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やさしい雨の日曜日。  作者: おぐら あん
* *  金曜日のうたうたい。  * *
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 伝説のインディーズバンド。

 そう、呼ばれているバンドグループがあった。名前は『ブルースフィア』。仕事の関係で音楽に詳しい先輩によると、最初は小さなライブハウスでの活動が主流だったそうだ。口コミで「すごいバンドがいる」って噂が流れて、すぐにライブハウスはいっぱいになった。しばらくして自主制作したCDがめちゃくちゃに売れるようになった。誰もが実力を認めるバンド。特にヴォーカルの「ジン」が描く音と詩の世界は日本中を巻き込んで、一大ブームが起こる。さらにこれからの活躍が期待される――という段階に来て、『ブルースフィア』は活動を休止した。そしてぷっつりと音楽業界から姿を消して、半年ほどが経ったそうだ。

 成功への第一段階を軽くクリアしたのに、そこで活動をやめてしまった――というところが『伝説』なのらしい。普通ならもっとがんがんに活動して、売りまくって、もちろんメディアへの露出も進んで――とにかくもっともっと大きくなれるバンドだった。それをやめてしまったのが、なんだかカッコイイ、って、ファン層はじわじわと拡大しつつある。ただ残念なことに、新譜の発表がないから、もう彼らの楽曲を手に入れることは、困難に近いらしいけれど。

 それを先輩から聞かされて、あたしは、不謹慎にもこんなことを思っていた。

 もしもそのバンドのメンバーと出会う機会があったなら、どうして活動休止を選択したのか確かめて、ドキュメンタリーを作ってみたいなぁ――と。


*   *   *


 どうしてあたしは、立ち止まったんだろう?

 自分でそんなことを考えながら、あたしはただ、駅前の植え込みの陰で歌う彼を見ていた。

 やっとの思いで仕事を終わらせたあたしは、たった今、最寄り駅から出てきたところだ。何とか潜り込んだテレビ局の、ADのアシスタントみたいなことをしながら、必死に生きる毎日。夢は――いつかプロデューサーになって、小さな日常を丁寧に追いかけたドキュメンタリーを作ること。平凡と言えば平凡で、途方もないと言えばとてつもなく途方もない夢を食べて、あたしは生きている。

 ついさっきまでは、一刻も早く帰って休みたい一心でひたすら足を動かしていたはずなのに。だけどあたしの足は地面に、まるでクリップが磁石に吸い付けられてしまうように、ぴたりと止まってしまった。金曜日の終電間近ということもあって、一杯引っかけた帰りのおじさんや、頬を上気させた――おそらく、お酒に酔っているせいだけでもないだろう――おねえさんが、立ち止まるあたしをゆっくりと、または足早に追い越していく。人影もまばらな駅前で彼はただ、ギターを抱えて歌っていた。夜に紛れて歌う彼に近付く人はいない。そりゃそうかも。だってここはあまり活気のない、ただのベッドタウンの駅だもの。朝夕のラッシュ時に混雑するだけで、彼のような、いわゆるストリートミュージシャンなんて、今まで影を見たことすらなかった。

 それでも彼はあそこにいて、確かに歌っている。

 あたしは引き寄せられるように植え込みに近付いた。彼はあたしには目もくれず、どこか夢を見るような目つきで歌っていた。ギターの抱え方に小さな違和感を覚えた。

 歌詞は、味のある、独特なものだった。曲もなかなかいい感じ。でもその歌声は、どちらかというと耳に触る声だった。聴いているこちらの喉がいがらっぽくなってくるような、ハスキーを通り越えたしわがれた声。彼はそれを知りながら、それでもなお歌わなければならない理由を抱えているとでも言うのだろうか? 思わずそんなことを勘繰ってしまう。あたしは好奇心から彼の歌に耳を傾けた。

「……」

 彼は歌い終わると、少しだけ顎を上げてあたしを見た。あたしはとりあえず拍手をしてみた。彼は愛想の欠片もない、歌声よりもさらに酷いハスキーボイスで、言った。

「そんな拍手ならいらない」

 あたしは一瞬、頭が白くなって返す言葉もなく彼を見た。そんな拍手? あたし、そんなに心のこもらない拍手をしたんだろうか? あたしは彼に背を向けた。少しこわばったあたしの背中に、彼のハスキーボイスが届いた。

「冗談――。サンキューでした」

 その声は思った以上に温かく――あたしはふいに泣きたくなった。



 あたしはその夜以来、急速に彼と近くなった。彼はジェイと名乗った。

「……生粋の日本人、ってカオしてるのに、まさか本名じゃ、ないよね?」

 あたしはジェイの隣にしゃがみこんで尋ねた。ジェイはにやりと笑う。声を立てずに唇の端を吊り上げるだけの笑い方は皮肉さに満ちて、何度見てもジェイには似合っていないような気がする。

「イニシャルがJ・Jなんだ、俺。それでそのうちジェイって呼ばれるようになった。面倒だから、俺もそう名乗るようになったんだ」

 J・Jなんてイニシャル、本当だろうか? あたしは半分疑いながら、それでもいいか、と思った。別に本当でも嘘でもどうでもいい。あたしはただジェイの歌を聞くだけで、そしてジェイは歌うだけなんだから。

「ミナトこそ、ミナトって本名なの?」

「嘘言ったってしょうがないじゃん」

 あたしが答えると、ジェイはげらげらおかしそうに笑った。それからギターをぼろんと掻き鳴らし、思いつくままに歌う。ジェイはギターを普通とは逆に構える。あたしが最初に覚えた違和感の正体はそれだった。音楽の番組に関わった――と言っても、単なるパシリぐらいなものだけど――ことがあるくせに、すぐに気がつかなかったのも、観察力がないからかもしれない。そう思うと、少しヘコんだりもした。それで本当にドキュメンタリーなんか作れるんだろうか――って。

 ジェイは金曜日の夜になると、この駅前で歌っている、と言った。

 それからのあたしは、毎週金曜の仕事帰りには、歌うジェイと共に駅前の植え込みで時間を過ごすようになっていた。そうしなければならないような気さえするほど、あたしはジェイといる時間を、大切なものに感じ始めていた。あたしはきっと、へとへとに疲れるまで働き通しの日常から、逃げたいと思っていたんだろう。ジェイの歌を聴いていると、メロディも声もその世界も、あたしのものとは全く違って、非日常に溶け込んだような気持ちになる。それは不安定で、だけど肩に入った力がほっと抜けるような、不思議と安らぐ時間だったのだ。



 あるとき歌の合間に、ジェイが言った。

「……ミナトってさぁ、どんな男に対しても、そんなに無警戒なの?」

「……は?」

 ジェイはギターで儚げな曲を爪弾きながら、相変わらずのハスキーボイスで喋る。この頃、前よりももっと声がしわがれてきた気がする。無理な歌い方をして喉をつぶしてるんじゃないのかな?――そんなことを考えていたら、ジェイの鼻先があたしのすぐ顔の前にあって、思いっきりどぎまぎしてしまった。ジェイはあの笑い方で笑って――急に真剣な顔をした。

「俺、悪い病気なんだ」

「は??」

 あたしがジェイの言葉の意味をきちんと飲み込む前に、ジェイは真面目な顔をしたままで、とても自然にこう言った。

感染(うつ)るよ、コレ」

「えっ――」

 あたしは身構えてしまった。ジェイのたった一言で。ぱ、っと立ち上がったあたしに向かって、ジェイは苦笑いを浮かべただけだった。

「あ――ごめん、えと」

 あたしはどうしてもその先に言葉をつなげることが出来なかった。どれもこれも言い訳じみて、言ったところでジェイを救いはしないと思った。ジェイは何もかも解っている、そんな表情で、静かにこんなことを喋り始めた。

「悪い病気でね、このままだと死ぬかもしれないんだぁ」

 ジェイの口から飛び出した「死」という言葉は、まるでジェイの歌詞のように、現実のものとは思えなくて、あたしの耳には空虚に響いた。小さく流れるギターの音色は、話の内容に引っ張られるように、とても悲しげに響いている。

「喉を手術しなくちゃ、死ぬかもしれないんだって。でもそしたら二度と声が出なくなる。だけどさ、俺から歌を取ったら、何も残らないんだよね」

 指はギターの弦に触れて、囁くように曲を奏でる。あたしはもう一度ジェイの隣にしゃがみ込んだ。

「……手術したら、いいんじゃないの?」

 ジェイはあたしに目もくれず、黙ってギターを弾いている。あたしはジェイが何をどう感じているのかはっきりと理解も出来ないまま、だらだらと喋り始めた。

「だって、死んじゃったら何も出来ないじゃない? それなら手術して元気になった方がいいような気がするけど。声が出ないって――ちょっと想像出来ないけど、ギターがあって曲を作っていられるんだもの、そんなに悲観することないんじゃない? 耳は聞こえるんでしょう? だったら音楽に関わって生きていくことだって、出来るじゃない?」

「ミナトは――」

 ジェイは手を止めると、あたしの顔をじいっと見つめた。

「俺に歌うのを諦めろ、っていうの?」

 傷ついた子供みたいに、ジェイは目をしょぼしょぼさせてあたしを見た。

「俺、歌うことしか出来なくて。ただ、歌えればいいんだ。――前はね、もっといい声だったんだぜ? 信じないかもしんないけど。喉がダメだって解って、バンドも解散したんだ。元のメンバーは新しくバンドを組んで――近々インディーズデビューするんだってさ。あいつらには、マジ頑張って欲しいって思ってる。もっと上を目指して。だけど――」

 ジェイはそこでごくりと唾を飲み込んだ。存在感のある喉仏が大きく上下する。

「俺はもう、その世界には戻れない――。ここで、一人でいるしか、ないんだ。手術しなきゃ死ぬ、って言われても、そしたら歌えなくなっちゃうことが嫌で……怖くて。俺にたった一つ残された声を、ミナトにどうして、取ってしまえ、って言える?」

 真剣だった。怖かった。ジェイの問いかけはあたしの心にぶつかって、軋んで悲鳴を上げそうになる。

「ミナトには解んないと思う。前にさ――ミナト、プロデューサーになりたい、って言ってたじゃない? そういうのって、考えることが出来る『頭』さえあればどうにでもなんじゃん? 喋れなくても書ければいいし、書けなくても、パソコンとかで一文字ずつ打ち出したっていいじゃん。伝える手段はたくさんある。俺ね、考えることが出来なくなるときって、単純に死んだときじゃないか、って思うんだ。でも、俺は違うよ?」

 ジェイのハスキーボイスが、少しずつ苦しそうにしわがれていくのがはっきりと解った。それでもジェイは、喋るのをやめなかった。

「声がなくなったら、歌えない。曲が作れても、自分で、自分自身で納得するまで歌うこと、二度と出来なくなる。それなのに、簡単に『手術しろ』って、ミナトにどうして言えんの?」

 ジェイは皮肉な笑いを浮かべて、あたしを見た。だけどその笑い方は、悲壮感に溢れていて、もし今のジェイがこれ以外のどんな表情をしてもしっくりこないだろう、というくらいにぴったりだった。それがあたしには、ものすごく悲しいことに思えた。

「――」

 ごめん、と言おうとして、あたしはそれを飲み込んだ。ジェイの気持ちを考えもせずに無責任なことを言って、そしてさらに無責任に謝ることは、とても卑怯だと思った。あたしには、残念なことにジェイの気持ちはあんまりうまく理解できない。あたしから『考えること』を奪うものについて考えてみても、全然ぴんとこなかった。それだけあたしは、幸せで恵まれているのだと思った。

「……ミナトに八つ当たりしたってしょうがないんだけど。でも、ミナト」

「……うん?」

「俺は一生懸命歌ってるんだ。ここが今の俺のステージで。こうやって俺の歌を聴いてくれるミナトに、俺すっげ感謝してるんだぜ? これでも」

 ジェイは再びギターを弾き始めた。あたしはジェイの横顔を見ていた。顔を上げて囁くように歌うその横顔は、闘う一人の男の横顔だった。死と闘うジェイ。それは一般的な言い方をすれば、ぐだぐだ言い訳をして、現実から逃げているだけなのかもしれない。だけどジェイにとっては声を失うことイコール死であって、声を失ってなお生きていても、死んでいるのと同じなんだ。それはあたしにも解る気がする。あたしだって、考えることも出来ずにただだらだら生かされるくらいなら、死んでしまった方がまし、って思う。要するに、そういうことなのだ。――そう考えたら、急に涙が止まらなくなった。どうしてこんなに涙が出るんだろう?

「ミナト?」

 あたしの様子に気づいたジェイが、ギターを鳴らしながらあたしを振り返る。あたしは涙を必死にごまかして、立ち上がった。

「今日は帰る」

「ん」

 ジェイはたったそれだけ言って、また歌い始めた。歌うことでしか生きて行けないジェイは、不器用だけど強いと思った。だけど脆くて、今にも何処かに消えてしまいそうだ。それでも歌うことをやめないジェイのように、あたしは生きてけるだろうか?――真摯に、真剣に。

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