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やさしい雨の日曜日。  作者: おぐら あん
* *  やさしい雨の日曜日。  * *

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4

 その言葉で彩弓の気持ちも吹っ切れた。

 理の言葉を信じよう。素直にそう思えた。それに何より、理は自分と同じ言葉を使って気持ちを伝えてくれた。チャットでも読話でも伝えられるのに、ちゃんと手話で。それが何よりの証拠のように思えた。

 だから、信じよう。くろを――。

 彩弓は自分の心に向かって頷いていた。

 それから二人は傘の下で、仲良く肩を並べて駅へと向かった。――手をしっかりと握り合って。今まで何度も手を繋いだことはあったけれど、今日ほど嬉しくて、だけどどこか照れくさいと思ったことはない。今までは、必要だからそうしてきた。特に人込みの中ではぐれないようにするためには。だけどこれからは――理は、思う。

 恋人同士として、堂々と手を繋いでいいんだ――と。

 傘に落ちかかる雨粒が、優しい音楽を奏でる。彩弓には聴こえていない微かな音楽を聴いていると、意識しないうちに繋いだ手に力がこもった。彩弓はそれを感じると、同じように力をこめて握り返してくれた。隣を歩く彩弓に視線を移すと、彩弓も同じように理を見つめて、今まで見てきたどんな笑顔よりも、瞳をきらきらと輝かせて笑っていた。

 彩弓と出会えてよかった。

 今度は、手話でこう言おう。

 理は彩弓の手のぬくもりと雨音の優しさを感じながら、心の中でそっと決意を固めたのだった。


*   *   *


 (みなと)は放送局の一角に設えられた試写室の最後列で、椅子に沈み込んでいた。大きなディスプレイに映し出されているのは、白いベッドの上で長い闘いから生還した、やつれた仁の力ない微笑みだった。

 担当医からは術後の日常生活を考えて、人工声帯を使うことを薦められたが、仁は頑なにそれを拒んだ。結果仁は、声を失った――永遠に。しかし仁はそのことを悔やんではいないようだった。病室では毎日のように玩具のキーボードを弾いた。ルーズリーフに言葉を書き連ねた。何かに取り付かれたかのように、来る日も来る日も詩と曲に向かい合っていた仁。その姿を見て湊は喜んだ。仁の本心はどうだったのか、今となっては想像することしか出来ないけれど、音楽に向かってひたすらに生きようとする仁の姿が眩しかった。

 場面は仁の部屋に移っていた。病室にいた頃に比べると、顔色は別人のようで瞳は光に満ちていた。その頃の仁は積極的に手話サークルに通っていた。湊の構えるカメラに向かって、手話で語りかけてくる。おどけた表情と大げさな手話で、仁は語る。

 ミナトと逢えなかったら、俺は地獄に堕ちてたね。

 この曲、どうかな? 手話でも簡単に歌えるよ。

 寝起きの顔は撮るなよ! 一日の中で一番ブサイクなときなんだからさ!

 などなど。そんな仁と過ごしているうちに、湊も自然と手話を覚えていった。二人で声のない世界で語り合ったいくつもの夜と朝を、湊はきっと忘れられないだろう。

 さらに場面は移る。

 『クラスタ=ルティア』との打ち合わせをしている仁と、メンバーたち。メンバーたちは湊のカメラに向かって、真剣な表情で偽ることのない心情を吐露していた。

「ジンがいなくなったときは、すげぇショックだったよ。詳しい事情を知ったのは、ジンがアーティストとして一歩を踏み出したときだった」

 『クラスタ=ルティア』はメジャーデビューを果たし、じわじわとファン層を広げていた頃だった。仁はやっと数曲の楽曲を仕上げ、さまざまなレコード会社に持込をしていたときだ。その頃には湊は一度仕事をやめ、仁のマネージャーをしていた。

「何にも言わずにいきなり『解散だ』なんて言われたからな。二度と会うこともないだろう――そう、思ってたんだけど」

 ヒロが喋っている。

「最初から知ってりゃ、あんなこと言わずにすんだのによ」

 ヒロは気性の激しいところがあるから、仁にかなりきつい言葉を浴びせたのだろう。渋い表情をしている。

「でもこうして曲をもらうようになって、なんつうかジンがパワーアップしたような感じはするよな」

「確かに。おれらとやってた頃より、詩がよくなったもんな」

「湊ちゃんのおかげだよ、きっと」

 湊はカメラを構えたままで照れ笑いを浮かべたことを、ついさっきの出来事のように思い出す。胸がひりひりと灼けつく感じがした。

 さらに場面は、アーティストとして次第に有名になってゆく仁の姿を追っていた。仁はますます輝きを増していた。力に溢れていた。仁が事務所を構えたことで湊は再び働き始めた。しかし今度はテレビ局ではなく、番組制作会社。就職とともに企画を持ち込みそれが採用され、晴れて湊は仁の『ドキュメンタリー作り』に真正面から向かうことが出来るようになったのだった。

 ノーマライゼーションを目指したライブをするようになったのは、ハリウッドの映画音楽を手がけた後だった。誰もが音楽に親しみ、楽しい時間を持てるように――と。丁度その頃体感音響システムを完備したホール『響』が完成し、話題になっていた。結果的に仁のファーストライブは『響』で行われ、その後何度も『響』は会場となった。さらに福祉活動にも力を入れ始めたが、それは表の活躍とは一線を画し、ひっそりと匿名で行われていた。表向き仁が堂々と「ノーマライゼーション」を目指していたのはライブ活動だけかのようだったが、実際には多方面に渡っていたのだった。その姿もちゃんと取材してある。その場面で仁は、遠い瞳をしながら語った。

 自分が声のない世界の住人になったからこそ、見えてきたことがある。例えば色のない世界や音のない世界――感覚のない世界の住人は、ノーマルな人に比べるといろんな制限があるだろう? 制限を取り去ることは出来ないけど、その中でよりよく生活していく術は、もっとたくさんあると思うんだ。すべての人が「ノーマル」になれる日が、きっと来ると思うんだ。そのための準備を、出来るだけしておきたいと思うんだよね。

 それから表情を崩す。

 俺ってなんか、エエカッコシイ、かな?

「そんなことないよ」

 湊が言う。仁は声を立てずに笑って。

 そりゃそっか。エエカッコシイじゃなくて、カッコイイもんな、俺って。

 そんなふざけたような科白を真面目な顔で言う。

 ライブ後のインタビュウに場面が変わった。仁は汗に光る額をごしごしと腕で豪快にぬぐって、湊に親指を立ててみせる。

「お疲れ。かっこよかったよ、ジェイ」

 湊の声。

 あったりまえだろ?

 仁の手話。

 そして――最後の場面になった。再び仁は白いベッドに横たわり、青白い顔でカメラを見つめていた。しかし最初の病室とはまるで様子が違った。広い個室に溢れんばかりの花々、その隙間を縫うように楽器などの機材が搬入されて、ベッドがなければまるでレコーディングスタジオの一角のようだった。

 ねぇ。この曲、どうだろう?

 疲れたような表情で仁はキーボードの前に座ると、静かな曲を奏で始めた。これまで聴いてきた仁のどの曲よりも、明るくて前向きな曲調で、湊は少し驚いていた。変調を二度行い、その度にぐんと明るさが増す。終盤でスローテンポに変わり、しかしメロディは明るさを保ったままで、静かにすうと潮が引くように、終わった。

「……いい意味で、ジェイらしくない」

 湊の正直な感想だった。それを聞いて彼は、子どものように屈託なく笑った。

 ミナトならそう言うと思った。

 それから突然、狂ったようにキーボードを弾き始めた。かつて仁が活躍したバンド『ブルースフィア』の『ミドリ』に始まったそれは、これまでに何度も聴いてきた曲ばかりだった。カメラが仁の顔をアップで捕らえる。

 声なきままに、仁は歌っていた。口を大きく動かして、それはかつてあの駅前で歌っていたときの仁だった。歌って、歌って歌って――歌ってもなお歌い尽くしたい――そんな仁の心が見えた気がした。

 それから仁は、湊を振り返った。

 覚えてる? この曲。

 静かに始まったイントロ。忘れるはずがない。忘れられるわけなど、ない――

「 この世界の 果てまでも

  闇に 呑まれてしまっても

  僕は少しでも 長く

  ここで笑っていたいんだ

  残酷な神は その手を引かず

  赦しも きっと訪れない

  だけど 僕は 望むよ

  僕が笑うと 君が笑うから


  ここでもっと もっと

  笑っていられますように」


 仁は確かに歌っていた。湊の脳裏に仁の歌声が蘇る。決して忘れないと誓った、あの歌声。それが一気に蘇って、カメラを構えながら湊は泣いた。そしてその映像を見ている今も、辺りを憚らずに泣いていた。他の人には、ただの曲にしか聴こえないはずだ。だけど湊の心には、はっきりと仁の歌声が聴こえている。


「 ここでもっと もっと

  笑っていられますように――」


 映像は、血の気のない顔色をした仁が、キーボードを叩き口を大きく動かしている横顔のアップで止まった。音楽だけが止まることなく、画面は暗転する――

 試写室の灯りがついた。

 共に映像を見ていた制作会社のスタッフたちが、遠慮がちに拍手をした。湊は立ち上がると、深く頭を下げていた。

「ナレーターは『クラスタ』のリーダー、レイジくんに頼むつもりでいます。ジェイとの付き合いが長いのと、それからメディア的な『声』の露出が少ないので。どんなナレーションを入れるかは、『クラスタ』の皆と私で、これから決めていきます。……どうでしょうか?」

 泣きはらした赤い目と鼻を隠そうともせずに、しっかりとした口調で湊は話した。

「いいだろう。時間は枠に収まるんだよね?」

「はい、きっちり三時間十七分に、収めます」

 湊の表情は硬かった。決意の表れでもあるのだろうか。

「完成版が今から楽しみだよ。よくこれだけの記録を――」

 取締役の佐々木は、そこで言葉を詰まらせた。共に働く誰もが知っていた。湊と仁の関係を。だからこそ出来上がったドキュメンタリーであることも、湊がどんな思いでドキュメンタリーに仕立てたのかも、すべて。

「――」

 口を開きかけ、そして結局何も言わずに、佐々木は湊の肩を叩いた。湊は力強く頷きを返しただけだった。


*   *   *


 大学からの帰りに寄ったショップで、理はそのCDが山積にされているのを見つけた。

『城嶋仁 新作CD 『結』 本日発売!』

 理は目を瞠った。どの音楽情報誌にも、城嶋の新譜が発売になる――なんてことは載っていなかったはず。城嶋自身も全国ツアーのライブが終わった途端、活動休止に入ったとかで、この四か月ほど姿をくらましていた。何よりも気になったのは、このタイトル。理の脳裏に『喫茶房』の店主の言葉が蘇る。

 彼は自身の遺作に『結』のタイトルをつけられるように、音楽を作り続けていく――そう公言して憚らないらしいよ。

 遺作――? まさか。

 これが彼の最後の作品だというのだろうか?

「まさか、な……」

 しかし理の考えは当たっていた。翌日のスポーツ新聞の一面は、その話題で持ちきりだったのだ。

 音楽界の巨星 墜つ――

 そんな見出しが躍っている。理は朝のニュースでそれを知って、愕然とした。きっと日本中のファンがそうだったに違いない。報道によると、活動休止に入って一か月ほど後には既に亡くなっていたらしく、まさしく『結』は彼の遺作だったのだ。理は昨日買ったばかりの『結』を繰り返し聴いた。彼がもうこの世のどこにもいない――そう思って聴くと、なるほど曲のどれもがまさに『別れ』の予感に満ち溢れていた。彩弓からメールが届く。

『くろ、ニュース見た? もう『結』は聴いた?』

「……うん、なんか――信じられないよな」

 それからひとしきり二人はチャットで城嶋の話をした。あまりに突然すぎて、呆然としている自分に理は戸惑っていた。それは彩弓も同じようだった。

「――本当に残念だったよね」

 CD発売の翌々日の日曜日は、早朝から、涙雨かと思われるような静かな雨が、途切れることなく降り続いていた。最初の予定を変更して、映画には行かずに真っ直ぐに『喫茶房』にやって来た二人に、店主はそう声をかけてきた。理も彩弓もまだ衝撃が大きすぎて、映画を観るような心境ではなかったのだった。

「空も悲しんでいるのかな」

 ぽつりと漏らされた店主の言葉に、理も彩弓も窓から外を見た。

 雨が止みそうな気配はない。

「……城嶋仁は、神に愛されていたんだね」

 店主が独り言のように言った。

「神は愛する人間をすぐに手近に呼び寄せるんだって、聞いたことがある。彼ほどの才能の持ち主なら、それも解るような気がするよ。きっと彼は神の膝元で、ピアノを弾いてるんだろう――」

 他の場所で他の人がこんなことを言ったら、もしかしたら「ふざけるな」と怒っていたかもしれない。しかし今の理は、店主の言葉が真実のように感じられた。店内には『結』がエンドレスで流れている。ちょうどそのとき、『結』の最後に収録されている楽曲が流れ始めた。城嶋のピアノ伴奏で、『クラスタ=ルティア』のヴォーカル、シンジが歌っている。城嶋はおそらく、この曲に自分の気持ちをのせて、多くの人に伝えたかったのだろう。

 『やさしいあめ』という曲だった。


「 ほら ごらん あめがふる

  やさしい あめが

  めぐる いのちをはぐくむ あめが


  ねがわくば きみにふる あめも


  やさしいあめで ありますように――」


 最後のフレーズが心にじんと来た。

 テーブルの上に置かれた彩弓の左手に、そっと自分の右手を重ねてみる。

 いのちの温かさを確かに感じた。

 その曲を耳にしながら、そのままの姿勢で、窓外の街並みを眺める。

 そうすると不思議と、重く圧し掛かるように降りしきる雨が、この世に存在している何もかもを温かく包み込んでくれるような、限りなくやさしい雨に感じられるのだった。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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