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今にも泣き出しそうな曇天を見上げて、理はため息をついていた。ため息――とはいっても、重い気分から生まれるものとは違う。夕方には雨になるだろう――という天気予報にも、今日の理はへこたれることはない。
待ち合わせはいつもと同じ駅前だった。
しかし目的地はよく行く映画館ではなくて、コンサートホール『響』だった。世界的にも大人気のアーティスト・城嶋仁のライブが、今日の目的なのだ。
そもそも理が城嶋仁を知ったのは、バイト先のコンビニの有線放送がきっかけだった。何度も聞いているうちに耳に馴染んだところで、行きつけの喫茶店でもBGMとして流していた。店主に尋ねると、常連の倫子さんに薦められたんだ――そう言って三枚組のCDを理に貸してくれた。『起』『承』『転』とタイトルが付けられたCDに収録された楽曲は、どこか懐かしいようで新しく、アップテンポなようでふと心が和むような印象を受けた。理はたちまち城嶋仁の楽曲に魅了されてしまった。
「彼の生き様がね、また格好いいんだよ」
店主はそういいながら、理に笑いかける。
「本当はあるバンドのヴォーカリストだったらしいんだけどね、病気で声帯を失って、それからアーティストに転向したらしいね。この三枚組のCDにしても、どの曲から聴いてもいいし、通して聴いてもちゃんとスジが通った構成になっていると思わないか?」
「はい、確かに」
理が頷くと、店主はまるで自分が褒められたかのように、続けた。
「だろう? 彼は自身の遺作に『結』のタイトルをつけられるように、音楽を作り続けていく――そう公言して憚らないらしいよ。それがどんな作品になるのか、注目していきたいよねぇ。僕の方が先に逝っちゃうかもしれないけど」
――そんなやり取りがあった後、城嶋の楽曲は驚くべき速度で日本中に広がっていった。人気は海外にも広まり、今ではハリウッドを始めとした海外の映画音楽までも手がけるようになっていた。最近の最大のヒットは、フランス映画『望郷』のサントラCDだ。特に挿入歌となっている『はるけき山懐を』は、歌詞はフランス語だが、有線のリクエストではダントツの第一位だ。
だからライブのチケットも簡単には入手できない。彼の公式サイトのみの取り扱いで、エントリーして抽選を待たなければならない。一会場につき一人一回のエントリーが可能で、運よく当選すれば、一枚のチケットに対して二人が入場できる、全席指定のプラチナチケット。一部では「宝くじの一等よりも当選確率が低い」という噂があるほどだった。
理一人だったら、そこまでしてチケットを手に入れようなんて思いもしなかっただろう。『映画鑑賞友だち』の彩弓が、やはり城嶋が音楽を担当した映画『さらさらと時間は流れて』を観た帰りに、こんなことを言ったのだった。
「城嶋仁のライブって、すごく楽しいんだってね。いつか行ってみたいなぁ」――と。それで理は決意したのだ。彩弓のためにチケットを取ろう、と。それからが大変だった。まず自分でエントリーし、それからありとあらゆる友だち――ネットで知り合った、顔さえ知らぬ友人にも声をかけた。貴重なエントリーの機会にも関わらず、ほとんどの友人が快く理に協力してくれた。一部は学食で定食をおごったりして買収し、協力してもらう。結果、あるメール友だちが幸運にも当選し、快く定価で譲ってくれた。彩弓に「チケットが取れた」とメールで報告すると『嘘? 嘘? ホントに? すごい! 本当なの?――』と、『嘘』と『本当』がめいっぱいの返事が来て、なんとも言えない彩弓のかわいらしさに思わずにやけてしまったくらいだった。
そんな経緯があるから、理は上機嫌だった。
一人で待ち合わせ場所に佇んで、にやけたりため息をついたりしていると、握り締めていたケイタイが震った。
『お待たせ♪ 遅くなってごめんね』
理が顔を上げると、目の前で彩弓がにっこりしていた。
「大丈夫、おれもさっき来たトコだから」
それから理は尋ねる。
「どうする? もう会場に向かう? 時間的にはちょっと早いけど……」
彩弓は人差し指でバス乗り場を示した。理もそれに頷きを返すと、さっと手を差し出した。彩弓がその手を握る。二人は手を取り合うと、ゆっくりとバス停へと向かった。
城嶋仁のライブスタッフは、大学生が中心となって設立したボランティアサークル『皆人』が中心となって、すべてボランティアで賄われているという。だから入場口のスタッフの動きも、決して手際がいいとは言えない代物だった。慣れないなりにも皆一様に懸命に働いていて、理はなんとなくほっとした。
「……あれ? くろかわじゃん」
順番を待つ人の波を誘導していた高校生くらいの少女が、理を見て驚いたような声を上げた。
「――まる? オマエ、ボランティアなんてやってんの?」
「ひどい言い方だなー。『なんかやれ。もったいない』って煩かったじゃんか。こうしてがんばってんでしょ?」
しかし少女は笑っていた。
「ミツルがさ、スタッフになれれば城嶋仁のミニライブに行けるって言うから、応募してみたんだ。そしたらアタシだけ通っちゃって」
それから少女はにんまりとした。
「そっちの人、彼女? やるじゃん、くろかわ」
「おれのことはどうだっていいだろー」
理が言葉を返す。そうして話をしていると、左腕に腕章を巻いた、その場のリーダーらしき女性――おそらく『皆人』のメンバーなのだろう――が、少女に声をかけた。
「香菜子ちゃん! お喋りもいいけど、しっかり誘導だよ!」
香菜子はぺろりと舌を出した。そんな仕草はまだ全くの子どもに見える。
「ごめんなさい、都さん。がんばりまーす」
都、と呼ばれた女性は笑顔で頷き、他のスタッフの手助けに向かったようだった。それを確かめてから香菜子は理を振り返った。
「ミニライブもすっごいよかったから、きっとライブもサイコーだよ。彼女さんと仲良くねぇ」
「うるさいな! 働け、お前は!」
香菜子はひらひらと手を振ると、誘導の仕事に戻っていった。理は少し不安そうな表情の彩弓に向かって、ゆっくり言った。
「バイト先のコンビニの駐車場でさ、よくたむろしてるんだ、アイツ。心配してたんだけど、こういうことに参加できるんだから、大丈夫だよな?」
彩弓はうん、と、勢いよく頷いた。
チケットを渡して場内に入ると、それだけでぴんと空気が張り詰めるような緊張感だった。すべての座席に「体感音響システム」が導入されている。それがどれほどの臨場感を生むものなのか、理にも解らない部分が大きいが、それでも通常の会場でライブを楽しむよりはさらに強い臨場感や一体感が生まれるのではないだろうか、と思う。どうしても彩弓と一緒に来たかった理由は、そこにもあった。隣に座った彩弓がそっと理の袖を引いた。
なんか、きんちょうしてきた。
彩弓の口の動きを見て、理も言った。
「おれも。どんなライブなんだろうな?」
それから二人は入場前に渡されたパンフレットに挟み込まれていた「体感音響システム」の説明書を読んだ。リモコンをあれこれ操作してみて、しかしまだ肝心の演奏が始まっていないので、いまいちぴんとこないのであった。
場内にはどんどん人が入ってくる。ざわめきが次第に大きくなってゆく中で、理はちらりと彩弓の横顔を見た。頬が上気していた。場内はどこか整然とした印象があって、ライブというよりはクラシックなどの演奏会を聴きに来ているような雰囲気だった。ステージの中央より左寄りにピアノが置かれ、奥の一段高いところにドラムセットが置かれている。アンプなどの機材も搬入されていた。プログラムには城嶋が楽曲を提供しているバンド『クラスタ=ルティア』の演奏も含まれていた。『クラスタ=ルティア』はやはり若者を中心に絶大な人気を誇るバンドで、城嶋は以前、彼らと共にバンドを結成していた時期があり、そんな関係から今もよく楽曲を提供しているそうだ。城嶋のライブで彼らが演奏することも珍しくない。城嶋のライブが人気なのは、そこにも理由があった。
やがて会場は人でいっぱいになり、開演を知らせるベルが鳴り、ステージに一人の男性が現れた。
城嶋仁だ。
さらにもう一人の男性が城嶋の隣に立つ。『クラスタ=ルティア』のヴォーカリストのシンジだ。場内はどよめきと拍手で埋め尽くされた。シンジがマイクを握る。
「本日はようこそ! これから短い時間だけど、楽しい時間を共有しましょう。第一部は仁のピアノ、二部が俺たちの演奏と仁のピアノとのセッションっていう構成になってます! けど、そのときの気分とノリで内容が大きく変わっちゃうかもしれません。プログラムと内容が変わったときは、仁の気分がノッてる時だから、『ああノッてるんだなぁ』と思って、参加してください!」
あちこちから歓声が上がる。
「それから、これからちょっと簡単な曲を演ります。それでシステムの調整をしてくださいね。んじゃ、いいか? 仁」
城嶋がこくんと頷いて、ピアノに向かった。軽やかに演奏が始まる。
「えっと、このライブのための書き下ろしで『ヒビキ』!」
長めのイントロの後に、シンジが歌う。軽やかなピアノに同調するような、軽やかで甘い歌声だった。
「 ハナは あざやかに トリは かろやかに
カゼは すずやかに うたう ひびきあう
あなたが 愛を歌ったら
きっと応える 愛がある
ヒビキあう 世界を ふたりで
感じ合って 謳おう 生きよう 」
ちゃん、とピアノが締めて、拍手が起こる。シンジはぺこりと頭を下げる。
「調整はばっちり? 演奏中でも変えることは出来るけど、あんまり動きたくないでしょ? 大丈夫かな?」
シンジが場内を見渡すと、わっと大きな拍手が起こった。中には大きな声で「大丈夫―!」と返事をするものもあった。
「よしよし、大丈夫みたいだね」
それから一呼吸置いて、さらに喋る。
「じゃあまあ、しばらく仁のピアノをお楽しみくださいな。俺とは、また後で!」
ひらひらと手を振ってステージから去る。ピアノにピンスポットが当たった。城嶋は一度立ち上がると、丁寧に頭を下げてからもう一度ピアノに向かう。
最初の曲はCD『起』に収録されている『世界は君の手の中に』。それからもCDに収録されたいくつかの曲を、アレンジを変えて演奏し、または即興らしい、聴いたことがないような短い曲を演奏の合間に三曲ほど弾いた。
彼は一曲終わるごとに立ち上がって、丁寧に頭を下げる。いわゆるMCは存在しない。彼は彼のペースで淡々と、時には激しく時には穏やかに、そして楽しそうに嬉しそうに、ピアノを弾いていく。そして加えて言うなら、彼は常に全力だった。彼の動きに合わせて汗が散るのが、スポットライトに照らされてきらきらと光る。それはまるで彼の命が迸るような情景だった。
理は不思議な感覚で彼のピアノを聴いていた。身体全体に低音のリズムが響き、ヘッドレストに埋め込まれたスピーカーから旋律が理に語りかけてくる。それは優しくて、だけど激しい世界だった。どの曲を聴いても、確かな激しさを感じる。
城嶋の音楽に対する姿勢が、旋律に宿っているのかもしれなかった。
第一部の最後の曲は『遠くて遠いあなたへ』だった。やはりCDに収録されている曲だが、アレンジが全く違った。曲の根底にこれまでのどの曲よりも強く激しい愛情のようなものを感じた。もしかしたら彼は――この世で一番大切な、たったひとりにこの曲を捧げているのではないか――、そんな気がした。どんなに傍にいたとしても、どんなに深く愛情を抱いていたとしても、ふっと「遠く」感じる瞬間があると、理は思うときがある。どんなに手を差し伸べて、ぎゅっと強く抱きしめることが出来たとしても、人は他の誰かと完全な「ひとつ」にはなることが出来ない。そんな遠さ。そんな、もどかしさ。それを誰かに伝えたくて、彼はピアノに向かっているのではないか。




