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バイトを始めようと思ったのは、ハンバーガーショップ『ニコ』のカウンターの中でさわやかに笑顔を振りまく原島さんに、どうしようもなく惹かれてしまったからだ。
もうずっと前から、『ニコ』には通いつめていた。初めて来たのは、多分小学生にもなっていない頃。お父さんとお母さんに連れられて。美咲はまだ生まれてなかったと思う。『ニコ』のウリは、オーダーが入ってから調理を始めること。ソースやトッピングを自由に選べるのも、そのため。材料もアレコレ吟味して、数年前からは完全に有機野菜に切り替えた、とか。アレルギー体質の人のために、バンズの原料もきっちり書いてあるし、米粉のパンとか、ちょっと簡単には手に入らないような素材を使って、それを活かしたメニューがたくさんある。そこらへんのファストフードのバーガーとはまるで違う、高級感溢れるショップなのだ。だからお値段はかなり高めだ。わたしの両親は健康志向が強くて、ファストフードもスナック菓子も口にするのは決して許されなかったけれど、『ニコ』のバーガーやサラダは別だった。『ニコ』に来ると言えば、お父さんは少ないお小遣いをわたしに分けてくれた。一家揃って『ニコ』の大ファンなのだ。
そんな風に通っているから、原島さんが働き始めた時期もちゃあんと知っている。確か夏休みが終わってすぐの頃だった。残暑が厳しい、気だるい九月のある日の放課後。大学受験を控えたわたしたち三年生は、ほとんどがクラブ活動も引退して、ますます受験の雰囲気が色濃くなってきていた。毎日のように補講があって、勉強疲れがちょっとずつ身体に溜まっていくような生活。そんな中でたまの息抜きに、って沙雪を誘って、『ニコ』に立ち寄ったのだった。
そこでちょっとぎこちないながらも、さわやかな笑顔を浮かべる原島さんに出会った。
最初は、新しいバイトさんが入ったんだな、くらいにしか思わなかった。沙雪もわたしもお気に入りのトマトバーガーとハーブティーをオーダーして、いつもの窓際のテーブルに座った。やっぱりいつものようにクラスメイトの噂話をしたり、芸能ニュースで盛り上がっていると、原島さんがトレイを持ってやって来た。
「お待たせいたしました」
そう言ってまだ緊張したような手つきでトレイを置いた。わたしはふっと顔を上げて、軽く会釈をした。原島さんは深々と頭を下げて、カウンターに戻った。
そんな風に何回か原島さんが働いている場面に遭遇した。いつも原島さんはさわやかに笑い、何より誠実そうな接客態度と丁寧な言葉遣いが素敵な人だった。
そのうちにわたしは、何とかもっと原島さんと近くなれないかと考えるようになった。バイトが出来ればいいのに、と思ったけれど、受験を控えた大事な時期な上に、『ニコ』は滅多にアルバイトが入れ替わらない。店長さんの方針なのかも。だから今は、できる範囲で通おうと思っていた。大学生になったらバイトして、そのバイト代でもっとたくさん通って来ようって。
だからわたしは勉強を頑張った。動機が不純? そういう捉え方もあるかもしれないけれど、わたしにとっては真剣で本気だった。絶対に絶対に浪人なんかしないで、現役で合格して早くバイトを始めたかった。
「みんなが行くから行きたいだけ」
――そんな風に思いながらの受験勉強に、ひとつの動機が加わったことで急にやる気が出た。勉強がしたいからじゃないあたりが、ちょっと恥ずかしい気もするけれど、それはそれ、これはこれ。わたしはたまに『ニコ』で息抜きをしながら、時には『ニコ』でお茶を飲んでいる間にも単語帳なんかを開いて、勉強に励んだ。
「――大学受験? 頑張ってね」
あるとき原島さんが、わたしのテーブルにお茶を運んで来て、さわやかな笑顔と共に残していった一言だ。わたしは舞い上がってただ何度も頷きを返すことしかできなかったけれど、わたしだけに向けられた彼の笑顔は、瞼と脳裏と心に強く焼きついた。その笑顔を見られただけで、ああ、頑張ってきてよかった、って思った。なんて単純なんだろう。だけどとっても嬉しかったんだ。わたしは、もっと頑張れる。
その日からますますわたしは、勉強に力を注ぐようになった。
そしてもうひとつの変化。
原島さんが、わたしの顔を覚えてくれたのだ。わたしが『ニコ』に行って、そして原島さんがいると、原島さんはわたしに微笑んでくれるようになったのだ。天にも昇る気持ち、と言うのは、きっとこういう気持ちを言うに違いない。原島さんが笑ってくれたら、受験だって何だって乗り切れる。お小遣いが続かないから、いつも野菜ジュースや紅茶をオーダーするだけ。おいしい飲み物に原島さんの微笑みがセットになったことで、勉強疲れも吹っ飛んで、さらにやる気もどんどん膨らんだ。
そんな風に通っているうちに、原島さんが月曜の夕方から夜には必ずシフトに入っていることに気がついた。他の曜日だと会えたり会えなかったり、とにかく時間がまちまちなのに、月曜日の夕方だけは必ず、勤務しているのだ。それに気がついてからは、月曜日の夕方を狙って『ニコ』に行くようになった。
ただただ、原島さんの微笑みに会うために。
不純な動機ながらも頑張りが利いたのか、成績も少しよくなって、そして受験もまずまず順調にこなすことができた。そろそろ春の気配が漂う二月の中旬には、滑り止めの私大の合格通知も届いて、とりあえず浪人だけは免れた。そう思うと何だか気持ちが楽になって、本命の大学の二次試験は、自分でもびっくりするくらいすらすら問題が解けた。
三月も半ばを過ぎる頃には、わたしの手元には既に本命大学の合格通知が届いていた。わたしと同じく本命に無事合格が決まった沙雪を誘って、『ニコ』に向かった。
「でもヨカッタよね、無事に合格して」
沙雪の言葉にわたしは何度も頷く。
「憧れの彼に一歩、近づいた、って感じ?」
それからからかうように笑う沙雪に、わたしは照れて返事ができなかった。
「二人で『ニコ』に来るの、いつぶりだっけ?」
『ニコ』のドアに手をかける沙雪に、わたしはうーん、と考える。
「えっと……二か月ぶりくらいかな? よく覚えてないや」
「ひとりではたくさん来てるんだもんねぇ」
に、っと唇の端を上げて、沙雪がわたしを振り返る。やっぱり返す言葉がない。沙雪はわたしを待たずにカウンターに歩いていった。軽く振り返って目で合図してくる。今日も原島さんはお仕事をしていたけれど、珍しく厨房の奥にいて、わたしには気がつかなかったみたい。わたしはちょっとがっかりして、それでもお気に入りのトマトバーガーとハーブティをオーダーして、いつもの席に向かう。
「残念、だったねぇ」
座るなり沙雪に言われて、わたしは言い返す。
「顔を見られればそれでいいんだもん」
「へぇ?」
沙雪はこういうとき、ちょっといじわるだ。付き合って一年四か月の彼がいる沙雪は、そのあたりは余裕がある。しかも二人してちゃあんと同じ大学に合格して、春からも同じ学校に通えるんだなぁと思うと、めちゃくちゃ羨ましかった。沙雪には「顔を見られれば満足」と応じたけれど、やっぱりちょっと物足りない。わたしは横目でちらちらと厨房の奥を見ていた。知らない人が見たら、オーダーを待ちきれない子どもみたいに見えるんだろうけれど、そんなことは気にしなかった。そうやって何度目かに振り返ったときに、視界の隅で店長さんの姿を捉えた。店長さんはA三くらいの大きさの紙を持って、もう一方の手にはテープを握っていた。わたしは身体ごと店長さんに向き直った。店長さんは入口のガラス戸に紙を貼り付けるところだった。
「……あれ、バイト募集じゃない?」
ちょうど運ばれてきたハーブティを一口飲んで、沙雪が少し目を細めた。わたしもじっと紙を見るけど、印刷面が通りに向けられているので、判断できなかった。沙雪の言葉が本当だったら、わたし、絶対にここでバイトしたい!――そう思ったときにはもう、身体が勝手に動いていた。ぱっと椅子から立ち上がる。店長さんは表から紙の具合を確かめていた。わたしがドアに手をかけると、店長さんは納得したような表情で小さくひとつ頷いた。わたしが大きく開けたドアの脇で、店長さんはわたしが外に出るのを待っている。入れ違いに外に出たわたしは、そこに踊る赤い文字を見た。
『パート・アルバイト募集』
それだけ見れば、充分だった。わたしはくるりと踵を返し、厨房の奥にまさに入ろうとしている店長さんの背中に向かって、叫ぶように言っていた。
「あの! アルバイトしたいんですけど!」
――店内の視線が集中して、恥ずかしかったよ――後で沙雪はそう言ったけれど、わたしは全然気にしていなかった。
それくらい強い気持ちだったから。
原島さんと一緒に働くための、たった一度きりのチャンスだと、思ったから。
店長さんはしばらく言葉もなく、ただ口をぽかんと開けたままで、わたしの顔をじっと見ていた。
春。
世界は彩やかな色に溢れていた。
わたしは大学生活のスタートと共に、『ニコ』での新・アルバイトとしての生活も始めていた。最初はパパもママも反対したけれど、大学生になるんだし社会勉強も兼ねて、って必死になって説得した。クルマの免許を取ったりパソコンも自分で買いたいし、って後付の理由をいくつも並べ立てて、やっとOKしてもらえた。
最初にチェックしたのは、原島さんのシフトだった。なるべくたくさん原島さんと同じ時間に働きたいと思っていたのに、全くアテが外れてしまった。原島さんは大学生と言ってもいわゆる「勤労学生」というやつで、学費も生活費も自分で作っているのだった。原島さんは『ニコ』では主に午前中に働いていて、わたしは大学の講義の関係で午後からしかバイトできないから、結局会えるのは月曜日だけになってしまった。嬉しさよりもがっかりの方が大きかった。それでも今までみたいな「店員」と「お客」の関係ではなくて、同じ「店員」になれたから、よかったと思うしかない。
「あの時は本当にびっくりしたよ」
最初の勤務の日、店長は苦笑いを浮かべながら言った。わたしは照れるしかない。
「でも大変な熱意を感じたよ。よくお客さんとしても来てくれていたし、期待しているから」
店長の言葉にわたしは神妙に頷いた。今日は月曜日。もうすぐ原島さんがやってくる。わたしはシフト表を横目で見た。今日は原島さんと同じ時間からのスタートで、ひと通りのことは原島さんが教えてくれることになっていた。
「おはようございます」
はきはきとした口調で言いながら、原島さんがスタッフルームのドアを開けて入ってきた。
「おっおはようございます!」
わたしがぺこりと頭を下げると、原島さんはにっこりした。
「君、よっぽど『ニコ』が好きなんだね、よろしくね」
「はい! よろしくお願いします!」
ものすごくテンションが上がっている自分に驚いた。
「仕事は少しずつ覚えていけばいいよ。だけどしっかり覚えてね、なるべくミスとロスを出さないように」
原島さんはわたしにそんなアドバイスをくれた。こうして言葉を交わしていることが、夢みたいに幸せだった。