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やさしい雨の日曜日。  作者: おぐら あん
* *  木曜日 午後のお茶会。  * *

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10/16

2

「どうぞ」

 それから私たちは、押し黙って紅茶を味わった。何か話すべきなのかもしれなかったけれど、何を話したらよいのかさっぱり見当がつかない。ぽつりぽつりと思い出したような世間話を挟んで、静かにアールグレイを飲む。やがてポットは空になった。

「ごちそうさまでした」

 言って立ち上がりかけた私を店主が制した。

「駅までご一緒しましょう、すぐに片付けますから」

「いえ、大丈夫ですよ、すぐそこですし」

 私が慌てると店主は厳しい顔つきをした。だけど瞳は優しかった。

「だめです。女性の一人歩きは危険ですから」

 私は結局、もう一度腰を落ち着けてしまった。店主は言葉通り手早く食器を纏め上げると洗い物を始める。ポットやカップを優しく労わるように、そうっと洗う。紅茶を淹れるときと同じように――いや、それ以上に丁寧で温かく、私の目は彼の振る舞いに釘付けになっていた。その気配を察してか、店主は静かにこう言った。

「職業病みたいなものでしょうかね。僕が修行した喫茶店のマスターに言われたことがありまして。たとえどんなことがあっても、器を手荒に扱っちゃいけない、って。これで食べさせてもらっているようなものなんだから――と」

 懐かしそうな表情を浮かべて、ゆっくりゆっくり、食器を洗う。流れる水の音が心地よかった。

「そんなこと、考えたこともないわ。ガチャガチャ煩い、って、よく言われて――」

 不意に、涙が溢れた。

 店主に見つからないうちに涙を隠そうとしたけれど、だめだった。彼は目ざとく私の涙を見つけて、だけどうろたえたりせずに静かに、本当に静かに、言った。

「――涙を溜めるのはよくないですよ。吐き出しちゃえば、楽になれます」

 瞳はシンクに落としたままで。手を動かしながら。表情は、優しくて柔らかで。

 そんな店主を見ていたら、ますます泣けてきて、どうしようもなくなってしまった。

 店主は私に涙の理由を問うことはなかった。知りたいと思っていないのかもしれないけれど――目の前で涙を見せられ、それに触れないように振舞うのと、全く気にせずにいるのとでは、大きな違いがあるように思う。店主の場合はどうなのだろう? 後者であって欲しい反面、前者であってくれたら、と、切なく願う自分がいた。

 店主は沈黙のうちに洗った器の水気を丁寧にふき取り、ゆっくりと確実に棚に戻した。すべてがきちんと片付く頃には、私もようやく落ち着きを取り戻した。

「なんだかみっともないところをお見せして……」

 私が詫びると店主は静かに首を振った。

「みっともなくなんてないですよ。誰にでも、そういうときはあるでしょうから」

 店主の言葉は温かく、動揺がぶり返しそうになる。こういうときにこんな形でこの人に優しくしてもらってしまったら、私はますますこの人に惹かれてしまう。

 だけど素直に、その優しさが嬉しかった。

「……私ね」

 はい、と店主が静かに先を促す。どうして口を開いてしまったのか、私にもよく解らない。解らないままに――話し始めていた。視線をじっとカウンターの上に据えたまま。

「バツ一なんです。本当はキャリア志向でバリバリ働きたかったんだけど、妊娠を機に仕事をやめて家庭に入ったの。娘が生まれて、平凡だけどそれなりに幸せな毎日でした」

 娘――聡恵のことは、もうずっと忘れようとして生きてきたはずなのに、話し始めると脳裏に愛くるしい笑顔が止め処なく溢れかえった。あの時は渦の真中でもみくちゃにされているようで解らなかったけれど、確かに私は、聡恵を愛していた。今なら解る。

「元の夫という人は、育児には全く関心がない人でした。口では子どものために仕事をやめて、家庭に入れと言いながら、実はきっと、育児に協力したくなくて、私に押し付けたかったんでしょう」

 私は大きなため息をついた。聡恵がどんなにぐずっても喚こうとも、傍に寄ってあやそうともしなかったあの人の、冷たい背中を思い出す。さらに苦しさが思い出される。

「私は――育児に疲れてしまって。そのうち聡恵に……手を、上げるように、なりました――」

 動悸が激しくなる。聡恵を叩いていたときの気持ちが蘇る。かっとして手が出る。その後猛烈な後悔の波に飲み込まれて、泣きながら聡恵を抱きしめて、繰り返し何度も謝った。だけどまたかっとすると手を出してしまう。堂々巡りだった。暫く私が黙っているのを、店主も黙って見守ってくれていた。私は毒を吐き出すように、さらに告白を続けた。

「それで、聡恵は一時施設に預けることになりました。周りの視線が痛かった。私を母親失格だと、無言で責める視線が。夫とは幾度も話し合った結果、私たちは離婚することになって……聡恵の親権は夫が持つことになりました。当然ですよね。だって私――」

 その先は、やはり言葉にはならなかった。

 捨てたんですもの、私は聡恵を。

 小さな手を伸ばして私にしがみつこうとする聡恵を振り払って、吐き捨てたんだもの。

 あんたなんか要らない――と。

 私が飲み込んだ言葉を、店主が察したかどうか――それは解らない。けれど彼は顔色ひとつ変えずに、じっと押し黙っていた。口を挟もうともしなかった。私はまるで人形に向かって懺悔しているようだった。

「それっきり、娘とは一度も会ってません。夫と別れ娘を捨て、一人で私は生きてきました。娘には――いいえ、夫にも私は、ひどいことをしたと、思ってます。だから、私はきっと、幸せになっちゃいけない、そう思って、生きているの」

 店主は何も言わなかった。重苦しい沈黙が訪れた。私はふっと息をついて、言った。

「ごめんなさい、こんな話。聞かされる方も迷惑ですよね。ごめんなさい、帰りますね」

 立ち上がりかけた私に店主が声をかける。

「駅までご一緒しましょう」

 私は黙って頷いていた。一人になりたくなかったから。店を出て店主が鍵をかけるのを待って、私たちは連れ立って歩いた。その間、会話らしい会話は何一つ交わされることなく、夜の街をただひたすらに駅まで歩いた。街灯に照らされて煌々と白い街路は、肌で感じるよりなおいっそう寒々しい。なのに私の心は温かかった。隣に誰かがいるだけで、こんなにも温かくいられることを、私はまざまざと実感していた。愛し合って結婚し、望んで恵まれた子を持ったはずなのに、こんなふうに感じたことは一度もなかったように思う。自分との闘いに苦しんでいたあの頃、ちっぽけだけど大切なことを、私は見逃して生きていたんだと思うと、悔しくて仕方なかった。やがていっそう強い明かりに浮かび上がるように、目の前に駅舎が現れた頃、店主が遠慮がちに声をかけてくれた。

「誰にだって忘れてしまいたい思いや、捨ててしまいたい過去のひとつやふたつ、あるに決まっています」

 思わず私は店主の顔を見ていた。どんな表情を浮かべてこんなことを言っているのか、確かめたくなったのだった。

 店主は、厳しくて寂しい瞳をしていた。今までにこんな表情を見たことは一度もない。いつだって穏やかに優しく微笑んで、訪れる人を迎え入れる彼しか、私は知らない。

「僕にだってありますから。まだ若い頃――そう、何十年も前のことを、昨日のことのように思い出しては、後悔する日々です」

 私は何も言わず、黙って店主の言葉を聞いた。これに似た言葉を、今まで一体どれだけ聞いてきたことだろう。一度だって素直に耳に入ったことはないのに、彼の言葉だけは私の耳を簡単に通り抜け、身体の芯をするりと通り、深奥に音もなく吸い込まれていった。神秘的な体験だった。

 改札口までやってくると、店主は立ち止まった。

「これからをどんなふうに生きていくか――それが大事なんだって、呪文のように繰り返して、僕は生きています。これがまた難しいんだけどね。過去にいつまでもとらわれていちゃ、きっと娘さんだって喜ばないと思いますよ。それで、いいんじゃないでしょうか?」

 難しく考えて、構えたりしなくても。

 最後にそう付け加えて、店主がやっと、笑顔を見せた。私もちょっと微笑んでみる。

「送ってくださってありがとうございました。それから――アールグレイ、ごちそうさまでした」

 私は言って、改札を通った。私の背中に店主がいつもと同じ言葉を贈ってくれた。

「お気をつけて。またのお越しを」

 その言葉に、また涙が溢れそうになった。

 私は振り返るとゆっくりと頭を下げた。店主が手を上げて応じ、私はそのままホームへと向かう。

 電車を待つ間、店主の言葉が私の中に渦巻いていた。

 これからをどんなふうに生きていくか。

 そればかりを考えた。強く思ったのは、一度は『要らない』と捨てた聡恵に、詫びたいということ。許されるなら、直接顔を合わせて、詫びたい。

 ごめんね。どうしようもない母親でごめんね。

 瞳を閉じて、遠い面影になってしまったあの娘に向かって、心から謝ると、少しだけ身体が軽くなったように感じた。やがてホームにやってきた電車の扉が開く。

 それは私の瞳には、新しい世界へと続く扉が開いたように映った。

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