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やさしい雨の日曜日。  作者: おぐら あん
* *  土曜日には花束を。  * *
8/16

2

「……祥子さん」

 咲子さんが呼んだ。振り返ってわたしは――深く頭を下げていた。

「お礼をいいたいのはあたし。善之も――祥子さんと先に出会っていれば、どんなにか幸せだったのに、って思うわ。今なら」

 咲子さんは涙を見せずに言った。散々泣きぬいたあとなのだろう。咲子さんの赤く腫れた瞼を見て、鼻の奥がつんとした。

「こんなことになるのなら、意固地になんてならなければよかったわ。あたしが一言――離婚に応じます、そう言えば、もしかしたら善之はこんなことにならなかったかもしれないのに」

 咲子さんはベッドに横たわる彼を見下ろしながら、淡々と言葉を継いだ。こんなときでなかったら、わたしはこうして彼女の言葉を、冷静に聞いてなどいられなかったのではないかと、思う。わたしはそっと自分の下腹部に両手を添えていた。

「きっと罰ね。善之の気持ちを大事にしなかった、罰。あたし、善之を失うのが怖くて、離婚なんてとんでもない、って思ってた。だけどこんな形で別れるなら――」

 咲子さんはそこで言葉を詰まらせた。

 彼女が考えているように、もしも彼女が離婚に応じてくれていれば、彼はもっと長く生きられたかもしれない。わたしだって――あんな辛い経験をせずに済んだかもしれない。ごめん――、そう言って謝る彼の横顔は、忘れたくても忘れられない。わたしを愛しているといいながら、なぜ咲子さんに遠慮するのだろう、この人は。そう思った。だけどそれが彼の優しさだっと、今なら解る。夫婦として共に過ごした女性に対しても、誠意を尽くしたかったのだろう。

 あの時、彼は確かにわたしと人生を歩んでゆこうと決めた。その一方で残される咲子さんに、あれ以上の苦しみを与えたくなかったんだろう。咲子さんに彼を諦めてもらう代わりに、わたしは――授かった命を諦める。そういう、ことだったのだ。きっと。

「貴女にも酷いことをしたわ。あの時離婚に応じていれば――」

「いいえ、いいんです。あのことは、わたしと彼が話し合って決めたことだから」

 わたしは咲子さんの言葉を遮った。それ以上のことを言われたくなかった。わたしだって何度そう思ったことか。特に彼の状態が絶望的だと知ってからは。でも過ぎたことをあれこれ悔やんでいても、どうしようもなかった。

 一時は咲子さんを恨んだ。恨むことで何かが変わるわけでも、そこから何かが生まれるわけでもなかったのに。恨んで恨んで、だけどいつしか恨むことを諦めてしまった。咲子さんと顔を合わせるうちに、わたしは悟ったのだ。同じ男を愛したもう一人の女は、多分――もう一人のわたしなのだ、と。いつしかわたしたちは共に彼の回復を願い、その治療を金銭的に支えあった。時には互いに精神的にも支えあった。他人には入ってくることのできない、不思議なつながり。

「……」

 なにかを言おうと言葉を捜したけれど、それ以上は何も言えなかった。言いたいことがありすぎて、どれもこれも、きちんとした形になどなってくれなかった。全てはもう、遅すぎるから。

 わたしは持って来た花束をそっとあなたの枕元において、囁いた。

「やっとあなたは休めるのね?」

 ――あなたが少し、笑ったように見えた。

 それだけが、わたしにとっては救いに思えた。いつも苦しんでいたあなた。あなたは逝ってしまった。それは同時に、なにものからも開放されて、ゆっくり休めることを意味する。そう、あなたはわたしからも解き放たれて――ゆっくり休むのだろう。それはわたしにとっても、ほんの少し幸福なことに思えた。

 土曜日の夜だけ、わたしの部屋を訪れるあなたを思い出していた。

 あなたはお花が大好きで――わたしは毎週、新しい花束を買っては部屋の花瓶に活けた。あなたはお花を見ながら、わたしにいろいろ教えてくれた。わたしはそれをちっとも覚えなかったけれど。ただ――かすみ草だけは別だった。あなたがいつか、わたしの髪を撫でながら言ってくれたから。

「かすみ草を見ていると、祥子を思い出すんだ」

 どうして?――問い返したわたしに、あなたは言った。

「花束には欠かせない存在だ、って気がするんだ、かすみ草は。それは俺にとっての祥子みたいなもんだから」

 それからあなたは、わたしの額にそっと口付けを落とした。

「ごめん」

 そうしてあなたは、いつも涙を流さずに泣いた。あなたに泣かれると、わたしも泣きたい気分になった。だけどあなたが涙を見せないから、わたしも涙を見せられない。一人で泣いた夜は数え切れないくらいあったけれど――あなたには涙を見せなかった。見せられなかった。



 不意に溢れた涙を止める術を、わたしは持たない。

 わたしはあなたの穏やかな顔を見下ろしながら、泣いた。

 わたしを残して、休めるあなたに嫉妬していた。あなたは安らかかもしれない。だけどわたしは――わたしは? 一人で先に逝ってしまうなんて、なんて勝手な人なの。心の中で涙ながらに、わたしはあなたを責めたてた。かくん、と膝から力が抜けて、ベッドサイドに跪く。あなたにすがるようにわたしは、辺りを憚らずに泣いた。

 あなたの前で泣いたのは、初めてだった。

 しかも、こんなに盛大に。もうあなたには、届かないというのに。

 涙は止まるどころか、どんどんどんどん溢れてくる。それは今まで泣けなかったわたしが、無理に溜め込んでいたすべての涙。あなたにぶつけられなかったわたしの寂しさ、辛さ、悲しさ――わたし自身さえも溶けて流れた、辛い涙だった。

 わたしを置いて行くあなたの背中に向かって、一度でもこんな風に泣いてやればよかった――心の隅で思う自分がいた。

 気がつくと咲子さんが、わたしの肩を撫でてくれていた。温かい掌。あなたの手を思い出す。顔を上げると、咲子さんも泣いていた。今この世界で、これほどあなたを失った痛みに苦しんでいるのは――わたしと咲子さん以外には、いないに違いない。

「……ごめんね、祥子さん」

 咲子さんの言葉が、心の奥であなたの言葉と重なる。何度言われただろう。

 ごめん。ごめん。ごめん――。

 謝るのは、あなたの狡さだった。それを許していたわたしも、あなたに負けないくらい狡かった。だから謝らないで欲しかった。――そう言っても、あなたはただ、謝っていた。謝ることで、あなた自身も納得したかったのでしょう――冷ややかにそう思ったわたしは、醜い女だった。

 今も、醜い。とても――。



 わたしのわがままを聞き入れてくれた咲子さんを、今でも不思議に思う。

 わたしは棚に飾られた、小さな素焼きの壷に視線を注ぎながら、咲子さんの細く頼りない背中を思った。

 今日は土曜日。

 わたしは今日も、花束を買う。

 今日はその花束を、あなたを愛した咲子さんに捧げようと思っていた。

 初めて訪れたお花屋さんで、わたしは花束を買った。

 かすみ草だけの花束を。

 それを胸に抱えて、わたしは咲子さんの部屋を訪ねた。あなたの遺影に花束を捧げながら、そっと口の中で呟く。

「かすみ草だけの花束、こんなにきれいよ?」

 わたしは薄く微笑んだ。咲子さんはわたしの背中を見て、声を立てずに泣いていた。泣かないで、とは言えなかった。

 あなたを失った痛みに、なおも咲子さんは苦しんでいた。覚悟はしていただろうと思う。わたしだって覚悟していた。それでも――今でも、あなたを失った痛みはわたしの身を苛む。咲子さんもきっと、そうなのだ。

「これからも――たまにお邪魔して、いいですか?」

 去り際に尋ねると、咲子さんははっとしてわたしを見た。

 彼女の目の中に、彼の面影を見た気がした。

 彼女もきっと、同じ事を感じたに違いない。

 わたしは確信した。

「……ええ、もちろん」

 咲子さんは再びうっすらと涙を浮かべた。わたしは咲子さんに深く深く頭を下げて、それからとぼとぼと家路についた。

 胃の辺りをきしきしと締め上げる痛みに、わたしはひっそりと涙した。

 この痛みがある限り、多分わたしは花を買い続けるだろう。

 かつてそうであったように。

 土曜日には、花束を。

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