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土曜日には小ぢんまりとした花束を買うのが、すっかり習慣になってしまっていた。わたしは今日も、あなたを想って花束を買う――。
「いらっしゃい。今日は何にします?」
すっかり顔見知りになってしまった花屋の娘さんは、屈託ない笑顔を浮かべる。それにつられるようにわたしも軽く笑んで見せて、それからそっと、顎に手を沿わせる。何かを考えるときのわたしの癖。それをからかうあなたを急に思い出して、反則だ、とわたしは内心で息巻いていた。――それが意味のない行為だと知っていながら。
「ええと――どうしようかな?」
わたしが迷っていると、花屋の娘さんは意を得たように二、三度頷いてみせる。
「お見舞いだから、あまり香りがきつくなくて、散らからない花がいいんでしたよね? じゃあ、これなんかどうです?」
彼女は言って、店先にこんもりと盛られた薄黄色い花を示した。ふっと優しい香りに鼻先を撫でられて、わたしは知らず、笑みを深くする。
「ええ、じゃあそれと――」
「はい、かすみ草ですね?」
彼女はまたも、意を得たように頷いてみせる。簡単に花束に仕立てて、きれいに包んで渡してくれた。
「――お大事に」
娘さんは気持ちのよい笑顔で言った。わたしはその笑顔に会釈を返して、背を向けて歩き始める。今のわたしは、きっととても醜い表情をしている。――お大事に。なんて皮肉なお見舞い文句。
病院のエントランスホールを抜けて、エレベーターに乗り込んだ。午前中は見舞い客も少ない。一人でぽつんとエレベーターに乗っていると、なにものにも見捨てられてしまったような悲しみと疎外感に襲われる。エレベーターが止まるときの奇妙な浮遊感で我に返って、わたしは足を踏み出した。病室の扉を開けて――応えがないことを承知した上で、やっぱり声を出していた。
「調子はどう?」
妙に明るい自分の声に辟易した。ベッドに横たわるあなたに向かって、手に持った花束を示して見せる。
「今日のお花はどう? お花屋さんの娘さんがね、いつも『これなんかどうですか?』って勧めてくれるのよ。……わたしはあんまりお花には詳しくないけど、かすみ草なら知ってるわ。あなたが大好きだったものね? だからいつも、お勧めのお花と一緒に花束にしてもらうのよ」
――もう何度、これに似た台詞を言っただろう? それでもわたしは、この台詞を言わずにはいられない。医者の言葉――何でもいいから、とにかく話しかけるようにしてください――に、すがりついているのだと思う。
先週持ってきた花束を、買ったばかりの新しい花束と代える。薄いクリーム色のカーテンを開けると、窓から斜めに陽が注ぐ。少し窓を開けると、初夏の匂いが病室に吹き込んできた。それだけでも気分が晴れる気がした。
わたしは手近の椅子に腰掛け、最近凝っているレース編みを始める。とても今時流行りそうもないレース編みに凝り始めたのも、あなたの傍に居ながらできる、時間を忘れられる行為だから。そういう意味ならパズルでも読書でも何でもいい気がしたけれど――何かを創りあげることができる、それが気に入っていた。
「――いつもごめんなさいね」
わたしがくだらないお喋り――独り言、というのかもしれない――をしながら、あなたの傍でレース編みをしていると、咲子さんがやってきた。咲子さんは荷物を下ろすと手際よく中身を棚に移し替え、変わりに洗濯物を纏め上げた。
「洗濯、してきますね」
軽く微笑んでみせる咲子さんに、わたしは頭を下げた。
――咲子さんを「咲子さん」としか呼べないわたしは、悲しい。
「……あなたももう、自分のことを考えたらどう?」
洗濯を終えて戻った咲子さんは、近頃は顔を合わせるたびにこの科白をわたしに向ける。わたしは曖昧に頷くけれど、そんなことを考えることはできなかった。
「……もう、諦めてもいいんじゃないかしら――?」
それは咲子さん自身にも向けられている言葉だ。わたしはそれを知りながら、咲子さんの淡々とした一人語りに耳を傾ける。
「こんな姿になってまで、善之も生きていたくはないんじゃないかと思うの。お医者様も、この頃は前みたいに励ましてくださらなくなったし――」
――それはわたしも知っていた。初めの頃は、お気を落とさず、希望を持って――そんな科白を吐いていた気がする。さすがにもう諦めろ、などとあからさまな言い方はしないが、もう少し自宅から近い病院に移れるよう手はずを整えますが、と持ちかけてくるらしい。
わたしは咲子さんの声を聞くともなく聞きながら、目の前に横たわるあなたを見た。あなたは――訳の解らない管まみれになっている。それはわたしに無機質な印象を与える。あなたの手に触れると温かいのに。呼吸をしている様子が解るのに。――生きているのに、生きているとは決して言い難い状態。
「――いっそのこと……」
咲子さんはその先を飲み込んだ。きっと何度も考えたのだろう。一人でいるときは、鬱々としてそう呟くことも少なくないのではないだろうか。ベッドに縛られるあなたの生命を繋いでいるのは、咲子さんとわたしだった。咲子さんは何を思って毎日働いているのだろう。わたしと同じだろうか。看病もしなくてはならないから、フルに働けないのが辛い、というようなことを言っていたのを、不意に思い出した。一方のわたしは、今はもう善之のために働いているようなものだった。つきっきりで看病することができない寂しさを、働く意欲に換えていた。それに他にお金の遣い道なんて持ち合わせていないから、躊躇いなく善之のためにお金を遣える――。
「……それじゃあ――。また、来ます。お気を落とさないでください」
わたしはお決まりの台詞を残して、病室を出る。最後にじっとあなたを見るわたしを、咲子さんはいつも不思議そうに見守る。咲子さんが諦めてしまっていても、わたしは諦めたくはなかった――あなたの生命を。
いつものように小ぢんまりとした花束を抱えて病室に向かう。その途中でわたしは――憔悴しきり、くたびれ果てた咲子さんと出くわした。咲子さんは疲れた――でもどことなく開放された表情で、わたしを見た。
ついに来た、と思った。
ベッドに横たわるあなたは、本当のあなたに戻っていた。得体の知れなかった管は取り払われ、何もない病室には寂しさが溢れている。わたしはそっとあなたに歩み寄って――顔を覆う白い布に手をかけた。
思った以上に白い顔をしていた。
わたしを取り巻く空気が、温かさを失ってゆく。それとともに、わたしの中からも一緒に何かがなくなってゆくような気がした。
ついに来た、と思ったのは本当だった。けれどわたしは、どこかでそれを否定しようとしている。本当に来た? あなたはまだ『此処』に横たわっているのに。あなたの血の気を失った顔。あまりにもきれいだ、と思う。こんなにきれいなのに――ひどい。
あなたはわたしを置いてゆく。かつてあなたが、わたしを部屋に一人残して帰って行ったときのように。あなたがわたしに注ぐ視線に込められた気持ちは――わたしがあなたに向ける気持ちと、ぴったり寄り添っていたのに。それでもあなたは、帰って行った。帰らなくてはならなかった。一人残るわたしは、抜け殻になったみたいにベッドの上で蹲った。あなたの声、あなたの腕――あなたの匂いを忘れないように、しっかりと自分を抱き締めて。
部屋に取り残されるわたしは、それでもまたあなたに会えることを知っていた。だから、一人でも大丈夫だと思っていた。実際、大丈夫だった。だけど――これからは、違う。
あなたは二度と現れない。わたしの部屋にだけでなく――この世の中のどこにも、もう現れない――。




