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やさしい雨の日曜日。  作者: おぐら あん
* *  やさしい雨の日曜日。  * *

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3

「祥子さん? 今日は花を入れ替える日じゃ、ないよね?」

 店主が驚いて声をかける。祥子はうふふ、と笑った。

「今日のお客様は――畔川さん。ね?」

 意味ありげに微笑んで、花束を差し出した。祥子は理に耳打ちする。

「これでよかったかしら? ありきたりな花だけど」

 祥子が手にしていたのは、スプレーカーネーションの花束だった。

「花言葉がいいのよ。今度また教えてあげるわ」

 理が花束を受け取ると、祥子は軽くウィンクして、それから店主に「お店のお花はちゃんと木曜日にお持ちしますから」と言い残して去って行った。彩弓がじっと花束を見ているのに気がついて、理はそれを差し出した。

「はい、プレゼント」

 理が笑うと、花束を受け取って彩弓も笑った。ささやかな花束には違いなかったけれど、彩弓は本当に嬉しそうにしている。小さな黄色の花を指先でつついてみたりした。

『でも、どうしたの? お花なんて』

 彩弓の問に理は理由を誤魔化すように笑った。

「なんとなく。ゆあに似合いそうだなって、思ってさ」

『ありがとう、嬉しい』

 彩弓は理の言葉に照れたように笑う。しばらくは手の中の花束を、まるで本物か確かめるように触ったり香りを嗅いだりしていた。二人の様子に店主はさり気なくカウンターに戻り、再びグラスを磨き始めていた。それから理と彩弓は先程のライブの感想をゆっくりと静かに語り合った。

 やがてカップも空になり、二人はどちらからともなく席を立った。

「ごちそうさま」

 店主に声をかけて、理は小声で尋ねた。

「倫子さん、デートだなんて言ってたけど、いいんですか?」

 しかし彼は動じた様子もなく、にこにこしている。

「彼女ね、とても大切なひとがいるんだ。このごろやっと、そのひとと会えるようになったんだ」

「……誰ですか?」

 好奇心を覚えて理が尋ねると、店主は少し表情を険しくした。

「僕の口からは言えない。プライベートなことだしね。今度倫子さんに尋ねるといいよ」

 それからふっと口許を緩めた。

「大切なひとは、恋人とは限らないだろう?」

 謎かけのような言葉に、理はああ、と頷いた。いつだったか、倫子から娘がいると聞いた気がした。デートの場所が動物園ということは――そういうことか。

「またのお越しを」

 店主に見送られて、理たちは『喫茶房』を後にした。ゆっくりと駅までの道を歩きながら、理は考えた。さて、どうしようか。考えている間にも駅はどんどん近づいてくる。駅の敷地内の小さな緑地公園辺りに来たところで、思い切って理は彩弓に言ってみた。

「もう少し――話さない?」

 彩弓はくるりと瞳を巡らせて、それからうんと頷いた。公園に入ったところで――ついに雨が落ちてきた。見上げると今まで降らなかったことが不思議なほどの空模様だった。

「あちゃ。雨だ」

 理は呟くと、カバンに入れていた折畳み傘を取り出して、ごく自然に彩弓に差しかけた。本当は緊張で指が震えて、傘を開くのに手間取ってしまったのだけれど、それを気取られないように必死だった。一瞬彩弓がびくりと肩を震わせて、理を見つめた。

「あ。えっと、一本しかないんだ、傘」

 彩弓は慌てて首を振った。彩弓が何を伝えたいのかよく解らないままに、理は立ち止まってしまった。彩弓もその場に佇む。

 ふっと、緊張が緩んだ。

 彩弓の瞳を見つめる。きらりと星が輝くように、煌いて見えた。

 理は傘を彩弓に預けた。傘を手に押し込まれて戸惑ったように瞳を揺らめかせた彩弓の袖を引く。はっとして彩弓が理を見た。

 彩弓の瞳の前で、理はゆっくりと、左手の甲を右掌でまあるく撫でた。何度も、丁寧に。彩弓が瞳を見開いている。理は今度は、違う動作をして見せた。

 右手の人差し指で、自分を示す。

 右掌を空に向け、彩弓を示す。

 左手の甲を右掌で、まあるく、まあるく、撫でる。

 それから――なぜかとても困ったように微笑んだ。彩弓はまるで時間が止まってしまったかのように、傘を握り締めたまま動かなかった。ふいに彩弓の左目からぽろりと、雫が流れて落ちた。彩弓の涙に理はおろおろしてしまう。ただただ彩弓が何かを伝えてくるのを、待つことしか出来なかった。理が受け取った『涙の意味』に、理自身も泣きたいような気持ちになった。雨粒が次第に大きくなって、理の頭や肩を濡らす。それでも理は、動けなかった。

 す、っと彩弓が理に傘を差し掛ける。理の顔を見上げて、彩弓は涙を流しながら――微笑んでいた。

 しゅわ、おぼえたの?

 彩弓の口の動きに、理はぎこちなく微笑んでから頷いて見せた。胸の前で親指と人差し指を交差させるように動かす。今度こそ彩弓は、晴れ渡るような満面の笑みを浮かべた。

 うれしい。ありがとう。

 彩弓は確かにそう言った。それから彩弓は傘を理に預けて、片手に花束を持ったまま――という少し不自由な状態で、両の手で言葉を語り始めた。今まで理と彩弓とは、一緒にいながらケイタイのチャットを交えて会話することがほとんどだった。耳が聞こえない彩弓とスムーズに意思を伝え合うには、それが一番簡単だったから。けれどいつからか理は、もっと彩弓ときちんと話をしたい――切実にそう思うようになっていた。ケイタイのチャットさえあれば、手話は使わなくてもいいんじゃないか――そんなふうに考えたこともあったが、やはり文字での会話に限界を感じていた。もっと彩弓と話したい――それはつまり、もっと深く彩弓を知りたいということ。理は彩弓と時間を共有するうちに彼女に恋心を抱き、だからこそ手話を覚えよう、そう考えたのだ。そして手話で彩弓に想いを伝えようと、大学のボランティアサークルに顔を出して少しずつ練習してきたのであった。とは言え、理はまだあまり多くの手話を知らない。だから今彩弓が何を語っているのか、残念ながらほとんど理解できなかった。けれど、確かに彩弓の気持ちが伝わってきたように感じていた。

 彩弓は語り終えると、今度はケイタイを取り出した。慣れた手つきでどんどん文字を入力して、それを理に送った。

『くろが手話を覚えてくれるなんて考えたこともなかったから、すごく嬉しい。あたしもほんとはくろと手話で話せたらな、ってずっとずっと思ってたの。でも、それをくろに強制することはできないし、とりあえずはチャットで意思が伝えられるから、いいか、って、考えてた。

 でもね、くろがさっき手話で話してくれて、思ったの。

 あたしにとっての言葉は手話なんだな、って。チャットするより読話するより、やっぱり相手の目を見て、そして手話で話すのが一番なんだ、って。

 だから――なんかうまく言えないけど、感激しちゃった。

 本当に、ありがとう。

 ……って、手話で言いました。ちょっと難しかったかな……?』

 彩弓のメッセージを読んで、理は正直な気持ちを送り返す。

「ごめん、ほとんど解らなかった。けど、なんとなくニュアンスは解った気がする。考えてみたら、ゆあと会話するのに、ゆあの瞳をちゃんと見てることの方が少ないんだよな。ちょっと寂しいよね、傍にいるのにさ。だから、手話を覚えたいと思ったんだ」

 彩弓はそれを読むと、顔を上げて理を見つめた。

 もっとおぼえたいと、おもう?

「もちろん」

 理は力強く頷く。それから少し照れたような困ったような表情を浮かべた。

「ところで――、返事を聞かせてもらえる?」

 それから再び、さっきの手話で彩弓に語りかけた。

 右手の人差し指で、自分を示す。――おれは。

 右掌を空に向け、彩弓を示す。――彩弓を。

 左手の甲を右掌で、まあるく、まあるく、撫でる。――愛しています――。

「おれと――付き合ってくれる? 友だちとしてだけじゃなくて、恋人として」

 今度は彩弓が照れたような困ったような表情を浮かべる番だった。俯いて――それから顔を上げて。

 あたしでよかったら。

 それから理の瞳をじっと見つめて、顔を真っ赤にしながら、理が彩弓に語りかけたのと全く同じ手話で言った。理は思わず彩弓を抱きしめたい衝動に駆られた。持っていた傘を放り出すと衝動に身を任せて、彩弓を抱き寄せる。自分の身体で包み込む直前の、彩弓のはっとした表情が瞼に焼きついた。一瞬、何が起こっているのか解らない、というような、戸惑ったような、だけど次の行動を予測して恥ずかしがっているような、大きく瞳を瞠り、頬を赤らめた、愛らしい表情。瞳を閉じてしばらくきゅうと抱きしめていると、腕の中でもぞもぞと彩弓が動く気配を感じて、直後にケイタイが鳴った。

『くろ、恥ずかしいよ~』

 思わずぱっと身体を離して、理は反射的に右手で鼻の辺りを摘むような動作の後に、手を立てて頭を下げた。彩弓は思わず吹き出した。

 うん、だいじょうぶ。

 まだ彩弓は赤い顔をしていた。理ははっと我に返ると慌てて放り出した傘を拾い上げて、再び彩弓に差し掛けた。今度はちゃんと、自分も入りながら。

「なんか、ごめん。舞い上がっちゃって」

 理はケイタイでそうメッセージを送ってから、彩弓の瞳を見た。

 きにしないで。

 彩弓は何度も首を左右に振った。

『でも――ほんとにあたしで、いいの? あたしなんかが、くろと付き合っちゃったりして、いいの?』

 彩弓の言葉に理は大げさなくらいに首を振った。

「ゆあだから、いいんじゃんか。よくなかったら、告白なんてしないから」

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