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それからのわたしにとっては、月曜日は「ハッピーマンデー」だった。世間では「ブルーマンデー」なんて言うけれど、週末が来ると早く月曜日になれ、って思った。二か月も経つ頃には立っていることにもすっかり慣れて、仕事も大分覚えた。
仕事の合間に交わしたちょっとした会話をつなぎ合わせて、わたしは原島さんのことを少しずつ知って行った。原島さんのファーストネームが「拓哉」ということ、歳は二十五歳だってこと、店長の甥であること、学校では法律を勉強していて、いずれは弁護士になりたいと思っていること、などなど。すごくまじめでどんなときにも気を抜かないし、どんなお客様にも――それが小さな子どもだったとしても、態度を決して変えない。嫌な顔ひとつしないでどんなことでもきちんとこなす姿を見ていると、原島さんには「嫌なこと」なんて何もありはしないんじゃないかと思ってしまうくらいだった。わたしはますます、原島さんに惹かれていった。原島さんがスタッフルームや厨房ではわたしのことを「都ちゃん」と呼んでくれるようになったのも、大きな進歩だ。
そろそろ梅雨が始まろうかというある月曜日、急にスタッフの一人がバイトを休んでしまった。それでわたしは店長に勤務の延長を頼まれた。少しでも長く原島さんと一緒にいたい気持ちもあって、わたしはそれを快諾した。帰りが遅くなる、とママに連絡すると、電話口のママの声は思ったよりも渋かった。だけど「気をつけて帰るのよ」と認めてくれて、わたしは初めて遅い時間まで働いた。
身体はすっかり慣れた、と思っていた。だけどいつもよりたった三時間長く働いただけで、足がぱんぱんになってしまった。
「それじゃ、お先に上がります。お疲れさまでした」
深夜勤のスタッフに声をかけて『ニコ』を出ようとしたところで、原島さんに呼び止められた。
「ちょっと待ってて」
内心ではちょっとどきどきしながら――何事かな、と表で待っていると、傘を二本抱えた原島さんが出てきた。
「遅くなっちゃったから、送って行けって」
それに雨も落ちてきちゃったし――そう付け加える原島さんに、わたしは両手を振っていた。
「え? 大丈夫ですよ、遅いって言ってもまだ十時を過ぎたところですよ?」
わたしは内心のどぎまぎを隠して言うと、原島さんは笑った。
「もう十時過ぎ、だよ。何かあったらご両親に申し訳ないよ」
原島さんは傘を差し出した。わたしは軽く頭を下げてそれを受け取ると、颯爽と歩き始めた原島さんについて、夜の街を歩き始めた。
「都ちゃんは学科、なんだったったけ?」
原島さんは当たり障りのない質問をした。
「えっと、社会学科です」
「将来はどんな方向に進みたいの?」
聞かれてあたしは戸惑った。特に目指すものがあって社会学部に進んだわけじゃなくて、わたしの学力を考えるとそのあたりが精一杯だった――というのが、実情だったから。
「えーっと………………」
口ごもるわたしの態度を、原島さんはどう思ったんだろう……? それが不安で、わたしは少し俯いた。
「何? もしかして目標が高すぎて、軽々しく口にできないとか?」
「いえ、そんなわけじゃ――」
ぱっと顔を上げると、原島さんはニコニコしていた。
「僕だって目標だけはうんと高いからね。大丈夫、何を聞いても笑ったりしないから」
――とても「目標がない」なんて、言えなかった。きっちりした目標もなく生きていることを、猛烈に後悔した。ここで形だけでも夢を語れる人間だったら、もっと原島さんと近づけるのに。
「法律ってさ、難しいと思うだろう? 社会学科なら、法律関係の演習なんかもあるんでしょう?」
「あ、はい。わたしには難しすぎて、まだちんぷんかんぷんで」
そこは思った通りに答えた。六法全書や判例集を見ていると、正直に言うと頭がくらくらしてくる。
「人間が考えたとは思えないくらい、堅いだろう、法律って。だけどじっくり向き合っていると、だんだんその奥に潜む『人間臭さ』みたいなものが見えてくるんだ」
原島さんは前をじっと見つめたまま、お気に入りの映画の話をするみたいな表情で話し始めた。
「表面だけをさらっと読んでいると、ただの堅い『決まりごと』みたいにしか思えないかもしれないけれど、それが生きていく上でいかに大事なことなのか、って言うのがよく解ってくるんだ。
まだ僕は法律に関わる仕事をする以前の段階でしかないけれど、もうひとつのバイト先がある弁護士の先生の事務所でね、そこで裁判記録なんか読んでみると、それがいかに奥深い世界か、ってことがよく解ってくるんだ。同じ条文でも解釈がいろいろあって、ひとつひとつの判例に、確かな『真実』が感じられて。
もちろん中には納得できない判例もあるよ。起訴するのも弁護するのも、そして判決を下すのも人間だから、それは仕方がないのかもしれない。ひとつでもそういう事例を少なくするために――すべての人がどんな形にしろ受け入れられる『真実』を求めて、僕は学んでいるんだ。僕は………………」
突然わたしは、楽しそうに、そして情熱的に話す原島さんに、強い羨望と嫉妬を感じた。どうしてだろう? 原島さんを恋しいと思う以上にそれは、強い感情だった。住宅街にさしかかり街灯も心なしか少なくなって、街のざわめきがどんどん遠退いていく。熱っぽく語る原島さんの声も、どこか遠くなって――わたしは自分の身体が深くて昏い水の底に沈んでしまうような感覚に襲われていた。
「………………いつか、そうなればいいなって思ってるんだ。都ちゃんはどう思う? 都ちゃん? どうかした?」
そこでわたしははっと我に返った。街灯を背に立つ原島さんがどんな表情をしているのか、わたしにはよく解らなかった。いつしか雨は小降りになっているようだった。
「……なんか、ごめんね。こんな話しして。でも、なんて言うのかな、都ちゃんを見てると、昔の自分を思い出すんだよね」
「えっ?」
原島さんの言葉にわたしはどきっとした。どんなところが、昔の原島さんを思い出させるんだろう?
「僕も大学に入りたての頃は、いろんなことに気合が入って空回りしちゃってね。思えばムリしすぎたよなぁ。精神的なバランス崩してついでに体調も崩してね。結局二年間休学してさ、ふらふらしてたんだよ、これでも」
原島さんにそんなことがあったなんて。想像もつかなかった。
「最初からムリするとさ、力の抜き加減が解らなくなっちゃうだろう? だから、あんまりムリしちゃ、だめだよ」
――そんなんじゃないんです。わたしは。
その一言が、言えなかった。
恥ずかしかったせいもある。情けなかったせいもある。いろんな気持ちが混ざり合って、まさか原島さんがいるから頑張るんだ――なんて事を言えるわけもなく。
「家、この辺?」
「あ……はい、もう大丈夫です、すぐそこなんで」
わたしは差していた傘を閉じて、原島さんに手渡した。
「もう上がっちゃいましたね。これ、店長さんにお返ししてください。ありがとうございました、って」
「うん、解った」
「それから、あの、わざわざ送ってくださってありがとうございました。お疲れさまでした」
わたしは深々と頭を下げた。いろんな意味で、原島さんにお礼を言いたい気持ちだった。それから、今のわたしじゃとっても、原島さんが好きです――なんて言えないなぁ、ってことも考えた。
情けない。情けなさすぎるよ。
わたしはわたしなりに頑張って生きてきたつもりだけど、もっとちゃんとした目標を持たなくちゃダメだなんて、考えたこともなくて。ただ原島さんに近づきたくて、バイトで頑張って。
でも今夜原島さんと話せて、目標を探そうって気持ちになれた。
「うん、お疲れ様。また――都ちゃんとは来週、だね」
「はい、そうです。月曜日」
わたしが答えると原島さんが笑った。街灯の場所が変わったせいか、今度はちゃんと、顔が見えた。わたしが大好きな、あの素敵な笑顔だった。
「それじゃ、月曜日に」
「はい、月曜日に」
わたしも原島さんみたいな真っ直ぐな笑顔を浮かべているだろうか。ううん、浮かべられるようになりたい。そしてもっともっと、原島さんに近づきたい――強く思った。それと同時にわたしの内の原島さんへの想いも、もっともっと強くなっていた。こんなに素敵な人に、恋ができて――よかった。
そのためには、これからどんな小さな目標でもいいから、ちゃんと何かを目指して歩いて行かなくちゃ。とりあえず原島さんがあんなに熱っぽく語った法律について、もうちょっとちゃんと勉強してみようか。そこから何か、始まるのかもしれない。
こっそり振り返ってみると、やっぱり颯爽と歩き去る原島さんの、真っ直ぐに伸びた背中が見えた。