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あたしはそれからも、金曜日にはジェイの歌を聴きに行き続けた。ジェイの声は少しずつ出にくくなり、聴いているあたしさえ苦しくなった。それでもジェイは歌うことを決してやめようとはしなかった。あたしも、あれ以来無責任に「手術を受けろ」とは言わなくなっていた。あたしに出来るのは、ジェイの歌を聴くこと――ジェイの存在と歌声の証人になること。
ジェイは決してあたしのために歌ってくれているわけではない――それは少し悲しいことだったけれど、当たり前のこと。誰だって自分が一番かわいい。最後の最後には、自分のことで精一杯になる。ジェイを哀れんでいると思われても仕方ないけど、そんな理由でジェイの歌を聴いていたわけではない。ただ、ジェイの歌を聴いていたかった。そしてジェイの姿を見ながら――生きることと死ぬことについて、考えていたかったのかもしれない。
「ねぇ、ジェイ」
「何?」
歌の合間に呼びかけると、ジェイは少し苦しそうな声で小さな返事をよこした。あたしは勇気のカケラを寄せて集めて、思い切って尋ねた。
「ジェイにとっては、歌うことが生きること――なんだよね?」
あたしの問いをジェイはせせら笑った。
「当たり前」
「……ジェイをそこまで駆り立てるもの、って、何?」
ジェイはふんと鼻を鳴らした。美しいギターの旋律が、途切れ途切れに流れていた。
「ミナトを駆り立てる『ドキュメンタリー』って、何さ?」
逆に問われて、あたしはすうと深く空気を吸った。凍てついた夜の空気は、まるで胸に突き刺さるように冷たく、鋭かった。
「人間ってね、生きてるだけですごいんじゃないかな、って、思うの。そういう人たちの『生き様』をね、深く追求していったら、ツクリモノじゃない世界に――ドキュメンタリーに行き着いた、って、言えばいいかな?」
「じゃあ――俺も、その対象? 歌えなくなることを恐れて、死に怯えながら、だけど歌うことを止められない、俺も?」
あたしは少し躊躇った後で、静かに頷いた。でも、それは決して悪い意味ではなかったのだけれど。あたしはそれをジェイに伝えなくては、と、思った。心から強く。
「あたしには、残念だけどジェイの気持ちは解らないよ。これを失うのは死ぬのと同じだ――って言うほどのものを、あたしは持っていないから。人によっては、今のジェイは逃げているだけ、って思うかもしれないし。だけど、あたしは、ジェイの闘う姿は悪くないって、思ってるから。これからジェイがどんな答えを出すのか、それはジェイが決めることだけど、いろんな意味で、あたしはそのジェイの生き方を、ちゃんと見届けたいなぁ……なんて思って」
「ふうん」
ジェイの反応は曖昧すぎて、あたしの気持ちがちゃんと届いたのかどうかは解らなかった。あたしはジェイの長い指が弦を弾く様子をじいっと見つめながら、ふとあのバンドのことを思い出した。
「ねぇジェイ、『ブルースフィア』って、知ってる?」
一瞬、ギターが止んだ。
「……ミナト、あいつら知ってるの?」
あたしは首を振った。
「ううん、直接は知らない。業界に詳しい先輩に聞いたんだ」
ジェイはまたギターを弾き始めた。あたしが好きな『ミドリ』のイントロが流れて、ジェイは静かに歌い始めた。しばらく静かにジェイの歌を聴く。始めの頃より高音が聞きにくくなってきていて、少しずつジェイの喉は悪くなっているんだなぁ――と実感する。
「……この曲、『ブルースフィア』だよ」
「え――?」
あたしはジェイの言葉を疑った。
「だってジェイ、コピーはしない、全部、オリジナル、って――」
あたしの言葉にジェイはこくん、と頷く。あたしの頭の中で、かちりと音を立てて回路がつながった。それじゃあ、ジェイ、って――。
「『ブルースフィア』のヴォーカルの、ジンって――」
ジェイは再びこくん、と頷いて見せた。伝説のバンドの、ヴォーカリスト。『ブルースフィア』が活動を休止した理由、って――ジェイの、病気の、せい?
「……こんなことにならなかったら、俺はもっと、でかい舞台で歌ってたんだろうな、って思う。それも、全部夢だった。俺には――このしわがれた声とメロディだけしか、残ってない。だから、歌って、歌って歌って歌って、全部消耗して、声もメロディも吐き出して――」
……それ以上ジェイは喋らなかった。ジェイは――本当は戻りたがっている。大きなステージに。だけどそれを理不尽なモノに奪われて、生きていく希望までも見失ってしまった。簡単に「越えてみせて」と言えるような、低いハードルなんかじゃなくて。このとき本気であたしは、ジェイの生き方をドキュメンタリーにしたいと思った。それと同時に、決してドキュメンタリーなんかじゃ描ききれない世界を垣間見た気がした。そんな生易しい世界に、ジェイはいない。
「ねぇ、ジェイ――」
あたしは、深呼吸を三度繰り返してから、ゆっくりと、一つ一つの言葉の重みを考えながら、ジェイに言った。涙がせりあがってくる熱い感触を、今のあたしは隠そうとは思わなかった。ジェイがどれほど本心を語ってくれているのか――そんなこと解らない。全部が嘘でツクリゴトなのかもしれない。だけど、あたしは本気でジェイにぶつかりたい、と思った。あたし全部がぶつかっていかないと、この人とは同じ地平には立てない――そう、強く感じたから。
「あたし、ジェイをもっともっと知りたい。ジェイが考えてること、見てるもの、感じている風、拾い上げる世界――全部を。もしも……」
あたしはそこで、こらえられずに泣いた。声を上げて、幼い子どもみたいに、泣いた。ジェイの骨張った手が背中をゆっくりさすってくれているのに気がついて、また涙が溢れる。
「ジェイがこのまま、死を選ぶとしても……あたしは、ちゃんと、見てたいよ」
「……ミナト?」
ジェイの瞳が暗く閃いた。
「それは――取材対象として? 俺が『ブルースフィア』の元メンバーだから?」
あたしは――こんなときくらい、上手な嘘を吐けない自分の馬鹿正直さを呪った。確かに、そういう面もある。個人的な興味と好奇心。だけどそれ以上に――ジェイが、大切だった。大切だから些細なことでも知りたいと思うのは、人間のエゴだろうか? 涙でぐしゅぐしゅになった顔を上げると、ジェイは不思議なことに、今まで見たどんな笑顔よりも温かい笑顔を浮かべていた。
「オマエ、ばかだよな。ばーかばーか」
やさしい笑顔とは裏腹なあんまりな言い方に、あたしの涙は止まった。むっとして、それからこれが、ジェイのやさしさなんだと、気がついた。あたしは乱暴に頬をごしごしとこすった。
「……ばかって言うヤツがばかなんだよ」
あたしの言葉にジェイはがははと笑った。またギター。今まで聴いたことのないメロディだった。
「 不安定で 不確かな 僕の コトバを
聞いてくれる あなた
とがった耳と 鋭いキバの
僕の命を食らう 悪魔
だけど あなたは たったひとりの
僕の 大事な天使」
短いフレーズでそう歌って、とても楽しそうにギターを掻き鳴らすジェイは。
この世の誰が何と言おうと。
死と向かい合っている人間だった。
金曜日には、ジェイの歌声が響く。この小さな駅前で。それをあたしは――聴こう、と思った。ただ、一心に、ひたすらに、聴き続けて行こう、って――。
会うたびごとにジェイの声は聞きにくくなっていく。
歌はまだましだった。普通の声は、ほんの囁き程度にしか聞こえない。だからあたしはジェイの口元をじっと見つめて、その一言さえ聞き漏らすまいと耳をそばだてる。
「ねぇ、ミナト」
「なぁに?」
歌の合間に、ジェイはそっとあたしを呼んだ。ギターに寄り添うように座り込んだジェイは、すごく苦しそうだ。息があがっている。もしかしたら熱があるのかもしれない。
「俺……ミナトに聴いて欲しくて、歌を作ったんだ――」
ジェイは切れ切れに言った。深呼吸を何度か繰り返したけれど、ジェイの息づかいは苦しげなままだった。
「――ミナトの、ためだけに」
その一言で、あたしの身体中を熱い嵐が駆けめぐった。ジェイの瞳が真剣すぎて、少し恐ろしく思う。そして同時に、大きな喜びの波があたしの心をさらう。
ジェイは今まで、自分のためだけに歌っているんだと思っていた。あたしは、それでよかった。ジェイが「あたしが聴いていること」に喜びを感じてくれるのなら、最後まであたしはジェイの「聴衆」でいようと、思っていた。そのジェイが、あたしのために歌を作ってくれたなんて。信じられないくらいに嬉しかった。
「聴いて、くれる?」
「――もちろん」
あたしは真顔で頷いた。
ジェイはゆっくりと弦を確かめるように爪弾きながら、美しい曲を奏で始めた。そしてそれは今までに聴いたどんな曲よりも、やさしさと温かさに満ちたメロディだった。最初の頃は、とげとげしくて危なっかしかった世界が、どこか丸くてふんわりとしたものに変わっていたのだ。薄暗い街頭の下でジェイは、死人のような血の気のない顔色で、だけど懸命に世界を奏でる。その姿は強くて脆くてかっこよくて寂しくて、あたしは涙をこらえるのが精一杯だった。ジェイの言葉があたしの鼓膜を震わせて、心を揺さぶる。指先が確かめるように弾く弦も、涙に咽ぶような震える音を出す。世界には今、ジェイとあたししかいなかった。
「 この世界の 果てまでも
闇に 呑まれてしまっても
僕は少しでも 長く
ここで笑っていたいんだ
残酷な神は その手を引かず
赦しも きっと訪れない
だけど 僕は 望むよ
僕が笑うと 君が笑うから
ここでもっと もっと
笑っていられますように」
一つのフレーズが、すうっと心に沈み込んでいた。ジェイが何を望んでいるのか、解ったような解らないような、相変わらず不安定な世界。だけどあたしは、その中でたったひとつ、救いを見出していた。
「 ここでもっと もっと
笑っていられますように――」
ジェイが笑っていられるなら、あたしだって嬉しい。そしてジェイが、それを感じてくれていたことが嬉しくて――嬉しくて、仕方がなかった。
ギターの音がやんで、植え込みはしんと静寂に包まれた。ジェイは苦しそうに白い息を吐いて、こわごわとあたしを見た。あたしはジェイの頬に触れた。溶けるように熱い頬。
「ミナトの手、気持ちいい」
ジェイの凍えた手が、あたしの手を包む。
あたしはそっとジェイに頬を寄せた。ジェイの顔を両手で包んで、微笑んでから口づけた。あたしの唇から、あたしの命をジェイにあげられたらいいのに。お互いにすべてを与えて――そして奪い合うような口づけを何度も何度も繰り返して、それでも心は満たされなかった。もっと、もっともっと。あたしの心が訴える。そして口づけを繰り返す。ジェイのすべてを、奪い取って、記憶に刻みつけるように。
しばらくしてあたしとジェイは、おでこをくっつけたままでお互いを見た。
「……感染るよ?」
「うん、いいよ」
するとジェイはくすっと笑った。
「嘘。そんな感染症、ある訳ないじゃん。あの時は――ミナトを試したんだ」
「そんなことだろうと思ってた」
あたしも笑って答えた。あの時はびっくりしてうろたえたけれど、今は大丈夫。仮に感染ったって、構いやしない。あたしはもし声を無くしても、生きていける自信がある。
「……ジェイ」
そっと呼んでみる。ジェイは微かに笑った。でもその笑顔を、あたしははっきりと見ることが出来なかった。
「――あたし、ジェイにはずうっと生きてて欲しいよ。声が無くても――ジェイは、ジェイだもん」
「……」
ジェイは何も言わない。ただおでこをくっつけたままで、ジェイが微かに頷いたのを感じた。
「俺――生きててもいいのかな? 仲間の夢を奪って、それでも?」
あたしはおでこを離すと、ジェイの瞳をしっかりと見つめた。ぼやけた視界にジェイの瞳は、夜空のような色に見えた。
「うん。大丈夫。きっと――神様は許してくれるから。ううん」
あたしは、心から強く、言った。
「あたしが、許す。誰が許さなくても。だからジェイ、手術して。……生きて。生きて、行こう?」
――辛くても苦しくても悲しくても投げ出したくなっても。命を簡単に、諦めちゃいけない。ジェイには、命を大事にして欲しい。あたしの大切な人だから。
「ジェイの歌声は――あたしが、ちゃんと覚えているから。ね? あたしの隣で――笑ってて?」
ジェイは再び、今度はしっかりと頷いた。
「前に――言ってくれたよね? 歌えなくても、音楽に関わっていくことは出来る、って。俺には、まだ、メロディが残ってる」
きっぱりと言い切ったジェイの瞳に、もう迷いはなかった。真っ直ぐにあたしの瞳を見つめて、ジェイは少し笑って。
「それから――ねぇ、ミナト。ミナトもいてくれるよね?」
「……」
声が出なかった。あたしはそっと頷いて、ジェイをじいっと見つめた。
「よかった。……それだけでも俺、生きてけそうな気がする」
「ジェイ……」
あたしはジェイを抱きしめていた。
腕の中で感じるジェイの身体は熱くて、だけどそれは、ジェイが確かに生きている証なのだと思うと、あたしはそれだけで嬉しいと思えるのだった。