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「……もしもし? ああ、ちょっとトモダチと復習してたんだ……うん、うん、――解ってるよ」
ぴ、っと通話を切って、けんちゃんが立ち上がった。
「オレ、帰るわ」
「んじゃ、あたしも」
やっこが何かのきっかけを待っていたみたいに立ち上がった。
「じゃな」
けんちゃんが手を上げて歩いていく。やっこも「ばいばい」って手を振った。アタシは場の流れで手を振って、だけど立ち上がる気にはなれなかった。隣にミツルがいることに気がついたのは、ミツルが大きなくしゃみをしたからだった。てっきりミツルも帰ったと思っていた。
「……大丈夫? 風邪、ひくんじゃない?」
アタシが言うと、ミツルはぶんぶんと首を振った。
「……帰ろっかなぁ」
アタシはだけど、立ち上がることができなかった。まだ帰りたくなかった。
「まる」
ミツルがアタシを呼んだ。
「何?」
アタシが瞳を上げると、ミツルは立ち上がってアタシを見下ろしていた。
「まだいる?」
うん、と頷く。ミツルは上着のポケットを探ると納得したように頷いて、それからコンビニに駆けて行った。アタシは闇に浮かんだコンビニを見ていた。あそこだけ違う世界みたいにきらきらしてあったかそうで、そしてどこか幸せそうに見えて、マッチ売りの少女の気持ちが解った気がした。だけどこの灯りは、幻影みたいに消えたりしないことを、アタシはよく知っていた。その気になれば、ちゃんと感じることができるあったかさ。だから多分、マッチ売りの少女よりは幸せだ。
しばらくしてミツルが、行ったときと同じように駆けて戻ってきた。手にはおでんのカップと、手袋とマフラー。アタシが瞳をぱちくりさせていると、ミツルはぎこちなく笑った。
「おでん……。あと、これ」
おでんを地面に置いてから、マフラーをあたしの首にぐるぐるに巻いて、それから手袋をアタシの凍えた手に押し込んだ。
「寒いから」
アタシはきょとんとして、お礼を言うタイミングを逃してしまった。ミツルがくれたマフラーはごわごわちくちくしてて、ほんのりあったかかった。そのまま二人で黙々とカップに入ったおでんを突く。出汁が染みた大根が身体の芯までぽかぽかにしてくれた。
おでんを食べ終わっても、あたしたちはそこにじっとしていた。ミツルは駐車場の脇の水路におでんの汁をじゃばじゃば流した。湯気が上がって雪と溶ける。それからカップをゴミ箱に捨てに行った。あたしはまだ立ち上がれなかった。
戻ってきたミツルが、アタシの隣にしゃがみこんでぽつぽつと喋るのを、アタシは夢を見ているような気分で聞いていた。思えばミツルがこんな風に喋るのは、初めてのことかもしれない。
「さっき、まる、言ったろ?
雪って、ゴミみたい、って。
確かにさ。
雨とか、雪って。
ええっと。
大気中のチリやホコリも混ざってるからさ。
そりゃあ、ゴミ、みたいなもんだけど。
でもさ。
やっぱ、綺麗だよ。
雪って。
まるも――、そう、思わない?」
アタシはふいに昔を思い出した。小学三年の時のクリスマス。サンタがいないって知った、クリスマスのこと。
あれは――パパとママが離婚したあとの、最初のクリスマスだった。
ママは仕事で、アタシと奈那子は二人で留守番をしていた。ママはイブの夜にケーキを買ってきてくれたけど、特別なプレゼントはなかった。夕方六時過ぎにパパがこっそりやってきて、アタシと奈那子にお菓子のたくさん詰まった長靴をくれた。
「こんなプレゼントでごめんな」
言って頭を撫でるパパが、涙をぽろりと零すのを見て、アタシは知ってしまった。
ああ、サンタはパパだったんだ、って。毎年ぬいぐるみとかお人形とかおままごとの道具とか、いろんなものをくれた「サンタさん」は、パパだったんだ――って。
そのあと仕事から帰ったママにパパからもらったお菓子が見つかり、ママは怒ってそれをゴミ箱に直行させた。アタシと奈那子をおっかない目で見下ろしながら、きいきい声で言ったっけ。
「こんなものをもらっちゃいけませんっ!」
アタシと奈那子はわんわん泣いた。ママが「大体あたしがいないときを見計らって来るなんて、やることが汚いわ」とかなんとか、ぶつぶつ文句を言っていたことを思い出す。アタシは悲しくて悔しくて、部屋から飛び出した。――ちょうど今日みたいに雪がふわふわと降る夜だった。ぼろいアパートの階段の脇に立った、小さな暗い街灯に浮かび上がる雪は、ゴミみたいに薄汚く見えた。街灯の電球自体がちっぽけで薄汚かったせいかもしれない。それが瞼に焼きついて、それっきりアタシにとって「雪」はゴミみたいなものになってしまったのだ。
「まる?……大丈夫?」
「……」
ミツルが心配そうに声をかけてくれて、アタシはコトバもなく頷き返した。視界が急に涙でぼやける。ぼやけた世界は銀色で、空からゆらゆらと舞い降りる雪を、アタシは言葉もなく見ることしかできない。それはミツルの言うように、とても美しい銀色をしていた。こんなに綺麗なものを「ゴミみたい」なんて思っていた自分が、罰当たりな人間のような気がして、さらに泣けた。
子どもの頃の想い出は、さらに溢れる。
もっともっとちっちゃい頃、パパがアタシと雪だるまを作ってくれた。パパとアタシは一緒に雪だまを転がしながら、いろんなお喋りをしたっけ。パパは出来上がった雪だるまを満足そうに見て、しゃがみこんでアタシの目をじっと見つめた。それからにっこり笑う。
――パパはね、香菜子が大好きだよ――。
そう言ってアタシを抱き上げて、頬ずりしたパパのほっぺは、ひげがぞりぞりしててとっても痛かった。だけどアタシは嬉しかった。パパがアタシを「大好きだ」と言ってくれたことが。
パパとママが離婚した理由は、聞いてないから知らない。だけどアタシは少なくともママよりもパパが好きだった。それなのになんでアタシはパパについて行かなかったんだろう? どうしてパパはアタシを置いて行ったんだろう?
今までのいろんな思いが溢れて溢れて、涙も一緒にどんどん溢れた。アタシがぼろぼろ流す涙を、ミツルがそっと指で掬ってくれた。ひんやり冷たかったけど、とってもあったかい指で、恐る恐る、って感じで。アタシの心も、それできっと救われた。ぐずぐずになった頬をぎゅうぎゅうとこすってミツルを見ると、ミツルも泣いていた――ように見えた。
だけどミツルは、微笑んでいたのだった。
もしかしたらミツルは、笑い方が解らないのかもしれない。いつもいつもほとんど喋りもしないで、ただ黙ってみんなの喋りを聞いているけど、もしかしたら、ミツルは。
どうしたらいいか解んないけど、誰かと一緒にいたかったのかも。
――アタシとおんなじだ。
アタシはどこにも居場所がないって、ずっとずっと感じていた。それを忘れさせてくれるのが、コンビニの灯りだった。みんな仲間を探してる。だからおんなじニオイのするもの同士、なんとはなしに集まって、だけど拒絶されるのが怖いから、決して深入りしようとしないで。似たような目的を見つけてつるむのだって、多分同じこと。単車転がしだってオヤジ狩りだって、何だってよかったんだ。自分が一人じゃない、ってことを感じることができれば。
夏の夜、街灯に蛾や虫が集まって飛んでるけど、それに似ているような気もした。あたしたちはコンビニの灯りに群れ集まる、人間のカタチをした蛾に似た何かなんじゃないか、って。蛾だってもしかしたら、ひとりきりじゃ寂しくて、仲間を求めて灯りに集まるのかもしれない。だって灯りのあるところには、必ずいるじゃん、蛾って。そんな自分の思いつきがあんまりくだらなくて、笑えた。
それをミツルに喋ると、ミツルも少し笑ってくれた。さっきよりはましな笑顔だった。
「走光性、って。知ってる?」
「走光性?」
アタシが聞くとミツルはうんと頷いた。
「蛾とかが光に集まる習性。
だから、ええっと。
まるの言うこと、間違ってないと思うよ。
ある、意味ではね」
誰かに間違ってない、って言われたのは、きっと初めてだった。だからだと思うけど、ミツルの言葉は素直にアタシの心に沁み入った。今、アタシのことをちゃんと解ってくれるのは、もしかしたら涙を拭ってくれたミツルだけかもしれなかった。
「寒いねぇ……」
「うん。――寒いね」
――でも、マフラーと手袋、あったかいよ――。
アタシはそのコトバが、恥ずかしくてどうしても言えなかった。アタシとミツルは、雪に降られてちょっと濡れた。吐く息も真っ白になっていた。でもそんなことは気にならないくらい、ミツルがいてくれるのが嬉しい、と思った。
ミツルはまるで何事もなかったかのように、さっきまでと同じようにぽつぽつと喋った。アタシも今度は、いろんなことを喋って、そして二人で笑ったり怒ったりした。ミツルはとっても頭のいいお兄さんがいるそうで、そのお兄さんと比べられて随分辛い思いをしている、という話を聞かされたときには、アタシは思いっきり頷いていた。
誰かと比べられるのは辛い。
自分がその人よりも「下」だと思われるのは、もっと辛い。
そして、大きな声で叫びたくなる。
アタシは、アタシなんだ、って。
だけどその叫びは、いつだって届かない。アタシの耳にははっきりと聞こえる、この降りしきる雪の、悲鳴のように――。
降り始めた頃よりも雪の粒が大きくなって、駐車場にまだら模様を描き始めた。しぃんとした駐車場はますます寒くなってきて、アタシもミツルもしっかりと自分を抱きしめていた。ミツルが思い切ったように声を上げた。
「……そろそろ、帰ろっか?」
明らかに帰りたくなそうな声だった。
「――うん」
アタシも、渋々頷いた。頷くしかなかった。
アタシたちは立ち上がると、肩や背中に溶けかかって残った雪を払い落とす。アタシの手が届かないところは、ミツルが払い落としてくれた。アタシもミツルを真似た。ミツルはゆっくりと身体ごと振り返って、アタシの瞳をじっと見た。
「まる、またね」
別れ際に、そんなことを言った人は今までだあれもいなかった。だからこそミツルがくれた「またね」は特別だった。
「うん――、また、ね」
アタシはミツルに手を振った。
「またね」
もう一度同じ言葉を繰り返して、ミツルは歩いていってしまった。しばらくアタシはその後姿に手を振り続ける。そのヒトコトが残していった、胸の奥まですうっと吸い込まれていくようなあったかい感触を、くっきりはっきり、感じながら。




