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『映画観て、ちょっくらお茶でもしながら感想を言い合おう、って、ただそれだけだよ』
『くろ』の言葉に嘘はないだろう。
「もし会ってガッカリしちゃったら?」
『ゆあだってガッカリかもしれないじゃん? そしたらトモダチやめちゃう?(;_;)』
「そんなことないけど……。くろはどうなの?」
『そんなことないに決まってんじゃん。だから、映画行こ?』
そこまで言われたら、もう断れなかった。もし本当に会ってガッカリして、それでトモダチじゃなくなってしまったとしたら――悲しいけど、しょうがない。それよりも頑なに断り続けることでせっかくいい感じに仲良く出来てる『くろ』と気まずくなる方が、怖かった。あたしは、返事をした。心なしかボタンを押す手が震えていたように思う。
「解った、行こう、映画」
『よっしゃ。じゃ、今度の日曜日の二時な。遅れんなよ』
「くろこそ。じゃあね」
あたしたちは次の日曜日に会う約束をして、チャットを切った。
それからあたしは、考えた。
あたし、どんな顔して『くろ』に会えばいい?
今までケイタイ番号だけはどうしても教えなかった理由が、そこにはあるのに。
あたしが『洋画は絶対字幕派』な理由が、そこにはあるのに。
何度も何度も誘われても、断り続けてきた理由も、そこには――あるのに。
だってあたしは――字幕がないと、洋画が見られないのだ。ううん、洋画だけじゃない。どんなときでも「文字」がなくちゃ、内容を知ることも出来ないし、感想を伝えることが出来ない。だってあたしは――耳が聞こえないんだもの。普通のトモダチなんて、ただの一人だっていやしないのに? 初めて出来た「普通のトモダチ」――ううん、今ではそれ以上の感情を抱いてしまっている『くろ』に、何をどう説明したら、今まで通り接していけるんだろう。耳が聞こえないなんて、本当は大した問題じゃないってことくらい、頭ではちゃんと解ってるよ。それでも――どこかであたしは、普通の人とはトモダチになんてなれない、って思ってるのだ。あたしがずっと隠してきたほんとを知らない『くろ』に、どんな顔して会いに行ったらいい? それよりも問題は――顔を合わせても、チャットで喋ったみたいに打ち解けられるのか、ってこと。そんな自信、全然ないよ?
しばらくあたしは携帯をじっとりと睨みつけたままで、『くろ』に向かってひたすら同じ問いを繰り返していた。
日曜日なんてこなければいい。『くろ』に会うって決めてからは毎日そう思った。
当たり前だけど、時間は流れる。
土曜日の夜になると、あたしはもう逃げ出したい気持ちでいっぱいになっていた。次の日のことを考えるだけで胸がどきどきして、口の中がからからに乾いて、そして頭が真っ白になる。『くろ』と無事に落ち合えたら、最初になんて説明しよう? 『くろ』が話しかけてきて――読話がちょっと苦手なあたしには、もし早口だったらなんて言っているのか解らないかもしれないし、うまく返事も出来ないかもしれない。そんなことより。
『くろ』が本当にがっかりしちゃって、まともに相手をしてくれなかったら、どうする? 一緒に映画を観るのも辛いかもしれない。
そんなことを考えれば考えるだけ、不安は大きくなった。土曜の夜は大抵夜更かししてネットサーフィンするのに、今日だけはそんな気持ちにはなれなかった。パソコンの前にでんと構えて座ってスイッチを入れてみたけれど、あたしのスイッチは切れたまんま。いろんな気持ちがばらばらになったまんま、繋がらない。気がつけばため息ばっかりついていた。それでもいつもの習慣でメールチェックだけはしてみた。七件の新着メールの中に、『くろ』からのメールもあった。
『 ゆあへ……
今日は休みだったんだよね? 何して過ごしてた?
おれはなんか、キンチョーしまくってるよ
ケイタイにメールしてもよかったんだけど、深夜だしちょいハズいからパソに送ってみたりして
とにかく! 明日(っていうか、もう今日だけど…)楽しみにしてるから。
そいじゃ、また!』
シンプルだけど、なんだかちょっといつもの『くろ』とは違う感じのメールだった。
そっか、『くろ』も緊張するんだ。あたしなんかと会うって約束しただけで。
そう思ったら、ちょっと気持ちがラクになった。
もうここまで来たら、当たってみるしかない。それで木っ端微塵になったって、それはそれでどうしようもない。返事をどうしようか迷って、何度も書き直した挙句、あたしが『くろ』に送った返事はこうだった。素直に本当の気持ちを伝えようと思ったら、これ以上も以下もない――そう思える文面になった、と、思う。
「 今日はぼんやり過ごしてました。
あたしも、すごい緊張してる。
無事に落ち合えるといいね。
また、明日ね。おやすみなさい。 ♪ ゆあ ♪」
それからその夜はまともに眠ることが出来ないまま、日曜日になってしまった。半分眠っているようなぼうっとしたままでブランチのフレンチトーストを食べて、顔を洗って、出来る限りのお洒落をして、家を出た。待ち合わせの時間よりちょっと早めに着く時間を見計らって。
日曜日の駅前が、こんなに賑やかだったなんて、あたしは知らなかった。あたしは駅の南口に立って、大きな柱に寄りかかった。
それから手早くメールを打つ。待ち合わせ場所に着いたら、メールで知らせようねって約束してあったから。
「今着いたよ。 ベージュのコートに赤と白のマフラーしてる。外の柱のトコにいるね。ゆあ」
送信ボタンを押したとき、自分の指が小刻みに震えているのに気がついた。ほんの少しの間をおいて、携帯が震えた。『くろ』からの返信。
『早いよ。あと五分。くろ』
短い返事。あたしは俯いて、ただ『くろ』が現れるのを待った。どんな人だろう。やさしい人だといいな。今までチャットで喋ったときみたいに、ちゃんと「話」が出来たらいいけど――。
頼りになるのはケイタイだけ。あたしはそのケイタイを両手でめいっぱい握り締めたままで、行き来する人の流れを見ていた。通り過ぎる人に笑われている気がする。怖い。胸のどきどきはどんどんどんどん、早くなる。早く『くろ』が来てくれればいいのに。だけどやっぱり、来てくれなくっても、いい。会うのが楽しみで、だけどとっても怖い。今のあたしはきっと不安でどうしようもなく強張った表情をしているに違いない。皆が横目でちらっと見るのも、たぶん変な顔をしてるからだ。どうしよう。帰っちゃおうか。――そんなことまで考えて、慌ててこころの中で首を振った。もう引き返せない。約束、したから。初めて交わした『くろ』との約束は、絶対に破りたくなかった。そんなことして『くろ』にがっかりされたくない。もし本当に「がっかり」されちゃうことになっても、会わずにすっぽかして「なんだよアイツ」って思われるのは、いやだ。この約束は絶対守りたい。『くろ』と――それから、あたしのためにも。
そうだ。
今日、『くろ』に会う、って決心できたあたしのためにも、あたしはがんばらなくちゃいけないんだ。ここで一歩踏み出さなくちゃ、きっとこれからだって歩いて行けっこないじゃない? がんばれ、あたし。がんばれ――がんばれ! もうちょっと、ただもうちょっとここで、立って待っているだけでいいんだから!
――『くろ』が来るまでの五分は、今まであたしが経験したどんな五分よりも、いっぱい緊張して、いっぱい不安になって、そしてそしてながーい五分だった。
また携帯が震えて、あたしは緊張と不安を抱えたままで文面に目を走らせた。
『お待たせ』
ああ、神様、どうか『くろ』が、ほんとのあたしにガッカリしませんように。
あたしはそんなつまらない願いをこころにそっと呟いて、ゆっくりと顔を上げた。




