コートのポケットに突っ込んだ手は、冷たく凍えていた。その日は珍しく、得意先回りが午後から夕方を過ぎても終わらず、やっと終わったときにはもうすっかり日も落ちてしまっていた。会社に連絡を入れると直帰していいと言われ、私は戸惑った。どんなに遅くなっても一度帰社するのが決まりだと思い込んでいたから。私のそんな気持ちを見透かすかのように、部長は笑った。今までどんな風に言われていたのか知らないけれど、君のように外回りのあときっちり帰社する人間の方が珍しいんだよ――と。私ははあと曖昧に応え、電話を切った。直帰させてもらえるなら、そのほうがありがたかった。とにかく寒かったしお腹も空いていたので、手近のファミリーレストランに入った。ついでに夕飯も済ませてしまおうとパスタセットを注文して、雑誌を眺めながらゆっくりとした食事を終えると、もう二十一時近かった。コートの襟元を掻き合わせ、背中を丸めて歩いて『喫茶房』のある通りまで歩いてきた。この時間ではもう『喫茶房』は閉まってしまっていることもちゃんと知っていたけれど、密かに彼に会えないかと期待している私がいた。そんなことを考えていたから、店の前を通り過ぎたところで、背中から店主の声が聞こえたときには、飛び上がるほど驚いた。
「今お帰りですか?」
彼がにっこり笑っていた。冷たい風の中にいてなお、温かい笑顔を浮かべている。
「………………」
振り向いた私が言を継げずに口をぱくぱくさせていると、店主はさらに言った。
「よかったら休んでいかれませんか? 帰る前に紅茶を飲もうと思っていたら、倫子さんが通りかかるのが見えたもんで。お代は結構ですから」
店主が喋っている間、私はどきどきしっぱなしだった。まるで初恋に立ち返ったかのようなどきどきの中に、私はいた。店主に招かれるままに店内に入り、習慣でいつもの席に落ち着くと、彼は改めて紅茶を入れる準備を始めた。湯を沸かし、ポットとカップを用意し、それらを温め。店主は何も言わず、黙々と手と身体を動かした。湯を一度捨て、ポットに茶葉を入れ、湯を注ぐ。私も黙って店主の手を見ていた。蒸らし終わった頃合にポットにアールグレイを注ぐ。二つのカップに注がれた紅茶は、灯りを反射して黄金に輝いて見えた。